19-3 強く
それは、ある夏の夜のことだった。
蝉の声に聞き慣れて意識することさえなくなった頃、日中とは違い若干の涼しさを伴った風が吹く縁側で一人の少年が祖父に声を掛けた。
「じーちゃん」
彼は風呂上がりで涼んでいた祖父の隣までやって来るとそこへ腰掛けた。そして無言で祖父を見上げ、何か言いたげに微かに口元を動かす。が、中々言葉にならない。
そんな様子を祖父は物珍しげに見ていた。彼の孫は饒舌ではないが、しかし言いたい言葉を飲み込むような子供でもない。詰まらなさそうに見える無表情の裏ではいつも好奇心に満ちており、気になったものがあればすぐに尋ねて来ることも多かった。
祖父は言葉を急かすことはなかった。ぼんやりと月を見上げ風を感じて孫――愁が話し出すまでのんびりと待つ。そして風鈴の音が三度ほどなった時、何も言わずに俯いていた愁がようやくはっきりと口を開いた。
「千理が、……千理の体に痣が沢山あるんだ。まるで、殴られたみたいな」
愁がそれを見たのは昨日、公園でまた鳩に襲われた時に逃げようとした千理が躓いて噴水に背中から落ちた時だった。服を絞る時に見えた腹には青い痣があり、その後桑原家で遠慮する千理を無理矢理風呂に入れた母親から他にも痣があったことを聞いた。
何かあったのかと尋ねられたが愁だって何も知らない。だが少なくともうっかりで怪我をするような痣の数ではないことは確かだ。
幸い――と言っていいのか分からないが――なことは、その痣は殆ど治りかけらしく新しい怪我は無さそうだということぐらいか。
「それにじーちゃんも見ただろ。今日じーちゃんが千理の頭を撫でようとして、あいつが怖がったの」
祖父の脳裏に、最近出来たばかりの孫の友人の姿が過ぎる。少し前に近所に引っ越してきた少女は随分と賢い子らしく、愁がよく「千理はすごいんだ」と口にするのを聞く。
彼女の家庭環境が複雑であることは察していた。親元から離れ一人親戚の家に越してきたこと。その親戚は全員忙しくろくに彼女に構えもしないというのにわざわざ伊野神家に来たという時点である程度の推測は出来ていた。
極め付けに今の会話と、そして愁が以前「千理、前は学校行ってなかったって言ってた」とぼそっと溢した言葉。恐らく彼女は家族から虐待のようなものを受け、親戚に保護されたのだろうと愁の祖父は考えていた。
彼が孫の言葉に静かに首肯すると、愁は珍しく顔を歪めて俯いた。
「じーちゃん、俺……千理に怪我してほしくない」
「ああ」
「何かしてやりたい。けど、俺が出来ることってなんだろう」
真剣な表情で思い悩み始めた愁に、祖父はそっと目を細めた。今まで自分の思うままに生きてきた孫がいつの間にか随分と立派になったものだ。
彼は孫の頭に手を置く。その手は勿論のこと避けられることはなかった。
「強くなって、守ってあげなさい。あの子が誰かに害されそうになった時守れるように、強く」
「強く……ってどのぐらいだ? じーちゃんに勝てるぐらい?」
「はは、私を越えるのは中々厳しいぞ。だがそれぐらい強くなれればきっとあの子も守って上げられるだろう。もしそうなったら、そうだな……その時はお前がずっと欲しがっているあの刀を譲ろう」
「本当か!?」
毎年の誕生日プレゼントに必ず欲しいと言い続けている刀のことを口に出せば、愁は分かりにくいが表情をぱっと明るくした。あの刀は元々、愁が相応しいぐらいの技量と精神性を持つほど成長出来たのならいつか受け継ごうと思っていたのだ。技量は時間の問題だと思っていたが、千理を通じて心まで立派に成長出来るのなら言うことはない。
「愁。だが守るというのは何も身体的な話だけではない。むしろそれ以上にあの子の心を守ってやらればならない。それはある意味、ただ剣術を極めることよりも困難なことだ」
「……心なんてどうやって守るんだ?」
「それに正解なんてない。だが……まず、あの子が笑えるようにして上げなさい」
孫と違って彼はそこまで千理と関わっている訳ではないが、彼女の表情が同年代の子供と比べても乏しいことは知っている。あまり笑わないというのは愁もそうだが、その意味は全く異なる。
閉鎖的な環境で生きて虐待されて来た少女。彼女はまず外を、自由を知るべきだ。
「勉強は愁が教えてもらっているだろう。代わりに、愁が楽しいと思うことを沢山教えてあげなさい。遊びでも、好きなものでもなんでもいい。それがあの子の心を守ることに繋がる」
「そんなことでいいのか?」
「そんなことでいいんだ」
彼女はきっと、『そんなこと』も知らずに生きていたのだろうから。
「……分かった。じーちゃん、俺強くなる。千理を色んなところに連れてって、好きなことをいっぱい教える」
「ああ、それがいい」
愁が力強く頷く。剣の稽古以外はいつもぼんやりしている孫が、この時初めて明確な信念を持って動き始めた。千理を――彼自身はまだ無自覚だが初恋の女の子を守ろうと。
桑原愁が伊野神千理を守るという、彼の長年の行動指針が定まった瞬間だった。それと同時に、千理が今後さんざん愁に振り回されることが決まった瞬間でもあった。
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「お嬢様、社長からの指示です。スマホを預からせて頂きます」
「……どうせそんなこと言うと思ったから置いて来たよ」
千理が不機嫌な顔でそう言うと、彼――千理がじいやと呼ぶ老人は僅かに目を瞠った。
大方周りに余計なことを言わないように連絡手段を絶つだろうことは予想していた。天宮に戻された以上、幼い頃ほどではなくても交友関係も制限されるだろうと。
一度取り上げられたら取り戻すのにも苦労する。そんな労力を使うくらいなら初めから持って行かない方がいいし、どうせならと有効活用することにした。
愁は気付いただろうか。いや、考えるだけ時間の無駄だ。
「それで、お兄様は?」
「……此方へ」
先導する老人の後ろを歩く。千理は周囲を見回しながら本当に戻ってきたのかと少しだけ感慨深くなった。世間一般で豪邸と呼ばれる類のこの家は七年前に出て行った時と殆ど変わっていない。
もう二度と戻らないと、いや戻ったとしてもあと何十年後だと思っていた。だが予定外に天宮に足を踏み入れることになった千理は、その理由になったであろう人物のことで頭がいっぱいだった。
早く兄の元へ。そう願い続ける千理を裏切るように、案内されたのは過去彼女が勉強をしていた学習室だった。
「まず此処でテストを受けて頂きます」
「……」
そう言った老人は、千理を席に座らせてすぐに何枚ものテスト用紙を差し出してきた。
すぐにこんなものを放り出して兄を探しに行きたい。だがそれをすれば千理は天宮に居る価値もないとまたすぐに追い出されるだろう。追い出されるのは別にいいが、その前に兄の安否を確認しなければ気が済まない。
この家に千理が求められる時点で跡取りである万理に何かがあったことは明白なのだから。
色々と言いたい気持ちを押さえて千理はペンを手に取った。こうなったら誰も文句も言わせないような結果を出してやる。七年前とは違うのだ。
「時間は一教科六十分、それでは――開始」
その声と共に千理の頭は兄からテストへと一瞬で切り替わる。
問題文を読み始めるとすぐさま脳内に答えが思い浮かんで来た。この前の模試の時と同じ、悩まずとも的確に脳内の引き出しを選んで答えを見つけていく。計算問題でも膨大な数字に怯まずにとにかくペンを動かし、あっという間にテスト用紙が計算式で埋まっていく。
頭が冴えているのが自覚出来る。下手をすればこれまでの人生で一番思考がクリアだ。止まることなくペンを動かし続ければあっという間に時間は過ぎ、最後のテストは残り十分で見直しを終えて千理はペンを置いた。
「終わりました。採点を」
「まだ時間はありますが」
「必要ない。それよりも早く採点終わらせて」
テストを受けているのは千理一人なので待つ必要などない。テスト用紙を押しつけるように渡すと、老人は少々戸惑った顔をしながら部屋を出て行った。
誰も居なくなった部屋の中で千理は大人しく席に着いたまま動かない。しかし数分後、突如として彼女は上半身を勢いよく机の上に倒すと長い長い溜め息を吐いた。
「はあーーーー、疲れた……」
朝から突然じいやが来たと思ったら天宮に連れて行かれ、そしてそのまま休む間もなく何時間もテスト。混乱もプレッシャーも押し殺してとにかくペンを動かし続けたものの、一人になったことでようやく糸が切れたように力が抜けた。
強気でいなければ流され利用されるだけだと、そう思って今まで気を張っていた反動が来たように机の上でだらける。こんな家で七年も暮らしていたのが嘘みたいだ。昔の自分はよく頑張っていた。
「お兄様に会いたい……」
テストで切り替わっていた頭が再び兄のことを思い浮かべる。今までずっと会わなかったのに今はもう彼に会いたくて会いたくて堪らない。何もかも完璧な自慢の兄、千理とは比べものにならないくらい優秀で、それ故に生まれた時からこの家を出るまでずっと周囲に比較されて生きてきた。
その所為で苦しい思いも辛い思いも沢山して来た。だがそれでも、
「伊野神、千理っ!」
うとうと半分眠っていた千理を叩き起こすように、怒鳴り声が彼女の鼓膜に叩き付けられたのはその時だった。
一瞬脳内に自分をフルネームで呼ぶあの刑事の姿が過ぎったが違う。勢いよく開けられた扉の外から飛び込んで来た声はヒステリックな女性の声だったのだから。
彼女の姿を見た瞬間、思わず千理の体は硬直した。七年前から僅かに老けたが殆ど変わっていない、かつて千理の家庭教師であったその女は一般的に美人と表されるその顔を般若のようにして早足で千理に近付いて来た。
「先生」
「よくも戻って来たわねこの恥知らずのゴミクズが!」
罵声と共に彼女の手に握られた紙束が机に叩き付けられる。それは先程千理が回答したテスト用紙で、叩き付けられた衝撃でばらばらになって机の下に散らばった。記述、四択、小論文までさまざまな回答が埋められているそれらは全て赤い丸が付けられており、自信はあったものの全て正解していることが分かって僅かに安堵した。
しかしテストに気を取られている千理が余計に気に食わなかったのか、女は憎々しげに顔を歪めて千理の肩をキツく握りしめるように掴んだ。
「……離して下さい」
「教え子の分際でそんなことが言える立場だと思ってるの? 何であんたなんかが天宮に居るのよ!? それにこのテスト……明らかにカンニングしたんでしょう! あんたみたいな無能が満点なんか取れる訳が無いんだから!」
女が千理の胸ぐらを掴み上げて片手を振り上げる。叩かれると目を閉じて歯を食いしばった千理だったが、不思議と数秒経っても顔に痛みはやって来なかった。
「草薙様、そこまでです」
「は、放しなさい! たかが執事の分際で!」
目を開けた千理が見たのは、草薙と呼ばれた家庭教師の腕を押さえつけて千理から引き剥がそうとしているじいやの姿だった。彼は老人とは思えない力強さで彼女を押さえ込むと、すぐに千理を庇うように二人の間に割り込んだ。
「千理お嬢様がお戻りになられたのは社長の指示です。お嬢様に当たるのはお門違いかと」
「っ! 嘘でしょ!? 伊野神に捨てた人間を本家に戻すなんて……!」
「嘘ではありません。社長に問い質せばすぐに分かる話です。それにお嬢様はカンニングなんてしておりませんよ。テスト中は私が監督していたので間違いありません」
「教科書を頭に詰め込んでる人間なんてカンニングと何も変わらないわよ!!」
きゃんきゃん吠える……なんて可愛らしい言葉では済まされないほどに噛み付いてくる女に老人も必死に彼女を宥める。立場で言えば彼は長年勤めて家からの信頼も厚いとはいえ一介の執事で、片や彼女は嫡子にも指導する権利を与えられた家庭教師だ。どちらかと言えば立場が上なのは草薙の方だった。
千理はじいやの背後から女を見つめ、どうして彼女はここまで自分を目の敵にしていたのだろうと考える。
脳内でページをめくり知る限りの彼女のプロフィールを思い出した。
元々は数多ある分家の一つである草薙家出身。しかし知能を見込まれて天宮に上げられるも、経営手腕はなく天宮の人間としては認められず、結果草薙姓のまま家庭教師になることでなんとか天宮に残った。
恐らく彼女からすれば、天宮の人間というのはなりたくてもなれなかった憧れのようなもので、自分よりも劣っている千理が本家に生まれたというだけでその立場にいることが許しがたかったのだろう。彼女自身自分が人よりも優れているという自覚があったからこそ天宮の人間になれなかったというのは強いコンプレックスになっているのだと思われた。
昔は気に留める余裕もなかった噂話を思い出してそう推測すると、千理はじいやの背後から身を乗り出して草薙に向かい合う。「お嬢様!」と咎める声が聞こえるが構わなかった。
「お久しぶりですね、草薙先生。いえ元先生と言った方が正しいですか」
「伊野神の分際で生意気なっ!」
「はい、私は伊野神です。だから私はもう先生の程度の低い授業を受けるような立場では無いんですよ」
「なっ、」
草薙の顔が怒りで真っ赤になる。この女は優秀なのかもしれないが、人に物を教えるのは壊滅的に下手だ。万理も彼女の授業を受けていたはずだが、彼自身が優秀過ぎるので問題が起きなかった、それだけだ。
今度は拳を握りしめて千理に殴りかかろうとした彼女を、再びじいやが掴んで止める。
「ですので教育的指導、という言葉はもう使えませんよ。あなたが今私を殴ればただの傷害事件です。……まあ、当時のあれが許されると認識されるのも遺憾ですけど」
「っき、さま……偉そうに何を」
「さっきの答えですけどカンニングと呼ばれる行為は一切していませんね。記憶を思い出すのがカンニングなら記憶の全てを消してからテストを受けなければならないので」
「全部覚えていられる脳を普通の人間と一緒にするな!」
「『覚えるだけなら機械で十分、私の記憶力に価値がない』と言ったのはあなただったはずですが……知らない間にあなたの中で価値が付いたんですか?」
千理はすらすらと煽るように言葉を紡ぐ。
この家庭教師は千理にとって悪夢の象徴だ。実際、無理矢理見せられた悪夢の中でこの女に何度も殴られた。何も無しに彼女と再会すれば、恐らく過去のトラウマで一言も反論なんて出来なかっただろう。
だが千理は彼女が凄まじい勢いで殴られ蹴り飛ばされる瞬間を目撃している。反抗するという意志も湧かなかった彼女の代わりに過剰とも言える報復をした男を知っている。所詮は夢の話であるしちょっとやり過ぎだと引いてしまったが、彼は千理にただ怯えて我慢しなくてもいいことを教えてくれた。
「じいや、行こう。テストが終わったんだからもう此処に用はないよね」
「待ちなさい!」
そのまま部屋から出て行こうとした千理を、草薙が老人を振り払ってその腕を掴んだ。ぎりぎりと歯を噛み締めながら何かを言おうとして、しかし怒りで考えが纏まらないのかわなわなと唇を振るわせるばかりだ。
千理は無理矢理にでも手を振り払おうと思ったが、一瞬だけ思考を巡らせた後そっと彼女に近付いて耳打ちした。
「そうやって周りに当たり散らしてたら恨みを買いますよ。精々呪い殺されないように気を付けて下さい」
「は?」
怒りに震えていた顔が、呪いなどという非科学的な言葉を耳にして一瞬困惑の色を見せる。彼女が呆気に取られている間に手を振り解いた千理はさっさと部屋を出て、遅れて出て来たじいやの隣に並び彼の顔を見上げた。
「それで? 今度こそお兄様に会わせてもらえるの?」
「……社長がお呼びです」
「正直そんな気はしてたけど」
「万理様の件については社長から説明がありますので」
わざわざ多忙な社長――父直々が説明するということはそれだけ重大なことだ。千理を迎えに来た時点でのっぴきならない事態なのは想像できたが、最悪のケースが頭に過ぎった彼女は震えそうになる手を押さえた。
その腕に視線を落とすと、今し方草薙に掴まれた部分がしっかり手の形に鬱血していることに気付いて千理は苦笑した。痛いなとは思ったが相当なものだ。それこそ呪いのように見える。
父の書斎は以前と変わっていないらしい。殆ど入ったことのないその部屋を目指して足を進めていると、まもなく到着するというところで黙って歩いていたじいやが「お嬢様」と彼女を呼んだ。
「随分とお変わりになられましたね」
「そう?」
「ええ。とても……強くなられました」
彼の言葉に、千理はあまりピンと来ずに眉を顰めた。
「別に強くなった訳じゃないよ。さっきだって殴られそうになってもじいやが止めてくれるって確信があったから好きに喋っただけ」
「ですが昔はああもしっかりと自分の気持ちを口にすることはありませんでした」
「それはほら、私もう伊野神だし」
この家とは無関係だから気を遣わずに好き勝手言えるだけだ。そう言うと彼は表情を曇らせて「あなたはまた天宮にお戻りになるんですよ」と窘めるように口にした。
「失礼致します。千理お嬢様をお連れしました」
「入れ」
書斎の扉の奥から、懐かしいというにも聞き覚えの無い声が聞こえてきた。
扉を開けられて中へと促される。千理がカーペットの床に足を踏み入れると、奥の机にいる一人の男が彼女を見ていた。大柄ではないものの威圧感があり、多くの人間を従わせる男。天宮グループの社長であり、そして血縁上彼女の父親でもある人物だった。
「お久しぶりです。……お父様、と呼んでもいいのでしょうか」
「ああ、構わん。お前は天宮に戻るのだからな」
「……単刀直入に聞きます。お兄様は?」
「テストの結果を見せてもらったが随分と優秀になったものだな。これならばあの時手放さずにスペアとして取っておいた方が良かったか。判断を誤ったな」
「そんなことはどうでもいいんです。お兄さ」
「万理は今危篤状態だ」
早口で話していた千理の口がぴたりと止まった。
「……具体的な状態は」
「原因不明の奇病だ。現在は意識は殆どなく、衰弱死一歩手前だと報告を受けている。近頃同じような症状の患者が増えているらしいがまだ適切な治療法は見つかっていないと」
「まだ、生きているんですね?」
「残念だったな」
「は?」
「お前にとって万理は邪魔な存在でしかないだろう。だが、恐らく死は免れん。その為にお前を呼んだのだ。天宮の跡取りとして、少なくとも次代がまともに育つまでは中継ぎをしてもらう」
「……お兄様に会わせて下さい」
「会っても意識は無いと思うが……この家を追い出された恨み言が言いたいのなら好きにすればいい。明日から急ピッチで跡継ぎとしての教育を行うのでそのつもりでいろ」
「……失礼します」
千理はそれだけ言ってさっさと書斎を出た。続いて出て来たじいやに兄の所在を尋ね、そして急ぎ足で広すぎる廊下を進んだ。なんでこの家はこんなに広いんだと軽く毒突いた。
父とこんなに話をしたのは初めてかもしれない。生まれてこの方父親と会話をしたのは数えられるくらいで、この家を出てから普通の家庭を知った時随分と戸惑ったのを思い出した。
いや父のことはどうでもいい。そんなことに時間を割いている余裕など今の千理には存在しない。最早走っていると言っていいほどのスピードで足を動かしていた千理はとある部屋の前で急ブレーキを掛け、遅れて追いついてきたじいやを振り返った。
「人払いお願い」
「お嬢様、しかし」
「ようやくお兄様と会えるんだもん。邪魔されたくないから」
「……分かりました」
一度心配そうな顔で渋ったものの、彼は案外すんなりと了解して去って行った。彼の姿が廊下の奥へと完全に消え去ったのを確認した千理は、一度ばくばくと煩い心臓を落ち着かせるように深呼吸してから、恐る恐るノックをして部屋へと入った。
千理が訪れたのは以前と変わらない場所にある兄の私室だ。しかし中はあの頃とは全く違っていて、本棚の本は経営論等の経済関連の書籍が言語問わずに並び、他の家具もシックなものに変わっている。窓際に置かれた大きなベッドは兄の成長に合わせて買い換えられたものだろう。
そこに横たわる彼は、千理の記憶の彼よりも随分と成長していた。
「お兄様」
顔色の悪い、まるで死人のような男が酸素マスクを付けられてベッドに寝かされている。繋がれた機械の画面には弱々しい波形が描かれ、遅いがかろうじて規則的に電子音が彼の脈拍を伝えている。
千理と同じ色素の薄い茶髪はぱさぱさで手入れも行き届いていない。彼女はベッドの横に置かれた椅子に腰掛けその髪に触れながら、実に七年ぶりに見る兄を見下ろしてぽつりと呟いた。
「原因不明、衰弱死、周囲に同じような症状の人間。……嫌な予想が当たっちゃったな」
まだ幸いなのは、ぎりぎり命の糸が繋がっていることぐらいか。千理はベッドの縁から垂れていた万理の手を両手で包み込み、その温度の低さに唇を噛み締めた。
力なく動かないでいた血の気の引いた白い手。その手が僅かに動いたような気がしたのは次の瞬間だった。
「!」
いや気のせいではない。指先が無意識に千理の手を握り返し、そしてほんの微かに苦しむような声が聞こえた。
「お兄様!」
横たわった頭が揺れる。瞼が震える。思わず握った手に力を込めると、それに反応するようにゆっくりとその瞳は開かれた。
茶色の瞳がぼんやり天井を映す。そして徐々に頭を動かして横を向いた彼は、そこに居る人物――千理を視界に入れて一瞬でその目を驚愕に染めた。
それは本当に一瞬だった。酷く驚いた彼は――しかし次の瞬間、その目を驚愕から嫌悪へと瞬く間に塗り替えたのだ。
「触るな」
千理が握っていた手が勢いよく振り解かれる。死にかけだと思えないほど力強い動きに彼女が驚いているのもつかの間、酸素マスクを外した彼は酷く忌々しそうな目で千理を射貫いた。
「二度とその顔を僕の前に晒すなと言ったはずだ、出来損ないの欠陥品」




