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霊研の探偵さま  作者: とど
一章
4/74

1-4 霊能事象調査研究所


「霊能事象調査研究所……」

「幽霊とか……まあ他にも色々と超常現象が関わっている事件を調査しているよ」


 怪しい。その一言に尽きた。

 目の前の男――いちいは一体何者なんだと千理は眉を顰める。そもそも今彼は何をしたのだ。如何にも不穏な雰囲気を出していた幽霊が、櫟が触れた途端に光になって消えた。それはどうにも手品の類には見えなかった。

 彼女の隣で愁が櫟のことを興味深そうに見ている。わくわくしてるんじゃない、と相変わらず無表情ながら好奇心が疼いている親友に彼女は小さくため息を吐いた。


「俺は桑原愁だ」

「……伊野神千理です。それで、その霊研さんとやらが私達に何の用ですか?」

「いや、別に用という程のことでは無いんだ。ただちょっと気になったことがあってね。そっちの子……愁君のことだけど」

「俺に何か?」

「いや君、わざわざ体から抜け出ているだろう?」

「っ!」

「自意識がしっかりしているのに生き霊の状態で出歩いているのが珍しいと思ってね、どうしてかなと」

「ああ、それは――」

「待って下さい!!」


 その瞬間、千理は櫟に飛び掛かるように迫った。突然のことに櫟はぎょっと驚いたものの、千理の真剣な眼差しに口を閉じて彼女の言葉を待つ。


「愁は……愁はまだ、生きていると言うんですか」


 震える手が櫟の服の袖を掴む。


「千理? 前にも言っただろう。俺は死んでいな――」

「あれから! あれからどれだけ経ったと思ってるの! あの時とは何もかも違う……。誘拐されて、体が何処にあるのかも分からなくて……どんな目的で奪われて、どんな状態になっているかも分からないのに、今生きてる保証なんて何処にもないじゃない!!」

「……」


 彼女はずっと不安で堪らなかった。隣に居る愁が今本当に生きているのか分からなくて、本当はもうとっくに死んでいるんじゃないかと考えたくない想像が過ぎって、その不安を押し殺すようにがむしゃらに愁の捜索だけを優先して――けれど、何の手がかりも得られなくて。

 だが今、初対面のこの男は千理が失いかけている希望を口にした。


「愁は、生きているんですか」

「……ああ、間違いない。僕の言うことが君にとって信用に値するとは思えないが、少なくとも僕の目から見た彼はまだ寿命を残しているよ」

「……」


 真偽は分からない。この男の目から見た、というだけの情報。何とでも言えることだ。

 ただ今確実なのはこの男が愁を見ることが出来るということ。そして普通なら、この状態の愁を見て生きているという言葉は連想しない。その可能性を知り得るのは彼の言う通り本当に見ただけで生死を判断できる特殊な目を持っているか……もしくは、愁を誘拐した黒幕だけだ。千理に現状で彼がどちらか判断する術はない。


「俺は今誘拐されているらしい」

「誘拐?」

「ああ、元々は事故に遭ってから何故か幽体離脱してしまったんだ。それでせっかくだからとそのままあちこちふらついていたんだが」

「君結構暢気だね」

「だがそういうしていうるうちに体を何処かに持ち逃げされてしまったらしくてな、困っている」

「置き引きか何かかな??」

「困っているで済ませるな」


 愁のあまりに軽い言動に櫟と千理が思わず突っ込む。先程まで涼しい顔をしていた櫟もいつの間にか珍獣でも見るような目で彼を見ている。


「愁君……君もう少し深刻になって考えた方がいいと思うよ」

「? これでも深刻なつもりなんだが」

「千理ちゃん、君……苦労しているようだね」

「……はい、本当に!」


 同情するような櫟の視線に、千理は今まで彼を怪しいと思っていたというのに一気に親近感が湧く。これまで愁を見ることが出来る人間が居なかった為誰にも相談出来なかったが、初めて現れた理解者――主に愁の暢気さについて――の言葉に彼女は力強く頷いた。


「どうだろう、君達さえ良ければ詳しい話を聞かせてもらえないかな。霊研うちは色んな事件も取り扱っているし、もしかしたら力になれることもあるかもしれない」

「そうなのか? ありがたい。俺はいいが……千理」

「……」

「別に無理強いはしないよ。僕が怪しく見えるのは分かるからね」


 千理は俯いて考え込んだ。

 言葉だけ聞けば以前病院で言われた詐欺にも近い。突然現れて幽霊を消し去った怪しげな研究所の所長。理性で考えればとても信用できない。

 だが愁が生きていると言い切ったその言葉が、疲れ切った千理の心に一筋の希望を残してしまった。その僅かな希望に縋りたいと心が揺らぐ。

 千理は愁を見上げた。いつも通りの仏頂面で、静かに千理の言葉を待っている。半透明の彼の顔を見た瞬間、彼女の心は定まった。


「……よろしくお願いします」


 信用とか怪しいとか、そんなのどうでもいい。どんなリスクがあろうと、愁が元に戻る可能性が微かでもあるのなら千理が迷う必要などないのだから。




    □ □ □  □ □ □




「霊能事象調査研究所……あ、サイトあった」


 櫟が運転する車の後部座席に乗りながら、千理はネットで件の事務所の名前を検索していた。一番上に表示されたサイトにアクセスしてみると、その名前の印象とは打って変わって非常にシンプルで見やすいページだ。ギラギラとした色使いもなく何かの購入を促すような広告も一切無い。


「思ってたよりちゃんとしてる……」

「ああそれ、コガネ……うちの職員にそういうのが得意なやつが居てね。全部作ってくれたんだよ」

「ウェブデザイナーに依頼したんじゃないんですね? へー……っていうか警視庁へのリンクあるんですけど。大丈夫なんですか?」

「大丈夫ですかって、何の心配してるのかな。そもそもうちは警察の下請けなんかを中心にやってるから大丈夫じゃない訳がないんだけど」

「警察の下請け? オカルトの研究所が?」

「現代科学だけでは解決できないような事件って意外とあるんだよ。一応警察にもそれに対応する為の部署はあるんだけどね、如何せん人手不足が酷い。そういう訳で僕達が代わりにそれを請け負ったり、そもそもそういう関連の事件か否かを調査する役目を担っているんだ」

「案外すごい所だったんだな」


 千理の隣に座ってスマホを覗き込んでいる愁が感心したように頷いた。彼女もそれに同意しながら……ちらりと隣を窺って難しい表情を浮かべる。


「櫟さん、少し聞きたいんですけど。櫟さんって幽霊とかに詳しいんですよね?」

「ん? まあ一般人よりかはそうかな」

「愁……何か普通に車乗ってますけどなんですり抜けたりしてないのかなって」

「確かに、そういえばそうだな」


 千理の問いかけに、愁は自分の体を見下ろして首を傾げた。壁や人体を通り抜けられるのなら、車に乗ろうとしたところで発進したら置いて行かれるのではないだろうか。


「多分それは、愁君が車に取り憑いているからだろうね」

「取り憑いてるのか、俺?」

「君自身は生身の時と同じように車に乗っただけだろうが、無意識にちゃんと“乗る”ことが出来るように取り憑いているんだ」

「取り憑くってそんな簡単に出来るんですか? 自分の体にも出来なかったのに」

「自分の体?」

「誘拐される前に体に戻ろうとしたんだが、すり抜けて戻れなかったんだ」

「成程ねえ……。普通は体が回復すれば無意識に引き寄せられると思うんだが、それが出来ないとなるととにかく自分の体に戻りたいと強く意識するしかないのかな」

「そうですか……」

「こういうのは理屈じゃなくて感覚的なものだから説明できるものではないんだよ。自分の体だって手を動かす為にどうやって脳に命令しているんだと聞かれても答えられないだろう?」


 確かに、と千理は頷いた。本来自分の体に自分の魂があるのは当然なのだから戻る方法というものが確立されていないのは仕方が無いのかもしれない。

 まあその前にまず体を取り戻さなければ話にならないのだが。そんなことを考えていると、車が減速してとある敷地内に入った。


「さ、着いたよ」


 車が停止した場所にあったのは二階建ての小さな建物だった。ぱっと見て普通の会社の事務所や営業所にしか見えない。ただ入り口の傍の壁に貼り付けられた『霊能事象調査研究所』という小さな看板さえなければ。

 外観は普通だが中はどうなっているのだろうか。一度入ったら何か買わない限り出られないとかではないだろうなと少々疑いながら、千理は警戒したまま櫟の後に続いて出入り口の扉を潜った。


「皆ただいま、お客さんだよ」


 櫟のその声に、室内に居た全員が反応を示す。そこに居たのは年齢がばらばらな男女四人で、その中の一人、一番に声を発したのは千理達と同じか少し年上に見える黒髪の男だった。


「ふふふ……客人とは所長、依頼人かな? よくぞ来られた! 我が邪眼の力ですぐに解決してみせようじゃないか!」

「……は?」


 この暑いのに足首まである黒いロングコートを袖を通さずに羽織り、左腕にはじゃらじゃらと鎖を付け、極め付けは――その右目を覆う黒い生地に金糸で刺繍の施された眼帯である。

 大仰な動きでばさりとコートの裾を翻した立ち上がったその男は、酷く楽しげな表情で千理を見て右目の眼帯に手をやった。


「ふん、あんた何かに頼らなくても依頼なんて私一人で十分よ!」


 そしてそんな男に対抗するかのように次に立ち上がったのは、緩いウェーブの掛かった金髪を振り乱した十歳くらいの少女だった。大きなウサギのぬいぐるみを片手に抱きしめ、もう片方の手を腰に当ててふんぞり返っている。


 そして彼らをしっかりと視界に受け止めた千理は、一言。


「櫟さん、帰っていいですか」

「いや待った待った!」

「ふははは、そう急ぐことはあるまい。ゆっくりこちらで話を聞かせてもらおうじゃないか!」

「あんたが怪しいからドン引きされてるんじゃないの! どうせその幽霊をやっつければいいんでしょ、私に任せて――」

「ああもう、或真あるまもイリスも落ち着け。早とちりするんじゃない!」

「――そうですね。それにどうやら彼、まだ生きているようですよ」


 櫟が頭痛を堪えるような顔で二人を宥めていると、そこに涼やかな声が入り込んできた。千理がそちらに視線を向けると、椅子に座って編み物をしていた女性が穏やかな表情でこちらに顔を向けていた。

 恐らく三十代後半かもしくは四十代か。そのくらいに見える彼女は顔は千里達の方を向いてはいるものの、その目は完全に閉じられている。

 彼女の言葉を聞いて、少女が驚くような顔で愁を凝視した。


「え? この男生きてるの?」

「……ああ、鈴子すずこさんにも分かりますか」

「ええ。随分と強い生命力が見て取れますから」


 目を閉じたままだというのにそう言い切って、鈴子と呼ばれた彼女はにこっと微笑む。


「それで? 結局依頼ってのは何なんだ」

「それは僕もこれから詳しく話を聞くところでね。英二えいじ、悪いけどお茶の用意頼めるかな?」

「あー……コガネが居ねえから俺になるか」


 そうして最後の一人、新聞を手にしていた三十代中頃に見える短い茶髪の男性が立ち上がる。「ま、味には期待すんなよ」と千理達に声を掛けて彼は部屋の奥へと向かった。


「良かったら私が淹れましょうか?」

「いや! 鈴子さんはそのままで構いませんので!」

「そうかしら?」

「はい、いつも何かと世話になることが多いのでどうぞゆっくりしていて下さい!」


 こてん、と少女のような仕草で首を傾げた鈴子に、男――英二が勢いよく振り返る。その顔色の悪さを見て千理は色々と察したが、勿論口を挟まずに見守った。余計なことは言うものではない。


「千理」


 そして最後に、今まで黙って静観していた愁が徐に口を開く。


「なに?」

「俺数日此処に居てもいいか」

「駄目に決まってるでしょうが!!」




    □ □ □  □ □ □




「体が盗まれた、か」


 ソファに腰掛けた(ような感じでその場にいる)愁と千理が事情を全て話し終えると対面する櫟と英二が難しそうな顔で腕を組み頷いた。


「そうかと思ったがやはりあの事件か」

「知ってるんですか?」

「ちょうど一週間前に警察からうちに依頼が来たばかりだ。或真、そこの資料取ってくれ」

「お任せあれ」


 一々鬱陶しいほどの大げさな動きで一礼した眼帯の男――或真が離れた机の上にあった資料を持って来ると、櫟はそれを目の前のテーブルに広げてみせた。

 一番上にあった資料には『病院内連続失踪事件』と銘打たれている。


「半年に一度ほどの頻度で都内の病院から入院患者が失踪。中には意識不明の状態で失踪した患者もおり、現在四名が被害に遭っているが全員行方不明で生死も分かっていない」

「俺はまだ死んでいないが」

「そう、愁君のおかげで一つ情報が増えた。少なくとも犯人はただ殺すことを目的として誘拐した訳ではないらしい。他の被害者もまだ生きているかは分からないがね」

「警察がここに依頼したってことは……その、警察は犯人が幽霊か何かだと思っているってことですか?」

「そうとも限らねえ。ただ、被害者達は皆人目のある病院の中から目撃者もなく失踪。被害に遭った病院もばらばらで裏で繋がってるとも思えない。普通の人間が犯行に及ぶのは非常に難しいって判断された訳だな」


 千理は資料を手に取って一枚一枚全て確認する。千理が知り得なかったのは愁以外の被害者の詳しいプロフィールくらいで、後は特筆するべき情報はない。


「こんなのスズコに全部“見て”もらえばいいじゃない」

「鈴子さんに見てもらうにしても今更だからなあ……一番近くて一ヶ月前となるとどれほど情報が残っているものやら」

「じゃあ私が探せばいいでしょ!」

「都内全部探すつもりか? 無理無理」

「もー! ワガママ!」

「我が儘とかそういう話じゃねえだろ」


 ソファの後ろから見を乗り出して来た少女――イリスが口を挟むが全て英二に却下されて膨れっ面になる。

 この小さな女の子も本当に霊研の一員なのかと千理は驚きながら、見終わった資料をテーブルに戻して顔を上げた。


「……私も、この事件を痕跡も残さずに人間が行うのは難しいと考えています。本当に可能性があるとすれば多くの共犯者が居なければ不可能だと。だけど、仮に人間では無かったとして犯行は可能になるんですか」

「そこなんだよねえ……今度は逆のことが問題になってくるんだ」

「逆? どういうことだ」

「一般人が犯人でなかった場合、今度は一気に可能性が広がり過ぎるんだよ。つまり、出来るやつが多すぎて犯人を絞ることが難しくなるんだ」

「怪異にしたって妖怪にしたって、個々で能力が違い過ぎて参考にならんからな」

「……」

「そういう訳で、千理ちゃん達には申し訳ないが現在調査は行き詰まっていると言っていい」


 二人の言葉に、千理は考え込むように俯いた。


「でも、まだ諦めるのは早い。別の事件の調査から予想外に関連が出てくることもあるし、何より愁君が生きているということは少なくとも肉体は何処かで生命活動が出来る状態で保管されている。犯行の手口が分からなくても何かの拍子にその場所を知ることが出来れば何とかなる」

「つまり、行き当たりばったりってこと?」

「……イリス、バッサリと言うな」


 子供の素直な発言に、千理を気遣うようにしていた大人達が項垂れる。

 しかし事実である。ますます口を閉ざした彼女を見かねて、少し離れた場所に座っていた鈴子が心配そうな表情で声を掛けてくる。


「あまり気を落としては駄目よ。この子が生きているかどうか、気になったらいつでも此処に来たら教えてあげられるから」

「そうだね、それに何か事件に進展があったらすぐに君達に連絡すると約束しよう」

「ああ。感謝する」

「……ありがとう、ございます」


「――ああそうだ、それともこんなのは」

「すみません、今日はもう帰ります。お邪魔しました」


 ふと、櫟が何かを提案しようと口を開くが、千理はそれを遮って立ち上がった。俯いたまま彼らに頭を下げて、彼女は荷物を掴んでそのまま早足でその場から立ち去ってしまう。愁もまた「すまない、失礼する」と言ってすぐに彼女の背中を追ってその場から姿を消した。


 残された霊研の職員達は顔を見合わせて小さく息を吐く。


「まあああなるわな。せっかく縋る思いでこんな怪しい場所に来たのに成果も無かった訳だし」

「しかし我々も他に多くの事件を抱える身。その何処から新たな情報が入って来るか分からないのだから全てに尽力する以外ないだろう! 安心したまえ、我が邪眼があれば――」

「或真君は相変わらずポジティブねえ」

「ところでイチイ、今何を言おうとしたの?」

「ああ、皆には先に話しておこうか。実はね――」




    □ □ □  □ □ □




 ぱたぱたと早足で靴音を鳴らして外に出た千理は、霊研から少し距離を取った所で立ち止まると大きく肩を落とした。


「はあ……」

「千理、やっぱり疲れてるのか」

「それもあるけど、何か……いや、何でも無い」


 愁に何かを言いかけた彼女は、結局口を閉じた。

 結局何の進展も無かった。いや警察が下請けへ依頼したとはいえ、迷宮入りとして完全に捜査を打ち切った訳ではないことを知れただけましだろうか。

 もし仮に、本当に人外の仕業だとしたら彼らに任せればいずれは何か分かるかもしれない。……そして彼女は、大人しくその吉報が届くのを待っていることしかできない。


 千理が一番辛かったのはそれだった。相手が常識を越える存在なら、知識も力も何もない千理に出来ることなど何もない。この天然で好奇心旺盛で若干無神経で――大事な親友を助ける為に、何一つ行動することができないのだ。


 しかし彼女の心情を完全に理解し切れていなかった愁は、結局霊研に頼っても犯人が分からなかったことを気に病んでいるのだと思い、千里の前に回り込んで俯いた彼女の顔を見上げるようにした。


「お前は気負い過ぎだ」

「……」

「元はといえば俺が勝手に体から外に出て飛び回っていたツケが回って来ただけだ。千理がそこまで苦しむ必要なんてない」

「……ホントにバカ。人の気も知らないで」


 愁なりに彼女に気を使ってそう言ったとしても、今の千理にはそれを受け止める心の余裕などなかった。彼の言葉を無視するように歩き出せば、当然肉体を持たない愁の体をあっさりと擦り抜けてしまう。

 話が出来ても姿が見えても、こんなに簡単に彼が存在しないことが分かってしまう。


「――ねえ、お姉ちゃん」

「……?」


 車に乗ってから此処までの景色は全て覚えているから帰ることは出来る。最寄り駅の場所を頭に思い浮かべながら足を進めていると、不意にすぐ傍から聞き慣れない子供の声が聞こえてきた。

 ぼんやりしていたからだろうか。千理がそちらを見るとどうして気付かなかったのか分からないほど近くに小さな男の子が立っていた。霊研に居た少女、イリスよりも幼く見えるその子は千理を見上げ、無邪気な表情を浮かべて彼女の背後を指差している。


「お姉ちゃんってさっきあそこから出て来たよね?」

「あそこって……霊研?」

「そう!」


 千理が後ろを振り返ると、まだ小さく霊研の建物が見える。


「そうだけど、何か――」

「良かった! それじゃあ」


 男の子がにっこりと笑って千理に手を伸ばす。その手が彼女の手に触れるとひんやりと妙に冷たい感覚がして、その冷たさの所為かぞくりと悪寒が走った。


「っ千理!!」

「――僕と一緒に来てもらおうか」


 愁が叫んだ途端、氷点下とも言えるほどに声の温度を下げた少年がそう言って千理の手を引く。愁が止めようと手を伸ばしても、その手は千理を擦り抜けて空を掴む。

 そして次の瞬間、千理は驚いた顔をしたまま少年と共にその場から完全に姿を消した。


「……っ」


 一瞬。一瞬だけ愁は唖然としてその場に立ち尽くした。目の前には誰も居ない。愁だけが取り残されて、助けようと伸ばした手は届いたのに届かなかった。

 しかし思考を止めていたのは本当に短い間だけだった。愁は即座に身を翻すと、全速力で来た道を戻り、扉を擦り抜けて室内――霊研へと入っていく。


「ん? どうした、何か忘れ物でも――」

「千理が攫われた!」

「……え?」


 一番に愁に気付いた櫟が振り返ると、そこには今までの冷静でぼんやりとしていた男の姿はなかった。その代わりに切り裂かれそうな程の鋭い空気を纏った、まるで別人とも思ってしまいそうな愁が居る。

 そんな彼の姿に、櫟は同じように表情を変えて目を細めた。


「すぐに話を聞かせてくれ」


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