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霊研の探偵さま  作者: とど
三章
39/74

19-2 分かり合ってる


「千理ちゃん!」

「はーい?」


 朝、制服に着替え部屋を出て行こうとした千理は、突然麗美に大きな声で呼ばれて首を傾げた。

 何かあったのだろうか。いつも朝は慌ただしく出勤の準備をしている彼女の声に応えてリビングへ向かうと、麗美はやたらと興奮気味に千理の腕を引いて「急いで」と彼女を玄関まで連れて行った。


「一体どうしたんですか? 誰かお客さんでも――」

「お嬢様」


 一つ、酷く懐かしい呼び方を耳にした。

 引っ張られるままに足を進めた千理は、玄関の扉を開けた先に誰かが立っているのが見えた。白髪交じりのグレーの髪をきっちりとセットし、年齢とは裏腹に背筋をしっかりと伸ばした姿勢の良い老人。彼は千理の姿を目にすると恭しく一礼した。

 千理の目が大きく見開かれる。


「……じいや?」

「お久しぶりです千理お嬢様。お迎えに上がりました」

「何で此処に……え、お迎えって」


 もうずっと会うことはないと思っていた人間を目にして千理の思考が鈍る。しかしすぐに我に返った彼女はどこか申し訳なさそうな顔をしている彼を見上げて素早く頭を回した。


「……お兄様に何があったの」

「質問は全て本家の方で伺いましょう」

「否定しないってことはやっぱりお兄様に何かあったんでしょ!? ねえ!」

「お嬢様、本家へ戻る準備を」


 千理が問い詰めようと掴み掛かるものの冷静な声と共にやんわりと手を外される。のれんに袖推しだ。彼は優しいが一度命令を受けたことは何があっても遂行する。今彼を問い質したところで時間の無駄だろう。


「本当に? 本当に千理ちゃんはあっちに戻れるんですか!」

「ええ、お嬢様を連れて帰るようにと言われています」

「良かった……千理ちゃん良かったわね……!」

「……すぐに支度して来ます」


 まるで自分のことのように喜び始めた麗美と老人を置いて千理は自室へ踵を返した。廊下を歩きながらもその頭の中は酷く忙しなく動き、今取るべき最良の行動を叩き出す。




「……どうか、一番最悪な状況ではありませんように」


 手早く準備を終えた千理はそう呟くとさっさと玄関へと戻り、家の前に停められていた黒塗りの車に乗り込んだ。




    □ □ □  □ □ □




「俺はもう駄目だ……」

「あらあら」


 例の事件についてそれぞれの情報を共有する為に、霊研には先日のように全ての職員が集められている。今まだこの場に居ないのは櫟と千理ぐらいだ。

 彼らが来るまで会議が始められないので各々自由に過ごしていたのだが、この中で最後にやって来た愁が妙に落ち込んでいるのを見て他の職員の注目が彼に向いた。

 愁は何故か部屋の隅で大きな体を縮こませて膝を抱えている。どんよりと悲壮感を漂わせて何やらぶつぶつ呟いている彼を見て他の人間は顔を見合わせたが、すぐにイリスが愁の傍に近寄った。


「どうしたのよシュウ、あんたらしくもなく暗い顔しちゃって」

「……イリス先輩」

「何か悩みがあるんならさっさと吐きなさいよ。そんな暗いオーラ出されたら鬱陶しいのよ。部屋にカビが生えるわ」

「そうだとも。君は以前私の話も聞いてくれただろう。我が呪われし力でも役に立てるのであれば遠慮無く頼るといい」


 続けて或真がそう言うと、愁はゆっくりと顔を上げて二人を見上げた。その顔は相変わらずの無表情だったが、やがて小さく頷いた愁は「実は、」とぽつぽつと話し始めた。




「……は?」


 愁が話し終えると同時にイリスがぽかんとした顔で愁を見返した。彼女は愁から聞いた話をゆっくりと脳内で反芻し、意味を咀嚼し、そして……


「あっはははは!!!」


 直後、イリスはお腹を抱えて笑い出した。


「おいおいイリス、……笑ったら愁が可哀想だろうが」

「ふ、エイジだってちょっと笑ってるじゃん……」

「……」


 笑いが堪えきれない様子の朽葉親子に愁が微妙な表情を浮かべる一方で、或真は真剣に愁の話を聞いた後「成程」と深く頷いた。


「つまり要約すると、千理がその天宮という男の事が好きだと知って落ち込んでいる訳か」

「長々と話したくせにその一言で終わる話だったわね」


 愁が話したのは昨日の千理との会話だった。一日経っても彼女のあの衝撃的な言葉が蘇り、その度に頭を殴られるような痛みを覚える。


『好きか嫌いかで言ったら大大大大大好きですけど!?』


 感情を大いに乱してそう言った千理。天宮の為に模試を必死で頑張り、息をするように彼を褒める彼女を目の当たりにして愁は酷く動揺した。


 確かに或真のストーカーの話と比べてしまえば深刻さは無いかもしれないが、それにしてもそんなに笑うことは無いのではないか。愁はふて腐れてそう思ったものの、彼らに反論する気力もなく再び顔を膝に埋めた。


「あー愁、そりゃあ災難だったなァ」

「ふ……失恋おめでとう」

「英二、イリス! 愁が落ち込んでいるのにどうして笑っているんですか!」

「うむ。我が邪眼ではちっとも役に立たないようだ。潔く諦めたまえ」

「或真まで……だ、大丈夫ですよ愁! 失恋なんてよくあることです。気にしたら負けですよ!」

「コガネだって容赦ないじゃん」


 朽葉家の良心が必死に愁のフォローを始めるものの、彼も無自覚に愁にとどめを刺している。


「俺は……俺は今までずっと調子に乗っていたんだ。千理に一番近いのは俺で、きっとあいつも俺と同じ気持ちなのだろうと。だが……天宮を褒める千理の顔は今まで見たことがないくらい輝いていて……俺は誰よりもあいつのことを分かっていると思っていたのに、実際はちっとも千理のことを知らなかったんだと思い知らされた」


 千理は自分の好ましいものを自慢したがる。チョコレートだけではなくお気に入りの傘だったり靴だったり、にこにこ嬉しそうにしながら見せてくる彼女を見るのが愁は好きだった。

 だがその対象が知らない男になった瞬間、とても耐えられなくなった。天宮のことがどれだけ好きなのか、彼女の表情から嫌でも思い知らされたのだ。


 ずーん、と重い影を背負った愁が大きく溜め息を吐いていると、「もう、皆そこまでよ」と今まで周囲を見守っていた鈴子が窘めるように口を挟んだ。


「皆していじわるなんだから。あんまり愁君を揶揄ったら駄目よ」

「え?」

「えー、だって珍しくシュウが落ち込んでて、しかもめちゃくちゃ見当違いなこと言ってるからつい」

「ああ、ついな」

「ふふ、似たもの親子だな」

「そう言うアルマだって面白がってたくせに」

「え、え?」


 けろりと開き直ったイリスと英二とは裏腹に、コガネは訳が分からず困惑して周囲の人間を見た。

 そんな彼を余所に、鈴子は愁の傍にしゃがみこんで彼の頭を撫でるように空中で手を動かす。


「大丈夫よ愁君、あなたの認識は決して間違っていないわ」

「……だが」

「千理ちゃんは愁君のことをそれはそれは大切に思っているし大好きよ。その天宮君って子のことは分からないけど、私達は千理ちゃんと愁君をよく見ているもの。二人が本当に想い合っていることなんて分かるわ。自信を持って」

「……」


 ようやく愁が再び顔を上げる。目を閉じたまま穏やかに微笑む鈴子をじっと見た愁は、彼女の言葉が単に愁を慰める為だけのものではないと理解し、ようやく固い表情を僅かに緩めた。


「鈴子さん、感謝する」

「気にしないで。私は思ったことを言っただけだもの」



「……? あの、千理は結局誰が好きなんですか」


 何やら室内が微笑ましい空気になったところで、相変わらず一人状況に取り残されていたコガネがぽつりと呟いた。


「は!? にっぶ! っていうかコガネ何にも分かってなかったの!? あっきれた!」

「だって、千理はその天宮って男のことが好きだと言っていたんですよね?」

「そんなのどうせチョコレートが好きと同じに決まってるでしょ」

「大体その男褒めるより愁のこと自慢してる時間の方が絶対なげえだろ。愁はすごいんですって何度聞かされたことやら」

「それは、確かに」

「彼らの絆はケルベロスの爪ですら引き裂くことなど不可能だ。深淵で生きる私には酷く眩しく感じるよ」


「いやーごめんごめん、待たせたね」


 そうこうしていると、ようやく櫟が外から戻って来る。彼は軽く謝りながら室内に入ると一度ぐるりと周囲を見回す。そして僅かに眉を顰めた彼は、真っ直ぐ愁に近付いてきた。


「愁、ちょっといいかな」

「なんだ」

「千理からこんなメッセージが来てたんだけど、何か心当たりはあるかい」

「……千理から?」


 すぐさま櫟を振り返った愁の目の前にスマホの画面が突きつけられる。


「『誠に勝手ながらしばらく休みます。ご迷惑だとは思いますがよろしくお願いします』……どういうことだ?」

「え、センリ休みなの? なんで?」

「さあね。今朝このメッセージが来ていたようなんだけど、僕もうっかりしていて気付いたのがついさっきだったんだ。一応僕の方からもメッセージを送ってはみたけどまだ返事はない」

「昨日会った時にこんなことは言っていなかったんだが」


 愁は昨日の千理の様子を改めて思い出してみるものの、やはり模試やら天宮やらの話しかしていなかった。だとすれば今日の朝に突然何か起こったのだろうか。

 彼はじっくりと文章を読み直した後、どうにもそれに違和感を覚えて眉間に皺を寄せた。


「千理がこんな要領を得ない文章を送って来るなんて滅多に無い。休むというのなら普通はちゃんと理由を説明するはずだ」

「確かに。説明をする暇も無かったってことかな」

「……心配だ。今から千理の家に様子を見に行ってみる」

「うん、僕も行こう。例の事件のこともあるし、何かがあってからでは遅いからね。……そういう訳で皆、悪いけど先に会議を始めてもらっていいかな。必要な情報は纏めておいてくれると助かる」

「分かりました」


 コガネが頷いたのを確認すると、櫟はまたすぐに霊研を出て車に乗り込む。愁が助手席に乗ったのを確認して彼は手早く車を発進させた。

 景色が流れ始める中、愁は妙な胸騒ぎを覚えながらそれを誤魔化すように呟いた。


「……何事もなければいいんだが」




    □ □ □  □ □ □




「千理の家は此処だ」


 愁の案内で伊野神家に到着すると、櫟は車から降りてインターホンを押した。愁曰く伊野神家の人間は皆仕事で忙しく家に居ることはあまり無いというがどうだろうか。


「……はい。どちらさまですか」


 しかしその懸念とは裏腹に玄関の扉はあっさりと開く。出て来た女性は櫟を見ると首を傾げながらも家から出て門の前までやって来た。

 愁が「麗美さんだ」と告げる。そういえば前に櫟が病院で遭遇したのと同じ女性である。櫟と同じくらいの歳に見えるその女性は怪訝な顔で櫟を窺っている。


「あの」

「すみません、僕は千理さんのバイト先の責任者の櫟と申します。千理さんが突然今日理由も分からず休むと言ってから連絡がつかないものですから心配になりまして」

「千理ちゃんの……ああ、そういうことですか。わざわざすみません。それと急で申し訳ないのですが、千理ちゃんはもうバイトに行けないんです」

「は、」

「ですので辞める手続きをお願いします。それでは」

「いや待って下さい!」


 言うだけ言って戻って行こうとする麗美を慌てて呼び止めた。一体どういうことなのか。愁など表情に出るほど非常に驚いており、彼にも全く事情が見えていないようだった。

 何故急に辞めるなんて話になったのかと櫟が詳細を問い質そうとするが、彼女は渋い顔で首を横に振るだけだ。


「理由を聞かせていただけますか」

「家庭の事情ですから」

「じゃあせめて千理さんと話をさせて下さい。いきなり第三者から辞めると言われましてもこちらとしても納得がいきません」

「千理は何処にいるんだ!」

「そうは言っても……千理ちゃんにはもう会うこともないと思うので」

「会うこともない?」

「あの子はこの家から出て行きました。本家……その、実家の方に戻ったんです」

「……実家、だと」


 愁の目の色が変わったのを櫟は目撃した。その目に、まるで戦闘時のような剣呑さが加わったのを見てただ事ではないと即座に理解する。

 麗美に気取られない程度に愁を窺うと、彼は酷く苦々しい顔で一言「駄目だ」と口を開いた。


「駄目だ……あの家だけは、絶対に千理を戻したら駄目だ!」

(どういうことだ?)

「……この家に引っ越して来る前、千理は学校にもいかずにずっと家に居たらしい。そこで、家庭教師に何度も暴力を振るわれていた」

「!」

「もしかしたらそいつだけじゃないかもしれない。確実に言えるのは、千理はずっと殴られたり蹴られたりしながらその家で過ごしていた。あいつにとってあの家は……毒でしかない」


 両親と一緒に暮らしていないということは聞いていた。だが予想以上に酷い家庭環境に櫟は口の中に苦いものを感じた。

 自分はまだいい。家族仲が悪いのも慣れているし櫟自身も家族に興味はない。だがそれが彼が守るべき人間のことなら話は別だ。話は終わったと再び家の中に入ろうとしている麗美を再度呼び止め、少々迷惑そうな顔をしているのを無視して話を切り出した。


「実家というのは彼女が此処に来る前に居た家のことですね? ならば尚更放っておけません。千理さんがその家で虐待を受けていたという話は小耳に挟んでいますから」

「! 虐待、なんてそんなことはありません。そもそも誰がそんなことを……千理ちゃんがそう言ったんですか?」

「桑原愁という少年をご存じですね?」

「……桑原君」

「ええ。千理さんととても仲が良い少年のことです。僕は彼とも親交がありまして。彼が千理さんが昔暴力を振るわれていたと察していたようなんです」


 麗美の脳内に一人の少年の姿が思い浮かんだ。殆ど会ったことは無いが千理と会話すると高確率で話題に上がる近所の少年だ。明らかに彼のことが好きだと分かる千理の態度を麗美は微笑ましく思ったし、応援もしていた。

 だがある日、千理は突然塞ぎ込んで笑顔を無くした。その原因は近所付き合いを殆どしない彼女にもあっさりと届いていた。


「そうですか……桑原君なら、納得がいきます。」

「彼が不在の状態で千理さんに何かあれば、私は彼に顔向けできません。事情を聞かせて頂けませんか」

「……分かりました」


 頑なだった麗美が愁の話題を出してすぐに態度を軟化させた。ただの好奇心ならともかく、千理の大切な故人・・の名前を出されたら麗美も引かざるを得なかった。


「外でするような話ではありません。どうぞ中へ」

「ありがとうございます」


 促されて櫟はようやく伊野神家の敷居を跨ぐ。そうして部屋の中に案内される間、愁はずっと無言で麗美を睨み続けていた。




    □ □ □  □ □ □




「今から話すことはどうか吹聴なさらないで下さい」

「ええ。約束します」


 ことり、と櫟の目の前に紅茶が置かれ、麗美は彼と向き合うようにリビングのソファに腰掛ける。


「何処から話すべきか……そうですね。櫟さん、と言いましたか。あなたは天宮グループという名前に心当たりはありますか?」

「天宮……というと、確か千理が気に入ってるチョコレートの」

「ええ、その天宮です。元々は和菓子の店から始まって、今は色んな業態で手を広げていますね」

「……天宮」


 愁の脳裏に天宮という男を自慢する千理の姿が過ぎった。分かってはいたがやはり天宮と彼女は何か関係があったのか。


「この伊野神家は天宮の分家……なんて良いものではないですね。お恥ずかしいですが、伊野神は天宮のゴミ箱なんです」

「ご……ごみ?」

「天宮は血統と才能を重視します。天宮の血に連なるものは皆、生まれた時から品定めされて優秀な者は本家へ、逆に才能が無い人間は例え本家直系の人間でも余所に流されます」


 伊野神に暮らす人間は全員同じ血を持っているものの家族ではない。ただ同じ場所に捨てられた廃棄物だ。だからこそ彼らは自分を才能を認めてくれる場所を求めて仕事に没頭する。麗美とて同じだ。ただ彼女は幼い千理の世話係になった為彼女に対して情が湧いた。この家で千理を気に掛けているのは彼女ぐらいだった。


「才能……ですが千理は」

「千理ちゃんはとても優秀な子です。おまけに直系の子供、本来ならば伊野神に来ることなんてなかったんです。……ですがあの子は運には見放されていた。千理ちゃんと一緒に生まれた双子のお兄さん、万理君は彼女よりも更に優秀な人間だったんです」

「千理より優秀な、天宮の男……」


 そんなの愁には一人しか思い当たらない。


「千理ちゃんがこの家に来る際に本家の人間から聞いた話ですが……天才のお兄さんと何かにつけて比べられて、千理ちゃんは酷く萎縮してしまったようなんです。ある日を境にどんどん成績も落ちて、折檻されていたのもそれが原因ですね。まああの家ではよくあることなので私も特に気にしなかったんで――あれ、地震ですかね」

「……ええ、そうみたいですね」


 かたかた、とテーブルや壁に掛かっている絵画が揺れる。適当に相槌を打った櫟がちらりと隣に目をやると、案の定殺気だった様子の愁が僅かに震えていた。


「よくあることだと……そんな言葉で片付けられると」


 ぶつぶつ呟く愁に「落ち着け」と小声で訴えると、ややあって地震は収まった。そのことにほっと安堵している櫟を見て麗美は小首を傾げる。


「どうかしましたか?」

「いえ、お気になさらず。それで話を戻しますが、結局千理は天宮に戻されたということですよね? 何故ですか? その家は千理を一度捨てたんですよね?」

「それは私も詳しく分からなかったんですが、今日の朝急に天宮から迎えが来て。千理ちゃんが頻りに万理君に何かあったのかって聞いていたので、もしかしたら彼の代わりに千理ちゃんが必要になったのかもしれません」

「……千理に連絡は取れないですか」

「伊野神が天宮に干渉することは禁じられているので……千理ちゃんからの連絡を待つしかないと思います」

「天宮の家が何処にあるのかだけでも教えてもらえませんか」

「それも私には分かりません。幼い頃に伊野神に来て以来本家には関わっていませんから。それこそ千理ちゃんだったら覚えているでしょうけども」

「……そうですか。分かりました。無理言って色々と聞いてすみませんでした」


 この辺りが引き際か。これ以上話しても情報を引き出せないと判断した櫟が麗美に礼を言って立ち上がる。


「あの……」


 外まで見送りに来た麗美が門の前までやって来たところで櫟を呼び止める。振り返ると彼女は櫟に向かって「どうかお願いします」と頭を下げたところだった。


「千理ちゃんのこと、そっとしておいて下さい」

「そっとしておくって」

「あの子は伊野神に来てからもずっと本家のことを気にしていました。それに万理君と比べられなくなってプレッシャーが無くなったのか、成績も誰もが納得するくらい伸びて……天宮に戻ったとしても十分にやっていけると思います。心配されるような折檻だってもう受けないと思いますので、もう下手にあの子に関わらないで下さい。やっと本来の場所に戻ることが出来たんですから」

「……そうですか」


 櫟は明言を避けて相槌を打つだけに留める。それでも彼女は安心したのか「よろしくお願いしますね」と再度念を押してから櫟を見送った。




 近くに停めた車に乗り込んだ櫟は、そのままエンジンを掛ける訳でもなく誰も乗っていない助手席を振り返った。


「さて……愁、そういう訳らしいけどどうする? このまま天宮での千理の幸せを願って大人しく身を引くかい」

「論外だ」

「ふうん? あの人はあれでも千理のことを思って関わるなと言ったようだったけど」

「千理は望んであの家に戻った訳じゃない。櫟さんに『しばらく休む』と言った時点で帰って来る気しかないからな」

「ふふっ……そうだね。あの千理が君のことを放り出して何処かへ行くなんてありえない」


 試すように問いかけた櫟の言葉を愁が即座に切り捨てる。それに当然だと櫟は満足げに頷いた。愁の体を見つける為に霊研に入ったのに、どんな手段を使ってでも彼の体を取り戻すと言っていたのに、今更それを撤回する彼女ではない。


「さて、これからどうしようか」

「……櫟さん、少し待っててくれるか」


 愁は僅かに考えた後すぐに車から飛び出す。慣れたように伊野神家の壁をすり抜けて、昨日のように千理の部屋へと入っていく。

 室内の様子は昨日と変わらない。荒れている訳でもなくただ千理が居ないだけの普通の部屋だ。ただ一つ目に付くのは、テーブルの上にぽつんと置き去りにされた彼女のスマホだけだった。

 愁はそれを浮かび上がらせると窓を開けてスマホを外に持ち出す。きっちり窓の鍵を閉めた後すぐに車に戻ると、櫟に車のドアを開けさせてスマホを車内に入れた。


「千理のスマホ? あの子置いていったのか。どうりでちっとも返信が来ない訳だ」

「俺は千理の考えていることを全て把握することは出来ない。だが千理は俺のことをよく分かっている。突然千理が居なくなった時俺がどういう行動を取るか、あいつなら簡単に想像出来るはずだ」


 急に親友が消息を絶ったのなら愁は絶対に彼女を探す。だからこそ愁は、千理がそれを見越して自分の為に何かしらヒントを残しているのではないかと思ったのだ。


「で、部屋にそれが残されていたと。確かにわざわざスマホを置いていったのにはそれなりの理由がありそうだ」

「櫟さん、操作してもらえるか。俺では画面が反応しない」


 宙に浮くスマホを櫟の手が掴む。抵抗なく手に収まったそれのボタンを押すと、最初に画面に映されたのは当然ながら――パスワードの入力画面だった。四桁の数字を要求するスマホに、櫟は画面から顔を上げて愁を振り返った。


「愁、パスワード知ってたりは」

「する訳ないだろう」

「だよねえ。でも愁の予想が正しいなら、千理はこれを愁の為に残したんだろう。なら君が分かるパスワードのはずだ」

「といってもな……」


 愁は普段千理がスマホを使っているところを思い出そうとするものの、顔認証やら指紋認証やら、そもそもあまりパスワードを打っているところを見たことがないのを思い出しただけだった。たまにパスワードを要求されたらしい時だって、面倒だなと言いながらも素早く何桁ものパスワードを打ち込んで――。


「いや待て、そもそも千理のパスワードは形式が違った気がする。四桁なんかじゃなくてもっと長く打ち込んでいたような気が……」

「改めて言うけどよく見てるよね」

「この体だと千理の背後に浮いていることも多いからな」

「成る程ね。つまりこれは君用に再設定されていると。なら尚更愁なら分かるはずだよ」


 部屋に分かりやすく置いてあったということは他の人間が――例えば麗美が触る可能性だって考えているはずだ。つまり愁には分かって他人には分からないもの、それが答えだ。


「0402、俺の誕生日」

「ありえるね」


 愁に解かせるつもりなら複雑なものにはしないはずだ。櫟がその通りに数字を打ち込んでみれば、あっさりとパスワードは解かれて画面が切り替わる。

 そこに表示されていたのはホーム画面ではなく、かと言って突然居なくなったことに関する説明でもない。伊野神家を起点にして何処かの目的地への経路を表示している地図アプリだった。


「これはまたご丁寧に」


 事情が聞きたかったら来いと言わんばかりのヒント、ではなく答えに櫟は笑った。自分の予想が大当たりした愁は満足げな顔をしており、櫟はそれを見て更に口元を緩める。

 この二人は本当に。


「愁、君は千理の考えを把握できないと言っていたけど大丈夫。十分理解しまくってるよ」


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