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霊研の探偵さま  作者: とど
三章
37/74

18 触れてはいけないもの


「失礼する」


 とある土曜日の昼下がり、霊研では何人かの職員が書類仕事やあるいは宿題をしながら過ごしていた。テレビの音を聞きながらぽつぽつとのんびり会話をしていたとてもゆったりとした空間に、突如外から男性の固い声が飛び込んでくる。

 依頼人かと数人が顔を上げる。その中の一人である千理は、思いもよらぬ人物を目撃してその目を丸くした。


「若葉刑事?」

「あ、キャンプの時のおじさん」


 千理と共に傍に座っていたイリスが無遠慮にその人物――若葉に向かって指を突き出す。その言葉にぐっと言いたいことを飲み込むような仕草をした彼は、千理から見ても随分と疲れた顔のまま霊研の中に入ってきた。肩に担いだ大きめの鞄は酷く重そうで歩き方も重心が偏っている。


「若葉刑事が来るなんて……どうしたんですか一体」

「俺だって来たくて来た訳ではない、が」


 若葉が不自然に言葉を止める。言葉だけではなく歩みも止めて、驚いたような顔をして空中の何も無いある一点を凝視した。


「え?」


 その視線の先を千理が無意識に追いかける。そこには何も無い。――だがそれは、大多数の一般人からしてみればの話である。


「く……桑原、愁」

「? なんだあんた、俺のこと見えるようになったのか?」


 ぼんやりとした顔で宙に漂っていた半透明の霊体が首を傾げて若葉に近付く。間近で見ることになった男に思わず体を仰け反らせた若葉は、酷く動揺するように目を泳がせた後、徐々に恨みがましい表情を浮かべてキッと千理を睨んだ。


「……こいつは一体どういうことだ」

「え、若葉刑事……本当に愁が見えるんですか?」

「見えるかだと? ああ見えるに決まっているだろう! 何なんだ一体! あの雪山で訳の分からんものと遭遇して以降嫌というほど見えるようになった! 説明しろ霊研!!」


 ダン、と床が抜けそうな程大きな音を立てて鞄を床に下ろすと若葉は苛立ちながら千理に詰め寄ろうとした。が、その前に彼女を庇うように愁が間に入った為、彼は反射的に愁から距離を取るように数歩下がらざるを得なかった。


「千理に当たるのは止めてくれ。別にあんたがそうなったのはこいつの所為じゃないだろ」

「……じゃあ何だって言うんだ。そこの二重人格男の所為か? あいつが意味の分からないものを見せた影響だっていうのか!?」

「まあまあ……刑事さん、どうか落ち着いてください」


 興奮気味に捲し立てる若葉だったが、すると目の前に入り込んできた女性に一瞬虚を突かれた。彼女はぴりぴりとしていた空気を払拭するようにとても穏やかに微笑んで、あっという間に若葉を誘導してソファに座らせてしまう。彼も年上の優しげな女性にどうにも強気に出ることができず、彼女に差し出されるままティーカップを受け取った。


「ひとまずお茶でもどうぞ。心が落ち着きますよ」

「あ、ああ。頂こう」

「ちょ、鈴子さん!?」


 千理が悲鳴を上げるより早く若葉は促されるままティーカップを口に運んでいた。その直後、彼はぴたりとその動きを止める。まるで絵のように固まってしまった彼は数秒間そのままだったが、やがてカタカタと僅かに体を震わせながらゆっくりと口からティーカップを遠ざけた。

 その顔は先程興奮して赤くなっていたのとは裏腹に、真っ白である。吹き出すのだけは堪えて必死に飲み込んだ紅茶は口の中から無くなっても依然として亡霊のようにその味を残し続ける。


「ふふ、ほら落ち着いたでしょう?」

「っ……はい」


 必死に口の中の味と格闘しながらなんとか発した声は非常に弱々しいものだった。最初はわざと酷いものを出されたのかと怒鳴ろうとしたのもつかの間、鈴子が自分と同じティーポットから注いだお茶をのんびり味わっているのを見て驚愕のまま頷くことしかできなくなっていた。

 マジかよ、という目で思わず若葉が千理を振り返った。


「……伊野神千理」

「何と言うか、すみません」

「私からも、スズコがごめんなさい」

「二人とも何を謝ってるの?」

「気にするな、何でも無い」

「そう?」


 ふわふわと微笑んだままの鈴子がこてんと首を傾げる。それを見て無言で千理達と顔を見合わせた若葉は色々と察し、千理がそっと差し出したチョコレートを口に入れた。


「……先程は八つ当たりして悪かった。謝罪する」

「いえ、それはいいんですけど……結局、若葉刑事は突然幽霊が見えるようになったってことですよね?」

「ああ。あの日以降、急に視界がブレることが多くなった。かと思えば半透明の人間がちらほらと漂っていたり、誰かの背中にくっついていたり……頭がおかしくなりそうだ」

「あー……分かります。私も最初そうでしたから。いきなり見えるようになって幻覚でも見えてるのかと思いましたもん」

「お前も?」

「はい。私も愁が見えるようになってからあっという間でしたから」

「……」


 若葉が無言で愁を見上げる。彼は突然自分が見えるようになった若葉の反応を確かめるようにしきりに目の前で手を振り、その手が勢い余って自分の頭を突き抜けたことに思わず若葉が小さく悲鳴を上げた。


「愁、若葉刑事に迷惑掛けないの。さっき普通に会話出来てたんだから分かったでしょ?」

「む、すまない。今まで見えなかったのに急に目が合ったからつい」

「……随分暢気な幽霊だな」

「愁がすみません。それで、あのキャンプの時からなんですよね? やっぱり或真さんのあれを見たのがきっかけなんですかね?」

「その状況なら、それが原因の可能性は高いわね。私は櫟君とは違って専門じゃないからはっきりとは言えないけれど、元々刑事さんは千理ちゃんと同じく見える素質が高かったんじゃないかしら。だけど真面目で現実的な人は“そんなものはない”って思い込んじゃうから見えても見えなかったりする。それが或真君の怪物をきっかけに目を逸らすことが出来なくなったってところかしらね」

「……うむ。我が深淵に触れてその才を開花させてしまったとすれば申し訳ないことをした」

「もう元には戻らないということか」

「一度認識してしまったらどうしようもないかもしれないわね。力を失えばあるいは見えなくなるかもしれないけれど、そんな可能性を考えるくらいならこれからどう向き合って行くか考えた方がいいと思うわ」

「……そうか」


 若葉ががっくりと肩を落とす。そんな彼を見て愁が慰めるように「逆に見えて良かったことを考えればいいんじゃないか」と提案した。


「イリス先輩はどう思う?」

「そりゃあミケ達が見えるのはいいことだけど」

「千理は?」

「まあ、愁が見えなきゃ困るよね」

「或真は? ……ん? 今更だが或真は見えるのか?」

「本当に今更過ぎない?」

「ああ、我が右目は不可視の存在とて透視トレースする。たとえ悪魔が人々の目から逃れようとも逃がすことなどない。……最初の疑問に答えるならば、そもそも霊が見えなければ我が職務を果たすのが困難になるからな」

「あっ、そうだ! 刑事なら殺された人の幽霊探せばすぐに犯人分かるじゃない」


 イリスが思いついた、と手を打つが若葉の表情が渋くなる。実際、見えるようになってから事件現場で被害者の幽霊らしきものを見たこともあるのだ。

 だが彼らは一人で喚くばかりで何を言っているのかも分からず、若葉も悲鳴が耳に残るだけでろくな成果など無かった。


「いや、もういい。治らないのなら諦める」

「そうですか? もしかしたら櫟さんか、調査室の人達なら何かいいアドバイスをくれるかも――」

「調査室、だと!」


 その言葉を聞いた瞬間、若葉は途端に怒りを露わにして立ち上がった。憎々しげに大きく顔を歪めた彼を見て、鈴子があらあらと困った仕草をしながら再びティーポットに手を掛け始める。

 直後、すん、真顔になって若葉は静かにソファに座り直した。


「少し気が高ぶっただけだ。茶は結構」

「そう? 落ち着いてくれて良かったわ」

「……先程、此処に来る前に真っ先に特殊調査室によってこの件について尋ねた」

「え? そうだったんですか?」

「だというのに……、あの白髪男! 何て言ったと思う!? 『あ、見えるんだ。じゃあ折角だから調査室うちに来たらどうかな。歓迎するよ! 仕事いっぱいあるよ!』などと言ってしつこく勧誘して来るわ、断ったら断ったでせめてこれを霊研に持って行けと押しつけられ! ……あ、だから茶は結構だ」


 若葉は床に置きっ放しになっていた鞄を机に置く。ずっしりとしたその鞄の中を覗いて見れば、沢山の資料が纏まって隙間なく詰め込まれていた。

 警察の、特に調査室関連の資料は基本的にネットを介さずに手渡しだ。普通の事件でさえ情報漏洩に気を使うというのに、都市伝説や怪異関連の事件などは捜査資料が流出した場合それだけで多方面に“感染”してしまう恐れがある。

 千理がいくつか手に取って見れば随分前に解決した事件の報告書まであり、今まで溜め込んで来たのをこれ幸いと全部押しつけたなと嫌でも分かった。若葉の腕力だから持てたのであって既に鞄の方が底が抜け掛けて限界になりつつある。


「ともかく、押しつけられたとはいえ仕事は仕事だ。用が済んだので俺は帰る」

「あ、ありがとうございました。お大事に……?」

「あまり彼らを意識し過ぎては駄目よ? 目を付けられて取り殺されちゃうかも」

「……気を付けます」


 物騒なことをにこにこしながら口にする鈴子に、若葉は顔を引き攣らせながら何とか返事をして霊研を出て行く。

 一度同じ経験をした千理が心配そうに若葉の背中を見るが、何にせよ慣れるしか無いのだ。頑張って下さいと心の中でエールを送った。




「……それで? どういうことなの?」


 若葉が帰って静けさを取り戻した霊研。その中で真っ先にそう声を上げたイリスは、不機嫌そうに目を鋭くさせて背後を振り返った。


「イリス先輩? どうした」

「どうしたもこうもないわよ! 何であんた今日はそんなに大人しいのよ!」


 イリスが振り返った先に居るのは先程から一言二言ぼそっと喋っただけの或真だった。彼はずんずん近付いてくるイリスを左目に捉えると僅かに考えるようにした後静かに口を開いた。


「私はいつもこうだろう、気にしないでくれ」

「は??」

「いやちょっとそれは無理があります」

「その言い訳はどうかと思うぞ」

「或真君、元気ないわねえ」


 イリスのドスの利いた声を皮切りに全員に畳み掛けられた或真がたじろぐ。何故それで納得すると思ったのか甚だ疑問である。いつも楽しげに高笑いをし、ぺらぺらと謎の言語を口にして英二やイリスから煩がられているというのに。


「あんたが静かだと気持ち悪いのよ! いいからさっさと吐きなさい!」

「なに、ただ昨日魔導書を深く読み込んだ所為で魔力を大いに使ってしまって――」

「は! け!」

「……」


 この格好の或真には珍しく困った表情を浮かべている。これは確かに何が事情がありそうだと、千理もイリスに続いて口を開いた。


「本当に何かあったんですか? 役に立てるかは分かりませんが話ぐらいは聞きますよ」

「そうだ。他人に話した方がすっきりすることもあるぞ」

「……いや、そうだな。まあ大した話では無いのだが」

「なに」

「此処一週間ほど、どうにも何者かの視線を感じるのだ。殺気は感じられないが外に居る時は四六時中見られているような気がする。流石に此処へ来る際は念入りに撒いて来たので大丈夫だとは思うが」

「は?」

「更に言えば……近頃私物が無くなることが多くてな。物自体は大して価値のある物ではないので問題はないのだが――」

「いや問題しかないです」

「それ完全にストーカーじゃないの!!」


 悲鳴に近い声でイリスが叫ぶ。付きまとわれ、更に私物を盗まれるなど普通に犯罪だ。何処が大した話では無いのか。

 鈴子や愁からも心配そうな目で見られ、或真は居心地が悪そうに彼らから目を逸らす。


「さっき若葉刑事居たんですからついでに相談すれば良かったのに」

「彼の管轄ではないだろう。それに視線を感じるのと私物が無くなるのが同じ人物の仕業とも言い切れない。憶測で騒ぎ立てるよりも此処はまだ静観した方がいいと」

「まあ、それも一理ありますが」

「無いわよ! 他には何もされてない? 大丈夫なの!?」

「……そう大げさなことではない」

「その前振りいらないから!」

「三日ほど前から手紙が来ていてな。ちょうど今日家を出る際に持ってきたものがあるのだが」

「見せて!」


 或真が鞄から取り出した手紙をイリスがひったくる。まだ読んでいないらしく封が開いていないその手紙は無地の白い封筒に入っており、千理が慎重に端を切って手紙を取り出す。

 入ってきた紙は三枚。どれどれと開いて中身を確認しようとして……千理は一瞬で閉じたくなった。



 好きすきすきすき大好き愛してるこの世で一番わたしがあなたをすきなのすき愛してるあなたを閉じ込めてずっと私だけを見てくれればいいのに


 あるまくんあるまくんあるまくん好き好き好き好き好き好きかっこいいところも優しいところも片目しかない目も耳も唇も手も足も全部ぜんぶ飾りたい


 はやく私のものになって



「こ、こわい!!」

「正気が削れる……見ちゃったから一生忘れられないし……」

「随分過激ねえ。愛が重いのは良いことだけど、あまりに一方的なのはちょっとね」

「二枚目も三枚目も同じ感じだな」


 一枚目で読む気力を失った千理の代わりに愁が続きを読むが、似たようなことがひたすら羅列していた。それどころか結婚式の話や子供の話まで始めており更に酷い妄想が広がっている。どの手紙も紙の余白など一切なく余すところなく文字で埋め尽くされており狂気を感じる。


「或真さん観念してください。これ以上ないほどに完璧なストーカーです」

「一体何処でこんなやばい女引っかけて来たのよ!?」

「相手に心当たりはあるのか」

「いや、思い当たる人物は居ない。一週間ほど前に新しく知り合いになった人間も居ないからな」

「別にそうとも限らないんじゃないですか? もっと前に知り合った人が徐々にストーカーし始めた可能性もありますし、そもそも向こうが一方的に或真さんのことを知ったのかも」

「スズコ! この手紙“見て”!」

「ええ、分かったわ」

「大丈夫ですか? 何かヤバそうなもの見えそうですけど……」

「平気よ。慣れているもの」


 鈴子が差し出された手紙を受け取る。彼女はそっと手紙を撫でるように触れると、集中するようにじっと動かなくなった。

 十秒ほど経った頃、鈴子はゆっくりと顔を上げる。


「焦げ茶の肩までのストレート、普通の可愛い女の子ね。あんまり特徴的な子じゃないから説明するのが難しいわ。念写でも使えれば良かったのだけど」

「何人か該当する友人はいるが分からないな」

「この女ったらし……」

「手紙も鞄にしまわれて運ばれたから家の場所は特定できないわ。ごめんなさい」

「こちらこそ手を煩わせてしまってすまない。うむ、ならばどうするべきか」

「普通に通報したらいいんじゃないですか? 或真さんを飾りたいとかヤバいこと書いてありましたし、警護とか付けてもらうべきでは?」

「だがそうすると職務を遂行する時に困る。只人が我が下僕を目にすることがあっては問題だ。先程の刑事のようにこの先の人生を狂わせてしまう可能性があるからな」


 そしてそれは警察だけでなくストーカー本人に対してもそうだ。霊研での姿がバレるくらいなら或真はそこまで気にしないが、もし迂闊に使役する怪物を見られてしまえばどうなるか分からない。ストーカーといえど一般人をこの闇に触れさせる訳にはいかない。


 加害者まで守ろうとする或真に呆れた顔を隠さなかったイリスは仕方が無いと大きく溜め息を吐く。そして、すぐに気を取り直して一度大きく声を張り上げた。


「ほんっとにしょうがないんだから。ミケ、出番よ!」

「みい!」

「今日からしばらく或真の傍に居て。変な女がいたらすぐに私に知らせるのよ!」

「……みぃぃ」

「ミケ先輩嫌そうだな」


 言葉が通じない千理や愁から見ても明らかに不満げな態度を表している。が、イリスが「お願い!」と手を合わせるのを見て渋々といった様子で或真の足元に近寄った。

 イリスの動物霊達の調査能力は一級品だ。これならすぐに犯人を見つけ出してくれるだろう。


「シャッ!!」

「仕方が無いからやってやる。感謝しろって言ってるわよ」

「ああ。イリス、ミケ共々本当に感謝する。この恩はいつか必ず返そう」

「言ったわね? ケーキ食べ放題に連れて行きなさいよ!」

「お安いご用だとも」




    □ □ □  □ □ □




「ま、くん……あるまくん……ふふ、」


 恍惚とした声がぽつりぽつりと室内に落ちる。

 とあるアパートの一室。その部屋の中心で一本のボールペンを舐め回していた女性は、ふと顔を上げて視界に入ってきた数々の“彼”を見てにやにやと口を歪ませた。


 四方の壁、いや天井までを埋め尽くす写真。一枚一枚どれも違った写真であるにも関わらずそれらの被写体はたった一人だ。右目に白い医療用眼帯を身に着けたその男を映した写真は一枚も目線が合っているものは無く、全て隠し撮りであることが窺える。


 彼女は元々とても真面目で大人しい人間だった。学校でも目立たず、自分で話すよりも友人の話に相槌を打つことが多い、自己主張の少ない人間だ。

 しかしそんな彼女の人生は一週間前に大きく歪められた。大学の食堂で食事をした後次の講義向かう為に立ち上がった彼女に一人の男が声を掛けたのだ。


「学生証、君のだろう」


 膝に置いていることを忘れて、立ち上がったことで落としてしまった学生証をとある男子学生が追いかけて渡してくれたのだ。日常ではあまり見ることのない眼帯の異質さと儚げな顔立ちのアンバランスさ、「間に合って良かった」と優しく微笑んだその彼に、彼女は一瞬にして虜になった。

 一週間。それからたった一週間で彼女は変わった。彼の個人情報を調べ上げ、背後からひたすら付きまとい、隠し撮りをして、こっそりと私物を拝借してはコレクションに加える。今までこれほど心惹かれた物も人物も居なかった彼女は一気にのめり込み、それが危険なところまで来ていると全く気付いていなかった。


「或真くん」


 壁に貼られた写真に頬擦りする。いくつか送ったラブレターを彼は読んでくれただろうか。手紙なんて今時古風かもしれないが、彼は優しいからきっと喜んでくれているだろう。


 さて、そろそろ次の準備をしなくてはいけない。

 女性は名残惜しそうに壁から顔を離すと部屋の中央に置かれたテーブルに近付いた。沢山の手紙の書き損じを掻き分けてその中から赤い小さなお守りを手にした彼女は、それを胸元に強く押しつけた。

 このお守りは今日或真の後を付けていた時にとある男から買ったものだ。いつの間にか何処かへ消えてしまった彼を必死に探していた時に声を掛けられ、恋愛成就のお守りを買わないかと言われたのだ。

 以前の彼女なら突然見知らぬ人間から声を掛けられればすぐに逃げ出していたが、今の彼女は違う。彼と結ばれる為なら手段など選ばない。それがたった三百円のお守りならば言うまでもなかった。


『このお守りは特別でね、持っていると想う相手の所まで自分の魂を飛ばしてずっと一緒に居ることが出来るんだ』



「ずっと、一緒に」


 お守りの中央にシンプルな花のマークが施されただけの簡素なそれを大事に大事に抱えた彼女は夢を見るような表情でベッドに横になった。

 早くあの人の元へ。ずっと、ずっと一緒に居られる。






「……え、」


 耳元で、ふとノイズのようなものが聞こえたような気がした。


『――ゴ、ニ』


 雑音のような何か。最初は気のせいだと思う程小さかったその音はいつの間にかどんどん大きくなり、頭の中をかき混ぜられていると錯覚するほどにガンガンと響き渡るようになる。


「なによ、これ」


 何かの生き物の唸り声や鳴き声が頭を反響する。高い声も低い声もまぜこぜになりながら脳を浸食するその音は、彼女がどんなに頭を振り払っても止まることはない。


『ラノ――ゴニ、』


 狂ってしまいそうな鳴き声の中でたった一つ聞き取れる言葉を発しているものがあった。無意識にその声を聞き取ろうとすれば、徐々に徐々にその声ははっきりとしたものとなる。


『ワレラノ、』


 ――彼女が気付いた時にはもう手遅れだった。その声に耳を傾けてはいけなかった。肉体は既に眠り彼女の視界は真っ暗な闇の中にあった。

 そしてその闇の中から、嫌というほど聞こえてきた唸り声と鳴き声が正体を現したのだ。

 犬に似た、しかし比べものにならないくらい凶暴そうな怪物、何の動物かも分からない醜悪な見た目をした見たことの無い化け物、自分の背の何倍もある巨大な蛇、天使の羽と芋虫が合体したような悍ましい何か。他にも彼女の理解を軽々と越えたそれらはじりじりと彼女に近付いて来る。




『――我ラノ愛シ子ニ触ルナ』




    □ □ □  □ □ □




「あれから一週間経った訳だが……不思議なことにあの日以来全く被害が無くなってな」

「本当にどうしてですかね。仮に動物霊が見えていたとしてもそれくらいで止めるような感じでもなかったのに」

「ああ、単純に飽きられたのなら好都合なのだが」

「そんな都合の良いことあります?」

「どちらにしろ私にとって都合の良いことが起こったのは事実だ。……ふはははっ! これで心置きなく私も職務を全う出来るというもの! 深き闇の招待状が私を待ち焦がれているのでね、早速行ってくるとしよう!」


 結局犯人は見つからず、それどころかあれ以降一切或真に対するストーカー行為は見受けられなくなった。犯人を捕まえられなかったイリスが悔しげに地団駄を踏んでいる。


 楽しげに高笑いをする或真に先日のような陰りはない。それは良いことなのだが、と黒コートを翻して出て行く後ろ姿を見ながら千理は複雑な心境をそのまま前面に表してた。


「……何か腑に落ちないな」


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