16-3 自慢の
「悪いな兄貴、あいつは俺の娘にする」
誰に言うでもなくぽつりと小さく呟いた英二が両手で構えた銃を撃つ。鋭く狙いを定められた銃弾は一瞬で老婆へと到達したものの、しかし素早く動きで避けられて腕を擦っただけで終わった。
「チッ、いつものよりちと重いな。これは調整しねえと」
「一発撃てば十分でしょう? 次は修正できますよ」
「随分と買い被ってくれんじゃねえか」
「ええ。僕の自慢の相棒なので」
殺気を殺さないまま軽口を叩いた英二が再び引き金を引こうとする。それと同時にコガネが動いた。
「小癪な」
近付くコガネに反応した老婆が包丁を拾い上げて振りかぶる。しかしそれは振り下ろす瞬間に銃弾に弾かれて吹き飛ばされ、床に突き刺さった包丁は蒸発するように溶けて消えた。
老婆が驚いている隙を見逃すはずもなく、コガネは素早く作業台へ飛び乗ってイリスを抱き上げる。
「コ、ガ」
「怖かったでしょう、もう大丈夫ですよ」
心底優しい声で抱きしめられたイリスが堪らずコガネに縋り付く。しかしそんな彼らの背後からしつこく老婆が襲いかかろうとコガネの首に手を伸ばした。
今自分を撃とうとしてもその延長線上にはコガネとイリスがいる。貫通すれば彼らにも当たるだろうと老婆は完全に英二に背を向けていた。撃てるものなら撃ってみろと。
――そして英二は何の躊躇いもなくその引き金を引いた。
「がっ、」
銃声と老婆の短い悲鳴、そして勢いを殺さぬまま老婆の体を貫通した銃弾はそのままコガネの目の前まで到達し――軽い音と共に弾かれてあらぬ方向へと跳弾した。
「英二、当たらないと確信しているのは分かりますがイリスも居るんですよ。トラウマになったらどうするんですか」
「悪い。だがまあイリスだって分かるだろ。お前が居てこれ以上傷つくはずもないってな」
イリスを抱えたコガネが英二の元へと戻り彼の背後に回った。涙と痛みで何も言えないイリスの頭に一つ手を置いた英二は、そのまま床で痙攣している老婆に近付いて行く。
倒れ伏す老婆の頭に英二が真顔で銃口を向ける。そうして止めの一発を撃とうとした英二だったが、しかしその瞬間を見計らったように不意に老婆の体が跳ねるように起き上がった。
「死ね!」
狙いがぶれて改めて銃口を構え直す間にも骨の手は英二に向かって真っ直ぐに伸びていく。彼の目に向かって容赦なく突き出された剣のように変化した鋭い指を間近で捉えた英二は、しかしそれを避けようともせずに冷静に銃を構えていた。当然だ、避ける必要など何処にも無いのだから。
脳を貫通するであろう指が彼の眼球に届く直前、それは見えない何かに阻まれた。指が折れてしまいそうなほど強固なそれに堪らず仰け反った老婆は何が起こったのか分からないまま英二を凝視し――そのまま額に穴を開けた。
「今度こそ終わりだ」
怒りの籠もった声が発せられると共に老婆が苦しみの絶叫を上げる。穴の開いた額からはどす黒い靄のようなものが立ち上がり、苦悶の表情と共に体が崩れていく。
「ぜ、ッタイに、ゆるさ」
「それはこっちの台詞だ」
最後の言葉にすら冷たく吐き捨てると、老婆は呪い殺さんばかりの表情で黒い靄に呑まれていった。それは徐々に小さくなっていき、やがて一分も経たないうちに完全に消滅する。
それと同時にぐにゃりと室内が歪む。可愛らしい調度品も大きな竈もまるでコーヒーにミルクを混ぜたようにぐるぐると回り、三半規管を狂わせる。
気持ちの悪くなる空間は長くは続かず、瞬く間に家はその姿を消して辺りは薄闇に包まれた。ぬるい風が頬を撫で、虫の鳴き声が聞こえてくる。辺りを見回して見れば木々はあるものの遠目に建物の明かりもいくらか視界に入り、何処かの大きな公園の中であるようだった。
終わった。英二はゆっくりと息を吐くと、コガネに抱き上げられたままのイリスを振り返った。
「イリス、もう大丈夫だ」
「エイジ……」
「早く手当をしましょう。……痛いですよね、来るのが遅くなってすみませんでした」
イリスがゆっくりとコガネの胸から顔を上げる。涙や血で汚れた顔をコガネがハンカチで拭い急いで首の怪我を見ている中、イリスの視線はまっすぐに英二に向いていた。
「エイジ、さっきの」
「ああ、……イリス、本当に悪かった。今までずっとお前を傷付けて、見て見ぬ振りをして」
「……」
「今更厚かましいとしか言えねえだろうし、ふざけんなって怒りたくなると思う。いや存分に怒ってくれていい。俺はお前に恨まれることしかしなかったからな」
「ちが……私が、私が悪いの。私が悪い子だから……だから、パパとママは」
「イリス、もう止めにしましょう。誰が悪いとかどうすればよかったとか、もうそんなことはいいんです」
「でも!」
「イリス」
英二の両手がイリスに向かって伸びた。一瞬身構えたイリスとは違いすぐに意図に気付いたコガネは、抱えていたイリスを英二の腕に差し出す。
「どうぞ」
「え、コガネ」
戸惑っているイリスを力強い腕で抱えた英二だったが、「あー……悪いな、限界だ」と呟いてそのまま地面に座り込んだ。あの家に駆けつけるまで森の中を相当走ったのだ。とっくの昔に足は限界に達してがくがくと震えていた。
「重てえな。……前に抱えた時は、もっと小さかったのに」
「……」
「情けねえよなァ、こうやって抱きかかえることだってろくにして来なかった。学校の参観日だって殆ど行けてねえし、飯はバラバラで食うことも多い。この前のキャンプだって仕事で潰れて、挙げ句の果てに父親にもなってやれねえ根性無しだった」
英二の視線がイリスの首元へ向かう。一応血は止まっているが横一線に刻まれた傷跡を見て彼はくしゃりと顔を歪めた。
「最低だ、それは分かってる。でも……それでも、後ほんの少しチャンスをくれんなら、俺をお前の父親にならせてくれねえか」
「……」
「嫌ならそれでいいんだ。だがお前がどう思おうとも、俺は絶対にお前を守るし、二度と悲しませないと、っ」
「バーーーーカ!!!」
刹那、英二は突如顎に与えられた衝撃で一瞬意識が飛びかけた。枯れた声で怒鳴ったイリスは英二に頭突きをお見舞いした後、ぐしゃぐしゃになるまで彼の服を掴んで引っ張り体を揺さぶった。
「バカ、ホントにバカ! 今更何なのよ! ずっと知らん顔して、親子だと思われたら絶対に否定して! どうせっ、コガネとかに強引に説得されたんでしょ! そうされなきゃずっと今までのままだったんでしょ!」
「……ああ、その通りだ」
「嫌い! エイジなんて大嫌い!」
イリスの目から再び絶え間なく涙が溢れる。
「お前が俺を恨むのは当然だ。分かってる」
「嫌いだもん……エイジなんて、」
泣きながらイリスは英二の体に手を回した。絶対に離れないようにきつく縋り付いて、涙を鼻水を押しつけて、嗚咽混じりに叫んだ。
「お父さんなんて、だいっきらい!」
□ □ □ □ □ □
「あ! イリスが来た!」
一週間後、あの事件以降ずっと学校を休んでいたイリスがようやく小学校に登校した。
教室に入るやいなやわっと彼女の元へクラスメイトが集まり、その首元に包帯が巻かれているのを見て心配そうな顔になる。
「みんな、おはよ」
「ちょっと怪我してるじゃん! 大丈夫なの!?」
「うん、もう大分良くなったから」
「もしかして、あの後ストラップ探してる時に何かあったの? 車に轢かれたとか?」
「……まあ色々あったけど大丈夫だよ」
イリスが苦笑を浮かべて言葉を濁す。英二とコガネに救出されたイリスはあの後すぐに病院に運び込まれて処置を受けた。怪我だけでなく呪詛を受けている可能性もあるので調査室の人間も借り出して検査を受け、そしてようやく一週間経って学校へ行けるようになったのだ。
喉を切り裂かれたもののそこまで深く無かったおかげで声は問題なく出せる。傷跡ももしかしたら残るかもしれないが、手術をすればある程度は綺麗にすることが出来るという。
本人よりも保護者二人の方が傷跡については気にしており、いくらでも出すから完全に綺麗にしてくれと医者に頭を下げていた。
「イリスちゃん、何か楽しそうだね」
「え? そう?」
その時の必死な二人を思い出して少し表情が緩んでしまったらしい。イリスは顔に触れながら口元を押さえてにやけそうになるのを堪えた。
あんなに分かりやすく大事にされているのを目の当たりにすれば、頬が緩んでしまうのは仕方が無い。
「……」
和気藹々とはしゃぐ女子達を遠目に見ていた一人のクラスメイト――岩田は、物言いたげにじっとイリスを窺っていた。とても話しかけられる雰囲気ではないし、今行けばクラス中の女子に総攻撃で非難されること請け合いだ。
彼女が一人になるのを待っていたが、そうこうしているうちにチャイムが鳴り、彼は何も言えないまま大人しく席に座っていることしかできなかった。
「朽葉!」
休み時間になる度にイリスの周りは人で溢れ、一向に話しかけられないまま放課後になってしまった。特に仲の良い三人と共に昇降口を出たイリスを追いかけて、岩田はもうこのタイミングしか無いと焦って彼女を呼び止めた。
その瞬間、一斉に振り返ったイリス以外の三人が親の仇でも見るかのように忌々しげなものになった。彼女を庇うように岩田の前に出た三人は、酷く冷たい目で「よく話しかけられたわね」と岩田を睨む。
「あんたの所為でイリスが怪我したっていうのに性懲りも無く何の用?」
「またブスとか言ったら本気で殴るから」
「……岩田君、いい加減にして」
「ち、っげえよ!! 俺はただ……」
一番大人しい少女にすら絶対零度の視線を向けられてたじろいだ岩田は、けれどもそこで引くことなく一歩イリスに近付いた。
更に警戒心を露わにする三人を気にしつつも、岩田はおどおどと視線を泳がせた後……時間を掛けてようやく頭を下げる。
「悪かった。その怪我、俺の所為なんだろ。その、まさか怪我して一週間も休むと思って無かったし、ちょっとやり過ぎたって思って」
「ちょっとやり過ぎたって何? 全然反省してないじゃん!」
「ちょっととかじゃなくてまず何も迷惑掛けるな!」
「それは……そうなんだけど、だ、だから悪かったって言ってるだろ!」
畳み掛けるように攻撃する女子に思わず岩田も声を張り上げる。それを聞いてまた逆ギレだと騒ぎ立てる彼女たちだったが、渦中の人間であるイリスが制するように前に出ると途端に全員が静まりかえった。
イリスはじっと岩田を観察するように見る。そして数秒の後「分かった」と冷静に一つ頷いた。
「許してあげる」
「イリスちゃん、いいの……?」
「確かに岩田がストラップを取らなかったら怪我しなかったかもしれないけど、別にあんたが直接怪我させた訳じゃないから」
ふん、と偉そうに腕を組んでそう言ったイリスは、窺うように自分を見ている岩田に近付くと「だけど」と釘を刺すように睨み付けた。
「もしまた同じようなことしたら……その時はたとえあんたが死んでも絶対に許さないから」
それだけ言ってイリスは唖然としている岩田を置いて歩き出す。慌てて彼女を追いかけた女子達は「あんなのでいいの?」とイリスの分まで怒りながら岩田を振り返った。
「いいのよ。これ以上突っかかって来られなければ」
「でも、大好きなお兄さんが作ってくれたものだったんでしょ?」
「べ、別にコガネのことは大好きって訳じゃ……。それにほら! これ見て!」
ごにょごにょと言葉濁しながら、イリスはすぐに話を逸らすように持っていた手提げ鞄を友人達の前に掲げて見せた。その取っ手に括り付けられたぬいぐるみを見てわあ、と三人の歓声が綺麗に揃う。
「何か増えてる!」
「ウサギも前と違ってウインクしてるし、クマとキツネもかわいー!」
「でしょ」
友人達の感想にイリスは満足げに頷いた。手提げ鞄に付けられているぬいぐるみはこの一週間でコガネが新たに作ってくれたものだ。前よりも表情豊かなウサギに、何処か間抜けな顔をしたクマ、そして鮮やかな黄金色のキツネの三つのぬいぐるみが仲良く寄り添っている。
「またお兄さんが作ってくれたの?」
「うん、前よりすごいでしょ?」
「いいなー。私も作ってもらいたいなー、ダメ?」
「ダメ」
「ダメなんだ」
「ダメ。……だって私のお兄ちゃんだもん」
仲が良い友人だとしても、コガネが作ったものは絶対に渡したくない。
イリスが頑なに首を横に振ると「ブラコンじゃん」と半笑いで呆れたような顔をされてしまった。
「イリス」
そんな話をしながら校門を出ようとした時、不意にイリスは誰かに呼び止められた。いや誰かなどと言わずとも聞けばすぐに分かる。大きく体を揺らした彼女が勢いよくそちらを振り返ると、やはりそこには予想通りの人物が居た。
停められた車に寄りかかっている英二、イリスの元へ歩いてくるコガネ、そして……その隣で柔らかく微笑んでイリスの名前を呼んだ、或真。
「な……んで、アルマが」
「ちょうど二人と仕事だったからついでに家まで送ってもらうことになったんだ」
目の前までやって来てイリスと目を合わせるように屈み込んだ或真。同時にイリスの背後から黄色い悲鳴が上がった。
「い、イリスちゃん、この人だれ!?」
「めっっっちゃイケメン、イケメンの塊」
「芸能人??」
「俺はイリスの……まあお友達ってところかな」
「だ、誰があんた何かと友達よ!」
「ん? そう言われるのは嫌だったか。ごめん」
「……っそうじゃなくて! っていうかなんでその格好なのよ!!」
クラスメイト達の反応からして当然だが今の或真は常識人スタイルである。仕事終わりだというのによりにもよってなんでそっちの格好で来たのかと問えば「学校の前に不審者がいると通報されたら困るだろう」と至極真っ当な返答が来た。
いつも思うがおかしいと自覚しているならもっとましな格好をすればいいのに。……と、思うものの普段からこんな姿ではイリスの心臓が持たないのでどっちもどっちだ。
「イリス、落ち着いて下さい」
「コガネ! こいつのことどうにかして!」
「はいはい分かりましたからお友達にご挨拶をして早く車に来て下さい。英二が待ちくたびれてますよ」
呆れた顔のコガネに促されて、イリスは慌てて「それじゃ、また明日!」と声を上げながら急いで車の方へ走り出した。その背後で「イリスと仲良くしてくれてありがとう」と言う或真の声と共に再び悲鳴が上がる。なんで或真までイリスの保護者面をするのか。
「エイジ、お待たせ」
「おお。じゃあ行くか」
遠目でイリス達を眺めていた英二に声を掛けて後部座席に腰掛ける。すぐに他の三人も車に乗り込み、英二の運転で車は発進した。
今日はこのまま以前約束した外食に向かう予定だ。楽しみだと思いつつもイリスが隣に座る或真をちらりと見上げると、すぐにその視線に気付いた或真と目が合った。
「イリス?」
「アルマは……一緒に食べないの?」
先程家まで送ってもらうと言っていた通り、車は或真の自宅の方へと向かっている。不思議そうな顔をしているイリスを見て、或真は小さく笑った後内緒話をするように身を屈めてイリスの方へ体を傾けた。
「英二さんから聞いてるよ。今日は家族水入らずの食事なんだろう? 邪魔はしないから大丈夫だ」
「……うん、また今度ね」
イリスは緩む顔を見られたくなくて顔を横に逸らして窓の外を見た。いつもならば「しょーがないからあんたも一緒に来なさいよ」と誘うものだが今日は特別だ。或真の言う通り、いくら彼だとしても邪魔されたくない。
あの事件で全てが変わった訳ではない。確かに英二とイリスは正式に養子縁組をしたが、相変わらずイリスは英二を名前で呼ぶことの方が圧倒的に多いし、そう簡単に今までと態度を変えることが出来ない場面も多い。
だがお互い、少しずつ変わろうと歩み寄っているのもまた事実だ。
「そういやイリス、学校でマドレーヌ作ったんだって?」
「な……なんで、知ってるの」
「速水さんから聞いて僕が英二に話しました。ちなみに僕は一つ頂きましたよ。美味しかったです」
「ちょっと!?」
不意に英二から落とされた爆弾にイリスは頭を抱えたくなった。英二に知られたく無かったから速水に渡したというのに台無しだ。コガネだけならまだしもどうして英二にも……と彼女が助手席の悪魔を責めるように睨むが、軽く振り返った彼はにこにこと微笑んでいるだけだった。
「速水とコガネばっかりずりーよなあ。まったく、俺の分も残しておけよって」
「は? え、でもエイジ」
「……まあなんだ、俺もいつまでも逃げてねえで少しは克服しようと思ってな。このままずっと甘いもん駄目だとおちおち誕生日ケーキもろくに食えねえし」
元々は千理レベルの甘党だったのだ。体が拒否反応さえ起こさなければ本来は進んで食べたいものである。
英二がミラー越しに戸惑った顔をしているイリスを一瞥する。
「そのうち前みてえに平気になって来たら、その時は俺にもマドレーヌ作ってくれねーか?」
「……しょうがないから作ってあげないこともない」
「お、そりゃありがてえな。楽しみにしてるぞ」
「マドレーヌだって、ケーキだって、チョコレートだって……お、お父さんの食べたいものなんでも作ってあげるから!」
そう言うだけ言って恥ずかしくなってランドセルに顔を埋めたイリス。それを見て思わず或真とコガネは破顔して、そして英二は密かに目元を拭った。
「イリスは本当にいい子だな」
「とっ当然でしょ!」
「ああ、当然だな。何しろ……兄貴達と俺の自慢の娘だからな」




