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霊研の探偵さま  作者: とど
二章
34/74

16-2 助けて、


「イリス! 何処行った!?」


 一般人には聞こえない大声を上げながら、ミケとコロは必死に自らの主の姿を探していた。

 大事なストラップをカラスに奪われてイリスと共に捜索していた二匹だったが、彼らがほんの少し目を離した隙を突くように忽然とイリスは姿を消してしまったのだ。イリスが彼らに無断で勝手に居なくなるとは思えないし、そもそもそんなことをしようものなら先に気付く。だからこそ、一瞬で居なくなったのは彼女の意思ではないのは確かだった。


「俺はもう一度この周辺を捜索する! コロはすぐに霊研に行ってやつらにイリスのことを伝えろ!」

「分かった!」


 イリスが何者かに攫われた。自分達だけではどうにもならないと察したミケはすぐに指示を出し、そして諦めきれずに再び走り出した。




    □ □ □  □ □ □




「英二、仕事の方はどうですか?」

「もー終わる。後は速水が来るからそれを待つだけだな」


 苦手な報告書を疲れた顔をしながら作成していた英二が顔を上げる。同時に机にコーヒーが置かれ、彼はそれを手に取りながら椅子の背もたれに体重を掛けた。


「……イリス、ちょっと遅いですね」

「そういやそうだな。まあ何かあったら連絡来るだろ」


 時計を見ればもう六時を過ぎていた。いつも学校帰りに霊研へ寄る時はもう少し早いが、友達とおしゃべりでもして遅くなっているのかもしれない。

 どちらにしろ速水が来なければ仕事が終わらないので夕食には行けない。パソコンをシャッドダウンした英二は大きく伸びをすると、残っていたコーヒーを一気に煽って立ち上がった。


「速水さんは何の用ですか?」

「あれだよ、例の銃弾の試作品が出来たって」

「取りに来させないのは珍しいですね」

「近くに来る用事があるからついでに寄ってくっつってた」

「成程」


 コガネは一つ頷くとコーヒーカップをキッチンに置きに行く英二の後ろ姿を一瞥した。今日の霊研は二人以外誰も居ない。櫟は何処かへ出張だと言っていて、鈴子も警視庁の方でまた遺留品を“見て”いるだろう。残りの学生組は特に依頼が無かった為休みになっている。


「……英二、少しいいですか」

「何だ?」


 他に誰も居ない。だからこそ、切り出すならば今だと思った。

 キッチンから戻って来て自分の言葉を待つ英二に向き合って、コガネは一度緊張を落ち着かせる為に息を吐き顔を上げた。


「イリスのこと、いい加減にして下さい」

「……」

「あなただって嫌というほど分かっているでしょう。あの子が何を望んでいるのか、分かっていていつまで無視するつもりですか」


 じっと、表情の変化を見逃さないように英二を注視する。彼はそんなコガネの視線から逃れるように俯いて、くしゃりと前髪を掴む。


「……」

「だんまりですか。そうやって逃げ続けて、それで一体どうなるんですか」

「今日は、随分と手厳しいな」

「この前警視庁にイリスを迎えに行った時、あの子は泣き疲れて寝ていました。あの事件は自分の所為だと、そう言っていたと速水さんから聞いています」

「……違う」

「ええ、違います。けれど英二がいつまでもそんな態度だからあの子はそう思い続ける。僕はもうイリスが悲しむ顔を見たくありません。いい加減、腹を括って下さい」


「その通りだ」


 その時、二人しか居ないはずの空間に別の声が割り込んできた。はっと振り向いた二人の視線の先には、真剣な顔をした速水が霊研の扉を開けたまま立っている。


「速水」

「勝手に盗み聞きして悪いな。だが俺もコガネに同意見だ。朽葉、お前の態度はもう見ていられない。どうしてイリスを受け入れてやらない? 今までと同じ生活で、そこに父親って肩書きが加わるだけだ。どうしてそれができない」

「……できないものは、できない」


 つかつかと英二に歩み寄ってきた速水が険しい表情で英二を睨んだ。しかし英二はそれでも頑なに首を縦に振らず、酷く重たい息と共に否定の言葉を吐き出した。


「英二があの二人の死に責任を感じているのは知っています。しかしそう思うのならば尚更残されたイリスを大事にするべきではないのですか」

「ああ、その通りだ」

「ならばイリスが来たら言って下さい。今までのことを謝って、ちゃんと父親として接してあげて下さい」

「……」

「また黙るんですか……」


 コガネは徐々に苛立って強く拳を握りしめた。自分がイリスの兄になったって英二が父親にならなければ彼女の憂いはずっと晴れないというのに、何故そこまでして拒むのか。

 すると今度は速水がコガネに代わって口を開いた。


「お前の気持ちは分からないでもない。両親を助けられなかった自分がイリスの親になる資格なんてないと思っているんだろう。……俺だって、似たようなことは考えたよ。あいつの……悠乃ゆの達の両親は逃走中の悪魔に殺された。俺が間に合っていればと考えなかった訳じゃない」


 速水の娘同然の子供は警察が取り逃がした悪魔によって両親を殺された。自分達の失態で親を奪われた子供を引き取るのに罪悪感は確かにあった。


「俺は実際に養子縁組をした訳じゃないしあいつも俺を親のように思っているかは知らない。だが俺にとってあいつはもう自分の子供だ。自然とそう思うようになった」

「……速水、俺とお前は違う」

「違わない。お前だって心の中ではイリスのことを既に本当の娘だと思っているはず――」

「だから、違うんだよ!」


 ダン、と机が凹みそうな勢いで英二が拳を叩き付ける。一瞬にして静まりかえる室内で、英二は苦しげに顔を歪めながら声を絞り出した。


「お前と俺は、全く違う」

「じゃあ何が違うって言うんだ」

「……あの事件」


 千理のような記憶力が無くたってはっきりと鮮明に思い出せる。あの血の海を、口以外が真っ黒な怨霊を、自分の無念を、そして。


「誰の所為だったと思う」

「それは勿論、あの怨霊が」

「イリスだ」


 コガネが、速水が、一瞬唖然とした顔で英二を見返した。


「あれはイリスの所為だ。あいつの霊を引き寄せる体質がなければ兄貴も姉さんも今頃平和に暮らしていた」

「……英二、何を」

「少なくともあの時、俺は1ミリも、1%もそうやってイリスのことを恨まなかったと断言出来ない。いや、はっきり言う。心の何処かではそう思うことだってあった」

「朽葉、お前それは」

「最低だと思うか? こんな逆恨み野郎が親になるのか? ……無理だろ。それにもし今後また同じようなことが起こった時、俺はイリスを責めない自信がない」

「……」

「そうなってからじゃ遅い。親になってから裏切られるよりも……ただの叔父のままの方が幾分かましなはずだ。親が欲しいって言うんなら他のやつになってもらった方がいい。速水、いっそお前に預けた方があいつも幸せにな」

「っいい加減にして下さい!!」


 自嘲するように笑っていた英二の横っ面にコガネの拳が飛んだ。だがやったのはコガネだ。当然強い力で殴れるはずもなく、まだ幼児が癇癪を起こして叩いて来る方がましだという程の力の無さであった。

 あまりにも弱々しい殴り方で逆にぽかんと思考を止めてしまった英二に、コガネはそのまま詰め寄って胸ぐらを掴んだ。

 感情のまま怒鳴ろうとして――だがしかし彼は一度冷静になって開いた口を閉じた。


「そうですか、あなたの気持ちはよく分かりました。今までもこれからもそうやってずっとイリスを苦しませ続ける。……それが、あなたの復讐ですか」

「!」

「ならば僕が言えることはもうありません。兄夫婦の仇としてイリスを心底憎んで一生苦しめと思っている人間に親になれとは言えませんから」

「ちが、コガネ、そういうことじゃ」

「違う? 何が違うんでしょうか」

「……確かに、そう思ったことだってあった。だが復讐したい訳でも、今だってイリスを恨んでいる訳じゃない」

「だがあなたがやっていることはそういうことだ」

「……」

「一時の感情を理由にその先の全てを台無しにして、何を満足しているんですか」


 反論出来なくなった英二の胸ぐらを掴んだまま、コガネは徐々に感情を乱して声を震わせる。


「100%愛せなければ家族になれないんですか。少しでも憎いと感じたら傍にいるべきではないんですか。だったら英二、僕はあなたの相棒にはなれない。イリスを苦しませる英二のことを僕は恨みがましく思っていますから」

「コガネ」

「大事なのは今英二がイリスをどう思っているかでしょう! 五歳のイリスよりも十歳のイリスを見て下さい。もうあの子を恨んでいないのなら、するべきことは分かっているはずです」

「だが、もしこの先――」

「うるせえな黙ってろ! あるかも分からない未来のことより、そんな不確かな妄想より現実を見ろ! イリスが泣いてるんだよ!」


 酷く声を荒げたコガネに英二が反応できずに動きを止める。そんな二人を黙って静観していた速水は「少しいいか」と掴み掛かっているコガネの手を下ろさせた。


「朽葉、お前はこの先のことを懸念していると言った。同じような事件が起きて、その時にまたイリスを恨んでしまうかもしれないと」

「……ああ」

「全く馬鹿馬鹿しい。もしそんなことを思ったところで……その恨みをイリスにぶつけようとした時、周りが黙っていると思うのか。俺も深瀬も、当然霊研の連中も、そん時はお前をしっかり取り押さえてから冷静になれって言ってやるよ」

「!」

「その通りです。あなたは自己解決しようとし過ぎて周りが全く見えていない。イリスに何か言う前に僕が立ちはだかって恨み言も全部聞いてやりますよ、だから恨みたければ好きにして下さい」

「それに」


 速水が徐に鞄を開けて中から透明の袋を取り出す。それを英二に放り投げてから、彼は優しい表情で笑った。


「もう二度とそんなことが起きないように、これを作ったんだろうが」

「!」


 渡された対霊用銃弾の試作品を見て、英二は大きく目を見開いた。まじまじとそれを見つめて、そして強く握り込む。

 その時には、もう今までのような動揺は微塵も見えなかった。


「ああ……ああ。そうだったな」

「これを開発してもう二度とあんなことにならないようにイリスを守る。そう思えた時点でもうとっくに答えは出てたんだよ」


 「次なんて無い。そうだろう?」と言った速水に英二は強く頷いて……それを見たコガネが途端に肩の力を抜いて見せつけるように長く息を吐いた。


「はーー、苦節五年。やっと、やっとここまで来た」

「……悪かったな」

「本当にそうです、深く反省して下さい。特にイリスには土下座するくらいの誠意を持って今までのことを謝罪して下さいよ」

「はいはい、分かった分か」


「――キャン!!」

「うおっ!?」


 室内の空気がようやく緩み掛けていたその時、突如英二の視界が半透明の柴犬に占領された。ドアップどころか若干顔に突き抜けているそれに、彼は驚きながら後ろに下がって距離を取る。


「お前コロじゃねえか。ひとりでどうした、イリスは?」

「キャンキャン!」


 いきなり霊研に飛び込んできたコロはひたすら吠え続ける。仲間だと思っている愁を除いて、イリスの動物霊達は基本的に彼女以外に懐いていない。だからイリスが居ない時にわざわざ霊研を訪れることも基本的には無いのだが……。


「イリスに何かあったのか」

「キャン!!」


 英二に動物の言葉は分からない。逆にコロにも英二の言葉は通じない。だがこの瞬間だけはお互いに何を考えているのかはっきりと伝わってきた。


「英二!」

「ああ、おい犬っころ! 案内しろ!」

「アン!」

「速水済まねえ、後は頼んだ!」


 そう言うや否や英二とコガネは一目散に霊研を飛び出した。すぐに彼らの意図を察したコロが、彼らが車に乗っている間に追い越し先導するように道の真ん中で待機している。


「イリス……!」


 手の中の銃弾を確かめながら、英二は勢いよくアクセルを踏んだ。




    □ □ □  □ □ □




「何で、出られないの……?」


 夕日に照らされた森の中、イリスは一人ひたすら森の外に出ようと歩いていた。先程から随分と進んでいるはずなのに一向に木々は無くならず同じような景色ばかりが続いているのだ。

 気が付けばミケとコロとはぐれてしまいひとりぼっち。目当てのぬいぐるみは見つかったものの、何故か見覚えのある風景はちっとも見当たらない。

 イリスは両手でウサギのぬいぐるみをぎゅっと握りしめて心底困りながら辺りを見回した。


「早くしないとコガネ達が待ちくたびれて……え?」


 思わずそう呟き掛けたところでイリスは言葉を止めた。辺りを見回せば今にも日が落ちてしまいそうな夕暮れ。赤色に支配されたその光景はさっきからずっと続いている。

 ずっとだ。何故か、いつまで経っても日は落ちずに暗くなることはなかった。イリスはスマホで時間を確認しようとした。が、充電もしっかりしてあったはずのスマホは電源が落ちており起動させようとしても全く反応がなかった。これでは連絡もできやしない。


「どうしよう」


 呟いても答えてくれる声はない。先程まで一緒に捜し物をしてくれた動物達も、いつも優しいコガネも、そして勿論――英二も。


 じわりと目元を滲ませながらも、イリスは乱暴にそれを拭って歩みを止めなかった。誰にも頼れないのなら自分で何とかするしかない。


「大丈夫……ふふ、この、イリス様に掛かれば、こんな迷宮など僕達の力を使うまでもない。私一人で容易く攻略して進ぜよう……なんだから」


 自分を鼓舞するように想い人の姿を想像して、イリスはちょっとだけ元気になった。そんな時、まるで彼女の気力に応えるように目の前の景色の中に変化が起こった。

 いつの間にか、少し離れた先の木々の合間に小さな建物が見えた。一階建てで赤い屋根のまるでおとぎ話に出て来そうな煙突の付いた可愛らしい家である。


 しかしその可愛らしさも、こんな謎めいた場所にあれば不気味にしか映らない。徐々にその家に近付きながら、イリスは必死に思考を巡らせる。

 この家に入ってみるべきだろうか。いやどう考えても罠にしか見えない。だがこれを逃したら永遠に同じ景色を彷徨うことになるかもしれない。

 どうする、そうだ千理だったらどう考える。頭の良い後輩を想像してみてもしかし彼女の思考の幅が広がる訳ではなく、結局は二択のどちらかを選ぶしかない。


「……」


 とうとう家の前までやって来てイリスの足は止まった。入るか、止めるか。究極の二択を迫られたイリスは、たっぷりと五分ほど――感覚でしかないのでもっとかもしれない――悩んだのち、考えすぎて頭をオーバーヒートさせた。


「っええい、虎穴に入らずんば虎児を得ず!!」


 国語は苦手だが動物関係の諺だけ妙に覚えているイリスはそう叫びながら勢いよく目の前のドアノブを捻る。呆気なく開いた扉の先には外観と同じく可愛らしい室内が目に入って来た。

 テレビ等電化製品が一切見受けられない部屋の中。切り株のようなテーブルと椅子、天蓋付きのベッド、レンガが積まれた竈、そしてその傍で背を向けて何かをしている黒いローブの誰か。

 イリスはごくりと唾を飲み込んで恐る恐る足を踏み出した。


「あ、あの」

「……ようやく来たか。待ちくたびれたわ」

「え? ――っ!?」


 しゃがれた老婆の声と共にその人物が振り返る。フードを被ったその人物の顔を見た瞬間、イリスは思わず悲鳴を上げそうになった。

 何せその人物は、顔の大半が骨――白骨化していたのだから。


「もう散々待たされた所為でぺこぺこだよ」


 カタカタと顎の骨が動く。それに合わせてかろうじて貼り付いていた皮膚の端ががびろびろ揺れる。眼球のない窪んだ眼窩がイリスを見て弓なりに形を変え、腐った肉と骨が見える足を動かして彼女に近付いて来た。

 イリスは咄嗟に逃げようと踵を返したが、それよりも早く迫ってきたそれによって腕を掴まれた。

 そして手に持っていたウサギのストラップが骨の指に攫われる。これにはコガネの力が込められているはずなのに腐りかけの老婆はそんなものを気にした様子もなく掴んでいる。つまり、そこいらの浮遊霊とは訳が違う。


「返して!」

「ずっと機会を窺っていたがようやくおびき寄せる事が出来たわ。もっと早くこれを奪えばよかった」

「!」


 ストラップが竈の中に放り込まれる。イリスは反射的にそれを追いかけようとしたが、枯れ木ように細い腕なのに異様に強い力で掴まれた手が振り解けず、ずりずりと部屋の端まで引き摺られて行ってしまう。

 イリスが竈を振り返るがもはやストラップの姿など影も形も見えず、じわじわと絶望が広がって行くのが嫌でも分かった。


「竈に入れるのは最後だ。その前にきちんと下処理をしなくてはね」

「い、いや」


 連れて行かれたのは先程、この崩れかけの老婆が居た場所。まな板と肉切り包丁が置かれた大きな作業台だった。他の室内同様に可愛らしく作られているというのに、その作業台の上だけは赤黒く変色しているのが見えた。

 これは駄目だ。恐ろしい想像がいくつも過ぎって必死に逃げようとするのに体はがたがたと震えたままろくに動かない。


「やめて! 帰して!」

「久方ぶりに見つけた美味そうな人間……もうこちとら腹が減りすぎて死にそうなんだよ。……ああ、ほら。また皮膚が落ちた。早く食べないと死んでしまう。さっさと調理しなくてはね」


 イリスが乱暴に持ち上げられて作業台に乗せられる。仰向けに寝かされた背中はねちゃりと気持ちの悪い音を立てて、粘ついた何かが彼女の服や髪を汚す。抵抗している間にも老婆の顔から剥がれた皮膚が落ちてきて、イリスは恐怖に耐えきれずに悲鳴を上げた。


「いやああ!! やだ、誰か!!」

「ああ煩い子だねえ。先に喉を潰した方が良さそうだ」

「! あっ、」


 その瞬間、ぴしゃりと水が跳ねるような音をイリスは何処か他人事のように耳にした。どくどくと脈打つ喉から何かが溢れ、それが首元から作業台に落ちる。

 それが分かった瞬間イリスの喉に激痛が訪れた。


「あ、あああ、あっ!」

「さっきよりかは静かか。それにしても……」


 焼けるような熱と痛みに暴れてもすぐに押さえ込まれる。老婆は一度包丁を置くと、その右手の指でイリスの喉を抉るように触れた。そしてそこから滴る血を口に運び、酷く満足そうに頷く。


「美味い。ただの素材でこれだけ美味となると調理したらどれほどになることか、楽しみ楽しみ」


 にんまりと笑った老婆が再び肉切り包丁を手に取る。イリスはそれを視界の端で捉えながら、痛みと恐怖でもはや抵抗すら出来ずにぼんやりと老婆を見上げた。

 助けてと声も出せなくなった。いや、出せたところで助けてくれる人など誰も居ない。此処は謎の場所で何処にも連絡できず、イリスを見つけられる人間など居ないのだから。


(これは、罰だ)


 あの時、五年前に自分が生き残った罰だ。イリスが引き寄せてしまった怨霊だったのに、実際に死んだのは両親だった。英二は足に後遺症を残して、甘い物だって吐くようになった。

 両親は目の前で怨霊に食われた。それが今回、とうとう自分に返ってきただけだ。だからもう受け入れなければならない。自分だけ都合良く逃げることなど、今度こそ許されないのだろう。


 だけど怖い。自分は死ぬべきだ。嫌だ死にたくない。パパとママの元へ行ける、喜ぶべきだ。やだやだやだ食べられたくない! 死にたくない誰か助けて!!


「たす、」


 ひゅうひゅうと呼吸をしながらかろうじて漏れた声は殆ど音にならなかった。ぼろぼろと大粒の涙を零して、イリスは心の中で叫び続ける。

 だけど何処か冷静な頭が「諦めろ」と耳元で囁いてくる。助けなど来ない。無駄な抵抗だ。罪深いイリスは此処で死ぬべきだ。英二はむしろ、イリスが死ねば喜ぶかもしれない。

 分かっている。分かっていても、それでも諦められない。


「たす、け……たすけ、て……」

「さて、さっさとバラして味付けをしようか」

「たすけて」


 老婆がイリスの肩を押さえて包丁を振り上げる。彼女の腕を切断しようと振り下ろされるそれを見て、イリスは喉の痛みなど忘れて叫んだ。


「たすけて――助けて、お父さん!!」




「ああ」


 イリスの目の前でフードごと老婆の頭が吹き飛んだのはその瞬間だった。それに続いて重たい包丁が床に落ち、強い力で押さえつけられていた肩がふっと自由になる。

 彼女は頭を持ち上げて老婆の背後を見た。涙でろくに見えなくなっている視界の中でも、あまりにも見慣れたその二人の姿だけは一瞬で理解できる。


「エイ、ジ……コガネ」

「イリス、待たせて悪かった。……本当に、長い間待たせちまったな」


 片手に拳銃を持ち老婆に狙いを定めたままの英二が、血塗れのイリスを見て酷く顔を歪める。


「何故じゃ……何故この場所まで辿り着いた」

「自分の力も追えないような無能ではありませんよ。そもそもあのストラップは、こういう時の為の物でもあったんですから」


 いつの間にか吹き飛んだはずの老婆の頭が元に戻っている。そこから骨をカタカタ言わせて喋る老婆に向かって、コガネは酷く冷たい声で言葉を返した。竈で燃やされようが彼の力は変わらずそこにある。イリスを探させたくなかったのであればストラップを囮に引き寄せるのは逆効果でしかなかった。


「英二、もう復活しています。やはりいつもの銃弾の方では不意を突く程度の効果しか無かったようです」

「ああ、試し打ちにはもって来いの相手って訳だ」


 英二は持っていた拳銃をしまうと、もう一つ別の拳銃を取り出した。


「イリス、虫のいい話だって、今更何言ってんだって言いてえのは分かる。だが、それでも」


 試作品の銃弾が入った拳銃を老婆に向け、英二は射殺すような目でそれを睨んだ。




「――俺の娘を返してもらう」


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