14 アマミヤ
八月下旬の天気の良い朝、午前五時きっかりに桑原愁はぱちりと目を覚ました。
彼の起床時間は体がある時から変わらない。体も無いのに魂に染みついているのか、嫌でもその時間に起きてしまう。いつもならばこのまま刀を使う練習に入るのだが――未だに治りきっていない足を見て愁はそれを諦めた。
先日ヤクザの事務所に潜入した際に不可抗力で切り落とした足首は、徐々に治って来てはいるものの未だに完治はしていない。櫟曰くポルターガイスト等力を使うと余計に治りが遅くなるというので愁は此処数日非常に大人しく過ごしていた。
今日も霊研に行くことはないが、他に用がある。愁は時間が過ぎるのをただじっと待って――しかし途中で待ちきれなくなって外を徘徊しながら約束の時刻になるまでそれなりに大人しくしていた。
「愁、おはよう」
「おはよう」
そして今か今かとその時を待っていた愁はようやく家から出て来た千理を見て待ちくたびれたと息を吐いた。体を無くしてからというもの、妙に時間が経つのが遅く感じる時がある。
「じゃあ行こっか」
今日の千理は涼しそうなワンピース姿で最近はあまり見ていなかった格好だ。霊研のバイトの時はもう少しフォーマルな格好をしており、こうして普通に遊びに行くのもこの前のキャンプ以来である。
……そのキャンプ自体は遊ぶ所ではなく散々だったのだが。
そういう訳で、ではないのだが今日は千理の友人と更にその友人達でバーベキューの予定だ。千理はご機嫌で鼻歌を歌いながら「見て見て」と子供のように嬉しそうな顔で鞄の中から大きめのチューブ容器を取り出した。
「今日はね、この前のリベンジってことでちゃんと自分でチョコソース保冷剤で固めて持ってきたんだ。これで色んな食材に掛け放題だよ!」
「ああ、楽しみだな」
「……何か、ごめんね。私だけ楽しんで」
「何を気にする必要がある? お前が楽しむことは俺にとっても良いことだ」
愁は食べられないのに自分一人で盛り上がって、と少し申し訳なさそうにする千理を見て愁は不思議そうに首を傾げる。確かにバーベキューは魅力的だが、愁にとっては千理が嬉しそうにチョコに狂っているのを見る方が好きだ。
「でも目の前でお預けくらってるのも嫌でしょ。別に仕事に行く訳じゃないしついて来なくても良かったんだよ?」
「いや、今日は絶対についていく」
「何で?」
「……色々あるんだ」
「??」
珍しく言葉を濁した愁に千理が不可解そうな表情を浮かべる。きっと今頃彼女の脳内では様々な仮定が定義されているのだろうと思いながらも、愁はきっと今回ばかりは正解を導き出せないだろうなと考えた。千理も以前言っていたが、前提条件が分からないのに正しい答えなど出るはずもない。
愁は頭の中で、今回千理を誘った女子生徒二人を思い浮かべる。そしてその時こそこそと話されていた会話の内容を。
あの二人は今回のバーベキューで千理を他校の人間と引き合わせることを目的としている。そして恐らく、愁が死んで傷心の千理にあわよくば彼氏を作らせようとしているらしい。
(そんなの駄目だ)
別に友人だったらいくらでも作ってくれて構わない。だがまだ愁が死んでいないのに関わらず彼氏を作るのは絶対に阻止したい。実際に愁は千理の彼氏でもなんでもないが、とにかく駄目だ。
彼女たちは愁のことを、千理が幸せになるのなら彼氏を作っても喜ぶと言っていたが……生憎そこまで心が広い人間ではない。
「愁? 今日なんか静かだね」
「気のせいだ」
いや、もし仮に本当に死んでしまったとしたらどうだろうか。最早自分が彼女の隣に立つことは永遠にあり得ないとなってしまったらそういう考えになる日も来るかもしれない。……だがそれを目の前で見せられるのは流石に耐えられない。櫟に言って死んだら即座に成仏させてもらうか……いやだがそれだと自分の死後千理を守れなくなる。
「どうするべきか……」
「ホントに何悩んでるの?」
「究極の二択に悩まされている」
「体が戻ったら最初に食べるのは米にするかパンにするかとか?」
「それは肉だ」
どれだけしょうもないことで悩んでいると思われているのかと、愁は若干半眼になって千理を見た。彼女は自分のことを何だと思っているのか。いくら普段から悩みもなくのびのび生きているとしても、千理のことにならば人一倍頭を悩ませるというのに。
「まあいいや。とにかく楽しみだなー、今日は怪物とか出ませんように!」
「中々無い祈りだな。……ところで千理、今日は結構大人数なんだよな」
「うん、三、四十人って言ってた。色んな高校の人が来るんだって」
「その中にもしお前の好みのやつが居たらどうする」
「は?」
千理はその質問に意味が分からないとばかりに訝しげな顔になった。が、すぐに気を取り直すと平然とした口調で「いつも通りにするだけだけど」と答える。
「いつも通り?」
「うん、いつも通り普通にしゃべる」
「それはどういう……」
「だから普通にしゃべるだけ。ほら、早く行かないと遅れるから」
千理が少し早足になってさっさと進んで行くのを、愁は難しそうな顔をしながら追いかける。
「……初めて会う人間に、いつも通り?」
矛盾した言葉の意味を理解しようとしたが、愁にはどうにも分からないままだった。
□ □ □ □ □ □
「ちょっと人数多いし自己紹介は省いてそれぞれでお願いね! それじゃあカンパーイ!」
幹事の合図に合わせて紙コップを軽く合わせて乾杯すると、各々好きなように食材に手を伸ばし始めた。
近場をキャンプ場の一角で行われたそれは、本当に多くの人間が――ざっと数えて四十五人もの人数の集まりになっている。元々は部活の繋がりだったらしいが、千理のように無関係の人間をそれぞれが呼んだことでもはや何の集まりか分からなくなって来ている。
楽しそうにしゃべったり食べたりしている人間も多いが、端の方でのそのそと一人食べるのに集中している人もいれば、周りの雰囲気に付いていけずおろおろとしている子もいる。愁はそれらを観察しながら、いそいそと肉を焼く千理を背後から見守っていた。
「ねえ千理、何か良さそうな人居た?」
しかし愁が暢気に見守っている間にも澪が余計な質問をし始める。
「千理は今食べているからちょっとそっとしてくれ」
「良さそうと言われても。あ、肉焼けた」
「もー、食べてばっかないでもっと出会いを大切にしてよ」
「間に合っている、大丈夫だ」
「しょうがないから私が知る限りのオススメ教えてあげる。まずはあの背の高い人、K校の剣道部主将の川島君。そんであっちの体格が良いのは進藤君、あんまりおしゃべりじゃないけど優しい。それであの今タマネギ食べてる人は伊藤君で、こっちも剣道部のエース!」
「そういえば元々剣道部のあつまりだっけ」
「俺だって剣術は得意で――」
その瞬間、ぎろりと千理が愁を強く睨み付けた。分かりやすく『うるさいからちょっと黙ってて』と目で訴えて来る千理に、流石に愁も自重して口を閉じる。少しばかり妨害しようとしたがやりすぎたらしい。
『悪かった』と素直に謝ると、千理は一人小さく頷いてから持参してきたマシュマロを取り出した。
「マシュマロ焼こ」
「もう!?」
「早い早い早い。普通色々主食食べてからでしょ!?」
「マシュマロは主食でもあるから」
「マシュマロが主食って新人類??」
真奈美と澪が思わず突っ込みを入れるが千理は構わずマシュマロを焼き始める。「桑原君も注意するでしょこれは」と澪がぼそりと呟くが、実際のところ愁は特に千理を咎めるつもりはなかった。普段からいつもこうならともかく特別な場なら好きな物を食べるべきだと思う。特に今回は前回のリベンジなので尚更だ。
溶け出すマシュマロを見て嬉しそうな顔をする千理に、愁は思わず少し表情を柔らかくした。
「あの、少しいいかな」
「ん?」
が、その表情が一瞬にして真顔になる。愁は人混みの中まっすぐにこちらにやって来て声を掛けた人間を無遠慮にじっくりと観察し始めた。彼からしてみたら大分背の低い、丸眼鏡を掛けた細身の男。何故か目を泳がせて落ち着きのない様子を見せる彼は、澪や真奈美には見向きもせずにマシュマロに夢中の千理に話しかけた。
「何ですか?」
「いや、少し君に話したいことがあって……」
そう言って男はちらちらと千理の友人達を窺う。するとすぐに彼女達は心得たとばかりに顔を見合わせて頷き合うと、「ちょっと他の人と喋ってくるね」とにんまり笑いながら千理から離れていった。
なんだその笑い方は。人混みの中とはいえ千理を男と二人にしないでくれ。
愁の願いも虚しく、千理は一つ目のマシュマロを咀嚼すると改まって男と向き直った。
「いきなり話しかけてごめん。俺はF校の高里だ」
「S校の伊野神です。それで、話したいことっていうのは何ですか?」
「いや、その……」
男はおどおどとした態度で何かを言い淀んでいる。「告白か? 告白なのか?」と愁が無意識のうちに視線を鋭くしていると、やがて高里と名乗った男は決心を固めたように真剣な表情でしっかりと千理を見つめた。
「伊野神さん、君――幽霊に取り憑かれてるよ」
「…………は?」
「初対面で突然こんなことを言っても信じてもらえないかもしれないけど、さっきから君の背後にずっと幽霊が付き纏っているんだ。同い年ぐらいの男なんだけど……お祓いとか行った方がいいと思って」
ぽかん、と千理も愁も同じ表情になった。しかしその間にも高里は至極真面目な顔で「手遅れにならないうちに急いだ方がいい」と千理の肩に手を置いて必死に訴えている。
千理は困ったように愁にちらりと視線を向けた。愁はそれを受けて頷くと、早速動き始め……妙に近く感じる千理と高里の間に体をねじ込ませて至近距離で男と顔を合わせた。
「離れろ」
「ぎゃっ、」
突如ぬっと目の前に現れた件の霊に高里が短い悲鳴を上げて大きく仰け反った。
「お前俺が見えているのか」
「ひ……」
「いやそんなことはどうでもいい。あまり他の人に聞かれたくない話だったことは理解したが、わざわざ肩に手を置くような距離で話すようなことか?」
「愁、本題が全然違う」
千理が呆れた表情を浮かべる。いや愁にとっては十分本題なのだがと思っていると、暫し唖然と愁を凝視していた高里がようやく我に返り信じられないものを見る目で千理と愁を交互に見つめた。
「え……」
「あ、すみません。せっかく気に掛けてくれたんですけど大丈夫です。愁はまだ生きているので」
「いき、は?」
「だから俺はまだ死んでいない。ちょっと色々あって幽体離脱しているだけだ。だからお祓いも除霊も必要ないし、そもそもそういう人材は間に合っている」
完全に混乱して目を白黒させている高里に千理が苦笑する。確かに愁のことが見えるのなら取り憑かれていると勘違いしても仕方が無いのかもしれないと。
「えっと……つまり、君のこの霊のことが見えてて放置して……でも幽体離脱って、それ大丈夫なのか? ちゃんと元に戻れたりとか」
「体が無いから戻るに戻れないだけだ」
「……それってやっぱり死んでるんじゃ」
「いやいやいや、とにかく大丈夫なので! 心配してくれてありがとうございます!」
このままだと余計に話がこじれてしまいそうだと思い千理が割り込む。余計なことは言わなくていい、と千理が愁を見るが、彼は不思議そうに首を傾げただけだった。ただ事実を言っているだけなのに何が問題なのかと。
「本当に、大丈夫?」
「ぜんっぜん平気です! 気にしないで下さい! あ、そういえば高里君ってF校って言ってたよね! すごくレベルの高いところじゃない? すごいね!」
「……え、あ、ありがとう」
「話の逸らし方適当過ぎないか?」
「愁は黙ってて! ……えっと、高里君。私も一つ聞きたいことがあるんだけどいいかな」
「?」
「高里君って……同じ学校の天宮君のこと、知ってる?」
アマミヤ?
そう聞いて愁の脳内に真っ先に思い浮かんだのは、当然千理が心底愛するチョコレートのブランド名である。しかし今千理が言っているのはチョコではなく人だ。
誰のことだと分からない愁とは真逆に、高里はすぐに「ああ!」とぽんと手を叩いて大きく頷いた。
「天宮なら知ってるよ。あいつは有名だからね」
「! そっかー……」
「千理、その天宮っていうのはどんなやつだ?」
「前にも言ったことあるでしょ。いっつも全国模試で満点を取ってる本当にすごい人だよ」
ああそういえば、そんなことを話された記憶があった。確かあの日は……その話をしてすぐに車に轢かれたのでなんとなく覚えていた。
「天宮ってホントにすごいっていうか次元が違うよな。俺も結構勉強には自信があったんだけどホントに比較にならない。……そういえば伊野神さんってもしかしていつも模試一桁常連の伊野神さんなのか?」
「そうだ。こいつだってすごいんだぞ」
「だから天宮君と比べたら全然違うって。天と地ほどの差があるよ。いっつも満点ってことはそれ以上測れないだけでもっとすごいってことなんだから!」
「……」
千理がにこにこと嬉しそうな表情で天宮という男について語っている。千理がここまで褒める天宮という人物は一体何者なのか。いやそもそも……。
「伊野神さんって天宮と知り合いなのか?」
その時、ちょうど愁が聞きたかった質問を高里が口にした。
「え!? あ、いやそういうのじゃないんだけどね」
「じゃあなんでそんなにそいつを気にするんだ」
「それはあれだよ! ほら、私の大好きなAmamiyaのチョコレート。あのお店の経営してるの天宮君なんだから!」
「そうだったのか」
「そう!」
「へえ、あいつそんなこともしてるのか。家もめちゃくちゃ金持ちだし、本当に天から二物も三物も与えられたような男だな」
「高里君……一つ言わせてもらうけど、天宮君は才能を与えられたんじゃなくて本人がとんでもなく努力家なの。そこ間違えないで」
「え……はい」
真顔で指摘する千理に高里が若干引いたような表情になる。……小学四年生からずっと千理と一緒にいる愁でさえ、珍しい千理の姿に目を瞠った。ここまで彼女が他人を褒める所など初めて見る。
「天から授からなくても、天宮君はすごいし格好いいし優しいし経営手腕にも長けてるし、欠点なんて一つも無くて」
「あ、でも体育で一緒になったことあるけどあんまりスポーツは得意そうじゃなかっ」
「得意じゃなかろうとそれだって長所だから!」
「ええ……」
何なんだ一体。
愁は思わず謎の生物を見るような目で千理を見てしまった。隣で窺うように愁を見上げる高里の気持ちの方が余程分かってしまう。いくらチョコレートのファンだからと言って経営者本人にそこまで執着するものだろうか。
いや、そもそも前提がおかしくないか。愁は未だに天宮のことを嬉しそうに語る千理を見下ろしながらゆっくりと記憶を辿った。
千理はAmamiyaのファンだから彼を気にするのだと言ったが、そもそもあの店が出来る前から、愁が轢き逃げされた時点でその名前を出していた。それどころかまだ食べたことのないチョコレートの為に前日から並んでいたのである。リポーターを見てぎりぎりと悔しそうにしていたのを考えるとそれ以前に何処かで食べていたという線もなく、ますます不可解になる。
「……?」
その時、愁は一瞬にして思考を止めて背後を振り返った。何処かから視線を感じたような気がして探してみると少し離れた場所で一人の女がこちらを見ているのが分かった。
もしやまたしても霊感がある人物なのかと警戒して少し近寄ってみるものの、彼女の表情に変わりはなく、試しに横にずれて見てもその視線の位置は変わらなかった。
彼女は愁を見ている訳ではなかった。ならば一体誰を見ていたのか。今も変わらない彼女の視線の先を辿ればそれは自ずと判明する。
「千理、あの人と知り合いか?」
「だから違う……ん? 誰のこと?」
「あっちの、お前を見ているやつだ」
愁が相手から見えないのをいいことに分かりやすく指を刺すと千理の視線もそちらへ向く。するとすぐに女は千理から目を逸らし、人混みに紛れて何処かへ行ってしまった。
「知らないと思うけどなあ。……うん、初めて見る」
「さっきから千理のことを見ていたようだ。それも、睨むような感じで」
「睨む?」
「ああ、敵意があったからこそ視線に気付いた」
「敵意とか視線とか、バトル漫画の主人公か何かか……?」
「生憎それほど波瀾万丈な人生は送っていない」
「よく言うよ……」
今まさにその波瀾万丈まっただ中だというのに、と千理が頭痛を覚えていると、高里が少し考え込むように黙ってから「多分今の、針谷さんだと思う」と口を開いた。
「知り合いか」
「同じ学校だから名前を知ってるぐらい。どんな人かはよく知らないな」
「針谷……」
一体誰だろうか。どうして千理を睨んでいたのか。愁は一度彼女を探してみようとしたが、千理が「別にいい」と首を横に振ったのでその場に留まった。多少睨まれようが害がなければ構わないというスタンスの千理はそこまで気にしていなかったが、愁は何となく彼女のことが気になった。
天宮、そして針谷。彼らは一体どんな人物で、千理とどんな関係があるのか。
□ □ □ □ □ □
「センリー!! 助けてー!!」
愁の怪我も無事に完治して仕事に復帰した頃のこと。千理が一人で霊研に顔を出すと、途端に聞こえて来たのはイリスの切なる悲鳴だった。
「なに、何があったの」
「夏休みの宿題が終わらないの!!」
「ああ……」
千理の肩から力が抜ける。ちらりと壁に掛けられたカレンダーを見てみれば今日は八月三十一日、夏休み最終日であった。
「イリスって宿題溜め込むタイプだったんだ」
「毎年これですよ。ぎりぎりまで遊びまくっているんですから」
キッチンから顔を出したコガネが冷たいお茶を差し出して来る。「いつもいつもよくやりますよ」と呆れ顔である。
「あ、これお土産です」
「どうせまたチョコレート……ん? おせんべい? センリが?」
「ふっふっふっ、ちょっと食べて見てください」
千理がイリスの隣に座って鞄から一つの紙箱を取り出す。そこに入っていたのは彼女には珍しく煎餅の詰め合わせで、イリスは不思議そうにそれを一つ手に取って口に入れた。
「ん? んん?? 何これ!?」
「どー見ても煎餅の見た目のチョコレートです。面白いでしょ?」
「おせんべいなのに甘い……」
「何か、味覚が混乱しますね」
千理は驚かせる為に買って来たのだが、イリスとコガネには少々不評らしい。仕方が無く自分で食べようと一枚摘まんでから、千理はイリスの前に広げられたテキストをばらばらと捲る。
「これ何ページまで?」
「全部」
「……全部?」
「これ以外は何とか終わらさせましたから、あとは千理、よろしくお願いします」
何十ページもある冊子の三ページ目までしか回答欄が埋まっていないそれを見て千理は頭を抱えたくなった。勿論彼女だったら一時間と経たずに終わらせることができるかもしれないが、これはあくまでイリスの課題だ。教えながらやっていたら一体どれだけの時間が掛かることやら。
「まあともかく始めなきゃ終わらないか。じゃあイリス、分からなくなったら聞いて――」
「もう分からないの!」
「えー……」
「だってこの主人公が何考えてるか当てろなんて、スズコみたいな超能力者じゃないと無理じゃない!」
「いや、超能力なんて無くても解けるからね。そもそも国語なんて漢字さえ出来ちゃえば後は問題文から答え拾うだけだから」
千理は苦笑しながら問題文を指でなぞって読んでいく。物語を読む国語で言うのもなんだが、こと設問を解くだけなら感情を込めずに機械的に答えを探すべきである。問いが示している場所は何処か、最終的な結論は何か、全て問題文から抜き出して答えを書くだけだ。コツさえ掴めば非常に分かりやすい教科である。
「……だから、このことが書かれている文は何処にあると思う?」
「これ?」
「そう! だから後は前後をちょっと調整して抜き出しちゃえば」
「! 出来た!」
「出来たね! じゃあ次の問題行こうか」
「……ちょっと休憩しない?」
「しない」
「センリの意地悪」
「まだこんなにページあるんだから終わらなくなるでしょ。ほら、これ食べていいから」
「それはもういらない」
「美味しいのになー」
ぱきり、と千理は煎餅のようにチョコレートを割って口に入れる。ちょっと和風の味になっているのもポイントだ。いつもとは違って新鮮でたまにはこういう変わり種もいい。
「お、やってんな」
「英二さん」
だだを捏ねるイリスを宥めながら順調にページを進めていると英二が来た。彼はぱたぱたと服で仰ぎながら千理達の傍までやって来ると「結構進んでるじゃねえか」と少し感心したように言った。
「昨日は夜遅くまで読書感想文がどうのって暴れてたからなあ」
「それ、結局どうなったんですか?」
「殆どあらすじ書いて最後に面白かったですで終わりだ」
「あー……よくあるやつですね」
「だって面白くも無いものを無理矢理読まされた挙げ句感想書けなんて無理なのよ!」
「しかも面白くもなかったんだ……」
いっそ此処が面白くなかったポイントを上げて行った方がいい文章になったのではないだろうか。千理がそんなことを考えていると、英二はコガネからお茶を受け取って「まあ頑張れよ」と席に戻ろうとした。
「お、お前が煎餅なんて珍しいな。一つもらうぞ」
「どうぞ……って、あ、それ」
「エイジ! 駄目!」
イリスの金切り声のような叫びと同時に、英二は手に持った煎餅――に見せかけたチョコレートを口に放り込んでいた。
次の瞬間、一瞬にして彼の顔色が変わった。
「ぐっ、げはっ、」
「英二!」
咳き込む英二がグラスを取り落として割る。慌てて駆けつけたコガネが彼を無理矢理トイレへ引き摺って行き、そして嵐が去ったようにその場は静まりかえった。
「……」
「英二さん、あそこまで甘い物が駄目だったなんて」
以前甘い物は受け付けないと言っていたが本当に体自身が拒絶するほど受け付けないものだとは思いもしなかった。
悪いことをしてしまったなと反省してグラスの片付けを始めようと立ち上がった千理の傍らで、イリスは一人膝の上に置いた手を握りしめて小さく震えていた。