13-1 死なせはしない
「あら?」
足元でからん、と何かが転がったような音がして鈴子は首を傾げた。
警視庁でとある事件の遺留品を“見て”ほしいという依頼を終えて帰ろうとしていたその時、ちょうど入り口付近で人とすれ違いざまに何かが靴に当たったのだ。
しゃがみこんで拾ってみればそれはペンで、鈴子はすぐに背後を振り返って離れていこうとしていた人物に声を掛けた。
「待って下さい、ペンを落としましたよ」
「……え?」
コツコツと早足で遠ざかろうとしていた靴音が止まり、驚いた男性の声が聞こえて来る。彼は慌てた音を立てて鈴子の元へと来るとまるでひったくるように彼女の手からペンを奪って行く。
「す、すみませんでした!」
行動とは裏腹にそう謝った男は再びすぐさま鈴子から離れていく。急いでいたのかと首を傾げつつ、鈴子は特に気にすることなくそのまま警視庁から出て行った。
「……嘘だろ」
しかし男は違う。酷く息を切らしながら人気の無い場所まで来た彼は、手の中にあるペンをまるで恐ろしい物のように見下ろしながら焦燥に駆られた表情を片手で覆った。
まずい。最悪な事態に陥った。どうすればいい。どうすれば――
「早く、消さなければ」
□ □ □ □ □ □
「あーもう……せっかくの夏休みなのに夏期講習とか酷くない? 休みとかじゃないでしょ」
「そうそう、出席も取られるし普通の日と変わんないじゃんね?」
「俺もそう思う。夏休みは夏休みとして過ごさせて欲しい」
「……愁は別に普段もそんなに授業受けてないじゃん」
高校の夏期講習の昼休み、机にべったりと体をくっつけながら文句を垂れ流す友人達と、そしてごく普通に会話に参加する愁を見て千理は苦笑を浮かべていた。勿論だが愁の言葉に返事など帰ってこない。
「千理なんか言った? あ、チョコちょうだい」
「言ってない。いいよ好きなの持ってって」
「私も私も!」
弁当を食べて食後のデザートとばかりに机に並べられたチョコレートを友人達がかっさらっていく。千理はチョコレートが何より好きだが他人に分け与えるのも好きだ。特にAmamiyaのチョコレートはどんどん普及させて行きたいと思っている。
チョコレートを口に放り込みながら、ハーフアップの友人――澪が改めて机の上を眺めて半ば感心するような表情を浮かべた。
「千理ってホントにチョコ好きだよね。っていうかよくこんなに買うお金あるよね」
「チョコは前から好きだったけど今回は異常じゃない? ここまでお気に入りのブランド今までそうそう無かったよね?」
「美味しいからしょうがない。バイト代自由に使える分殆ど注ぎ込んでるから」
「うわ……」
「やば……」
「流石に健康に悪いと思う」
「いいじゃん別に、借金とかしてる訳でもないし」
「これで太らないのが羨ましいっていうか殺意が湧く」
「これ全部頭に行ってるんでしょ? 甘い物を無限に食べられるという点だけでその頭脳が欲しい」
編み込みをした髪をいじりながらもう一人の友人である真奈美が軽く千理を睨む。普段からその頭の良さには羨望を向けているが、それよりも甘味食べ放題の方がよっぽど羨ましいのである。
「私にもその頭を分けてくれ」
「パンじゃないんですけど」
「駄目だ。千理の頭を千切るなんて絶対に許さない」
「愁も何言ってるの??」
「愁?」
「あ、ごめん間違えた。何でも無い」
うっかり人前で愁の言葉に返事をしてしまった千理は我に返って慌てて首を横に振った。こうして自然に会話に参加されると紛らわしいので止めてほしいのだが、それを言うと愁を邪魔者扱いしているようで千理は口にしたことはない。
「……澪、ちょっと来て」
「了解」
「?」
「ごめん千理、ちょっと待ってて」
やってしまったと少し恥ずかしくなっていると、何故か真顔になった真奈美が徐に立ち上がり澪を連れて教室を出て行く。
突然のことに千理は首を傾げながらチョコを口に運び、そして二人が居ないならばと参考書を手に取った。
途端に愁が僅かに嫌そうな表情を浮かべた。
「休み時間ぐらい休んだらどうだ。どうせ頭の中に入っているだろう」
「入っててもすぐに引き出せなきゃ意味がないからね。特に数学はいっつも時間ぎりぎりになっちゃうし、もっと早く解ければ計算ミスとかも見直せるから」
千理は実質テストに教科書と参考書を持ち込んでいるようなものだ。時間を掛ければ確実に正解を導き出せるかもしれないがテスト中に悠長にページを捲っている暇はない。
「それに……次の模試はどうしても一位になりたいんだ。いつもそうだけど、次だけは絶対に」
「何故だ?」
「その時になったら……というか、一位になったら教えるよ」
「そうか。じゃあそれまで正解を考えておく」
「絶対分かんないからいいよ」
「絶対?」
「前提条件も分からない状態で答えなんて出ないからね」
千理の言葉に愁は不可解そうな顔をしたが、千理はそれをスルーして参考書に視線を戻した。片手には勿論チョコレートを手にしながら。
「……ね、ヤバない?」
「ヤバい!」
一方、神妙な顔をして廊下に出た澪と真奈美はそっと遠目で千理を窺いながら揃って大きな溜め息を吐いた。ヤバい、ヤバ過ぎると何度も口々にそう言いながら。
「やっぱまだ桑原君のこと引き摺ってんじゃん。無意識に名前口から出てるし!」
「当たり前でしょ、千理だよ? 小学校からずっと桑原君と一緒だったのに数ヶ月そこらで忘れられる訳ないでしょ!」
「でも大分普通に戻ったからそろそろ大丈夫かなって……」
「甘い。千理のチョコより甘い。あの子絶対表に出さないだけで裏ではまだずっと桑原君のこと考えてるって」
「おも……」
「絶対チョコやけ食いして気を紛らわせてるってあれは」
どん引きしている真奈美に澪が同意するように深く頷く。確かに好きな人が死んでしまったらああなっても仕方が無いかもしれないが、それでもこのまま放って置いたらまずい気がした。
「後追いとか、流石にしないよね?」
「……そうなる前にちょっと私達で何とかした方がいいと思う」
「何とかって……どうするの?」
「他の人にも目を向けさせんの。世の中には他にも男がわんさかいるって分からせる。別に彼氏作れとまでは言わないけど、友達でも出来たら良し」
「そういえば、この前部活で知り合った他校の子が一緒に遊ばないかって言ってたんだよね。その子は女子だけど部活は男女どっちもいるし、千理も連れて行ったらいいかな」
「いいじゃん。こっちでちょっと誘導すればいいし」
知り合いが増えれば千理の目も外に向けられる。そうしたら少しは愁の死の悲しみも薄れていくかもしれない。
「それじゃあその計画で」
「目指せ、千理生存」
二人がそう固く誓い合って教室に戻ると、当の本人は参考書を片手に相変わらずチョコレートをつまんでいた。人の気も知らずに。
「あ、戻ってきた。何かあったの?」
「いや何か真奈美が彼氏欲しいから男紹介しろって煩くて」
「おい」
「だから今度他校の子と遊ぶのに連れて行こうと思ってるんだよね。千理も一緒にどう?」
「え?」
「最近遊べてなかったしいいでしょ? たまにはバイト放って遊ばなきゃ」
澪が誘うと、千理は少し悩んだような顔をして宙に視線を投げた。実際、愁の事件以降千理と遊ぶ機会が激減したのは事実だ。最初の一ヶ月は流石に誘えず、以降もバイトが忙しいようで中々時間が合わないことが続いていた。
「……うん。たまには息抜きしようかな」
「そうそう、桑原君だってきっとそう言うって」
「真奈美!」
「あ、ご、ごめん」
「いやそんなに気を遣わなくていいんだけど……というか実際にそう言ってるし」
「実際?」
「なんでもない! ……あ、ちょっとごめん電話」
地雷を踏み抜いたかと焦ったが、千理は特に動揺することなくスマホを手に取って席から離れた。ほっと肩を撫で下ろしながら、澪はつい真奈美をジト目で睨み付ける。
「急に桑原君の名前出さないでよ、びびったじゃん」
「ごめんつい……でも今の千理見てたらきっと桑原君はそう言うかなって」
「あの人も千理のこと大好きだったからねえ。だけど桑原君ってあの子が幸せになるんならきっと新しく彼氏作っても喜んでくれそうだよね」
「心広そうだもんね。自分の分まで幸せになってくれって言いそう……ん?」
「どうしたの?」
「いや、何かチョコの箱が動いたような気がして」
がたがたと揺れたように見えたが錯覚だったのか、それとも気が付かないだけで小さな地震でもあったのかもしれない。
真奈美が首を傾げていると、すぐに千理が戻ってきた。
「おかえりー、誰からだった?」
「バイト先。ちょっと先輩が怪我して病院に運ばれたらしくて、帰りにお見舞いに行きたいからすぐ帰るね」
「そっか。じゃあ寄り道はまた今度ね」
「ごめん」
「いいって。ところでバイトの人ってもしかしてこの前のホストの人?」
「だから違うってば、うちは興信所です。それに怪我したのもあの人じゃないよ」
「コガネさん、だっけ。かっこよかったよね。千理的にはどう?」
「どうとは?」
「ほら……好みのタイプかってこと」
きょとん、と千理が目を瞬かせた。そしてその直後、何やら微妙な表情を浮かべて目の前を手で払うような仕草を見せる。埃でも舞ってたのだろうか。
「別にタイプとかそういうのじゃない。いい人……人? だけどね」
「ふーん? 恋愛対象にはならないと」
「……大体二人は私の好みとか分かってるでしょ。言うまでも無いよ」
「あ、はい」
何かを気にするようにうろうろと視線を動かしながら千理がそう言って、澪と真奈美は思わず黙るしかなかった。千理の中ではやはり桑原愁が確固たる立ち位置から動いていないようだ。これは苦戦しそうである。
「澪、がんばろ」
「うん」
目指せ、千理の後追い自殺阻止。
□ □ □ □ □ □
「鈴子さんが怪我したって?」
「そうみたい。何か階段から落ちたって」
「それは心配だな」
昼休みの後もう一コマ授業を受けた千理は手早く荷物を纏めて学校を出ると、そのまま呼び出された病院に急いで向かった。先程の電話の相手は櫟で、鈴子のことで話があるから来て欲しいと言われたのだ。
指定されたのは警察病院である。千理があらかじめ聞いていた部屋の扉をノックして開けると、そこには霊研の職員が勢揃いしていた。
「あ、二人ともやっと来た」
「遅くなってすまない」
「いいのよ。むしろ私の為に来てくれてありがとね」
少々狭苦しい部屋の中で鈴子はベッドから上半身を起こして千理達を振り返った。いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべる彼女を見て思ったほど重傷ではないと悟り、千理は安堵した。
「怪我はどうなんですか」
「体を少し打ち付けたくらいで大したことはないわ。それに偶然その時或真君が通り掛かってね、応急処置とか病院まで運んでくれたから大事にならなかったの」
「何やら私の第六感が反応して行ってみれば彼女が歩道橋の階段下で倒れていたのだ。すまない鈴子さん、我が右目がより万能であればもっと早く未来を見通して怪我をする前に助けられたのだが……」
「あんたの目にそんな機能ないでしょ。バッカみたい」
「ええ、だから或真君は気にしなくていいってイリスちゃんも言いたいのよね」
「ち、違うから! スズコも勝手なこと言わないで!」
わあわあ騒ぐイリスに「病院ですからもう少し大人しくしましょう」とコガネから声が掛かる。
「うむ。気遣い感謝するぞイリス」
「だから違うって……!」
「それにしても或真君ったらすごいのよ? 手際よく処置してくれたと思ったらさらっとお姫様抱っこしてくれてね。とってもかっこよかったわ」
「ふ、ふーんそう……」
「せっかくだからイリスちゃんもしてもらう?」
「は!?」
「私は別に構わないが?」
「私が構うの!! アルマのバーカバーカ!」
「イリス、だから少し静かに……」
顔を赤くして或真の手をはたき落とすイリスを鈴子が目を閉じながらも微笑ましげな顔で見守っている。千理はそんな彼らを見ながらそっと英二に近寄った。
「叔父さん、感想は?」
「感想?」
「分かるでしょ、イリス……この前のキャンプで或真さんの素顔を知って好きになっちゃったみたいで」
「ああ、あれやっとイリスも見たのか。だがそもそもイリスはずっと前から或真に惚れてんぞ」
「え、そうだったんですか?」
「いっつも構って欲しくてじゃれついてんだろ。あいつはそもそも嫌いな人間にはもっと冷てえよ」
そうだったのかとイリスを眺める英二を窺った。騒ぐイリスと無意識に煽る或真を呆れた目で見ている英二は、最近では珍しく落ち着いた雰囲気だった。
イリスの件に関して、ひとまずは保留となったようだ。つまり現状維持、イリスは霊研に所属したままである。そのことに対して櫟は「英二がイリスと話し合うまでこれ以上文句は受け付けない」と封殺したのだという。
「……なんだ?」
「いいえ、何も」
霊研を辞めさせたいという英二の気持ちは本物だろう。だったら何故彼は未だにイリスを説得しようとしないのだろう。千理はその疑問を口にしたかったが、しかし今はそれよりも優先するべきことがあると思い直して櫟の方を振り返った。
「それで、犯人の手がかりはあるんですか」
「……犯人? 事故じゃないのか」
「話があるって呼び出したってことはそういうことですよね? 恐らく鈴子さんは何者かに階段から突き落とされて怪我をした。そして犯人はまだ捕まっていない」
「やっぱり千理は話が早いね」
櫟がふっと笑みを浮かべて頷いた。
「千理の言う通り、鈴子さんは誰かに背中を押されたそうなんだ。だが付近に監視カメラはなく、他に人通りも無かったから犯人は分からない」
「鈴子さん、少しでも犯人の特徴とか分かりませんか?」
「ごめんなさいね。私は目が見えないから」
「あ」
「例えば櫟君や或真君ぐらい特別な子だったらすぐに分かるけど、そうでないと私も分からないわ。容姿や服装なんかは私には見えないから」
そうだった、と千理は改めて目を閉じたままの鈴子をしっかりと見つめた。彼女は普段からあらゆるものを見通すような言動を取るので忘れてしまっていたが、本来盲目の女性なのだ。見えない方が当たり前だったのである。
「でも少なくとも、一度も会ったことの無い人だと思うわ」
「一度も会ってないやつをわざと階段から突き落とす……通り魔か?」
「その可能性もありますね。もしくは誰かに頼まれたとか」
「……」
「まあまあ、今考えても仕方が無いわ。幸い大きな怪我もないし、皆そこまで深刻に考えなくていいのよ?」
「深刻に考えてもらわなくては困ります」
不意に、病室の扉が開かれた。全員が反射的に扉の方へと視線を向けるとそこに居たのは白髪の疲れた顔をした男性だった。
「あれ、フカセのおじさま」
「久しぶりですね、イリス。元気にしていましたか」
「当然よ」
「それは良いことですね。透坂さんも同じであれば良かったのですが……」
深瀬はにこりと笑ってイリスの頭を撫でた後じっと鈴子を見下ろす。そして包帯の巻かれた手を取ると、膝を着くようにかがみ込んでその手を見つめた。
「透坂さんが怪我をしたと聞きつけて本当に血の気が引きましたよ」
「そんなに気にしなくてもいいのよ?」
「いいえ、私が気にします」
深瀬が俯き、その表情が見えなくなる。まるで忠誠の捧げる騎士のように鈴子に跪く彼に、イリスが少しわくわくした顔で身を乗り出そうとしてコガネに止められていた。
「深瀬君?」
「もしあなたに何かあれば、私は……
……何が何でも地獄から蘇ってきたあいつに殺されます。いや殺されるよりも恐ろしいことになるかもしれない」
イリスが思わずすん、と真顔になった。頭を上げた深瀬の表情は期待していた甘いものなど一切含んでおらず、取り繕わずに言えば真っ青を通り越して真っ白だった。
鈴子の旦那はそんなに恐ろしい存在だったのかと千理が密かに震えていると、周りの空気など知ったことかとばかりに鈴子は優しく微笑んだ。
「そんな心配要らないわ。だってあの人は優しいもの」
「やさ……しい?」
「未知の言語を聞いたような顔になってる……」
「あと深瀬君。一つ言わせてもらうけど、あの人は地獄じゃなくて天国に行ってるわよ?」
「あ、はい。そうですね」
棒読みでもいいのか鈴子が満足げに頷くと、なんだか病室内が何とも言えない雰囲気に呑まれていた。深瀬はそれを振り払うように立ち上がり「とにかくですね」と子供に言い聞かせるような口調で話し始めた。
「犯人の思惑が分からない以上慎重な行動を心がけて下さい。必ず誰かと一緒に行動するように。後見人としての指示です」
「ええ、分かったわ」
「それと朽葉、少しいいですか」
「なんだ?」
そう言って深瀬は英二を病室の外へと連れ出した。廊下を歩き、十分に病室から離れたところで彼は足を止めて英二を振り返る。
「君に頼み事がある。あの男……櫟について探りを入れてくれませんか」
「は? 櫟?」
「実はこのクソ忙しい中で上司に彼を調べろと言われてしまいましてね。こっちは猫の手でも借りたい状態なんだ。ふざけるな自分で勝手に調べやがれと思うんですけどねえ」
「……相当疲れてんなお前」
「そういう訳で君に任せました。戸籍などの素性については既にこちらで掴んでいます。あなたに頼みたいのは彼の力について。力の詳細や発現時期、また誰かに師事したのか……その辺りについて調査をお願いします」
「つってもな、あの野郎がそうぺらぺら話す訳ないだろ。第一時期が悪い。今ちょっとあいつと口論したばっかりでな。ほいほい親しげに話しかけたら普通に怪しまれんだよ」
「大丈夫です。少なくとも僕よりかはよっぽど希望がある。彼は霊研の職員をとても大切していますから」
「どうだかな」
「そういう訳で頼みましたからね! 私は職場に戻りますから!」
「……少しは休めよ」
英二の言葉も虚しく薄笑いを浮かべた深瀬は無言で去って行った。そして無理難題を押しつけられた彼は、頭を掻きながら「どうすっかな……」とこれからのことに頭を悩ませることになった。
銃弾のこと、イリスのこと、櫟のこと、鈴子のこと……考えなければならないことは山積みだ。