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霊研の探偵さま  作者: とど
二章
25/74

10-4 雪山の秘密


「……は、」


 呼吸などしていないはずなのに息が切れる。

 鬱蒼とした森の中をひたすら走りながら、愁はその無表情に僅かに焦りを貼り付けてちらりと後ろを見た。木々をなぎ倒しながら自分に迫る、大きな化け物の姿が嫌でも目に入ってくる。

 居なくなったイリスを探していると、偶然にもこの謎の生物がイリスに近付くのを見つけた。咄嗟に使える物がなく無理矢理切り株を地面から引きずり出して投げつけたものの、その所為で今になって随分と消耗してしまったことを少し後悔していた。


「ぎゃあああううう!」


 耳障りな鳴き声が無いはずの鼓膜を引っ掻くのが不快だ。

 愁は霊体である。肉体は無く物理的な干渉は受け付けず、本来ならば急いで逃げる必要などない。だが今の彼の体は既にいくつもの引っ掻き傷が作られ、そこから少量だが出血もしている。

 先程から何度か化け猫の爪が愁の体を擦っているのだ。最初の一撃で嫌な予感がしてぎりぎりで避けることが出来たのは幸運だった。肉体が無いことに慢心してそのまま攻撃を受けていたら、今頃彼は鎌のような爪で真っ二つにされていたことだろう。


 この化け猫は霊体に干渉することができる。ということはつまり、切り株など使わなくても愁もあちらに素手で攻撃できたのだ。ならば何故イリスから引き剥がした後もこうして逃げ続けているのか。


(……恐らく、今の俺では勝てない)


 ぎりぎりで突き出された牙を避けながら愁は唇を噛んだ。最初から万全の態勢で挑めば可能性ぐらいはあったが、もしそのような状態だったとしても辛勝がいいところだろう。

 この化け猫、大きさに反して異常に素早い。七本ある足が虫のようにガサガサと素早く動き、大きく跳躍して愁の目の前に先回りしてくる。

 刀さえあれば。そう願っても現実は変わらず、仮にあっても今の体では十全に使うことはできない。そもそも愁は対人戦闘は得意でも動きの読めない異形と戦うのはまだ慣れていない。圧倒的に不利な状況だった。


「……死んでたまるか」


 この場に千理が居るならともかく、何も守るものが居ない状況で差し違えるつもりは毛頭ない。今愁がしなければならないのは、必ず生き延びることだ。

 桑原愁は自身を平凡な人間だと自負している。普通の男子高校生と同じ欲があって、自己犠牲を良しとする高潔な精神も、敵に背中を見せることを躊躇うような武人としてのプライドもない。だから逃げる。絶対に死んでたまるものかと振り下ろされる爪を睨み付けた。


「生きて、体を取り戻して……それで腹一杯食べて、千理と学校に行って、それから……あいつに――」




    □ □ □  □ □ □




「大きな、化け猫?」

「そう!」


 ロッジに戻って暖房を入れて持ってきた服をかき集めるように着てから、ようやくイリスが目撃したことを話し始めた。

 目が四つ、口が三つ、足が七本に尻尾が四本の恐ろしい化け物。思い出すだけで震えてしまうそれを口にすると、建物からはみ出ながらイリスに付き添っていたエレが心配そうに顔を寄せた。ミケは化け物が猫扱いされているのが不満なのかばしばしと尻尾を何度も床に叩き付けている。


「そんな大きな生物が居たら山の中だろうと誰かが気付いていそうなものだけど……」

「何かしら隠蔽されていたんだろうね。ともかくこの異常気象といい、この山はおかしい」

「他の人は帰ったのが幸いですね」


 どんどん強くなる雪を窓の外から見て千理は眉を顰めた。彼女たちの他にもロッジに来た客は居たのだが、流石にろくに防寒具もない状況に耐えられなくなって下山して行ったらしい。千理達も管理人にも早急に帰るようにと警告を受けたが……勿論のこのこと下山する訳にはいかない。

 恐らく、いや確実にこれは霊研こちらの領域のことなのだから。


「愁、まだ戻って来ないね」

「……ごめんなさいセンリ。私の所為でシュウが囮になって」

「え? 別にイリスを責めてる訳じゃないからね?」


 先程まで或真に運ばれて大騒ぎだったイリスだが、今は持ってきたウサギのぬいぐるみに顔を埋めて少し落ち込んだ様子だ。いつも気丈な彼女の珍しい姿に、或真は心配そうな顔をしてイリスの前に膝を着いた。


「イリス、君が気に病む必要はないよ」

「でも、私が居なくなったからシュウが探して」

「うん。それは出掛ける前に一言欲しかったけど、他は何一つ悪いところはない。子猫たちを埋葬してあげて、イリスは本当に優しい子だな」

「な……気安く頭を撫でないで!」


 優しげな表情で頭を撫でる或真に、イリスは小さな悲鳴混じりに叫んで後ずさった。そんなに嫌だったかと首を傾げる彼を見て千理が少し呆れた表情をみせる。そんなんだから同級生に僻まれるのだと考えていると、或真は真面目な表情になって立ち上がった。


「ともかく、その化け猫とやらがいつ来てもいいように準備をしなくてはいけないな」


 そう言って鞄を手に取った或真を見て、イリスが複雑な表情で千理の方を見る。


「……ねえ、それってやっぱりあれ?」

「やっぱりあれです」


 何の固有名詞も無い会話を余所に、或真は干してあった黒コートを身に纏う。そして鞄の中から重たそうな鎖を取り出して腕に巻き、仕上げに白い眼帯を黒地に金糸の例の物と交換してイリス達を振り返った。


「ふふふ……安心したまえ、私が居るからにはその化け猫程度、すぐに邪眼の力をもって黄泉の国へ誘って進ぜようではないか!」

「……ムカつくけどちょっと安心した」


 いつもの変貌を見せて高笑いを始めた或真にイリスがぼそりと呟いた。あちらは心臓に悪いので、こちらの方が余程落ち着く。たとえそれが厨二病全開だとしても。


「でも或真さんが一緒に来てくれて本当によかったです」

「ふむ、恐らく混沌の闇同士が無意識化で引き寄せ合ったのだろう。私が此処に来たのもまた必然ということだな。……おや? 誰か来たようだな」


 その時、不意にロッジの扉がノックされた。


「シュウ?」

「いや愁がノックなんてするはずないけど……あ、もしかして」


 他の客は既におらず、愁はノックなどせずにすり抜けて来る。ならばと考えて千理の頭の中に一人該当者が思い浮かんだ。先程一度電話を掛けてみたものの圏外で繋がらなかった相手だ。

 すぐに扉を開けると外から酷く凍えた風と共に雪が舞い込んでくる。そしてそれらと一緒に千理の予想通りの人間が姿を見せた。


「若葉刑事……って、」

「悪いが入れてもらえるか。この子が凍えてしまう」


 千理の想定よりも一人多い。寒そうに腕を擦る若葉の足下には、彼の服を掴んで背後に隠れる一人の少年の姿があったのだ。

 一言で言い表すのならば白。羽織っている上着以外全身真っ白に見えるその少年は若葉に促されるように一緒に室内に入ったものの、酷く怯えた表情で若葉と千理達を交互に見ている。


「あの、この子は?」

「途中で見つけた迷子だ。家が何処にあるのか分からないらしい。すぐに送り届けてやりたいがこの天候では遭難して凍え死ぬ方が早いからな」

「っだから僕は大丈夫だって! 全然寒くないもん! ……というか此処、暑すぎて溶けちゃいそう」


 少年が上着を放り出して汗を拭う仕草をする。しかし室内は暖房が入っているとは言っても白い着物一枚の少年には寒すぎる環境だ。

 いつまでやせ我慢をしているのかと若葉が一つ溜め息を吐いて再び上着を着せようとするが、その前に部屋の隅に逃げられてしまう。

 咄嗟に逃げた先にはイリスがいる。彼女は面倒くさそうな表情を隠さずに白い少年に近付いた。


「そんな格好で寒くないって何言ってるのよ? あ、というかあんた! さっき私にぶつかっておいて逃げたやつじゃない!」

「ひ、」

「ひ?」


 しかし少年は、イリスを見た途端ぴしりと体を強張らせた。そして目にも止まらぬ早さで若葉の元へと戻ると、その身を隠すように彼の背後にぴたりとくっついてしまう。


「どうしたんだ雪斗」

「お……お化けー!!」

「は?」

「猫がいる! 象もいる!! 食べられちゃうよ!!」


 わんわん泣きながらしがみつかれて、若葉は何も理解出来ずに酷く困惑した。……が、困惑していたのは彼だけだった。他の三人はというと成程、と納得した様子で泣いている少年――雪斗を見る。


「なんだ、そいつミケとエレが見えるのね」

「ミケ? エレ?」

「そういうことか。しかし少年、不安に思うことなどない。彼らは心優しき幽霊だ。君に害をなそうとする輩は此処には居ない。ああ、仮にそれが現れたとしても安心したまえ。私が支配する忠実な下僕達がすぐに永遠の闇に葬ってやろう」

「ひぃ! 黒い化け物もいるー!!」

「化け物とは心外だな。私は混沌からの使者であり、邪神使いだ。化け物とはそもそもベクトルと次元が異なり――」

「こいつは誰だ!? さっきの男はどこに行った!?」

「本人です……」


 一気に騒がしくなる室内で千理は頭痛を覚えて頭を抱えた。少年が幽霊が見えて怯えるのは分かる。が、或真がいるだけで色々とややこしいことになっている。

 幽霊と共にいるイリスと存在だけで怖がられている或真。ならば自分は大丈夫だろうと千理が少年に近付くものの、「来ないで!」と震えながら叫ばれて足を止めた。どうやら若葉しか信用できないらしい。


「……伊野神千理。外村と言ったか、彼は……二重人格か何かなのか」

「似たようなものだと思って下さい」

「というかこいつ前に事件現場で……まあいい、今はそれどころではないからな。突然異常気象の降雪……今八月だぞ。止むまで下山も難しいだろう」


 若葉が身を竦めて窓の外を見る。先程よりも雪は酷くなって最早吹雪だ。あまりにも信じられない光景に頭を痛めていると、くい、と背後から服を引かれた。

 振り返れば酷く罰の悪そうな顔で雪斗が俯いている。


「ごめんなさい。それ、僕の所為」

「は?」

「この雪、僕が降らせてるの……怖くて、コントロールできなくて」

「……はあ。それは君の思い込みだ。人ひとりが天気を変えることなんて出来ない」

「だから違うって! 僕は人じゃなくて雪の妖怪だもん!」

「分かった、分かった。それでいいから――」

「妖怪ですって?」


 少年の言葉を聞いたイリスが真っ先に反応する。彼女は肩を怒らせて雪斗に詰め寄ると、怯える彼を無視して腕を掴んだ。


「なに、この雪あんたが降らせてるの? だったらさっさと止めなさいよ!」

「いや君、この子の言うことを真に受けるんじゃ」

「だから怖くてコントロール出来ないんだってば!」

「だれが怖いって!?」

「あの化け物だよ!!」


 途端に、怒っていたイリスが止まる。白い少年は何度も涙を拭いながら、震える体で縋るように若葉にしがみつき続けた。雪が更に強くなりロッジの壁を叩く音が大きくなる。


「き、君達も怖いけど……あの化け猫の方が百倍怖い。あれは僕を食べようとしてるんだ。捕まったらきっと、あのおっきな口でぐちゃぐちゃにされるんだ」

「……イリスが見たものと同じみたいだね」

「それじゃあさっきぶつかったのも、あんたあの化け猫から逃げてたってことね」

「成程。しかし妖怪の少年、先程も言ったが不安に思うことは無い。君を害する輩が現れた時はこの私が鉄槌を下してやろう」

「……お前達は一体何の話を」

「嘘だ! あんなのに勝てっこないよ!」

「うるさいわね! アルマが負ける訳ないでしょ!」

「……」


 雪斗が背後にいる為必然的に口論の合間に挟まれている若葉が説明を求めるように千理に視線を送る。


「伊野神千理、どういうことだ」

「どういうことも何もそのままなんですが……。その子は雪の妖怪で、大きな化け物に狙われている。それが怖くてつい雪を降らせちゃってるって話でしょう」

「妖怪だのなんだのを信じろと?」

「別に信じなくてもいいですよ。私もその子が本当に妖怪かは知りません。けどこうしてあり得ない異常気象が起こっているのは事実で、その子の言う化け物はイリスも見ているので確実に存在している」

「妖怪、化け物……本気で言っているのか」

「忘れたんですか? 私達は霊研ですよ」


 たとえ若葉がどう思おうが事実は事実として存在している。しかし千理は頭の固い若葉を責める気はなかった。彼女も霊研に入らなければ……愁の霊体を見ることがなければ一生信じることは無かっただろうから。

 千理は未だにイリスと言い争っている少年を窺った。真っ白な髪と肌、それから薄い着物に裸足。確かに雪の妖怪と言われれば頷いてしまいたくなる見た目だ。少なくともこの薄着で全く寒がっている様子は無いし、むしろよく見れば薄ら汗を掻いている。


「……まあ何にせよ、その化け猫がこの子を狙っているのなら嫌でも理解することになるでしょうけども」

「どういうことだ」

「百聞は一見に如かずですよ」


 以前櫟に言われた言葉をそのまま若葉に伝える――その時、外で吹雪の音にも掻き消されないほど大きな破壊音が響き渡った。


「!」

「来たようだな。平和を脅かす厄災が!」


 或真がすぐさまロッジの外へ飛び出す。一面の銀世界が広がる中、しかし木々は不自然な程に折れ曲がり倒され、その傍には大きな大きな化け物が唸り声を上げて口を開けているところだった。


「っ愁!!」


 三つもある口からは涎が垂れ、それぞれが目の前の得物を食らおうとしている。真っ白な視界のでも一際目立つ赤色を雪に落とす、膝を付いた愁に向かって動く。


「吹き飛ばせ、セイレーン!」


 しかし或真が眼帯を外す方が早い。彼が叫ぶと共に現れたのは大きな白い翼を持ち、しかし虫のような太く丸い胴体を持ったアンバランスな怪物だった。それは現れて一瞬にして甲高い悲鳴のような声を上げ、その音波の衝撃波で化け猫を軽々と吹き飛ばした。

 化け猫が離れると同時に、千理はすぐに愁の元へと駆け寄る。


「愁! 愁! どうしよう愁が」

「落ち着け千理、大丈夫だ。大丈夫だから」


 霊体である愁が囮になっても怪我をすることはないだろうと高をくくっていた千理は、ぼろぼろになっている愁を見てパニックに陥りそうになった。

 そんな彼女を宥めるように愁は何度も大丈夫だと繰り返す。怪我は酷いが致命傷はどこにもないのだ。しかしそう言っても千理はすぐに落ち着けない。愁がこんなに怪我をするところなんて今まで見たことがなかったのだ。


「悪い、或真。あとは頼んでいいか」

「任されよう。たっぷりと我がセイレーンのレクイエムを聞かせてやろうではないか」


 混乱する千理を浮かせて愁が後ろに下がり、代わりに或真が全員を守るように前に踏み出す。


「あ、アルマ! 頑張って!」

「ああ」


 ちらりとイリスを見た或真の金色の目が柔らかく細められる。すぐに前を向いたものの、視線が合ったイリスは少し顔を赤らめて俯いた。


「おっ、お兄さん! あれ! あれが僕を食べようとして……」

「……」


 雪斗が必死に声を掛ける中、若葉はそれに返事をせずただひたすら目の前の光景と自身の常識を照らし合わせてそのあまりにも大きなズレに唖然としていた。

 なんだあれは。木々の合間から起き上がり濁った鳴き声を上げる悍ましい怪物。明らかにこの世の生き物ではないそれの目の前には、またもやこの世の生き物とは思えない謎の飛行生物が翼を広げて宙に浮いている。

 あまりの寒さで幻覚でも見えているのか。そう思った矢先に千理が宙に浮いて傍にやって来て、若葉はいっそう放心状態になった。


「俺は今夢を見ているのか」

「……現実ですよ」


 ぽつりと呟いた声に、少し落ち着きを取り戻した千理が答えた。彼女は何も無い(・・・・)宙を見上げて表情を歪め、そして雪斗もまた同じ場所を見て「血塗れお化け!!」と叫んだ。


「ぎゃあああああううう!!」

「ケルベロス! お前も行け!」


 極め付けに更に別の怪物までどこからともなく現れたのを見た若葉はもう流石に観念せざるを得なかった。これが幻覚だとして自分にこんな想像力はないと確信を持って言えるのだから。

 鳥の怪物と犬の怪物が化け猫をあっという間に追い詰め、体を食い破り衝撃波で吹き飛ばす。化け猫は緑色の血のようなものを大量に撒き散らしてそのまま死ぬ――かと思われた。

 しかし倒れる寸前、化け猫の口の中から太いロープのような舌が勢いよく飛び出して来た。


「!」


 弾丸のような勢いで飛び出した舌は勢いを殺さぬまま何十メートルも伸びる。対峙する怪物達を素通りし、或真の横を通り抜け、そして若葉の数センチ隣をまで来ると――彼の後ろに隠れていた雪斗の体に器用に舌を巻き付けてあっという間に彼を攫った。


「っしま、」

「たす、助けてお兄さん!!」


 舌が引き戻される。雪斗はそのまま空中に運ばれ、化け猫の口へと運ばれる。それとほぼ同時に、三つの前足の鋭い爪が或真の怪物に襲いかかった。


「駄目だ! 止まれ!」


 セイレーンとケルベロスは構わず相手を潰しに掛かるが、咄嗟に或真が二体に待ったを掛けた。その指示に反射的に従った二体はそのまま爪を受け、大きく体が切り裂かれてしまう。

 そして当然、彼らとリンクしている或真にもそのダメージは返って来た。


「ぐ……」

「アルマ!」


 右目の激痛に膝を付いた或真は残った左目で化け猫を捉える。舌に巻かれた雪斗が今にも食べられそうになっている。しかし或真の怪物達では助けるどころか巻き添えになって死んでしまうだけだ。雪斗を助けろなどと言っても彼らには理解できない。彼らが認識するのは或真の敵、それだけのなのだから。


「俺が行く!」


 愁がぼろぼろの体を引き摺って何とか雪斗を救出しようと動き出す。或真も怪物達を下がらせて自ら走ろうとする。しかし化け猫の動きは止まらない。横に並ぶ三つの口のうち、真ん中の口の中へと泣き叫ぶ雪斗を運び、そのまま噛み砕こうとした。

 愁も或真も、痛みが走る体では到底間に合わない。


「――そいつを返せ!!」


 間に合ったのは一人だった。その瞬間、化け猫の腹部に抉るような一撃が入り思い切り嘔吐いた。下から突き上げるように入った拳は化け猫を一メートルほど浮かせてから地面に叩き付ける。その衝撃で僅かに口の外に飛び出した雪斗だったが、それでもしつこく舌は彼の体に巻き付いたままだ。

 一撃をお見舞いした男――若葉は無我夢中で雪斗の手を引き、その胴体に絡みつく舌に手を掛ける。そして……それを力尽くで引き千切ると化け猫の叫びなど無視して雪斗を救出した。


「は……」

「何を固まっている! さっさと止めを刺せ!」

「あ、ああ……! セイレーン、終わらせろ!」


 その行動に唖然とした或真を若葉が叱咤すると、すぐに我に返った或真が声を張り上げた。舌を千切られて悶え苦しむ化け猫に向かって放たれた最大級の音波はその体を粉々に砕き、一瞬にしてさらさらと砂になった。




    □ □ □  □ □ □




「お父さん! お母さん!」

「雪斗!! 本当に心配したんだから!」


 氷点下の銀世界は溶け、あっという間に三十度まで上昇した緑が眩しい山の中。人目に付きにくい獣道の先に、雪斗はようやく自分の家を見つけて泣きながら両親の胸に飛び込んだ。


「無事にご両親の元へ帰れて本当によかったですね」

「ああ」


 その光景を少し離れた場所で見ていた千理は隣に立つ男を見上げた。安堵の表情を浮かべる彼――若葉は疲れたように肩を落としている。


「それにしても……若葉刑事、さっき随分と滅茶苦茶なことしてましたけど……」

「昔から力だけは異様に強いだけだ。それに無茶苦茶なのは貴様らの方だろうが。何なんだあの怪獣大集合は。未だに夢かと思うぞ」

「ははは……夢じゃ済まされないんですよね……」


 流石に現実を受け止めざるを得なかった若葉は一つ溜め息を吐くと、急に改まった様子で千理に向き直った。


「若葉刑事?」

「……この世には科学では証明できないようなとんでもないものが隠されている。それは認めてやろう。……だが! それと貴様らがほいほい事件に介入してくるのは別問題だ! それにまだ貴様ら霊研が霊感商法を行っていないという証拠もない! 少しでも隙を見せてみろ、すぐに家宅捜索の礼状を持って行ってやるからな!」


 若葉はそう言ってすぐに千理から離れていく。そして一頻り感動の再会を終わらせた一家に近付いて「失礼、少しいいだろうか」と声を掛けた。同時に三つの白い頭が彼の方を向いた。


「お母さん! あのね、このお兄ちゃんが助けてくれたんだよ!」

「本当にありがとうございました。突然居なくなって本当に心配していたんです」

「探そうにも雪斗の力は私達よりも強くて……猛吹雪の中ではとても見つけることなど……」

「いえ、当然のことをしたまでです。……ところで一つ尋ねたいことがあるのですが、これに見覚えは」


 若葉は花のバッジを取り出して三人に見せる。彼らは暫しバッジを観察していたものの、やがて残念そうな顔をして「見たことはありませんね」と顔を上げた。


「この山にある祠にも刻まれていたんですが」

「さあ……。山の中と言っても広いですし、分かりませんね」

「そうですか。ありがとうございました」


 若葉は少し気落ちしながらバッジをしまって三人に頭を下げた。そして再び千理の元へと戻ると、心配そうな顔で宙を見上げる千理を見て僅かに眉を顰める。


「そこに居るのか……幽霊が」

「え? はい、居ますけど」

「そうか」


 聞くだけ聞いて、若葉はさっさと歩き出した。このまま帰り支度をしている或真達と合流して若葉の車で下山する予定である。せっかくの休日にとんでもないことに巻き込まれ、更にバッジの手がかりはなし。雪斗を助けられたこと自体は良かったが、それ以外はとんだ骨折り損である。


 若葉は重たい足を動かしながら、先程の千理を思い出して苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。


「……確かあの時、“愁”と言っていたな」


 化け猫と遭遇した直後、千理は何も無い場所に向かって血相を変えてそう叫んでいた。愁……恐らく彼女の親友である桑原愁のことだ。彼が幽霊として此処にいたということは、つまり。


「既に彼は……」













    □ □ □  □ □ □




「本当に雪斗が無事で安心したわ」

「うん! あのね、お兄さんすごかったんだよ! どんってやってぶちってやって……」


 両手を両親に握られて、雪斗は心底嬉しそうにしゃべりながら山中を歩く。何処に向かっているのか彼は知らない。ただ離ればなれになった両親と一緒に居られるだけで嬉しいのだ。


「……彼には伝えなくてよかったのか?」

「ええ。だって人間に伝わっては困るでしょう?」

「それもそうだが……雪斗の恩人だぞ?」

「それでも、よ。それに彼、そもそも何も知らないみたいだったもの。教える必要はないわ」

「わっ、ねえねえお父さん! このお花さっきお兄さんが見せてくれたのと同じだよ!」

「そうだね、不思議だね」


 三人が立ち止まったのは小さな祠の前だった。そこには花びらの多い花のシンボルが刻まれており、雪斗は不思議そうな顔でそれを見ている。

 すると彼の母親が首元から着物の下にあったペンダントを取り出す。――祠に描かれたシンボルと同じ花を模したそれを彼女は祠のそれと重ね合わせた。


 ――次の瞬間、ずずず、と祠が動き出し地面にぽっかりと大きな穴が現れた。その穴の中は階段になっており、随分と深いところまで下りられるようである。


「さあ雪斗。今回は失敗してしまったけど、また新しい子を作ってあげるわね」

「? 新しい子?」

「ああ、お前の目にぴったりと適合するやつだ。五年前の悪夢を、もう繰り返したりしないさ」


 両親の言っていることに首を傾げながら、雪斗はそのまま連れられて階段を下っていく。そして一番下へ辿り付くと、そこには同じ花のシンボルが描かれた巨大な扉が待ち受けていた。




「さあ、はじめましょう。――シオンの名の下に」


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