10-2 僅かな不穏
天気は晴れ。雲一つ無い晴天だが、その分かなり日差しが強くて暑い。
山の方へ行けば少しは涼しくなるだろうかと千理が考えていると、いつも通り隣に浮いている愁が、待ち合わせ場所である駅のロータリーに止まった車を指し示す。
「英二さんの車だ」
愁が指さした黒い車の後部座席から金髪の少女がぴょんと飛び降りた。続いて運転席から外へ出た男はすぐに千理達を見つけて軽く右手を上げて見せる。
「おはようございます」
「はよ、今日はこいつのことよろしく頼む」
「何言ってるのよ、先輩である私が二人の面倒を見るんだから!」
少し大きめの鞄にいつも抱えているウサギと似たストラップを付けているイリスは、少し得意げな顔をしながら胸を張る。どうやら先日の怒りは既に鳴りを潜めているらしい。
「それじゃイリス、あんまりはしゃぎすぎて怪我とかするなよ?」
「そんなに子供じゃないわよ! 私は優雅に自然を満喫するんだから」
「優雅に、ねえ」
イリスの発言に少しだけ笑みを零した英二は「それじゃあ頼むわ」と改めて二人にイリスのことを託して車に戻った。急いでいたのかあっという間に去って行った車を見ながら、千理は荷物を抱え直してイリスを見下ろす。
「英二さん達残念だったね。せっかくの有給だったのに」
「いいのよ別に。あの二人なんて居なくたって十分楽しいんだから」
「だが寂しいのは変わりないだろう。無理をしなくていいんだぞ」
「全然、ぜんっぜん寂しくなんてないわよ!」
イリスは大きな声で言い返した後、はっと我に返って口を閉ざした。彼女は俯いて足下を見ると、小さな肩を落として「仕事なんだから仕方が無いでしょ」と呟く。
「仕事の邪魔なんてしないわよ。私はそんな子供じゃないの」
「イリス」
「……それにそんなことしたら、ますます――」
「俺が最後だったか。待たせてしまって悪い」
その時、イリスの声に聞き慣れた声が被さった。咄嗟に三人がそちらを向くと、大きな鞄を手に持った或真が歩いてくるところだった。
元気の無さそうな顔を上げたイリスが彼を見て一瞬でぎょっと目を見開く。そして彼女は千理達と或真を交互に見ては、どんどんその顔を困惑に染め上げる。
「或真、おはよう」
「おはようございます。今日はそっちなんですね」
絶句しているイリスとは裏腹に千理と愁は何の動揺もなく或真に声を掛ける。それがますますイリスを混乱に陥れており、彼女は動揺を前面に出しながら震える手で或真を指さした。
「あ……アルマ? 本物?」
「どうしたんだイリス先輩、或真は或真だろう?」
「あー……もしかして、イリスは初めて見るんですか?」
「そうだね、外で会うことって無かったから」
苦笑を浮かべる或真の姿はごく普通の大学生らしいラフな格好だ。コートも鎖も、厨二病感溢れる眼帯もない。千理達がこの彼の姿を見るのは二度目だが、動揺こそしないものの「やっぱり違和感がある」と少し思ってしまう。
「いっ、いつもの格好はどうしたのよ!?」
「これから電車やバスを使うのに“あの姿”だと君達が恥ずかしい思いをしてしまうだろうから」
「……恥ずかしい自覚あったんですね?」
「俺は特に気にしないが」
「愁はそうだろうね」
自分の姿は見えていないから、とかそういう問題ではなく生身の愁でも何も気にせずにいつもの或真に接するだろうということは容易に想像がつく。
「イリス?」
「っ!」
呆然と或真を見上げるイリスに首を傾げ、或真が彼女の前にかがみ込む。さっきよりも近くで彼の顔を直視することになったイリスは徐々にじわじわとその顔を赤らめて行った。
「いつもより静かだけどどうかしたのか? 顔も赤いし暑いから熱中症にでも」
「う……うるさい! うるっさい!! いつもより静かなのはあんたの方でしょ!? 何なのよもう!」
「あ、ちょっとイリス!」
或真がイリスの額に手を伸ばしたところでイリスがそれを振り払い真っ赤になって怒鳴った。そしてすぐに踵を返すと一人先に駅の中へと走って行ってしまう。
彼女の揺れる金髪が見えなくなったところで、千理は「あーあ」と一つ溜め息を吐く。
「イリスも可哀想に……」
「千理、俺は何かイリスの気に触るようなことをしてしまったのかな?」
「えっ」
「いつもの格好の方が良かったんじゃないか? 俺はあっちも愉快で好きだぞ」
「やっぱり驚かせてしまったか……後で謝らないとな」
「……この男共、鈍感」
何も分かっていない或真と完全にずれた発言をしている愁に千理は頭を抱え、二人を置いてイリスの後を追いかけた。
そう遠くには行っていないだろうと思い周りを見回せば、案の定改札前で俯きながら柱に寄りかかっている彼女を見つける。
「イリス、大丈夫?」
「……センリは知ってたの、あれ」
「うん。前に一度外で会ったことあったから」
「……何よもう、普段はあんなのなのに」
「分かる」
「センリには分かんないわよ。……別に、分からなくていいんだけど」
涼しい駅構内に入ったからか幾分か顔色が落ち着いたイリスは少し拗ねたように口を尖らせた。殆ど固有名詞がない話をしながらも……千理はふと、先程彼女が言いかけたことを思い出した。
「ねえイリス――」
「あーもう! そろそろ電車の時間になるじゃないの! あんなやつ置いてってさっさと行きましょ!」
「あちょっとイリス!」
ちらりと遠くに或真達の人影を見たイリスは、気持ちを切り替えるようにわざとらしく声を上げる。そして千理の手を掴むと大股でずかずかと駅のホームへと早足で歩き始めた。
「イリス、あんまり急ぐと転んでしまうよ」
「だからうるさいって言ってるの!」
「今日の或真は普段よりもずっと静かだと思うが」
「シュウも黙ってて!」
イリスに手を引かれながら、千理は初恋(?)の微笑ましさよりも別のことが気になっていた。けれど今の彼女にわざわざ水を差すべきではないと思い、結局大人しくイリスに従って足を進めた。
「そんなことをしたらますます嫌われる」と、確かに呟いたイリスの姿を鮮明に思い出しながら。
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電車に乗りバスに乗り換え、ちらちらとイリスが或真を窺っているうちにあっという間に目的地であるロッジの麓までやって来た。
「……ここからが問題なんだよね」
千理は大きな立て看板に描かれたハイキングコースなる文字を指でなぞる。思ったよりもロッジまでの道は遠くないが、しかし平面な看板とは違い実際は勾配のある山道である。更に言えばハイキングが目的の客とは違って泊まり込みなので荷物も多い。
「イリス、荷物持とうか?」
「別に自分で持てるもん!」
「でもこれから山登りだぞ? 疲れてしまうから」
「アルマよりもずっと若いから平気なの!」
看板を見ていた視線を外して後ろを見ればイリスと或真が言い合っている。イリスが或真につっかかるのはいつものことだが、彼女の表情も或真の態度もいつもと違う。
『ふ、イリス。その小さき身ではそのまま山歩きは困難だろう。その荷を私に任せるといい』
『はあ? 誰が小さいって? 余計なお世話よ!』
『なに、我が闇の力を持ってすればその程度小石を持ち上げるが如く容易い。遠慮などせずともいいのだぞ? 私もある程度力を使わねば蓄積できる許容量を越えて闇に呑まれてしまうのでね』
『ふん、勝手に呑まれてなさいよ!』
『そう言わずとも……イリス、鞄の金具を押しつけるのは止め――』
『そんなに持ちたいのならさっさと持ちなさいよ』
「……とか」
普段の二人の会話を想像してみたが大体こんな感じなのではないだろうか。
「千理、俺もお前の荷物持とうか?」
「結構です」
「そうか?」
「気持ちは嬉しいけど周りからどう見えるかも気にしてね」
ポルターガイストで自分の横にふわふわ浮かぶ鞄を想像して千理はげんなりと首を横に振る。
とにかく来たからにはロッジまで歩かなければと、千理は或真とイリスを呼んでハイキングコースに向かおうとして……しかし、途中でその足を止めた。
遊歩道へ向かう為に道路を横切ろうとしたその時、ちょうど麓の方から一台の車が登って来たのだ。彼女は先に車を通そうと立ち止まって車を待とうとしたが、ふと何気なく見た車のナンバープレートに妙に既視感を覚えた。
「あ」
それがいつ見たものなのか、それを思い出す前に答えは出ていた。何せ運転席に座る人物の顔がはっきりと見え、目を合わせた瞬間に彼が酷く驚いていたのだから。
思わずと言った様子で千里達の前で車が止まる。そしてそのまま千理達をスルーする訳にもいかずに、運転手は微妙な表情で窓を開けた。
「……伊野神千理」
「こんなところで会うなんて偶然ですね、若葉刑事」
何の偶然か、こんな場所で遭遇するとは思わなかったと両者共に心の中で思った。隣に立つ愁も、若葉には見えないものの「珍しいこともあるものだな」と頷いている。
「ところで千理、この前言ってた手を繋いだというのは……」
「あー……そうだ、若葉刑事。いきなりですけど最近悪夢とか見ました?」
「は? 何だ唐突に。……見ていない、とは言わないが」
「やっぱりそうですか。何かすみません」
「?」
「ねえセンリ、このおじさん誰? 知り合い?」
「おじ、」
不思議そうな顔で千理と若葉を見ていたイリスが口を挟むと、その呼称に一瞬にして若葉の顔が引き攣った。その反応に他の三人が少し同情的な目で彼を見る。
「イリス、おじさんじゃなくてお兄さんだろう?」
「別にどっちでもいいじゃない」
「どっちでも良くはないよ、まだ三十にもなって居ないだろうし……。お久しぶりです刑事さん。今日は何かの捜査ですか?」
「……君、以前に会ったことがあったか?」
「はい、でも一度だけなので覚えていないかと」
「そうなのか、済まない」
久しぶりと言われた若葉が或真を思い出そうと記憶を辿るものの答えに辿り着くことはなかった。事件現場や聞き込みなど普段から多くの人間に接する機会の多い若葉は勿論全ての人間を記憶できる訳ではないので仕方ないのないことである。
しかし彼の中で何かが引っ掛かっていた。思い出せそうで思い出せないもやもやがどうにも気持ちが悪い。
「今日は仕事ではない。個人的に調べたいことがあって来ただけだ」
「調べたいことですか?」
「君達には関係の無いことだ。それじゃあ俺はこれで」
「あっ、待って下さい」
停止していた車を動かそうとした若葉に待ったを掛けたのは或真だ。彼は少し申し訳なさそうに眉を下げて「いきなり不躾ですが、お願いが」と若葉を窺った。
「刑事さん、このまま道なりに上に行きますよね? もしよければ、イリスと千理だけでもロッジの方まで乗せて行ってくれませんか?」
「或真さん?」
「荷物も多いですし、せっかく上まで行っても疲れて遊べなくなったら可哀想ですから」
「……別に構わないが。ただ一つ言わせてもらうのなら、殆ど知らない人間の車にほいほい乗ろうとするのは些か不用心だ。何かあったらどうする」
「千理と親しいようなので心配していませんよ」
「「いや、全く親しくはない」です」
にこ、と微笑んでそう言った或真に思わず二人の声が綺麗にダブった。思わずイリスが「仲良いじゃない」とぼそっと呟いたのを聞いて若葉は誤魔化すように一つ咳払いをする。
「とにかく、上まで乗せるのは構わない。勿論君もだが……名前を聞いてもいいか?」
「外村或真です。で、こっちは」
「名前ぐらい自分で言えるわよ! 朽葉イリス! 十歳よ」
「……朽葉?」
運転席から外に出て後部座席の扉を開けていた若葉の動きがぴたりと止まる。そしてまじまじとイリスを観察した彼は「まさか……」と驚いた顔で呟いた。
「朽葉英二の娘……」
「娘じゃないわよ!」
「イリスは英二さんの姪ですよ」
「姪……か、成程」
「おじさんエイジのこと知ってるの?」
「……君の叔父さんには仕事で少々……世話に、世話になったことが……」
「どれだけ言いたくないんだ……」
どれだけ英二を敵視していようが姪の手前取り繕うとして、しかし失敗している。
そしてふと、思い出したように愁がぽんと手を打った。
「そういえばこの人英二さんに失業させる発言してたな」
「失業させるって?」
「っ伊野神千理! 貴様こんな子供に何を告げ口している!」
「とても冤罪なんですが……」
□ □ □ □ □ □
何はともあれ若葉の車に乗ることになった千理達は、予定よりも早くロッジに辿り着くことが出来た。ちなみに助手席には千理が、後部座席にはイリスと或真が座り、愁は場所が無かった為車の上に座っていた。……霊体の愁に場所が無いという言葉もおかしいのだが、「気持ち的に狭苦しい」とイリスが文句を言った為である。
「ありがとうございました」
「いや、どうせついでだ」
車から荷物を下ろして外に出た千理は、涼しい風を胸に吸い込みながら若葉に向かって頭を下げた。ここまで登って歩いたら暑さと疲労で着いて早々ロッジで寝ていたかもしれない。
「……今更だが、貴様は霊研の仕事で来た訳ではないのだろうな」
「今回はただの遊びですよ。若葉刑事こそ調べ物って言ってましたけど、この場所で調べたいことって」
「だから貴様らには無関係……いや、少し待て」
「?」
若葉はふと思い立ってポケットに入れていた小さな物――花のマークのバッジを手のひらに乗せて千理に見せた。
「……これに見覚えはあるか?」
「いえ、私の知る限り見たことはありませんね」
「貴様が断言するということは確実か。もしこの山でこのマークと同じものを見つけたら教えて欲しい」
「この山で?」
「何でも小さな祠に似たようなマークがあったと聞いている。だが具体的な場所は分かっていない。遊ぶついでに見つけたらでいい、俺に伝えてくれ」
「普通の花に見えますけど、何なんですかこれ」
「分からん」
「分からない?」
「それを知るために調べている」
千理は改めてバッジをしっかりと目に焼き付けた。太い黒縁でいくつもの細い花びらが描かれた何の変哲もない花の模様である。
細かい花弁は向日葵に近いだろうか、いや中央がそこまで大きくないのでヒナギク辺りか。どちらにしてもこの模様だけでは特定するのは難しい。
「分かりました。送ってもらいましたしそれくらい手伝いますよ」
「別に見返りを求めて車に乗せた訳じゃない」
「そうですね。若葉刑事ですもんね」
「どういう意味だそれは」
ともかく連絡手段が無いと困ると連絡先を交換してから別れた。しかしあのマークは一体何なのだろうか。わざわざ休日に調べに来ているというのに情報が少なすぎる。彼は何のためにそれを調べたいのだろうか。
駐車場を離れて自分達が止まるロッジまで向かうと、絵に描いたような可愛らしいログハウスがいくつも立てられており、自分達以外にもちらほらと人の姿がある。
「千理、来たか」
「手続きはもう済ませてあるよ」
千理が愁達の傍へ向かうとログハウスの周辺をあちこち見回っていた彼らが振り返った。
「食事の方も英二さん達が事前に予約してたから後でバーベキューをしよう」
「バーベキュー……いいな」
キャンプというよりもグランピングというやつである。必要な物は殆ど借りられるので慣れていない人間でも気軽に楽しむことができる。
食事の話を耳にした愁が、珍しく心底感情を込めて声を上げる。彼が霊体になって既に数ヶ月経つが、初めて後悔していそうである。
「牛肉、ソーセージ、コーン、タマネギ……海鮮系も悪くないし、マシュマロ……」
「愁が欲望に満ち溢れてる……」
「食べ盛りの男子高校生だからね。千理も食べたいものがあったら追加注文しようか」
「チョコレートありますか」
「聞いてみよう」
持参するとどうしても溶けてしまうので諦めていたそれを即座に口にすると、或真はまた愁と同じく欲に正直な千理に少し笑った。
「焼きマシュマロとかフルーツでチョコレートフォンデュとか……」
「千理、お前……焼きマシュマロだけですら美味いのになんて恐ろしい物を作り出そうと」
「恐ろしいでしょう? そんでもってビスケットに挟んだらなんとスモアになる! もう想像するだけでお腹が空く。もう食材全部チョコフォンデュに合うやつでいいと思う」
「それは嫌だ」
「急に冷めるじゃん……」
一瞬で真顔に戻った愁に千理が裏切られたような顔をする。この二人本当に仲が良いなと思いながら、或真はイリスにも意見を求めようと、ロッジの中へと入った。
「イリス……イリス? 何処に行ったんだ?」
「どうした或真、イリス先輩が居ないのか?」
「ああ。さっきまでロッジの中に居たのにいつの間に……」
ログハウスの中は思ったよりも広いがそれでも一瞥すれば全体を見ることができる。室内にイリスが居ないことに気が付いた或真は一体何処に行ってしまったのかと首を傾げ、心配そうな表情を浮かべた。
「イリスのことだからそんな危険なことはしていないと思う、が……」
「いざとなれば動物霊達がいますけど、何も言わずに出て行ったのが気になりますね」
「辺りを探してみるか。俺なら上から飛んで探せる」
「うん。愁、お願い」
何事もなければそれでいい。ただ一抹の不安が三人に過ぎり、愁はすぐに木々の合間を掛け抜けるように動き出した。
「イリス先輩! 何処だ!」
声を張り上げても聞こえて来るのはセミの鳴き声だけだ。居なくなった方角などまったく検討も付かないのだからとにかくがむしゃらに探すしかない。
「イリスせ……何だこれ」
途中首吊り自殺者の幽霊を轢き逃げしながら、走り続けていると不意に視界にちらちらと白い物が舞った。
受け止めようとした愁の手を当然すり抜けて行ったそれは、徐々に数を増やしてしんしんと周囲に降り注ぐ。愁にも見覚えのある、しかし今此処に存在するにはありえないものだった。
「真夏に……雪?」




