9-4 恐れるものは何もない
その怪異は人の記憶を読み取り、それを利用して悪夢を見せる。
誰しも、思い出したくない記憶が一つや二つあるだろう。学校で苛められた記憶、関係がこじれた家族や友人とのやりとり、好きだった人に振り向いてもらえずに失恋した記憶
怪異はそんな夢を操り、忘れたい記憶、もう二度と思い出さないように深く意識の底に沈めたトラウマなどを呼び起こし夢の中で何度も何度も再現する。
「何故だ……!」
悪夢を見るという行為は然程珍しいことではない。だから怪異は今まで対象に気付かれることなく悪夢を見せ続けて食らうことを難なく続けて来た。
「どういうことだお前!」
だからこそ彼は酷く困惑していた。目の前の男――桑原愁に向かって、ピエロの顔を大きく歪めて叫んだ。
「何故お前は……悪夢になるような記憶が一切無いんだ!」
「何故と言われても困るが」
「人間なら普通嫌な記憶ぐらいあるんだよ、何なんだお前は一体」
身勝手な理由で責められた愁は不可解そうな目で怪異を睨んだ。この怪異は千理を苦しめた張本人だ。愁としては今すぐ叩き潰してやりたいが、今の彼に攻撃手段はない。
「お前が知らないだけで普通に幸せな記憶しかない人間だって居るだろう。現に俺は今まで順風満帆に生きてきた。誰もが暗い過去やトラウマがあるなんて期待されても困る」
「車に轢かれて意識不明の重体になった挙げ句体を盗まれて霊体になったやつが何言ってるんだ! 普通の人間にはお前の今の状況が既に悪夢なんだよ!」
先程まで余裕の顔で千理を精神的にいたぶっていた怪異は何処へ行ったのか、ピエロは冷静さをかなぐり捨てて愁に怒鳴る。それに対して愁は大した反応も返さず、僅かに首を傾げただけだ。愁は愁なりに今の現状を真剣に捉えているのだが、何故か周りにはいつも暢気過ぎると言われてしまう。誠に遺憾だ。
「――だったら、これならどうだ」
「……?」
一頻り怒った後にふっとその表情を真顔に戻した怪異は、そう言ってすぐに姿を消した。途端に脳内に霧が掛かったように頭の中がぼんやりして、愁は立っていられずにふらりと片膝を付いた。
今まで何を考えていたのか、誰と話していたのかがどんどん曖昧になる。思い出そうとすれば余計にそれが掴めなくなって、ただ目の前の光景を眺めていることしかできない。
そこは一面赤黒い空間だった。所々に古い墓石がぽつぽつと置かれた異様な空気が漂うその場所に、愁は気が付いたらしゃがみ込んでいた。
「此処は……っ!」
辺りを見回したところで彼ははっとした。そうだ、自分は此処に千理を探しに来たのだと。
霊研を訪れた帰り、千理が謎の子供に連れて行かれた。鈴子やイリスの手を借りてこの場所を見つけ急いで此処までやって来たのだ。
愁はすぐさま走り出した。彼女の名前を呼んで一向に変わらない景色の中をただがむしゃらに進む。そうして少し経った頃、彼は視線の先に今までの景色とは違うものを見つけた。
「っせん、」
名前を呼ぼうとした声が不自然に途切れる。そして、愁は今まで走っていた足を急に止めて呆然とその場に立ち尽くした。
彼の目の前にあるのは赤黒い空間と墓石、それからけたけたと笑う子供と……血塗れになって地面に落ちている親友の姿だった。
彼女の周囲にはいくつかの刃物が浮き、そして少し離れた場所にぽつんと千切れた腕が落ちている。彼女の体は肘から先の右腕が無くなっており、左足も足首から先は大量の血だけしか見えない。そして一番目立つのは胸に深く突き刺さった包丁だ。
愁が言葉を失って動けないでいると、倒れたままの彼女――千理がゆっくりとゆっくりとその首を傾けて彼の方を見た。
「しゅ、う……いたい、よ」
途切れ途切れに言葉を発して、千理は助けを求めるように短くなった右腕を愁に向けて持ち上げる。ぼろぼろと涙を流しながら苦しげに息を吐く。
「どうしてこんなことに……っ、なっちゃったんだろうね」
「千理、」
「愁の、からだを探さなきゃ、こんな風に、ならなかったのかな」
「……」
「愁が……愁が事故に遭わなければ、そうしたら……。ねえ、愁、たすけてよ……痛い、よ」
懇願するように声を上げる千理に、愁は言葉を返さなかった。代わりに彼は止まっていた足をゆっくりと動かし始め、そして倒れた彼女の目の前までやって来た。
「愁、の、所為で」
「千理はこんなこと言わない」
その瞬間、愁の右足は彼女の体を思い切り蹴り飛ばしていた。
「は、」
驚愕の表情で蹴り飛ばされた千理が転がる。墓石に直撃して止まった彼女は目を丸くしながら愁を凝視して……そして「愁、酷いよ」と泣きながら彼を見上げた。
「偽物が千理を騙るな。……今ので思い出したがまだ夢の中だったな? さっきのピエロ、さっさとその不愉快な姿を止めろ」
「ぐ……」
酷く冷徹な視線で千理を見下ろす愁に、彼女は呻きながらぐにゃりとその姿を変え……そして怪異であるピエロの姿に戻った。その目は信じられないものを見る目で愁を捉えている。
「何故だ……何故夢だと分かった?」
「言っただろう、千理はあんな発言しない。あいつは責任転嫁が大嫌いだ。目の前に自分を害した犯人が居ながら俺を責めるようなことを言うはずがない」
「にしても好きな相手を蹴るとかお前人の心がないのか!?」
「怪異に人の心を説かれる筋合いはない。それにあの偽物が何だって? 千理を侮辱するのもいい加減にしろ。言動も仕草も何もかも違う。解像度が低い。出直して来い」
「お前もう此処から出て行け!!」
気持ち悪い! とピエロが叫んだ瞬間、愁の体は後方に吹き飛ばされ――そして、気が付けば病室に戻っていた。
□ □ □ □ □ □
「全く不愉快だった。さっさと出て来られて良かったと……千理どうした? また具合が悪くなったか?」
「愁、君千理の解像度がどうのって指摘出来るんならこの子の気持ちももっと分かってあげようね」
居たたまれないとばかりに両手で顔を覆った千理に愁が首を傾げる。そしてそんな二人を見て傍に居る櫟が堪らず酷く呆れた表情で口を挟んだ。
「……もう何でもいいよ。無事に戻って来てくれたからそれで十分」
「そうか」
「千理……君もう少し愁に言いたいこと言ってもいいんだよ」
「いいんです。多分言うと余計に厄介なことになりますから」
「何の話だ?」
「なんでもないから」
ようやく顔を上げた千理は深く溜め息を吐いた。突っ込みどころしかなかったが、今の千理に一々それを口にする気力は残っていなかった。
「櫟さん。それで本当に大丈夫なんですね?」
「勿論、こういうのは僕の専門分野だからね。気楽に構えてくれていいよ」
「あれを倒す方法があるのか?」
「うん。という訳で僕は寝るからそこのソファ借りるよ」
気を取り直して櫟が立ち上がる。彼は病室に置かれていたソファに横たわると軽く欠伸をしてから一度二人の方を見た。
「愁、一応僕が起きるまで千理が寝ないように見ておいてくれ」
「了解した」
「それじゃ、おやすみ」
それだけ言って櫟は目を閉じた。邪魔をしないように静かにしていた二人だったが、数分もしないうちに寝息が聞こえて来たのに気付き、千理は「はやっ」と小声で呟いた。
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「はあ……疲れた」
ピエロの姿をした怪異は一人になった肩を落とした。まったくもって厄介な相手だった。
最近見つけた餌である伊野神千理は彼にとって非常に相性の良い人間だった。何せ記憶力がずば抜けている為、夢もあまりにリアルに再現出来たのだ。それによって普段よりも鮮明に悪夢を見せることが出来た為、苦しむ彼女から随分と良質な食事をさせてもらった。
……が、喜んでいたのもつかの間、彼女は非常に面倒な相手を夢の中へ引きずり込んで来た。千理とは真逆に悪夢とは何もかも相性が悪い男である。おかげで余計なエネルギーを消費してしまった。人ひとりの膨大な記憶を読み取るのも、それを再現するものそれなりに力を使うのだ。また別の人間に悪夢を見せて回復しなければならない。
幸い昨夜のうちに一人の記憶は確保している。……が、今はまだ日中なので眠っていないようだ。他にこの時間に眠っている人間は居ないかと探ると、ちょうど一人該当する人間が見つかった。どうやら悪夢の対象者が誰かと手を繋ぎ、また餌となる人間を増やしてくれたようだ。
「今から記憶を読み取るのはしんどいが、まあすぐに悪夢を見せて回復すれば――っぐえ!?」
早速眠っている人間の記憶を読み取ろうとした怪異は……その瞬間、口元を押さえて嘔吐いた。気持ちが悪い、吐き気が止まらない。一瞬で起こった目眩に何も考えられなくなる。
「な……んだ、これ」
堪えきれずに吐き出す。それでも気持ち悪さは止まらない。必死に記憶を読み取るのを中断しようとするが、それが追いつかないほど一気に記憶が脳内に詰め込まれていく。
「ぐほっ、」
「あれ? キャパオーバーで一気にやられるかと思ったけど、案外しぶといね」
不意に、両手を着いて地面に吐いていた怪異の頭上から優しげな男の声がした。いつの間にか、自分だけの領域に別の存在が紛れ込んでいる。それに気付いて怪異が頭痛を堪えて顔を上げると、見覚えのある男が軽く帽子を持ち上げて自分を見下ろしているところだった。
「貴様……!」
「君、結構強い怪異なんだね。甘く見てて悪かったよ」
見覚えがあるなんてものではない。この男は現在彼の脳内を浸食する記憶の持ち主に他ならなかった。
そしてその男は……とてもただの人間だとは到底思えなかった。
「折角だから僕の悪夢も食べていきなよ。愁とは違ってかなりレパートリーあるからさ、好きに選んでいいよ。例えばそうだね、六歳の時に生け贄になって湖に沈められた時のことはどうだ? ああ、それとも口減らしに山中に捨てられて餓死した時でもいい。あとは両手足を切り落とされて拷問された時の……いや、これは別に悪夢でもないな。じゃあ空爆から逃げようとして錯乱した家族に滅多刺しにされたのはどうかな」
「お前は、なんだ」
「僕が何かって? 可笑しなこと聞くね。そんなのいくらでも記憶から読み取ればいいじゃないか」
「人間じゃ、ない」
「失礼なことを言う。僕は生物学上人間なんだけど」
「こんな……こんな膨大な記憶を持つ人間が居るはずがない!!」
何とか記憶を遮断した怪異が叫ぶ。全てを読み取ることは叶わないが、それでもこの男の記憶の総量がどれほどかというのは分かってしまった。
それはおおよそ――千年単位。
「はは、残念だけど僕は人間なんだ。まあちょっと覚えていることは人よりも多いけどね。……おっと、追い出されてしまっては困るな。君には千理が随分と世話になったようだからきっちりお礼をしなければ」
怪異は堪らずに男――櫟を夢の空間から追い出そうと力を振り絞る。しかし彼はいとも容易くその力を撥ね除けると、薄ら笑みを浮かべてゆっくりと怪異に近付いて来た。
怪異はその薄気味悪さに思わず飛び退いたが、すぐに接近した櫟の左手が彼の頭を鷲掴み身動きが取れなくなった。
おかしい。この空間は彼の支配下だ。愁の攻撃を無効化した時のように本来ならば彼に触れることなど不可能なはずだ。
不可解な状況に混乱した怪異がもがいてもその手は外れない。
「不思議そうだね。でもまあさっきも言ったけど、僕の記憶を読めばすぐに分かることだよ」
櫟が空いている右腕を振り上げる。いつの間にかその手が持っていたものを目にして、怪異は反射的に櫟の記憶からその答えを拾い上げた。
「お前は」
「そもそも僕は――体が無いの方が強いからね」
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「櫟さん大丈夫かな……」
「きっとすぐに戻って来る。あの人は強いからな」
櫟が眠ってしまった病室の中で、千理と愁は彼を窺いながら小さな声で話をしていた。
「櫟さんって、実はよく分からないんだよね」
「分からないとは?」
「ほら、他の人は結構分かりやすいでしょ? イリスが動物霊に指示したり、鈴子さんが物の記憶読み取ったり。でも櫟さんは悪霊退治とか怪異専門だとか言ってるけど、幅が広すぎて何が出来るのかいまいち分かってないというか」
「俺はお前よりも櫟さんと仕事をすることが多いが、大体俺が倒した霊を成仏させているのが殆どだな。だがまあ強いのは確かだ。安心して待っているといい」
「うん、そうだよね」
普段はどちらかと言うと愁達に振り回されている印象が強い櫟だが、彼自身も十分マイペースで飄々としている。そして名前もそうだが謎が多い。
だが頼れる所長であるのは間違いない。今回も自信満々で眠ったので心配しなくてもいいだろうと、千理は肩の力を抜いた。
「ところで千理、一つ謝りたいことがある」
「何?」
「いくら偽物とは言え、お前と似たものを蹴り飛ばしたのは気分が良くないだろう。すまなかった」
「いや別に気にしてないけど」
「そうか? 今思うとやり過ぎたと思ってな。何故か今日はすぐに感情的になってしまう気がする」
「今日はっていうか夢の中だったからじゃない? 夢の中でも常に理性的でいろって方が無理な話だよ」
「そういうものか」
「むしろ現実じゃなくて本当に良かった。……あの、愁。一応言っておくけどもし万が一現実であの人に会っても暴力振るったら駄目だからね?」
「……」
「愁?? 返事は?」
「分かった」
「今心の中で多分って付け足したでしょ」
「何故分かる」
「分かるわ」
千理が片手で頭を抱えた。あれが現実ではなくて本当に良かったと心底思った。自分の所為で――いやそうでなくても愁が傷害罪で逮捕されるなんて冗談ではない。彼の祖父に顔向けできない。
彼女は怒り狂っていた愁を思い出して溜め息を吐き……そしてふと自分の手に視線を落とした。
「そういえば……触れたな」
千理はあの夢の中で必死に愁を止めた。その時は意識していなかったが、よくよく考えればあの時千理は愁に触れることが出来たのだ。勿論体温を感じた訳ではないが、それでも久しぶりに触れられたのが嬉しくて、あの悪夢も悪いことばかりでもなかったかと少々思い直した。
「千理? ぼーっとしてどうした」
「な、何でもない! ……ところで愁、さっきの話で私がそんなこと言うはずがないみたいなこと言ってたけど、逆に愁はなんて言うと思ってたの?」
「はっきりとこうだと答えを考えていた訳では無いが……そうだなちょっと待て。千理も正解を考えておいてくれ」
黙り始めた愁を見て千理はほっとした。適当に話を逸らしたが乗ってくれたようだ。千理も愁に言われたように自分が言うであろう言葉を考える。
「……まあ、多分冷静に考えるとそんな怪我してたら気絶してるか、仮に意識があっても痛すぎて真面に話せる自信ないけど」
「それ以前の問題じゃないか」
「そういうのは無視するとして……どう? 私の解像度が高いらしい愁は何て言うと思う?」
「……お前があんな状態になるなんて考えたくもないが、そうだな。駆けつけた俺に向かって何か言うとしたら、俺が気に病むのを見越して俺の所為じゃないとか、自分を責めなくていいとか言うんじゃないか?」
「成程ね。まあ違うけど」
「違うのか。俺もまだまだだな。あの怪異に説教する資格はなかったかもしれない」
「まあでもそういうことも思うかもしれない。けど真っ先に言うんなら違うかな」
「正解は何なんだ?」
「それはね、」
「楽しそうなところ悪いんだけど、ちょっといいかな」
「!?」
突然会話に割り込んできた声に驚いて、千理はすぐさまそちらを振り返った。
「櫟さん……おかえりなさい」
「や、ただいま。悪いねいちゃついてるところ邪魔しちゃって」
「そんなんじゃないです!」
「ああ、別にいつも通りだ」
「……それはそれでどうかと思うけど」
起きて早々、櫟は呆れた顔をしながらベッドサイドの丸椅子に座り直した。つい先程まで殺伐とした空間に居たのでそのギャップで風邪を引きそうだ。
「それで、あの怪異はどうなったんだ?」
「勿論倒したよ。もう安心していい」
「ちなみにどうやって? あの怪異って愁の攻撃もちっとも効きませんでしたけど」
「さてね、どうだったかな」
「……まあいいです。倒したのは本当でしょうし。櫟さん、ありがとうございました」
「俺からも礼を言わせてほしい。千理を助けてくれて本当にありがとう。……俺では全く太刀打ち出来なかったからな」
「いいんだよ。可愛い部下を助けるのは所長の仕事だからね。それに愁、今回は僕の方が相性が良かっただけだ。何事も適材適所だよ。君が活躍できる場面はいくらでもあるんだから気にしなくていいんだ」
櫟は愁を宥めるようにそう言うと、立ち上がって大きく伸びをした。
「さて、僕はもう帰るから千理はゆっくり休むんだよ。仕事は完全に元気になってからでいいから無理はしないこと」
「はい、ありがとうございます」
「愁。大丈夫だと思うけど、もしまだ千理に何かあったらすぐに教えてくれ」
「分かった」
ひらひらと手を振って櫟が病室から出て行く。その瞬間、千理は糸が切れたかのように全身の力が抜けてベッドに倒れ込んだ。どっと疲労感と睡眠欲が全身を襲う。もう眠ることに怯えずに済むのだ。そう安堵するとみるみるうちに瞼が下り始めた。
「おやすみ……」
「ああ。おやすみ」
愁の優しげな声を聞きながら、千理は気持ちよく意識を沈め……ようとしてふと一つ思い出した。
「そういえば……昨日若葉刑事と手繋いだっけ」
「は?」
「あの人悪夢見ちゃったかな……。まあ見ても一日だし許してもらお……」
「ちょっと待て千理、どういうことだ」
一人で納得して寝入ろうとしている千理とは裏腹に、愁は途端に焦燥感を滲ませて彼女を問い詰めた。しかしすでに夢の中に旅立とうとしている千理にその言葉は届かない。
「千理、おい千理! 説明を」
「うるっさい! 眠るから静かにして!」
「……はい」
ーーー
「どう? 痛い? 可哀想に、君は霊研と関わったからこんなことになってるんだよ?」
ああ、これは……夢だ。
目の前で楽しげに笑う子供を見て、千理は一瞬で理解した。ちらりと眼球だけ動かして周囲を見ればそこは赤黒い空間、右腕は途中で千切れて体中が訳も分からないくらい痛い。
まだ悪夢は終わっていなかったのだろうか。櫟は倒したと言っていたが、実はこっそり逃げていてまだ自分はあのピエロの餌にされているのかもしれない。
だが、夢だと分かっていても今の千理には動く術が無い。全身がぼろぼろで、ひゅうひゅうと呼吸を繰り返して死を待つだけしか出来ない。
「千理!!」
いっそ早く止めを差して欲しいと考えていたその時、何処からか彼の声が聞こえた。そしてその瞬間、彼女はすぐさま理解した。
違う。これが悪夢のはずがないのだと。櫟はちゃんと怪異を倒していて、これはごく普通の夢なのだと瞬時に分かった。
彼が来てくれたのに、これが悪夢のわけがあるか。千理がそう考えていると、愁はすぐさま彼女の傍に膝を着いて体を抱きしめた。
「千理、しっかりしろ!」
「愁……」
必死の形相の彼が視界に入って、千理は思わず笑ってしまった。そんな彼女を驚いたように見ている愁の頬へ、無事な方の手を添える。
恐ろしい目にあって、今にも死に絶えそうな状態で、そんな時に愁が来てくれたら彼女が思うことなんて決まっていた。
「助けに来てくれて、ありがとう。……愁が居たら、もう何も心配いらないね」
もう何も恐れるものは無くなった。たとえ自分がこれから死ぬとしても、それは変わらない。
※活動報告にちょっとおまけあり




