9-2 あなたがいるから
「それじゃあ皆、二人組でペアになって下さい」
担任がそう指示を出した瞬間、今まで静かだった教室の中がわっと賑やかになった。各々が席を立ち動き始める。とある生徒は真っ直ぐにお目当ての親友の元へ行き、そしてあるグループは誰が組むかでじゃんけんを始め、また奇数で固まる子達は誰かが抜けてくれないかとお互い窺い合っている。
「……」
そんな中、一人席に座ったまま俯いて動かない生徒が居る。彼女――千理はどうせこのクラスは偶数なのだから残った人でいいやと投げやりに考えて小さく溜め息を吐いた。
彼女がこの四年三組に転入して来て一週間が経った。しかし千理はクラスメイトとは全く馴染めず、折角学校に通えるようになったというのに苦痛な日々が続いていた。
ずっと昔から自由になりたいと考えていた。だが現実はこうだ。社会に順応出来ず生産性の無い時間を過ごして……自分は何がしたかったのだろうと考えてしまう。
(折角助けてもらったのに、こんなんじゃ顔向け出来ない。……どうせ、もう会えないんだけど)
「おい」
「!?」
千理がただただ自己嫌悪に苛まれていたその時、突如真後ろから声を掛けられて思わず椅子から飛び上がりそうになった。
慌てて振り返ると、そこには千理よりも少し背が高く仏頂面の男の子が立っていた。
「桑原愁だ、よろしく」
「……え?」
「俺とペアになってくれ」
表情が変わらず少々怖い印象を持つ彼は淡々とそう言って千理の隣の席に座る。彼女は少々困惑の表情を浮かべながらそっと愁を窺い、そして口を開いた。
「あの……」
「どうした?」
「まだ決まってない子居るよ? 他の子じゃなくていいの?」
「俺だと駄目だったか?」
「そういう訳じゃないけど、なんでかなって」
「お前のことはまだよく知らないから知ろうと思っただけだ。何かおかしいか」
心底不思議そうな声でそう言った愁に千理は返答に困って黙り込んだ。そうこうしているうちにクラス全員が二人組になったようで担任が静かにするようにと促す。
「テーマはこの町についてです。内容は自由なので、皆自分達の興味のあることを調べて纏めて来て下さい。最後はクラスで発表会もするのでちゃんとやらなきゃ駄目ですよ」
(自由……)
千理は今一番聞きたくない単語を聞いてぎゅっと両手を膝の上で握りしめた。自由ってなんだろう。
「桑原君、テーマって……」
「ああ、そもそも伊野神はこの町のことをよく知らないだろうな」
「……うん、それはそうなんだけど」
「じゃあまず俺が案内してやる。今日の放課後時間あるか?」
「え、今日?」
「今日」
「……いいけど」
「じゃあ後で」
チャイムが鳴ると同時に愁はそう言ってさっさと自分の席へと戻って行った。こんなにも人と話したのは担任を除くとこのクラスで初めてだ。何とも不思議な空気の男の子だったと、千理はちらりと愁の後ろ姿を目で追った。
「伊野神、行こう」
そして放課後になるとすぐに彼は千理の元へとやって来た。遠巻きに他のクラスメイトがきょとんとした目で二人に視線を送る。それが冷やかしでも悪意のあるものでもないのは、彼らも愁の行動が予想出来ないものだからだ。当の本人はただの好奇心で動いているだけなのだが。
千理がランドセルを背負ったのを見ると、愁は早速彼女の手を掴んで教室を飛び出した。そして手始めに学校のことを、と校内をあちこち連れ回し「誰も居ないのに音楽室からピアノの音がする」という怪談話から「二宮金次郎に居眠りしてた校長のヅラを被せたことがある」「保健室に行くとたまに先生が飴をくれる」などと言った全く課題にならなそうな話題まで相変わらず淡々と無表情のまま聞かせてくれた。
「あの……申し訳ないけどその話、課題じゃ使えないけど」
「それはそうだが何か問題でもあるのか?」
「え?」
「ん?」
「……いや、だから。話してもらっても使えなきゃ意味が無いし」
「別に使わなきゃいいだろう。というか使われると俺が困る。まだ校長に犯人バレてないんだ」
「……」
千理はまるで未知の生物と出会ったかのような目で愁を見つめた。課題の為に一緒に行動しているのに関わらず全く無関係なことをして、しかも内容が内容だ。今まで理路整然と必要なことだけを選び取って生きてきた千理にとってはまるで理解出来ない人間だ。
「学校はこれくらいにして外行くか」
千理が只管困惑している間にも愁はさっさと彼女を連れて学校を後にした。昨日は大雨が降ったのであちこちに水たまりがあって、愁がそれを飛び越えるのに手を引っ張られている千理も巻き込まれる。
そうして無駄に疲れながら近くの公園へと入りベンチの傍までやって来ると、途端に彼はぴたりと足を止める。
「来るぞ」
「何が……ってうわああああ!!?」
その瞬間、千理の視界が一面灰色に染まった。一瞬遅れてそれが鳩の群れだと理解した時には、千理は恐怖のあまり愁にしがみついており、愁はというと……相変わらず落ち着いた様子で「驚いたか」と千理を窺っているところだった。
「な、なに」
「此処の鳩は妙に記憶力が良くてがめついんだ。一度餌をやったが最後、いつまでも来る度に群がられて食べ物を要求されるようになる」
「こっわ!」
「ちなみに俺は五歳の時からずっとこんな感じだ」
「何でちょっと嬉しそうなの!?」
「俺、他の動物に嫌われて近付けないことが多いんだが、こいつらはいつも歓迎してくれるからな」
「いやこれ絶対歓迎とかじゃないから。カツアゲ的なあれだから」
仏頂面ながら僅かに表情を緩めた愁に千理が思わず叫ぶ。そうしている間にも鳩達は千理達を……正確に言うなら愁を取り囲んでじりじりと近付いてくる。
千理は助けを求めるように愁を見上げた。
「それで、餌を上げたらどっか行ってくれるの?」
「ああ」
「だったら早く」
「持ってないが」
「じゃあ最初から来るなっ!!」
「学校に余計な物を持って来るなと先生が」
「こんな時だけ真面目!? 校長のヅラは盗むくせに何言ってんの!」
□ □ □ □ □ □
「怖かった……」
「悪い」
何とか決死の思いで公園から逃げ出した千理はとぼとぼと肩を落として歩く。そんな彼女の後ろを、本当に悪いと思っているのか分からない顔の愁が続き、家の近所までやって来たところだった。
「伊野神」
「……何」
「まだ時間はあるか? 最後にもう一つ紹介したい場所があるんだが」
「鳩は?」
「居ない」
「他に怖いものは?」
「お前にとっては無い」
「ならいいけど……」
ぽんぽんとテンポ良く進む会話に千理も諦めて頷く。愁とは今日初めて話したというのに妙に会話が進むというか……ただ単に愁に突っ込み所が多すぎるだけかもしれないが。 千理がそんなことを考えていると、ちょうど愁も同じようなことを思ったのか「思ったよりもよく喋るな」とぽつりと感想を呟いた。
「教室では静かだからもっと大人しいやつだと思ってた」
「悪い?」
「いや、話しやすくていい」
「……そっか」
「何でクラスではあまり話さないんだ? おかげで俺はこの一週間でお前のこと滅茶苦茶頭の良い転入生ってことしか分からなかったが」
愁が首を傾げてそう言った瞬間、千理の眉がぐっと顰められた。
「……違う」
「何が?」
「私……ちっとも頭なんて良くない」
「そんなこと無いだろ。来たばかりでちょうどテストもあったのに全部満点だったって聞いて」
「違う!! 私は――」
千理が感情のまま叫ぼうとした言葉は、しかしすぐ背後からやって来た車の音に掻き消された。狭い道をスピードを上げて車が千里達のすぐ傍を勢いよく通り抜ける。そしてそれと同時に――跳ね上がった大量の水たまりの水が二人を襲った。
「……」
「……」
二人に水を掛けたことなど気付いた様子もなく車が見えなくなる。
まるで時が止まったかのように思えた。髪から靴下までびっしょりと掛かった雨水に愁と千理は思わず無言で目を合わせる。
「伊野神、来い」
しかしややあって先に動き出したのは愁の方だった。彼は再び濡れた手で千理を掴み、小走りで迷い無く足を動かし始めた。我に返った千理も彼に釣られるように走り出し、そして然程距離もない場所ですぐに愁は立ち止まった。
「此処は……」
「俺のうち」
木製の表札に桑原と書かれた、一軒家にしては随分と敷地の広そうな家だ。ずかずかと入って行く愁に引っ張られて千理も門を潜ると敷地の中に建物が二つ並んでいるのが見えた。一つはごく普通の一軒家、そしてもう一つは平屋の日本家屋だった。
そしてその日本家屋は縁側から中が見えるように開け放たれており、何やら数人の人間が竹刀で打ち合いをしているのが見える。そのうち、最も年嵩の男がちらりと千理達の方へと目を向けて少し驚いた顔をした。
彼は急ぎ足で縁側を降りて彼女たちの元へとやって来る。
「じーちゃんただいま」
「愁……お前なんだその格好は。それにそっちの子も」
「車に水ぶっかけられた。こっちは友達」
「と、友達?」
「そりゃあ災難だったな。さっさと着替えなさい。君もこっちへ……静さん!」
「はいはいお義父さん、どうしましたか?」
愁の言葉に千理が固まっていると、平屋と面する一軒家の窓が開けられてそこから女性が顔を出した。愁が「母さんだ」とぼそりと補足する。
「この子の着替えを用意してくれ。門下生用の予備があっただろう」
「分かりました。愁のお友達かな?」
「え、っと」
「そうだ伊野神……なんだったか」
「千理」
「そう、千理だ」
「お友達の名前忘れたら駄目でしょ」
いや友達も何もほぼ初対面だと千理が言おうとするが、その前に静が窓から離れてしまった為言いそびれてしまった。そして玄関から回って千理の元へとやって来ると、すぐに彼女を受け取って家の中へと連れて行かれる。
「水たまりの水だし、髪の毛もびしゃびしゃだからお風呂入ってね」
「あの、お気遣い無く。すぐに帰りますので気にしないで頂けたら……」
「すごいしっかりしてる! 愁も見習ってくれたらいいんだけど。でもこんなに濡れてるし遠慮しなくていいよ」
「家も近いので平気です」
「そういえば近所に伊野神さんって……でもあそこの家の人って殆ど見たことが無いんだけれど」
「それは皆仕事で忙しくて……大体夜遅くにならないと帰って来ないのであまり会わないかと」
「なら尚更!」
「え?」
「家に帰っても一人ってことでしょ。だったらうちに居た方がいいと思うよ。そうだ、千理ちゃん夕飯とかはどうしてるの?」
「買ってきた物を……」
「じゃあ今日はうちで食べて行ってね」
「えぇ……」
ぐいぐいと勢いよく来られて千理はたじたじだった。初対面の子供にどうしてこんなにも友好的に接して来るのかが分からない。
「愁が女の子を連れて来るなんて! ガールフレンド? もしかして彼女? あの子ったらませてるんだからー!」
押し切られて風呂に入ろうとした時に聞こえて来た言葉に思わず「何もかも違う!」と聞こえないことを承知で思わず声を上げた。
□ □ □ □ □ □
「ありがとうございました……」
「いいのいいの」
風呂から上がった千理は静かにお礼を言いながらちらちらと周囲を窺う。他人の家なんて初めて入ったのでとても緊張する。そわそわと忙しなく視線を彷徨わせていると、静はそれを見て何を思ったのか、嬉しそうな顔で「こっちだよ」と千理の手を引いた。
何がこっちなのかと千理が訝しげにしていると、静は家の外に出て平屋の方に向かっていた。縁側で靴を脱いで上がると、先程見たように数人が竹刀を手に稽古に励んでいるところだった。そしてその中には着替えを済ませた愁の姿もある。
「もー愁ったら、お友達放って稽古始めるなんて」
「稽古……剣道のですか?」
「ううん、少し違うの。此処は剣道じゃなくて、剣術道場。あのおじいちゃんが師範代で皆に教えてるの」
「……少し見ててもいいですか?」
「勿論」
何となく興味を引かれた千理は静に促されて道場の端に座って稽古の様子を眺めた。やはり目が行くのは愁だ。知っている人が彼だけだというのも勿論だが、それ以上に振り下ろされる竹刀の剣捌きに千理は目を奪われた。
道場に居るのは愁よりも年上ばかりだというのに彼は一歩も引かないどころかあっさりと勝負を決める。千理は剣のことなど全く分からないが、それでも愁の動きがとても洗練されているものだということは何となく感じることが出来た。
先程までの愁は何処へ行ったのか。今彼女の目の前に居る彼はまさしく武士と呼ぶような一本筋の通った人間に映った。
「伊野神」
しかしそれは彼が千理に気付くまでのことだった。しばらく打ち合いの後竹刀を下ろした愁はようやく視界の端に千理を見つけて傍までやってくる。
「最後に見せたかったのはうちの道場だ。どうだ?」
「すごいね……剣術なんて初めて見たけど綺麗だった。それに桑原君ってすごく強いんだね」
「それほどでも」
千理が褒めると愁は静かに頷いた。しかし僅かに喜んでいる雰囲気が何となく伝わって来る。……この短期間で千理は随分と彼のことが分かるようになったらしい。
隣に座る静がにまにましているのがちらりと見えて、千理はちょっと苦い顔をした。
「伊野神もやってみるか?」
「いや……私はいいや。運動神経も無いし、向いてないよきっと」
「そうか、まあお前は運動より勉強の方が得意だからな」
「……だから、」
「へー、やっぱり千理ちゃんって頭良いんだ」
「ああ、すごいぞ。何しろテストで――」
「違うってば!!」
千理が思わず叫んだ瞬間、しんと道場が静まりかえった。その空気にすぐにはっとした千理は「……すみません」と消え入りそうな声で他の人達に頭を下げて早足で道場から飛び出した。
「伊野神!」
愁が呼び止めても千理は反応しない。そのまま縁側から外に出て門を潜ろうとした彼女は……けれどもその前に追いついた愁に腕を掴まれた。
「伊野神」
「……」
「何が違うんだ? 教えてくれ」
向かい合うように体を反転させられて千理は視線が合わないように俯いた。愁はそんな千理をじっと見つめてそのまま彼女の言葉を待つ。
それからどれだけ経っただろうか。数秒か数分か、ただ大人しく待っているとようやく俯いたままで千理が口を開いた。
「……私は、ちっとも頭なんて良くないの」
「どうしてそう思うんだ」
「どうしても何も、事実だからだよ。私なんか頭の良いうちに入らない。私はただ人よりも少しだけ記憶力がいいだけ。見たものを全て記憶して……だけど、それだけ」
「それは十分すごいことだと思うが」
「違う、何の意味もない」
記憶力が良くたってそれだけだ。「覚えるだけなら機械で十分」と、そう言われた言葉が頭を過ぎった。
「私よりも頭の良い人はこの世に数え切れないほど居る。すごくなんてない。私は……そんな言葉を言われる資格はないの」
「……」
千理がそう言い終えると、愁は無言でそっと彼女の手を離した。それにほっとするのと同時に僅かに落胆したのを自覚する。
こんなに面倒な人間、友達だなんて言わなければよかったと思われても仕方が無い。
「……よく分からないんだが、一ついいか」
しかしその時、離した手を組み愁が不思議そうに首を傾げた。
「別に他のやつがすごかろうと、俺が伊野神をすごいと言うのに何が関係あるんだ?」
「……え?」
「お前よりも頭の良いやつが居たとても俺は知らないし、どうでもいいと思うんだが」
「ど、どうでもいい!?」
「そうじゃないか? むしろ何を気にしてるんだ?」
「……それは」
『あなたはお兄さんの下位互換……いや互換性すらない欠陥だったわね』
十年生きてきて、千理はずっと比較されて来た。比べられないことなんて一度もなかった。だから愁の言っていることが、千理には理解し難かった。
「……それは桑原君が知らないからだよ。本当にすごい人を知ったら私のことなんて何とも思わなくなる」
「そうか。……ところで伊野神、俺は剣術が得意だ」
「は?」
いきなり変わった話題に千理は一瞬思考が出遅れた。
「剣術が得意だ」
「知って……るけど」
「他のやつも打ち負かすし、結構強いと思ってる」
「だから分かって」
「さっきお前は俺のことをすごいと言った。綺麗で、強いと言ったな。だけど俺はじーちゃんに一度も勝ったことが無いしこれから先いつ勝てるかも分からない。だから伊野神、」
「俺がじーちゃんに勝てないって知って……さっきの言葉、取り消すか?」
その言葉に千理は大きく目を見開いた。
「できれば取り消さないでほしい。すごいって言われたの嬉しかったからな」
「……取り、消さないよ」
「ならよかった。なら俺もお前のことすごいって思っててもいいか?」
「うん……」
「あと千理って呼んでもいいか」
「うん??」
「伊野神って言いにくいんだ。千理の方が呼びやすい」
いきなり180度変わった話題――しかも先程とは違いただの思いつきで付け足された言葉に、もう少し間を開けろと思いながらも千理はちょっと笑った。
「千理、この問題分からないんだが」
「どれ?」
結局夕食を桑原家で取った後愁と一緒に宿題をやっている(なお千理は一瞬で終わった)と、愁が算数の問題集を広げて千理に見せてきた。
「五角形の内角の和? 540度」
「何でそうなるんだ? 理由が分からないと覚えられない」
「ほら、こうやって……対角線で区切ると三角形が三つになるでしょ? 三角形の内角が180度だから、掛ける3で540度ってこと」
「ああ、そういうことか。千理はすごいな」
千理にとっては幼稚園レベル(なお実際通っては居ない)で何も誇るようなものではないし、そもそもクラスメイトだって普通に分かる問題だ。
「……そう」
それでも愁の言葉にむず痒さを覚えて、千理は照れ隠しをするように俯いてとっくに時終わった問題集に顔を埋めた。
□ □ □ □ □ □
「本当に、愁にとっては当たり前の言葉だったと思うんです。だけどその言葉だけで私は救われた」
「……うん」
鮮明に思い起こされる過去を鈴子に話しながら、千理は改めてそう言った。
愁と共にいると自分だけでは見ることの出来なかった視界が開けた。それは良いものも悪いものもどうでもいいものもあったが、それらが今の千理を形作っている。
「愁ってちょっと人とずれてて、独自の考え方があって……あの頃の私にとって、あまりに自由で眩しい存在だったんです。愁が私に、私が望んでいた自由を教えてくれた。……本当に、恩人なんです」
その分振り回されたって、それすらもプラスに感じてしまうほどに感謝している。
「恩人で、親友で……好きな人で。あらゆる関係性を求めて、色んな感情を向けて……はは、流石に重すぎますよね。愁が知ったらどん引きするかも」
「あら? 重くて悪いことなんて無いわよ。愛なんて重ければ重いほどいいじゃない」
「……それは、流石に」
「そうかしら」
にこにこと微笑む鈴子に、千理は気付かれないように小さく溜め息を吐いた。鈴子がどう思ってその結論に達したのか気にならない訳ではないが、これ以上聞くと藪蛇になりそうなので追求しないでおく。
「千理ちゃんに良いこと教えてあげる」
「良いこと?」
「千理ちゃんは愁君に何も返せてないって言ったけどそんなことはないの。だって愁君、この前『千理がいてくれるから頑張れる』って言ってたもの」
「……それはどういう」
「愁君って霊体になってもすごく元気……というか、落ち込んだりとかしないでしょう?」
「そうですね。あんな状態なのにいっつも暢気というか」
「だからその辺りのことを聞いてみたの。そうしたらね愁君、千理ちゃんがいるから大丈夫だって」
『もし体が盗まれて、そして誰にも認識されないままだったら流石に俺もきつかっただろう。既に両親には死んだと思われてそうだしな。……だが千理が気付いてくれた。俺のことを見て、話して、呼んでくれた。俺がまだ死んでいないことを分かってくれて、一緒に体を探そうと頑張ってくれている。これほど心強い存在があるか。だから俺は折れずにいられるんだ』
鈴子の脳裏に愁との会話が過ぎった。鈴子は愁の表情を窺い知ることは出来ない。だがあの時彼がどんな気持ちでその言葉を口にしたのか、何となく伝わって来た。
「千理ちゃんがいるだけで、愁君は救われてるのよ」
「……はは、」
千理が再び机に突っ伏した。しかしその表情は先程とは全く違う。頬を紅潮させて、口元を緩ませて、別の意味で泣きそうになっている。
「私も……『千理はすごいな』って愁が言ってくれるだけで頑張れるんです」
「ふふ、素敵な両思いね」
「あー何か、落ち込んでる時間が無駄過ぎて馬鹿馬鹿しくなって来ました。とっとと体調戻してまた頑張ります」
「でも頑張りすぎては駄目よ? 愁君が霊研に入った条件、千理ちゃんなら当然覚えているはずよね?」
「う……はい」
「よろしい。それじゃあ私はこれでお暇させてもらうわね」
「はい、ありがとうございました。コガネさんにも美味しかったって言っておいて下さい」
先程よりもずっと軽い体を持ち上げて鈴子を玄関まで見送る。そして再び戻ってくると、テーブルに置かれたチョコレートが目に入って千理は少し口角を上げた。
大事に大事に残されたチョコレートを口に運ぶ。相変わらず、美味しい。
「――私も、頑張るよ」
□ □ □ □ □ □
「……ん?」
早朝、愁はふわふわと体を漂わせながら千理の家へと向かっていた。最近あまり顔色が良くない気がするが大丈夫だろうか。
そんなことを考えていたその時、不意に愁はぴたりと空中で体を静止させた。見慣れた家の前に白と赤が目立つ車両が停まっているのだ。
「救急車……」
ちょうど家の中から担架で誰かが運ばれてくる。途轍もなく嫌な予感がして、愁はすぐさま運ばれている人物を覗き込んだ。意識を失い、救急車に乗せられる彼女を。
「千理」