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霊研の探偵さま  作者: とど
一章
18/74

9-1 情緒不安定


「暑い」


 頭がぐらぐらする。

 太陽がちょうど真上に来る時刻、千理はふらつく足取りで学校を出てその厳しい日差しに険しい表情を浮かべた。いや彼女が苦しんでいるのは日差しの所為だけではない。相変わらず連日止まない悪夢の所為で体調が悪化し、ちょうど今学校を早退して来たところである。

 明日だったら終業式で早く帰ることも出来たがあと一日頑張る気力はない。何より昨日、愁を轢き逃げした犯人を告発したばかりである。精神的にも余裕など一欠片も残っていないと言って良かった。


「ちょっと……休憩しよ」


 学校から最寄り駅まで何とか歩こうとしたが早々にへばり、千理は通りがかりにあった公園のベンチに座り込んだ。頭が重く目眩が酷い。もしかしたら熱中症にもなりかけているかもしれない。

 大きく息を吐きながら、額を押さえて俯いた。こんな屋根のない場所に座っていれば余計に体調が悪くなるかもしれないが、一度座ってしまったら動けなくなってしまった。果たして無事に一人で家まで辿り着くことができるだろうか。


「……」


 毎日毎日悪夢を見る。転た寝をしていても睡眠薬を飲んで深く眠りに着こうと構わずに、悪夢はいつでも千理に降りかかり逃がしてはくれない。

 だが――あまりにも“いつも”が過ぎる。 


「流石に、おかしい」


 寝不足だと言っても夢を見ているということは眠っている。それなのにあまりにも心身共に消耗が激しい。それにある日を境に突然悪夢ばかり見始めたというのも不審だ。それが愁が事故に遭ったあの日からだというなら分かるが、何故今になってなのだろう。

 他に原因があるとすれば……それこそ、もしや霊研案件に当てはまってしまうのではないだろうか。何でもかんでも幽霊だの超常現象の所為にするつもりはないが、可能性がある以上疑うことも必要だ。



「――君、大丈夫か」


 霊研の誰かに相談してみた方がいいかもしれない。そんなことを考えていたその時、不意に頭の上から心配そうな男性の声が聞こえてきた。どうやらこんな平日の真っ昼間にベンチに座り込んで頭を抱えているのを見て声を掛けて来たのだろう。

 頭を持ち上げるのも煩わしい。だが何か返事をしなくては。千理は何とか無理矢理頭を動かして声のした方へと顔を向けた。


「何処か具合でも……あ」

「いえ、大丈夫で……あ」


 ほぼ同時に言葉を止めた二人が見つめ合う。そういえば聞き覚えのある声だったと思い出したのは千理が彼の顔を見てからだった。

 特徴的な七三分けと四角い眼鏡、この暑いのにきっちりとスーツを着こなしたその男は千理と顔を合わせると途端に心配そうにしていた顔を僅かに歪めた。


「……伊野神千理」

「はは……どうも、若葉刑事」

「貴様、こんなところで何をしている。学校はどうした」

「ちょっと体調不良で早退したんですけど、疲れて休憩中です」


 よりにもよってこの人か、と千理は内心大きく溜め息を吐く。彼女に敵愾心を抱くこの男の相手をする程の気力など今は残っていないというのに。

 乾いた笑いを零しながら「できればいつものように怒鳴らないで欲しいな」と祈っていると、若葉はますます表情を険しくして半ば睨むように千理を見る。


「馬鹿か貴様は。こんな炎天下の中で座って体力が戻ると思うほど頭が足りてないとは思わなかったぞ」

「それは、そうなんですけど……歩く気力がなくて」

「家族の迎えは」

「今家に誰も居ないんです」

「……はぁ」


 若葉は酷く呆れた顔をして一度腕時計に視線を落とし、そしてすぐに顔を上げた。


「家まで送ってやる」

「え……いや悪いですから」

「このまま此処に居ても熱中症になるだけだろうが」

「でも」

「俺に送られるのが嫌なら救急車を呼ぶ。どちらでもいいから選べ」

「税金の無駄遣い……」

「無駄なものか。適切な使い道だ」


 千理はいつもよりもずっと回転の遅い頭で考える。流石に救急車を呼ぶほどではないが、若葉に送ってもらうのも躊躇われる。彼が真面目な性格なのは嫌と言うほど知っているので送られることによるトラブルは無いと思うが……。

 彼女はゆっくりと考える。そしてややあって、その間急かさずに待っていた若葉を見上げて軽く頭を下げた。


「……よろしくお願いします」


 一応考えたものの、もう何でもいいからさっさと家に帰って横になりたかった。投げやりにそう言うと若葉は一つ頷いて千理に手を差し伸べた。意外だと思いながらも自然にその手を取ってベンチからようやく立ち上がると、立ちくらみがして思わず頭を押さえる。


「公園の入り口に車を停めてある。そこまで頑張れ」

「はい……。というか、今更ですけどどうして此処に? 仕事は大丈夫ですか」

「問題ない。聞き込みの帰りに真っ昼間だというのに学生が公園に居るのが気になっただけだ。病人が他人の心配をするな」


 苛立たしげな表情とは裏腹に歩調は千理に合わせて酷くゆっくりだ。時間を掛けて公園を出るとすぐに停められていた車が視界に入り後部座席の扉を開けられた。


「寝てもいいが住所だけ先に言え」


 畳んであった小さなブランケットを差し出されて反射的に受け取ると、若葉は運転席に座ってカーナビを操作し始めた。少し前までエンジンが掛かっていたらしく車の中は外よりも幾分か涼しい。そのことに少し気力を取り戻して、千理は若葉に住所を伝えた。別に躊躇う必要もない、何せ以前事件に巻き込まれた際に既に伝えたことがある。


「自力で家に帰れないのなら初めから保健室で寝ていれば良かっただろう」

「その時は大丈夫な気がしていたんです」


 車が発進する。鞄を膝の上に置いて項垂れるように頭を預けていると先程よりも少し楽になって来るような気がした。


 しばらく車内に沈黙が続く。それを居心地悪く思う余裕は千理になかったものの、時折ちらちらと若葉の後ろ姿を眺め、そして「すみませんでした」と一つ謝罪を口にした。


「これに懲りたのならもっと自己管理を徹底して」

「いえ、そういうことじゃなくて」

「じゃあ何だ」

「聞くまでも無いですけど、若葉刑事私のことよく思ってないじゃないですか。それなのに送ってもらって」

「は?」

「警察官としてあのまま私を放置出来なかったのは分かりますから、余計に申し訳なくて」

「……伊野神、千理」


 その時、信号でもないのに不意に車が止まった。路肩に寄せて停止した車を千理が不思議に思っていると、突然地を這うような低い声を出しながら若葉が振り返った。


「えっ」


 その顔は先程とは比べものにならないほど歪み明らかに怒っているのが手に寄るように分かった。


「貴様……俺を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」

「ば、馬鹿にする?」

「つまり貴様はこう言いたいのだろう。俺は他人を好き嫌いで判断し、本当は貴様なんぞ放っておきたかったのにしかし警察官であるから仕方が無しに嫌々貴様を保護したと。そう言いたいのだろう」

「……」

「最大級の侮辱だ。確かに貴様は、いや霊研は我々の宿敵だ。貴様らなんぞ仕事が来なさすぎて失業しろとずっと思っている。だがそれが何だ。相手がどんな人間であろうと俺が警察官であろうと無かろうとそんなの人助けをするのに関係あるか。見くびるなよ」


 ふん、と鼻を鳴らすと、若葉は千理を強く睨み付けてから前を向き再び車を発進させた。千理はその姿を唖然としながら見ていたが、ようやく思考が纏まると彼女は小さく笑うように息を漏らした。


「ごめんなさい若葉刑事。貴方は私が思っていたよりずっと誠実で、いい人ですね」

「分かればいい。そして貴様らはさっさと職を失え」

「ふ……本当にそうなれば、いいのかもしれないですね」


 霊研に仕事が来なくなる日なんてきっと無いだろう。だが仮にそんな日が来たとしたら……勿論その時は、彼の事件だって片が付いているのだろうから。


「そもそもだ、なんで貴様のようなただの高校生があんな怪しい商売に手を貸している」

「……」

「金か、それともただの興味本位か? どちらにしろ関わるべきではない。辞められるうちに辞めるのが懸命だ」


 今し方上がっていた若葉の好感度が急に下降を始める。金、興味本位。そんな理由だったらどれだけ良かっただろうか。


「……本当にあなたは霊研のことが嫌いですね。何か理由でもあるんですか」

「言っただろう。霊感商法の詐欺集団に好感を持てという方がおかしい」

「警察が直々に認めているのに? あなたは規律には従う人間だと思っていましたけど」

「規律には従うが感情まで従うとは言っていない。俺は詐欺がこの世で一番嫌いだ。人を騙し、都合良くコントロールして甘い汁を啜る連中だけは何があっても野放しにする訳にはいかない」

「本当に詐欺かどうかも明確ではないうちから詐欺認定している方がどうかと思いますけどね」

「幽霊や悪魔などと宣うやつらのことを信じろと? あまつさえ、子供に惨殺死体を見せようとするやつらを信用できるはずもない」

「……それは私が望んだからです」

「だから、何故貴様はそれを望む。何故霊研に居る必要がある。バイトならば他にいくらでもあるだろう」


 確かに以前、若葉は千理のような子供を巻き込むことに酷く嫌悪していたなと思い出す。それ自体はいい大人の考え方なのだろう。世間的に見れば櫟や英二の方が非難されるかもしれない。

 けれど千理には何を差し置いてでも譲れないものがある。


「病院内連続失踪事件、知っていますか」

「……あの事件か。被害者は四人、おおよそ半年に一度都内の病院から入院患者が失踪。被害者は未だ全員行方が知れず、失踪した手口も分かっていない」

「四人目の被害者は、私の親友です」


 若葉の目が大きく見開かれた。千理は抱えた鞄を強く抱きしめて縋るように再び頭を預ける。


「確か……桑原愁」

「よく覚えてますね」

「貴様に言われると嫌みにしか聞こえん。それにあの事件は……俺も担当していた」

「……警察での捜査では手がかりが得られず、あの事件はそのまま霊研へ委託されました。私は何があっても、どんなことをしてでもこの事件を暴いて愁の体を取り戻すと誓いました。だから霊研を離れる訳にはいかないんです」

「……つまり、原因はそもそも警察にある訳か」

「違いますよ。悪いのは犯人ですから」

「だが我々が事件を解決出来なかったから貴様は霊研にいるのだろう、同じことだ。……済まなかった」

「謝らないで下さいよ。若葉刑事が捜査で手を抜いたとは思っていませんし、真実を見つけられていないのは私だってそうですから。あ、別に私が警察と同等だとか言ってる訳じゃないですからね?」


 未だ、事件は何も進んでいない。だが千理は絶対に諦めないし必ず愁を見つけ出す。たとえどれだけ掛かったって――。


「……」


 どれだけ、掛かるのだろう。




    □ □ □  □ □ □




「此処だな」


 伊野神と書かれた一軒家の前で若葉が車を止める。途中で急に黙り込んだ千理を気にしながら後部座席の扉を開けてやると、彼女はのろのろとした動きで車から這い出て「ありがとうございました」と一つ頭を下げた。


「それじゃあ……」

「伊野神千理、貴様に謝罪する」

「え? ……だから良いって言ったじゃないですか」

「そうじゃない、俺は貴様を侮った。貴様の覚悟を馬鹿にするような言動を取った」

「……」

「済まなかった。……言いたいことはそれだけだ。さっさと体を休めろ」


 少し驚いた顔をしている千理を置いて、若葉はさっさと車に乗って警視庁に戻った。

 帰る道すがら、彼は先程の会話を思い出して一つ舌を打つ。自分達の力不足で苦しむ人間を間近で見て、自身の無力さを痛感した。感情で事件をえり好みしてはならないが、それでもあの事件のことは少しでも気に掛けておきたい。


 警視庁に戻って遅くなったことを上司に謝った後、若葉は自分のデスクに着いて仕事を再開した。しかしどうにも頭の中に弱った千理の姿がちらついた。高校生なのだから一通り自分のことはできるだろう……が、家に誰も居ないのにそのまま放置してよかったのだろうか。


「……」


 若葉は仕事の手を止め、少しだけ思考を巡らせる。そしてすぐに目の前のパソコンで何かを調べた後、電話を手に取った。




    □ □ □  □ □ □




「……ごめんなさい」


 自分でそう口に出したと気付いたところで目が覚めた。

 千理は相変わらず重い体を起こして周囲を見回した。そうだ、若葉に送ってもらった後自室に入った途端に力が抜けてベッドに倒れ込んだのだ。着替えていない制服のスカートは皺が寄っているし、エアコンも付けずに寝たので汗も掻いている。

 千理は何とか力を入れて立ち上がり、ひとまずエアコンを入れてから着替えた。そして水分を求めて冷蔵庫を開けて水を飲むと、何だか途端に空腹を覚える。

 最近は食事を抜くことが増えて、昨晩も何も食べずに眠った。朝はパンだけ囓ったものの昼食も食べずに寝てしまったので非常にお腹が空いた。空いたが……食事を用意する気力がない。


「面倒くさい……」


 頑張って何か作るか、それとも空腹を無視してまた体を休めるか。頭の中で天秤を揺らしていると、ちょうどその時インターホンが鳴った。


「あ」


 更に面倒が増えたと肩を落としたのもつかの間、カメラの先に映った人物を見た千理は目を瞬かせ、そして出来るだけ急いで玄関へと向かう。

 そこに居たのは、色付き眼鏡を掛けた鈴子だった。


「こんにちは千理ちゃん。具合はどう?」

「鈴子さん、なんで」

「実はこの前の……なんて言ったかしら、あの眼鏡の刑事さんから霊研に連絡が来たの。千理ちゃんの体調が悪いみたいだから気に掛けてほしいって」

「若葉刑事が……」


 送ってもらった上にそこまでしてくれたのかと、千理はじんわりと心が温かくなるのを感じた。


「確かにここ最近あんまり元気が無かったから心配してたのよ。お粥作って来たんだけど食べられる?」

「お、お粥……ですか。い、今はちょっと」

「コガネ君が腕によりを掛けて作ったのよ。あの子とっても料理上手だから食欲が無くてもきっと食べられ」

「食べます!!」


 鞄から取り出されたタッパーに一瞬たじろいだものの、作った人物を聞いて千理は途端に手の平を返した。大いにコガネに感謝しながら、鈴子を家の中へ招き入れるとレンジでお粥を温めてから皿に移していそいそとスプーンを口に運んだ。


「……美味しい」


 体に心地よい温かさが染み渡る。一口食べた途端余計に空腹を感じて、千理は全くスプーンを休めることなく最後までお粥を食べきってしまう。

 久しぶりに胃が満たされて、それだけで随分と元気になったように思った。テーブルの向かいに座る鈴子を見れば、彼女は眼鏡を外して微笑ましそうな顔で千理を見守っている。時折少女のような雰囲気を漂わせる彼女だが、今日はまるで……母親のように感じた。


「ありがとうございました。少し元気になったような気がします」

「良かった。ところで、具合が悪いって何処か悪いの? お医者さんには見てもらった?」

「……そのことで少し相談があるんですけど」


 ちょうど渡りに船だと、千理は最近の出来事について話し始めた。少し前から悪夢を見続けていること、いくつか夢の種類はあるがその全てがあまり思い出したく無い過去の夢で、その所為で寝不足になり体調を崩していること。


「それに、寝不足以上に体の具合が悪くなってるような気がして。……ただの杞憂だったらいいんですけど、もしかしたら何か別の原因があるかもしれないって」

「んー……私が見る限りじゃ分からないけど、こういうことは櫟君に聞いた方がいいかもしれないわね。後で戻った時に話してみるわ」

「よろしくお願いします」

「ええ。……あ、そうそう。そういえば他にも渡したいものがあるの」


 鈴子は傍に置いていたトートバッグを手に取ると、その中から一つの箱を取り出して千理の前に置いた。あまりに見覚えのあり過ぎるその箱を見て千理は思わず驚きに目を瞠る。


「これは……!」

「千理ちゃんAmamiyaのチョコレート大好きでしょう? これを食べたらこの前みたいに元気になってくれるかなって思って」

「開けていいですか!?」

「もう開けてるわね」


 聞きながら包装紙を剥がす千理に鈴子が思わず破顔した。やはり買ってきて正解だったようだ。目に見えなくても彼女の顔が明るくなったのが手に取るように分かった。


「頂きます!」


 大事に大事にチョコレートを口に含んだ千理の表情が綻んだ。

 美味しい。甘い。幸せ。多幸感に満ち溢れて気力が湧いてくる。千理にとって特別の中の特別なチョコレートだ。彼女の為に作られた、特別な――。


「……」

「せ、千理ちゃん? 急にどうしたの」


 刹那、一瞬にして彼女の表情が曇った。千理はチョコレートをそっと遠ざけると、小さく呻き声を上げながら机に突っ伏したのだ。


「駄目だ。……駄目だなあ私」

「千理ちゃん、本当にどうしたの?」

「情緒不安定ですみません。……でも、駄目だって思って」

「駄目?」

「私、本当に何も出来てないなって思ったんです」


 千理がテーブルから顔を上げる。明るかった表情は一変し、酷く落ち込んで暗いものになっていた。


「愁の体を取り戻したいのに、結局何も手がかりが掴めてなくて。轢き逃げ犯を捕まえたって、誘拐犯を見つけなきゃ意味がないのに。だから、駄目だなって」

「そんなことないわ。千理ちゃんはとっても頑張ってるじゃない」

「いくら頑張ったって成果がなければ同じです。……こんなんじゃ、あの頃と何も変わらない」


 ぼそりと付け加えられた言葉に鈴子が首を傾げる。


「あの頃って」

「鈴子さん。愁はまだ、生きてますよね」

「ええ、勿論。昨日見た時はいつも通り、元気な魂をしていたわよ」

「そうですか。……でも今日は、明日は。あいつがいつまでも生きている保証なんて何処にもない」

「……」

「早く助けたいのに何も出来てない。愁は……愁は私の恩人なのに、私は何も返せてないんです」

「恩人……愁君が?」

「あいつはきっと忘れているような些細な出来事です。でも私はそれに救われた。愁のなんてことの無い言動で、今の私がある」


 千理の頭の中に今よりもまだずっと背が低く、幼い顔立ちをした愁の姿が過ぎった。10歳、初めて千理が出会った時の彼の姿を鮮明に思い浮かべる。


「私、家のことで色々あって10歳まで学校に行ったことが無かったんです」

「そう、なの?」

「はい。勉強は家の中で家庭教師に見てもらってて……でも、本当は外に出たくて堪らなかった。牢屋みたいな家から飛び出して、普通の子みたいに自由が欲しかったんです。その願いは10歳の時にある人のおかげで叶えられて、私は小学校に通えるようになりました」


 鈴子の驚いた顔を見ながら千理は頭の中で過去の引き出しを探る。まるで映画のようにその時の光景が再生されていく。ランドセルを背負って、初めて学校に足を踏み入れて、本当にドキドキして……けれど、何もかも上手く行った訳ではなかった。


「ずっと外にでて自由になりたいって願っていました。でも……それなのに、いざそうなってみるとどうしたらいいのか全く分からなかったんです。自由に過ごすって行っても何をしていいのか分からなくて、クラスメイトの話には全然着いて行けなくて。せっかく外に出たのに、無駄に時間を消費するだけでした」


 勉強だけは同級生よりも遙かに出来たがそれだけだ。家でもプレゼンや淀みない会話術なんかは学んだが、それは小学生相手に披露するものではなかった。結果的に千理はとっつきにくいと遠巻きにされ友達も出来ずに孤立しそうになった。


 ――そう、しそうになっただけだ。その前に手を差し伸べられて、千理は掴んだ手にその先ずっと大いに振り回されることになったのだから。




「桑原愁だ、よろしく」


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