4 盲目の超能力者
「はい、無事にシャーロットちゃんは見つかりましたよ」
「いつもありがとうございます! やはり透坂さんに頼むのが一番だ」
「……」
白っぽい毛並みの良い猫が目の前で受け渡されるのを見ながら、千理は何とも言えない表情を浮かべていた。なんだこれは。
一般家庭とは到底思えない大きさの日本家屋。本日仕事でそこへ訪れた千理は、初めて一緒に仕事をする霊研最後の一人、透坂鈴子と共に居た。大凡千理の倍ほどの年齢だと推測される彼女は、最初に霊研を訪れた際に一度会ってはいるが殆ど初対面だ。
「それでは、またよろしくお願いします」
“また”じゃないんだよなあ。
依頼人である小太りの男性がそう言うのを聞きながら、彼女は心の中で一人突っ込みを入れた。既にまた逃がしてしまうことを前提にしている時点でどうなのか。
霊能事象調査研究所、本日の依頼は……逃げ出したペットの捜索である。しかもそれは化け猫だとかの妖怪の類ではなく、ごくごく普通の猫(シャーロットちゃん・スコティッシュフォールドのメス2歳)である。
しかも事前に話を聞いたところこの依頼人、常習犯である。しょっちゅう猫が家の外に逃げ出して行方を眩ましてしまい度々霊研に依頼をしているとのことだ。
「千理ちゃん? ずっと黙ってたけどどうしたの?」
「透坂さん」
「鈴子でいいわ。何?」
依頼人に挨拶をして屋敷を出て数歩。不思議そうな顔で千理を振り向いた鈴子の言葉に、千理はようやく内に秘めていた叫びを外に出した。
一度深く息を吸って、一言。
「どー考えても霊研に依頼するような内容じゃないんですけど!!」
「そうかしら」
「そうかしら?? いやだって霊も妖怪も悪魔も怪物も、何にも掠りもしてないじゃないですか! ……あれですか? もしかして依頼人が妖怪だったり?」
「普通の人間よ」
「ですよね!」
分かり切っていたことを一応聞きながら、千理は疲れたように肩を落とす。
「でも一般人では無いかもしれないわね。ちょっと警察から紹介された政治関係のお偉いさんなのよ」
「あっ成程、そもそも断れなかったと。……霊研もそういうことあるんですね」
「でも私はこの依頼結構好きよ。誰かが悲しい思いをしている物騒な依頼よりも平和な依頼の方が嬉しいもの」
「……そういう考えなんですね」
たおやかに微笑みながらそう言った鈴子を見上げる。今日は色付き眼鏡を付けているから表情は窺いにくいが、どうやら本気で言っていることが分かった。
鈴子の理屈に理解は示したが、千理自身は納得がいっていない。やはり頼むべき場所が違うだろうしそもそも飼い主の言動が気に食わない。大事なペットならもっと責任を持って飼って欲しいものである。
「ねえ千理ちゃん。今日は早く終わったし、折角だから霊研に戻る前に何処か寄って行かない? 色々とお話したいと思っていたの」
「はい、是非」
「良かった。甘い物は好き?」
「大っ好きです!」
「じゃあスイーツで女子会ね。楽しみだわ」
しかしそんな苛立ちは糖分の前には塵も同然である。千理は優秀な思考回路を一気にスイーツで埋め尽くすと、足取り軽く鈴子の後を着いて行ったのだった。
□ □ □ □ □ □
「思ったよりも大きい……」
「食べられそう?」
「余裕です!」
ケーキ屋に併設されている、ピンクを基調とした可愛らしい雰囲気のカフェ。そのテラス席に腰掛けた千理は、目の前にどんと置かれた大きなチョコレートパフェを見て目を輝かせていた。値段の割に大きいそのパフェの隣には大量にシロップを投入した冷たいカフェオレが控えており、甘党で無ければ胸焼けしてしまいそうだ。
ちなみに鈴子はブラックのアイスコーヒーと店自慢のミルフィーユを注文しており、非常に上品な所作でフォークを口に運んでいる。
「……」
千理は長いスプーンを忙しなく動かしながら、ちらりと鈴子を観察した。
透坂鈴子。彼女は霊研の職員であり――物の記憶を読み取る超能力者だ。対象に触れると約1、2週間ほど遡ってその物の周囲の情報を得ることが出来る、常識外の能力である。今回の依頼も、家の中や敷地内外の情報を読み取ってあっさりとシャーロットちゃんの居場所を掴んでしまっていた。
人海戦術を使うイリスと並んで霊研の調査の要なのだが……そんな特殊な能力と引き替えにか、彼女は自分の目で物を見ることが出来ない。その目はいつも静かに閉じられており、外出する時は今日のように色付き眼鏡を掛けているとのことだ。
そう。全くもっと見えないはず、なのだが……。
「すごく綺麗に食べますね」
「ふふ、ありがとう」
思わず漏れた感想に鈴子が嬉しそうに礼を言った。その雰囲気は独特で妙に年齢を感じさせない、どころか一瞬千理よりも年下にすら錯覚してしまいそうになるほど少女めいた空気を感じさせる時がある。
透坂鈴子は盲目だ。だが食事をする動きに全く淀みは見られない。それどころか食べにくいミルフィーユをこうも綺麗に食べる人間は健常者ですら中々お目にかかれない。
「あの、すごく失礼なこと聞くんですけど……本当に見えてないんですよね?」
「視力は無いわね。でも代わりに別のものは色々見えるからそう苦労はしていないけれど」
「それは物の記憶だけでなく?」
「ええ。空気を伝って色々な物を感じ取っているわ。愁君のこともね、随分と生命力に満ちた魂が見えたから分かったの」
「愁……ホントになんであの状態であんなに元気なんだか」
相変わらず冷静そうな見た目に反して好奇心旺盛に飛び回っている親友の姿を思い返しながらチョコレートの塊を口に放り込んだ。美味い。
「とはいえ見えなくなった最初は結構苦労したわ」
「ん? 後天的なものだったんですか?」
「7年前からね。見えなくなったのは夫が亡くなってからだったから」
「……えっ、」
ごくり、とコーンフレークをほぼ噛まずに飲み込んだ千理は思わず押し黙って彼女の左手を凝視した。薬指に指輪があることは最初から気付いていた。既婚者なんだろうなとは思っていたが、まさか相手が他界していたとは考えもしていない。
そんな千理の様子を見て、鈴子はフォークを置いて苦笑を浮かべた。
「暗い話になってごめんなさいね」
「い、いえ」
「何十年も生きてきてそれまでは普通に見ることが出来たのに、あの人が癌で死んでしまってから急に何も見えなくなっちゃってね。驚いたわ」
「そりゃあ驚くでしょうに……」
「でもしばらくしたらいつの間にか色々と感じ取れるようになって、この力も使えるようになっていたの。その少し後に櫟君が霊研に誘ってくれてね、これでも霊研で2番目の古参なのよ」
フォークを離した右手を左手に――指輪に添えた鈴子は幸せそうな表情でそれを撫でている。夫が亡くなって目が見えなくなったとしたら恐らく精神的な理由だろう。きっと彼女はとんでもなく夫のことを愛していたのだなと感じた。
「2番目……他の人はまだ居なかったんですか」
「ええ。英二君達が来たのが五年前だったから、それまではしばらく二人でやっていたわね。で、英二君とコガネ君が来たすぐ後に或真君が来て、それからイリスちゃんが正式に職員に認められたのがついこの前。それから一ヶ月も経たないうちに千理ちゃんと愁君……随分と賑やかになったわね」
「へえー」
「でもきっと、あの人が生きていたら霊研に入るのは反対されたと思うわ」
「まあそうですよね。危険な依頼とかいっぱいありますし」
「そうじゃなくて、他の男の人と二人で仕事なんて許さないなんて言われちゃうと思う。あの人嫉妬しいだから」
「ああ、そういう……」
「そういうところも可愛かったんだけどね」
まあ多分生きてたらそもそもこんな力なんて無かったと思うけど。鈴子はそう付け加えて可憐に笑った。
本当に少女のような雰囲気の人だな、と思いながら空になったパフェのグラスを退かしてカフェオレに手を伸ばすと、鈴子はその雰囲気のまま楽しげに身を乗り出して千理に顔を寄せた。
「それで、千理ちゃんはどうなの?」
「どう?」
「勿論愁君のことよ! 好きなの? 付き合ってるの?」
「……」
今まで何十回何百回と聞かれた質問に、千理は持ち上げていたグラスをテーブルに戻して小さく溜め息を吐いた。そして口を開いて出てくるのは当然、何十回何百回と言葉にした台詞である。
「愁は、親友です」
「ホントに? それだけ?」
「……現状は」
含みを持った言葉を選べば、鈴子は分かりやすく生き生きとした顔をした。
「いつから友達なの?」
「私が10歳の時に今の家に引っ越したんです。それで小学校で同じクラスになって、授業でペアになったのが最初ですね。社会の授業でその地域について色々調べて発表する課題だったんですけど、土地勘の無い私を愁があちこち引っ張り回してました」
「いいわねー、青春って感じ。で、いつから好きなの? 愁君の何処が好き?」
「鈴子さん近い近い」
「あら、ごめんなさい」
ぐいぐい迫られていたのに千理は慌てて待ったを掛ける。勢いがすごい。今までのおっとり穏やかなお嬢さん的な雰囲気が一変してクラスメイトと何ら変わらないものになっている。
「え、えっとー……愁は」
「俺は?」
「!?」
刹那、頭の斜め後ろから聞こえていた声に千理は思わず椅子を倒してしまいそうになった。
全く気配がしなかった。当たり前だ、霊体の気配を読み取れるような敏感さを千理は持ち合わせていない。
「あら、櫟君に愁君」
「やあ鈴子さん。仕事終わりですか?」
「そうなの。良かったら一緒にどう?」
ばくばくと煩い心臓を宥めながら振り返った先には案の定憎らしいくらい冷静に佇む愁と、そして彼と仕事に行っていた櫟が軽く帽子を上げて立っていた。
「愁」
「邪魔するぞ」
愁はそう言いながら木製の長椅子、千理の隣に腰掛けた。微妙に浮いていた以前よりもしっかりと座っているように見える。これも櫟曰く『椅子に取り憑いた状態』らしい。
愁の対面には櫟が座りメロンソーダを注文している。もう随分夏に近い為、袖の長い和服は酷く暑そうに見える。実際は風が通るからそこまで暑くないらしいが。
なお、注文を取った店員が空になったチョコレートパフェの容器を回収して行くと、それを見送った櫟が呆けた表情を浮かべていた。
「千理、もしかしなくてもあのパフェ一人で食べたのかな?」
「そうですけど」
「……末恐ろしいな。一体何処に入るんだか」
「甘い物は別腹って言うじゃないんですか」
「その別腹は別次元にでも繋がっているのかい??」
「あれくらいで大げさな」
千理は一向に唖然としっぱなしの櫟に首を傾げた。確かに思っていたよりも大きかったがあれくらい余裕だ。ねえ、と愁を振り返ると、彼は無表情で「甘い物と千理を組み合わせたものは常識に囚われない方がいい」とぼそっと呟いていた。非常識扱いするんじゃない。
「……まあいいや。それで、櫟さんと愁は一緒に仕事だったんですよね。どうでした?」
「ちょっと長い間この世に留まりすぎて悪霊になりかけていた霊相手だったんだけど、相変わらず愁はすごいよねえ。思わず見入ってしまうほど強いよ」
「櫟君も見ているだけじゃなくてちゃんと仕事しなくちゃ駄目よ?」
「分かってますよ。まあ僕の出番なんて悪霊の魂を成仏させるくらいでしたけど」
「俺は戦うことしか出来ないから、むしろそんな特殊能力持っている方がすごいと思うが。……ところで千理、さっき俺が何だって?」
「なんでもない」
「そうか」
こういう時わざわざ追求して来ないのが愁の良いところである。ほっと息を吐いたところで、しかしその油断を狙ったかのように櫟が口を開いた。
「そう言えば何か話していたね。何の話をしていたんだ?」
「ああ、千理ちゃんと愁君のこい――」
「鈴子さんの話です! ほら旦那さんの話とか!」
「旦那さん……ああ、」
余計なことを言わないでほしいと慌てて訂正すると、櫟はその瞬間なんだか妙な表情を浮かべた。若干顔を引き攣らせながら、何か言いたげな表情である。初めて見る顔に、千理は一体どういう感情だと疑問が残る。
「結婚しているんですか?」
「ええ、もう死んでいるんだけどね」
「……」
あまりに軽々しく言われて思わず愁も黙った。先程の自分を見ているようだ。櫟も愁も微妙に気まずい空気になってしまった為、千理は話題を変えようとすぐにしゃべり始める。
「そういえば鈴子さんすごかったんですよ。あっという間に依頼終わらせちゃって」
「何か危険なことは無かったか?」
「とんでもなく平和だった。猫が」
「猫……」
「捕獲する時触らせてもらったけど滅茶苦茶毛並み良かった」
それを聞いた愁が思わず指を動かしているが勿論彼は撫でられない。いやそもそも愁の場合生身の頃から動物にあまり好かれていなかった。妙に気迫があるからか警戒されて距離を取られており、唯一の例外は近場の公園の異様にたくましい鳩たちぐらいであった。
最近はその例外にイリスのペット達が加わったようだが、彼らは彼らで愁を恐がりはしないが気安く触らせてはもらえないらしい。イリス曰く『新入りの同類だと思われている』とのことだ。ペットデビューおめでとう。
「ところで聞いたんですけど、鈴子さんって櫟さんの次に霊研に入ったんですね」
「そうそう。霊研作って最初は一人で仕事してたんだけど、何せ僕一人で出来ることなんて精々悪霊退治ぐらいだからさあ」
「それはどうかしら。私は櫟君が本気を出していないだけだと思うけど」
「買い被り過ぎですよ。まあそれで、何かすごい目の持ち主が居るって噂を聞いて勧誘しに行ったんだ。……だけどまあ、こうして考えるとホントに増えたね。一人だった時が嘘みたいだ」
「本当に。櫟君も楽しそうだもの」
「そうですか?」
「ええ」
隣でにこにこ微笑む鈴子の言葉に、櫟は少しばかり驚きながらも「そうだと良いですね」と他人事のような物言いをした。
「そうだ。最初は僕一人だったから名前も霊能関係だけって限定的な名前にしたんだけど今じゃあ何でも対応出来そうだしそろそろ霊研の名前変更してもいいかもね」
「変えるんですか? 例えば?」
「うーん、『オカルト何でも調査所』とか?」
「名前が軽い」
「何か大変なことがあってもちょっと相談に行きにくいわね」
「小学生が秘密基地とかでやってそう。相談料50円とかで」
「ボロクソ言い過ぎじゃない? じゃあ何か案ある?」
「いや別に霊研のままでいいでしょ。言いやすいし」
「言いやすい」
「咄嗟に名前が出てくるって言うのは結構大事だと思います」
それに以前千理を攫った幽霊などにすら霊研の名前が定着しているくらいなので今更変えたところで前の呼び方から変わらないだろうことは容易に想像できる。
そこまで言ったところで櫟が頼んだメロンソーダが運ばれてくる。まだしばらく此処にいるだろうと、千理は戻ろうとした店員を呼び止めてメニューを手に取った。
「このプリンアラモード追加で」
「君まだ食べるの? 夕飯食べられなくなるよ」
「今日は食べないので」
「駄目よ千理ちゃん、バランスが悪いわ」
「えー……」
「お母さんが泣いちゃうわ。とにかくこれ以上は駄目よ」
「居ないので大丈夫です」
しかしすぐに櫟と鈴子に阻まれてしまいメニューを取り上げられる。勿論全部覚えてはいるがそこまでして二人に反抗するのはどうかと思い諦めた。後でこっそりコンビニスイーツでも買おうかと思うが愁の目がある限り無理そうである。
「帰りにどっか寄ろ」
「もう甘い物は駄目だぞ」
「分かったってば、大人しくお弁当でも買いますー」
「そう言えば千理、最近昼も弁当作ってきてないな。霊研で忙しいからか?」
「んー、そんなところ」
本音を言うと愁が食べなくなったので一人分の弁当を作ることが億劫になったのである。よく一人分作るのも二人分作るのも一緒と言う人がいるが、そもそも自分一人だと作る気力が湧かない。
でもあまり作らないと妙なところで鋭い愁が勘付いて気にするかもしれないなと、考えていると、ふと櫟と鈴子が黙り込んでいることに気が付いた。しかも、千理を窺うようにして。
「どうしたんですか?」
「言いたくないならいいんだけど。千理、君のお母さんって」
「……ああ、すみません。誤解させましたか。生きてますよ」
「それならよかっ」
「多分」
「多分!?」
「何事もなければ。愁、やっぱ帰りスーパー行く。今日は早く仕事終わったし、たまには自炊するよ」
「それがいい。手伝おうか」
「ポルターガイストで包丁握られるのはちょっと……」
戦いならまだしも料理の刃物の扱いはあまり信用できないと思い首を振る。流石に無いとは思うがまな板ごとぶった切ったりしそうである。
「……千理ちゃん。料理だったら私も得意だし、時々作りに行って上げましょうか?」
「鈴子さんそれはちょっと! ……あの、止めといた方がいいんじゃないですかね」
「あらどうして? 千理ちゃんは学校もあるし、平日は大変でしょう?」
「……お気持ちだけで嬉しいです。家には他の人も居ますし、私も甘えてばかりでは駄目ですから」
「そう? 無理してない?」
「大丈夫です!」
千理が大きく何度も頷くと「困った時はいつでも言ってね」と鈴子は引き下がった。……危なかった。以前の英二の言動や今の櫟の態度から考えても鈴子の料理は恐らく……あまり声高に言うものでは無い出来だろうと推測されるのだから。
その推測に裏付けが取れたのはその日の会計後、店から出る時に隣に並んだ櫟が千理にそっと話しかけた時のことだった。
「何でも鈴子さんの旦那さん、あの人がどんな料理を作っても絶対に残さず美味しい美味しいって笑顔で食べてたらしくって」
「……ああ」
先が読めた。
「元々あんまり得意じゃなかったみたいだけどそれが滅茶苦茶エスカレートしたもんだから、もう旦那さん亡き今止められる人誰も居なくてね……はっきり言うのも旦那さんを否定するようなものだろう?」
「何というか……うん、鈴子さんも旦那さんも、すごい相思相愛だったんですね」
「……いやまあ、あれはそういうレベルじゃ……うん」
櫟さんが何処か遠い目をしながら呟いた。千理が知るよりもっとやばい爆弾が控えていそうで、彼女はそれ以上追求するのを止めた。触らぬ神に祟り無しだ。