1-1 始まりの事件
その日、都内の某飲食店で事件は起きていた。
混雑のピークも過ぎた午後四時、店内は平時での客足少ない静けさは一切失われており、警察が何人も店内を闊歩し物々しい空気を醸し出している。
今から一時間前、この店の中で一人の人間が死亡した。名前は藤橋克也、三十歳の男性だ。常連だという彼はかつてこの店のチーフを務めていたらしく、スタッフとも知り合いだった。
「被害者はコーヒーを口にしてすぐに苦しみ始め、そして死亡した。間違いありませんね」
「……はい」
ホールスタッフの男性、実島が沈痛な表情で頷いた。彼に対するのは七三分けと四角いフレームの眼鏡が特徴的な、真面目のステレオタイプとも言える見た目をした刑事の若葉だ。
事件当時この店に居たのはスタッフが三名、被害者を含めた客が四名だ。しかし他の客は殆どが被害者から離れた席に座っており、一番近くても被害者の斜め二つ後ろだ。用もなく他の席に近付けば非常に目立つ為、警察の疑いの目はスタッフの方に向けられていた。
客も少ない時間だった為スタッフはキッチンに一人、ホールに二人だけだ。キッチンには店長である市川という男性がおり、ホールにはアルバイトの実島ともう一人、同じくアルバイトの女性である二宮が居た。
三人とも酷く動揺している様子で、二宮に至っては顔を真っ青にして震えている。そんな彼らの様子を一瞥しながら、若葉は鑑識や他の刑事に指示を出して現場を調べていく。
「若葉警部補、コーヒーから毒物反応が出ました。詳しい成分分析には時間が掛かりますが」
「そうか。となるとやはり殺人……この白昼堂々公共の場で殺害するとは相当度胸があるのかただの馬鹿なのか」
鑑識からの報告に若葉が顔をしかめ、店内に居た全員に身体検査をするようにと指示を出す。そして関係者から話を聞いていた部下に聴取の結果を報告させた。
「被害者、どうやら常連というよりは悪質なクレーマーだったようです。以前働いていた時は仕事は出来たものの他のスタッフに対して嫌がらせをしたり理不尽な扱いをしていたようで……店長に辞めさせられた後に逆恨みしてこの店の評判を下げようとしていたとか」
「スタッフは全員顔見知りだと言っていたな。……これは全員に動機があるか。毒が入ったコーヒーは誰が用意した?」
「店長の市川がコーヒーを淹れ、被害者の席まで運んだのが実島です」
「となると二人のどっちかが犯人か。ひとまず身体検査の結果を待った方がいいな」
コーヒーを淹れる際に毒を混入したのか、もしくは受け取って被害者の所まで持って行くまでにこっそりと入れたのか、二つに一つだ。コーヒーを受け取ってから席を立ったということも無いようなので、客やもう一人のスタッフである二宮に犯行は不可能だろう。
若葉はそう判断して男性スタッフ二人の身体検査の結果を今か今かと待った。店に来て早々に現場やキッチン、ロッカーは既に隅々まで調べ尽くした。ならば証拠を持っている可能性があるのは本人が身に着けているものだけだ。
苛立たしげに靴を鳴らしている若い上司に部下が若干の怯えを見せていると、ややあって身体検査を行っていた刑事が早足で駆け寄って来た。
「警部補!」
「何か見つかったか」
「いえ、それが……毒物や怪しい物は何も」
「ちゃんと全部見たのか? 服の裏も見ろ、縫い付けられている可能性もある」
「勿論確認しましたが……結局何も」
「……分かった、今日はここまでだな。全員に連絡先を聞いて解散させる」
「良いのですか?」
「此処で拘束し続けてもしょうがない。……市川と実島から目を離すなよ。最後にボロを出すかもしれん」
少ないとはいえ人の目があるこんな場所での殺人事件。すぐに証拠なんて出て来ると思ったがそう簡単にはいかないらしいと若葉は一つ舌を打ち、スタッフと客が集められているスタッフルームへと向かった。
監視役の警官を含めて七人が入るには狭いスタッフルーム。そこに更に若葉と部下が入ると本当に狭苦しく、とっとと終わらせようと彼は全員を見回すとすぐに口を開いた。
「本日はもう結構です。後日またお話を伺いますので連絡先を」
「――あの、少し良いですか」
しかしその時、早口で喋っていた若葉の言葉を誰かが遮った。彼が眉を顰めながら声のした方を振り返ると、部屋の隅で小さくなっていた――否、元々小柄な少女が小さく手を上げて若葉を見ていた。
彼女は客の一人だ。先程確認したところによると、名前は伊野神千理、近くの高校に通う女子高生である。色素が薄く光を当てると金髪にも見える茶髪のショートカット、細い銀のフレームの眼鏡を掛けた彼女は、髪と同色の静かな瞳で若葉を見据えると「犯人は見つけないのですか」と尋ねた。
見つけられるのなら先にやっている、と彼は言いそうになった口を閉じてから改めて開く。
「現状で確実に犯人を特定できる証拠はありません。これから証拠を警視庁へ持ち帰って鑑定しますので」
「でも」
「……どうせ店長が犯人ですけどね」
「は? おい実島、今なんて言った」
「だって店長あの人に滅茶苦茶殺意あったでしょ。客減らされて絶対殺してやるとか前言ってたじゃないですか」
「あれは! ……あれは言葉の綾だ。それにお前だって前に散々嫌がらせ受けてただろうが。スマホ水の中に入れられたり、付き合ってる女にあること無いこと吹き込まれたりとか」
「そりゃあキレたくなりましたけど殺すなんてしませんよ! あんたがコーヒーに毒入れたんでしょ!」
「毒はお前が運んでる時に入れたんだろ! 大体自分の店で殺人なんてするか!」
「そう思わせる為にあえてやったんじゃないんですかあ?」
「お前っ」
女子高生――千理が言葉を返そうとするが、それに被さるように実島が市川を挑発し、二人が言い争いになった。お互い相手が犯人だと言いたげに醜く言い合う二人に若葉が頭痛を覚えながら止めに入ろうとした時、今度は更に別の弱々しい声が飛び込んで来る。
「あの……もうホントに気持ち悪くて、病院に行きたいので帰りたいんですけど」
口を挟んだのは二宮だった。口元を手で押さえて本当に具合が悪そうにする彼女を見て、言い争っていた二人も彼女を気遣うように黙り込んだ。
「あ、ああ。すみません二宮さん。ではあなたから連絡先をお願いします」
「この人を帰したら駄目ですよ刑事さん」
「は?」
「だって犯人……被害者を毒殺したのはこの人なんですから」
その瞬間、狭い部屋に居た全員の視線がその声の主――千理に向いた。驚愕の目で見られているにも関わらず酷く涼しい顔をした彼女は、右手で眼鏡を押し上げると淡々とした口調で淀みなく話し始める。
「私は被害者が倒れる瞬間を見ていました。斜め後ろからですけど、確かにコーヒーを口にしてすぐに咳き込んで喉を掻きむしってそのままテーブルに突っ伏したまま動かなくなった。コーヒーを飲む際も平然として何の躊躇いもなかったので自殺ではなく他殺でしょう」
「……何故君は事件が起こる前から被害者を見ていた?」
「たまたま視界に入っただけです。特に意味はありませんよ。……さて、他殺だということで気になるのは、犯人がこんな真っ昼間から公共の場で殺人事件を起こしたということです。しかも衝動的な犯行ならばまだしも、事前に毒を用意した非常に計画的な犯行。……つまり、そこには意味があるはずなんですよ」
「意味?」
「わざわざ此処で殺さなくてはならない理由です。例えばこの店の構造やシステムを利用する為とか、もしくは他人の居る場所で殺す必要があった――他の人間に罪を擦り付ける為、とか」
「!」
千理が薄らと笑いながら二宮を見る。元々悪かった顔色が更に悪化し、もはや紙のように白くなってしまっている。そして他スタッフ二人もまた驚愕の視線を二宮に向けた。今の言葉が真実ならば、今現在疑われている自分達はまんまと策に嵌まったのではないか、と。
二人が自分を見ていることに気付いた二宮はぶんぶんと大きく首を振って強く否定した。
「違います! その子が好き勝手言ってるだけで、私は犯人なんかじゃありません!」
「では例えばお二人が犯人だとして、明らかに自分が疑われるであろうコーヒーに毒なんて入れますかね?」
「そんなこと言ったら私じゃなくたってあんただって犯人の可能性あるじゃない! それに私はコーヒーに一切近付いてないんだから毒を入れることなんてできないわよ! 掃除とか他のテーブルの片付けとかしてたんだから」
「そうですね。コーヒーには近付いていませんね」
「……“コーヒー”には?」
千理の言葉に引っかかりを覚えた若葉が繰り返すと、それに答えるように千理は頷いてみせる。
「被害者はコーヒーを飲んですぐに苦しみ始めましたけど、実際にコーヒーに毒を入れたとは一言も言ってません」
「だが実際にコーヒーからは毒物反応が出ている」
「だとしてもコーヒーに直接毒を入れたとは確定していません。他の物に毒を盛って被害者に入れさせたとしら? そうですね、たとえば砂糖やミルク――もしくはかき混ぜるためのスプーン、とか」
「!」
「二宮さんでしたね? あなたはホール係で皿の片付けや掃除、そして他にも来店した客のテーブルにカトラリーを置いたりしていましたよね? 私のテーブルに来たのもあなたでしたし、私の後に来店した被害者のテーブルにもあなたがセッティングしていたのは見ていましたよ」
「……」
「スプーンの表面にだけ毒を塗り、他のカトラリーに触れないように一番上に配置する。そして砂糖を入れたコーヒーをかき混ぜようとして被害者は当然それを手に取ってコーヒーの中に入れる。この事件で起こったのはそれだけのことです」
静かに、しかしはっきりと話していた千理が口を閉じると、その瞬間部屋の中は一瞬で強い静寂に支配された。そして千理を凝視していた人々の目は今度は自然と彼女――黙り込んでいる二宮に移る。
次に口を開いたのは信じられないという顔をした市川だった。
「……本当に、お前が? 二宮があいつを殺したのか」
「ちが、違います! 本当に私じゃない!」
「でもその子の言う通りなら」
「私がやった証拠なんてないじゃないですか! 可能性があるっていうんなら店長達だって同じでしょ!? なんで私だけそんなこと言われなきゃいけないんですか!」
「……確かに、今明らかになったのは犯行が可能な人物が増えたということだけだ。君、可能性を提示してくれたのはありがたいが、素人の分際で勝手に犯人を決めつけて捜査を攪乱するのは止めて頂きたい。名誉毀損で訴えられても知らないぞ」
若葉は厳しい表情で腕を組み千理を睨んだ。子供がお遊びで探偵ごっこかと少々不愉快な気分になる。人が死んでいるというのに高校生にもなって不謹慎だと思わないのかと内心怒鳴りそうになりながらも、一応事件関係者ということもあって口には出さずにいた。
が、他の人間はそうでは無かった。妙に淡々と話し始めたのでつい聞き入ってしまったが、冷静になってみれば被害者と面識もなくただ居合わせただけの女子高生が勝手に口を出しているだけだ。犯人だと指摘された二宮は当然のこと、男性スタッフや他の客の千理を見る目もじわじわと冷たくなっていく。
しかしその視線を向けられている本人は、まるでそんなものなど見えていないかのように表情を変えない。
「ご忠告どうも。まあ素人が勝手に口出ししているのは事実ですが、別に証拠が無いなんて言ってませんよ?」
「え?」
「証拠があれば良いんでしょう? 犯行に使った毒の在処ならもう分かっています」
「なんだって!? 何で捜査も何もしていないのにそんなことが」
「だってまだ彼女が持ってますから。そうですよね二宮さん?」
「!」
「しかし身体検査でも毒は見つかっていな――」
「さっさと吐いて楽になったらいかがです? ああ、勿論ですが物理的に」
その瞬間、目に見えて二宮の表情が激変した。怒りに震えていた顔から表情が抜け落ち、両手が無意識のうちに胸――胃の辺りを隠すように置かれる。それが何よりの証拠と言って良かった。
「毒の入った小さなプラスチックの容器をビニール袋で包んで飲み込んだ。いくら後で吐くつもりだったとしても毒を飲み込むなんて大した度胸ですね」
「っ、すぐに吐かせろ!」
若葉の判断は早かった。千理の言った言葉が真実だという確証は無い。だがそれを悠長に検討している場合ではなかった。即座に女性警官にトイレに連れて行かれた二宮は抵抗もせずに項垂れ、何も言うことなく部屋から去って行った。
三分も経たないうちに女性警官が戻って来る。彼女が若葉に向かって頷いたことで、この事件が終わったことがその場の全ての人間に分かった。
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連絡先を告げてようやく容疑者以外の全ての人間が解放される。開かれた自動ドアから外に出た千理は一度店を振り返るように一瞥した後、大きな大きなため息を吐いた。そこに先程事件を推理していた時のような冷静沈着な表情などなく、ただ疲労感に苛まれた顔があるだけだ。
「……つっかれた。何で私があんなことを」
伊野神千理はただの女子高生である。当然殺人事件に遭遇したのも、そしてそれを解決に導いたのも初めてで……おまけに不本意であった。どうして自分がわざわざ警察の前にしゃしゃり出て推理なんてしなければならなかったのかと、彼女は肩を落としてからちらりと宙に視線を投げた。
「流石千理、かっこよかったぞ」
「……」
150センチにも満たない彼女の遙か上空、首が痛くなる程見上げたそこに居るのは一人の男だった。千理とは対照的な高身長の、男性にして少し長めの黒髪をした彼は無表情ながらも酷く感心したように頷いて千里を見ている。
学ランを着たその男の名前は桑原愁、千理の数年来の友人である。十歳の頃に愁の家の近所に引っ越して来た千理は、同い年だということもあってそれ以来長いこと彼と一緒に居る。同じ高校に通い、クラスは違えど親しさは変わらず、少々周りに冷やかされながら一緒に帰る。それが二人の日常だった。
――だがある日、そのいつも通りの日常は壊されてしまった。
ふと、店の前の道路を歩いてきた親子が千理の傍を通り過ぎる。楽しげな表情で繋がれた手をぶんぶんと振っている子供は何も気付かずにその場を――愁をすり抜けるようにして去って行った。
「千理?」
その光景を見て改めて、彼女は打ちひしがれるような気持ちになって愁を見た。景色に溶け込むように半透明の姿になったその彼の姿を。