203話 s
ほどなくすると土壁が崩れ、ボロボロの彼女は路地裏から脱出した。
冒険者ギルドで換金を済ませると、ドッとした疲れがマグネの体を襲う。
他人事に感じていた命の駆け引きを経験し、自分が今〝デスゲーム〟の中にいるという事実を改めて自覚したのだ。
(これで……たった1,200G)
命を賭けた報酬が宿代1ヶ月分に満たない。
普段、自分達がどれだけ紋章ギルドに依存しているかがよく分かった。こうやって、クエストを受けることもなければ、マグネはずっと紋章からの支援を〝当たり前〟だと思っていただろう。
ますます自分が惨めになるのを感じながら、体をずるようにして進むマグネ。
「あれ、マグネ……?」
不意にかけられた声に振り向くと――
「恵介、くん?」
そこに最愛の彼の姿があった。
久方ぶりに見たからか、どこか自信なさげに見える彼の顔。
しかし見間違うはずもない。彼だ。私の彼が帰ってきたんだと、安堵から力が抜け、前のめりに倒れるマグネ。
恵介はボロボロな彼女を心配する様に抱き支える。
「おいおい大丈夫かよ」
「ううん、平気。心配しないで」
マグネは自分の体のことよりも、彼が戻ってきたことが何よりも嬉しかった。アリストラスでずっと待っていた甲斐があったと、ようやく報われたと心から喜んだ。
「やっと来てくれたんだぁ……」
涙を浮かべながらそう呟くマグネ。
恵介は少し気まずそうに「おう」と答える。
「お金も貯まったし、活動拠点をアリストラスにしてもいいかなって思ってな。キレン墓地まで行けたけど、俺には無理無理」
そう言いながらはにかむ恵介。
ずっと見たかったその笑顔を見られたマグネは、感極まって更に涙を流した。
「それはそうとお前、どうしたんだよ」
「これね、クエスト受けてたんだ。いつまでも誰かに頼ってたらダメかなぁって思って……」
けれど、マグネは恵介が戻ってきたことと、痛い思いをしたことで、もうこれ以上頑張らなくてもいいんじゃないかと思っていた。
でも無理するのもこれきりだよ――と、そう続けようとした彼女より先、恵介が言う。
「マグネ。お前俺と奴隷契約結ばないか?」
恵介の顔は付き合っていた頃の顔に戻っていた。
「自立なんてお前らしくないし。とりあえずクエストで得た金は俺に渡してさ、これからは不自由なく過ごさせてやるから。あ、他の男と絡んだら容赦なく殺すからよろしくな」
同棲時代に何度も聞いたセリフだった。
彼の言葉にずっと従ってきたマグネは、言われるがまま、先ほど得た1,200Gを渡そうとして画面を操作する手が止まる。
(あれ……?)
どうしても手が動かない。
「好きなだけ寝て、好きなもの食べて、好きなだけヤるんだ。最高だろ?」
そう語る彼の言葉が次第に遠く離れていく。
まるで水の中にいるような、視界も声もぼやけていく感覚。
『自立なんてお前らしくない』
彼の言葉が何度も繰り返される。
自分でお金を稼げる様になったことが嬉しくないのかと疑問に思うマグネ。
(マグが自立したことに苛立っている?)
言動から読み取れた感情はそれだった。
キレン墓地は確かにこの周辺よりは先のエリアだと聞くが、最前線には程遠いはず。そんな場所で燻っていたということは、彼には先に進むだけの実力が無かったということになる。
自分を迎えにきたわけではない。
上手くいかなかったから戻ってきたんだ。
マグネはそう確信した。
彼は私が自立することを望んでいない――むしろ前と同じ〝彼なしでは何もできない私〟を望んでいるんだと。
「コレ、俺の宿の住所な」
紙切れを受け取りながら「ありがとう」と微笑むマグネ。そのまま彼女は「ちょっと考えさせてね」と言い残し、足早にその場を去った。
◇
しばらくツカツカと歩き続けたマグネ。
武具屋の前まで辿り着くと、手をついて息を整えるように何度も深く呼吸した。
「どうしたんだろ……」
彼と会えて嬉しいはずなのに、自分の気持ちの変化に理解が追いつかない。
顔を上げた彼女の前には武具屋のショーウィンドウがあり、そこに映る自分の姿が酷く惨めに見えた。
『貴様のように主体性のない奴が嫌いでな』
頭の中にガララスの言葉がこだまする。
『みーくんがそう言うなら、今日はもうここには来ないようにするから』
『紅騎士君が言うなら、そうしよっか』
『ううん、平気。心配しないで』
「最悪……」
ズズズと音を立てながら、崩れるようにその場にしゃがみ込むマグネ。
考えないようにしていたことが頭の中でぐるぐる回り、やがて大きくなり――弾けた。
デスゲーム開始直後、マグネの所持品を奪うようにして消えた恵介は、去り際に「次の街を見つけたら迎えに来る」と言っていた。
彼の顔は今でも忘れられない。
あれからもう何ヶ月も経った。
置き去りにされたことは理解していた。
それでも納得したくなくて、彼を信じたくて、マグネはずっとこの町で彼を待ち続けた。
そして彼は戻った。
置いていった自分に詫びるでもなく、また前の関係に戻ることが当たり前かのごとく、彼は自分の前に現れたのだ。
「もう、やめる」
震える手でメニュー画面を操作していく。
覚悟を決めたのに涙が溢れてくる。
現れたのは、数十名が登録されたフレンド欄だった。
「グスッ……」
マグネはフレンド欄を上から順に消していく。
彼等の顔は思い出せるのに、どんな性格でどんな声だったのか全く思い出せなかった。
フレンド欄の全ての名前が真っ白になった。
そこには元々恵介の名前がない。
彼はしばらく前、マグネとの登録を解除していた。
それでも彼女は信じて待ち続けていたのだ。
「あの時点で気付いてたよ……」
恵介の名前が消えた日――彼が殺されたと思ったマグネは、半狂乱になりながら紋章の人に事情を説明した。
『生死に関しては断言できませんが……亡くなった場合、名前が黒くなり、横にオフラインの文字が出ます。消えたということは……その……登録を解除されたのだと考えられます』
疑いは核心へと変わる。
けれど彼女はアリストラスから動かなかった。
捨てられても彼のことが好きだったから。
「料理に文句は言うし、お金は盗むし、酒癖も悪いし、最後まで約束は守らなかったけど……それでも君は私の全てだったんだよ」
彼に褒めてもらった服とか、彼を支援するために買った杖とか、彼と撮ったスクリーンショットを、ひとつずつ消していく。
彼の思い出達が消えていく。
彼の匂いが消えていく。
彼への未練も――。
マグネは体がフッと軽くなった気がした。
今までの自分が嘘のように、思考がクリアで晴れやかだ。
「帰ろ……」
そう呟き立ち上がった視界に、ショーウィンドウの奥――夕陽を反射し、まるで彼女を祝福するかのように輝いている刀が見えた。
[匣・カレンジュラ]
両手をつきながら刀を見つめるマグネ。
その刀には妙な魅力があった。
橙色の花の衣装が施された鞘と、柄頭。
刃には美しい刃文が刻まれている。
金額:1,200G
自分が命懸けで得たそのお金を、彼はなんの労いの言葉もなく奪い去ろうとしてきた。
このお金は自分の命を賭けて得たお金だ。
ならば、そのお金は自分の命の為に使う。
カレンジュラ――金盞花の花言葉は「別れの悲しみ」「絶望」そして「失望」である。
「もう守られるのもやめる」
この刀が新しい自分に会わせてくれる――そんな根拠のない直感に突き動かされながら、マグネは店の扉を叩いたのだった。




