6
「殿下は、最初からここプラハに来るおつもりで?」
フス教授は、外に漏れぬ声で尋ねた。
「いいえ、当初はもっと遠くまで逃げようと思っていました」
ディオールは、東だと思う方角を指差した。
「ふむ。さもありなん」
教師は生徒の答えに満足したようだった。
近隣では最大の都市プラハも人口は十万余り、隠れるにも反乱軍を起こすにも小さすぎる。
「先生、誰が邪魔してくれたか分かりますか?」
各領邦の主君の名前は伝わっても、その家臣となるとディオールにも難しい。
ただし、アーバイン家の領有する土地の貴族と騎士は全て覚えているが。
「この地の軍権はハンス・ギシャールが握っております。変わり者ですが切れ者との噂で、なんと言っても平民出身で中将じゃからのう……」
髭を撫でつけながら答えたフスは、以前のように教師口調に戻り始めていた。
ディオールが逃げ遅れたには、一人の将軍の存在があった。
北琅王の麾下には戦場に最適化した将帥が多数揃う。
しかし新しく領土となったベーメン王冠領の統治には苦労した。
かつてアーバイン家も苦労したほど自主の気風が強い土地で、この地にカーレル大学を作ったのも現地民の心を掴むためであった。
ある日、北琅王は参謀部の大佐に尋ねた。
「君の父は異国から来て私に仕えた。その息子の君もよく仕えてくれている。しかしベーメンの羊臭い連中は、一向に私に懐こうとしない。どうすれば貴官のように従順になるのかね?」
いささか意地の悪い質問だが、ギシャール大佐は一礼して下問に答えた。
「小官はこれとこれで、陛下に仕えております」
右手で胸の勲章を示し、左手は軍服のズボンから小銭を一枚取り出す。
「……ベーメンを優遇せよと言うのか?」
北琅王フリードリヒは僅かに鼻白む。
莫大な戦費で宮廷は火の車、早くに豊かなベーメン一帯から租税をあげねば、破産すらありえる状況なのだ。
「ですが陛下、失礼致します」
そう言ってギシャール大佐は、毛織物のハンカチとコインをフリードリヒの両手に握らせて続けた。
「そのまま剣をお抜き下さいませ」と。
毛織物はベーメンの特産で、コインはそのまま租税を意味する。
占領地から税金を取りながら、反乱を潰して回るなど不可能だとギシャールは述べたのだった。
その翌日に少将へと昇進したギシャールは、ベーメン駐屯軍司令官として占領地に入り、懐柔策を持って人心の掌握に努めた。
早期に従った地域は五年の租税軽減を、抵抗する地域は攻め込むこともせず放置する。
ただし軍をもって人と物の往来を制限した。
戦火が通り過ぎ復興する地域を見た反フリードリヒ派の街や貴族は、冬の休戦期に頭を冷やし、この三年間で次々と恭順の意志を示した。
この者はと、フス先生が解説する。
「大目標の為に遠回りする事を辞さぬのじゃ。先を見通すとも少し違うの、来年良くなる為には今一歩を引くことを知る。今年の勝利に拘る貴族上がりの将軍とは、別の目線を持っておる」
ディオールにも、先生がギシャールを高く評価して、かつ何故に自分が足止めされたか理解した。
「ベーメンの駐留軍は、自分を追ってこないどころか、探そうともしませんでした」
ディオールの言葉に「さもありなん」とフス先生が頷く。
当初の計画では、真っ直ぐ東へ逃げる予定であった。
現地の焼死体をフリードリヒの手の者が検めるまでに二日から三日、そこから指令を仰ぎ、改めて軍隊を動かすのにさらに五日はかかる。
指輪の小細工が生きれば、まともな組織ほど報告と連絡と確認に時間を使い、労せずして帝国の領域外へ抜け出るつもりであった。
だがギシャール中将が指揮する駐留軍一万一千は、東と南を封鎖だけして動かなかった。
最悪の事態――元皇太子が生きて逃亡――であっても、この二方面へさえ行かなければ良いと遠回りの判断をされたのだ。
「ふむ、少し整理せねばな」
フス先生が机に地図を広げ、ディオールとセルシーも覗き込む。
「ああ、殿下は口を開かぬように。わしは知らぬ方がよいでな」
初老の軍略家は楽しそうに地図の上に指先を滑らせ、二人は黙ったままで皺だらけの指を追う、
「まずは北じゃ」
プラハの北方はフリードリヒの勢力圏で、バルト王国と従う諸侯が点在する。
左へ指を回すと帝国中央から西方の国境地帯。
ここは中小の諸侯が百以上もひしめき、味方も多いが戦力的に頼りにならない。
そして南部。
ガリバルドのロンバルド公国は、帝国諸侯でも十指に入る大邦で、南部防衛の要石である。
内戦と言えど軽々に動かす訳にもいかず、公国の軍事力は丸ごと温存されていた。
だがロンバルド公国を単独で動かしても、総戦力は百の騎士家と兵一万余り。
二百の騎士家と八万の軍を備えたフリードリヒ相手に勝ち目はない。
実際に、バルト王国はここベーメン王冠領の駐屯軍だけで一万一千である。
「そして、最後に東じゃ」
フスの指はベーメンから帝国領域を飛び出る。
ここより先は蛮族の土地になる文化圏の東端に、ルブリン合同王国がある。
国土は広く人口は帝国の半数以下だが、伝統的に兵士は強い。
「ふむ。ルブリン王国から兵を借り、さらに南方へ……御母上のおられるパンノニア王国と力を合わせればあるいわ」
特に語らずとも、ディオール達の計画はフス教授には分かった。
「しかして、上手くルブリンからの助力を取り付けれるかの?」
先生は生徒に尋ねる。
「自分は独身で、四席まで空いてます、あいてっ! つねるなよ……あと三人まで結婚出来ます」
ディオールの言葉を、第三夫人候補が訂正させた。
王族は四人まで妻を持てる。
すなわち四人の舅があるということで、冷静に考えればぞっとする話だが、それだけ後ろ盾を増やせるのだ。
アーバイン家の嫡男の第一夫人となれば、ルブリン合同王国にも見返りが大きい。
さらにルブリン合同王国と国境を接するフリードリヒのバルト王国は、ここ五十年で四度も干戈を交えた仲でもある。
北琅王フリードリヒの伸張を最も恐れている国の一つであるルブリン王国が、味方になる可能性は高かった。
「少なくとも、殺されはしません。利用価値が高いですし、王族の娘の一人くらい寄越すでしょう」
――あとはベッドの中で言うことを聞かせれば良い、とまではディオールは口にしなかった。
隣でセルシーニアが睨んでいたから。
「待て待つのじゃ、それ以上はここで話すな。壁に耳あり鍵穴に目ありと、昔から言うじゃろう」
痩せて年老いたフスの目は、爛々と光っていた。
野心ではなく、積み重ねた知識を解き放つ機会を与えられたからだろうとディオールは思う。
可能ならばフス先生を、参謀役として同行させたいとも考えていた――。
話の続きは、夜中にフスの家でと決まった。