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ディオールは、敵軍を振り切らないよう、ゆるやかに行軍する。
ビスワ川を挟んで西へと動き出したディオール軍を見た連合軍は悩んだ。
連合軍の指揮官は二人、スモレンスク公ウラジミールと、ルブリン国王を名乗るディスワフが派遣したチャルトリスク公ガジュミール、共にマグナートと呼ばれる大貴族で表向きは同格であった。
だがチャルトリスク公ガジュミールは、ウラジミールに判断を譲る。
己の受けた命令、「アーバインの嫡子を殺せ」と、ウラジミール公の目的が相反すると思わなかったからだ。
指揮官同士の会議で、ウラジミールは丁重に提案した。
「追撃し、何処かで会戦に持ち込みますか、数の上では有利でありますからな」
「ブリャンスク城を攻めてもよろしいが。敵は守りを放棄しましたので」
ガジュミールは一応、別の案を出す。
根拠地としていたブリャンスク城を背にする形で前進したディオール軍は、自ら方向を変えていた。
「全軍で渡河し、一隊を送りブリャンスク城を奪還。次いでビスワ川の南岸で追ってもよろしいが……」
「罠でしょうな」
二人の公爵は、対岸を空けたのも西へ進んだのも策略の一種だと分かっている。
ディオール軍は、正面からぶつかれば不利なのだ、不利な状況で戦う指揮官は居ない。
お互いがこれなら勝機ありと思うまで、何ヶ月も移動や睨み合いが続くこともまた、珍しくない。
事実ディオールは、河岸段丘の後方に、六千の騎兵を伏せていた。
四万もの大軍が渡るのは時間がかかる、騎兵ととって返した本隊とで必ず殲滅できる、古典的な戦術である。
チャルトリスク公は、最初から息子を失くしたウラジミールを立てるつもりであった。
「ここは閣下のお考えに従いましょう。敵は西に向かっております、ラウエンブルクの援軍と合流するつもりでしょうが、東へ行かれるよりはずっと良い。閣下の敵討ちを、是非ともお手伝いさせて頂きたい」
「チャルトリスク公よ、心からの感謝を述べたい。ディスワフ陛下にも、同じようにお伝えくだされ」
ウラジミールは、己とスモレンスクが、ディスワフ王の配下に組み込まれたことを理解した。
二万六千もの援軍の恩義は余りにも重い、残り短い一生では返せそうにもなかった。
一方のディオールは、敵軍が混乱せずに付いてきたことを残念がっていた。
連合軍であれば、揉めた挙げ句に分裂するのではと薄く期待もしていたのだ。
今は8月の半ば、戦争の季節はもう少し続くが、二ヶ月もすれば朝夕の冷え込みが増す。
冬の寒さは兵士を殺し、とても野戦など出来ない。
「早くに決着を付けたいところだが、ガリバルドよ、川をせき止めて敵が渡れば堰を切るというのは駄目か?」
ディオールは書物で読んだ計略を試してみたかった。
しかし皇子の軍事教育係は、悲しそうに主君を見る。
「殿下、それは戦場を知らぬ者が書いた空想でございます。古今より、水は貯めて使うもので、流水を使って成功した例はありませぬ。考えても見てくだされ、敵が堰に気付かずにしかも逃げ遅れるなど、ありえる事ではございません」
「待て、じい! ほんの思い付きだ。実行はしないぞ、そんな無駄な兵はないからな」
「ふむ、ならば。敵軍が来る北の堤を切るという手ならございますぞ。溢れ出た水はひと月やふた月では引きませぬ。恐らくは冬になり、来年の春まで時間を稼ぐことが出来まする。これが水を貯めて使う方策で……」
教え子との会話を楽しむ老将の言葉を、長引くと感じたディオールは遮った。
「じいよ、それでは民が困るではないか」
ガリバルドは嬉しそうに目を細めて、一言だけ返答した。
「ご立派でございます」と。
最初からの計画通り、食糧を定点に配置して余力を残しながら進むディオール軍と、倍の数を持ちながらもぎりぎりの追撃を続ける連合軍の追いかけっこは、3日にも及んだ。
南北に流れるビスワ川の本流にまで達した時、両軍の移動は止まる。
本流には、東へ渡る橋が残り、大きな街道が川に沿って伸びている。
「予定通りだ、全軍渡れ! ここからは早いもの勝ちだぞ!」
ディオール軍はビスワ川の本流を渡り、対岸にある街道の交差路を押さえようとし、連合軍も当然その意図に気付く。
互いに夜を徹しての移動となる、夜が明けて敵が待ち受ける三叉路に踏み込めば簡単に包囲される。
兵数の少ないディオール軍が、予定通り先に布陣する。
砲は据えるが完全な包囲網は敷かない、敵軍が断念する可能性が跳ね上がるから。
その代わりに、温かいスープを全員に配り、兵士達が飲み干したと同じ頃、朝靄の中をウラジミールの軍勢がやって来た。
東側は川に塞がれ、西に展開するしかない連合軍の目前へ、ロランとエーバーの騎兵部隊が姿を見せる。
連合軍も同時に騎兵を出す、当然の戦術ではあるが、それ以外の手段を与えなかったディオール軍が主導して戦いは始まった。
「……思ったよりも簡単に形にはまった」が、ディオールの感想。
敵軍が諦めることなく付いて来たお陰で、労せずして北からやってくる敵軍を順番に叩くという展開に持ち込むことが出来ていた。
後続が続く敵は狭い街道で身動きが取れない、芋虫のようにのたうちながら左右に展開しようとするが、代償も増え続ける。
「じいよ、これは勝てるぞ。後は左翼のロランが敵騎兵を蹴散らして戻ってこれば、完勝だ」
既に兵力差はほとんど感じず、ディオールが若い笑顔でガリバルドに語りかける。
問われた老将は、古傷が痛みもう馬にも乗れない。
輿の上で兵士に担がれながら、ただ静かに前線での撃ち合いを見つめてから口を開いた。
「敵の右翼が転進しますな。無謀な、いきなり脇腹を我らに差し出すとは。ですが……」
言われたディオールも気付く。
いきなりの勝機にも見えた、右翼と後方から一万近い大軍が西方へ離脱を始めたようにも映ったのだ。
浮かれかけた皇子だったが、一瞬の思考の後で突撃命令を飲み込んだ。
「ありえん。四万で二万に付いてきた敵将が、この後に及んで勝利を差し出すなどな。伝令をここに」
戦争の最中に生まれ、十三で初陣を踏んだディオールは己の直感を優先した。
敵はそれほど愚かではないと、この3日間で感じ取っていたのだ。
「ラウエンブルクの軍が近くまで来ている、急げと伝えろ!」
ディオールが口頭で伝え、騎兵が走り出すのと同時に、霧が晴れかけた川岸を黒い流れが逆流してきた。
カロリング帝国の者なら誰でも知っている、黒い軍服を揃えて身に付けた、大陸最強の野戦軍が空いた右翼に姿を見せた。
「……バルト軍め、来ていたのか」
兵力としては多くない、せいぜい六千程度の一個師団。
だが戦力としては、戦場の全てを飲み込むだけの精鋭。
ウラジミールとガジュミールは、西へ戻ればバルト王国軍が間に合う可能性があると知って、ディオールに付き合っていた。
「罠にかけるつもりが、狼の口に飛び込むとは」思ったが、ディオールは口に出さない。
まだ勝機は残っている、援軍のあてもあるし、現状でもロランが速やかに敵騎兵を殲滅して戻ってくれば十中八九は勝てる。
ディオールの思いを代弁するように、ガリバルドが大声で指示を出す。
「我慢のしどころだぞ。本陣を前に出せ、厚くして耐えるのだ」
緒戦の攻勢から一転、長く厳しい忍耐の時間が始まっていた。




