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ディオール軍の中に、白馬が一頭だけ居た。
立派な馬格を持ち美しく、ディオールも最初はこれを乗馬にしようとした。
だがロランらが猛烈に反対した。
「ひときわ目立つ馬に乗る指揮官や王子など、物語の中だけでございます。絶対に駄目」
先の戦いで、敵将を選んで倒したディオールも強くは反対出来ない。
仕方がなく、芦毛の大きな牝馬を選んだ。
そして白馬は、セルシーニアのものになった。
「なぜだロラン、何故俺は駄目でセルシーなのだ」
皇子は不満である。
自分が先陣に立つよりセルシーが立ったほうが士気が上がるのか、と問い詰めたいくらいであった。
騎士はそっけなく答える。
「あの馬をくれれば、機嫌を直すと言い出しましたので……」
「そうか、それならやむを得んか……」
遊郭に通い詰めていたことが知れた皇子と騎士は、立場が弱かった。
セルシーは白馬に跨り、本来は指揮官のみに許された伝統の赤いマントを付け、深い兜をかぶり長い髪と顔を隠した軍装を披露する。
「お前……影武者になるつもりか? 却下だ」
ディオールでも気付く。
そもそも、本来ならば戦場になど出したくない。
余りに士官の数が足らず仕方もなしに使っていただけで、その問題も解消されようとしていた。
「見込みのある奴を部隊長に引き上げた。それに昨日も、ディッセンドルフの次男坊と、ゲルツ家の一門が来着した。もうお前の出番はない、セルシー」
ディオールの旗揚げから、既に一ヶ月が経とうとしている。
宰相志望のカウニッツ以外にも、エスターライヒの貴族や騎士が領地を出奔し、集まり始めていた。
「いやです」
「えっ」
真っ向から反抗されるとは、ディオールは想像していなかった。
母が当主として宰領する中で生まれた息子のディオールは、女が政治に関わるべきではないと言うほど保守的ではない。
またセルシーも「戦争は嫌です。平和が一番ですわ」と言い出すほど浮世離れもしていない。
だが主君で乳兄妹――ディオールが年長――の言うことを一刀両断されるとは思っていなかった。
「おいセルシー、言うことを聞け。女は後方で俺の帰りを待ってろ」
「それではお聞きしますけど、集まって来た中で、わたしに勝てる騎士が何人? わたし以上に遊牧民の戦士を上手く扱える方がいらして?」
「あ、いや、それは」
真正面から睨みつけられたディオールが一歩下がった。
「それに、わたしはディル様が戦死したら死にますから。先に死ぬことはあっても、後で死ぬ気はありません。あと何十年か経てば別ですけどね」
援軍を求めて、ディオールは辺りを見渡した。
だが強く言えるロランは足早に逃げていく、彼は皇子の側に妹を置いておきたい。
アーバインの元家臣団から人が集まりつつあるとはいえ、生粋の騎士の力を発揮している者は少ない。
家臣の多くはテレーズに従いパンノニア王国に落ち延びるか、新しくエスターライヒに入ったアルブレヒトに服従している。
アルブレヒトの妻は女大公テレーズの妹で、何の請求権もない余所者ではなかった。
それゆえ、一族揃って遥か東のスモレンスク公国まで馳せ参じる者はなく、各家の次男坊や三男坊、出世の機会がない傍流の者など、さながら愚連隊の様相を見せつつあった。
立身の機会を求めて集まった貴族の子弟は、総司令官が愛人にやりこまれるという珍しい場面に立ち会った。
「流石はオルランド家の。ディオール殿下を相手に一歩も引かぬとは」
「むしろ、殿下の方が押されておる」
「もう全滅間近だな」
貴族の身分であっても称号は持たぬ、平時ならディオールに会う機会もない若者達は、楽しそうに喧嘩の成り行きを見守っていた。
ディオールでも他人の目は気になる。
「待て、待ちなさい! 分かった、分かったから」
全面降伏した皇子は、周りの男どもに当たる。
「お前らも、何を見てる! もうすぐ敵が来るぞ、準備は出来たのか!?」
「へーい」とも「うーす」とも付かぬ返事をしながら、愚連隊はそれぞれの持ち場に戻っていく。
雲の上とも思われた宗家の嫡男が、思いの外親しみやすいことに感激しながら。
最後に、足を引きずりながらガリバルドがやってきた。
銃弾を受けた予後が良くなく、目は落ち込んでいたが光は失っていない。
今でも、ディオール軍で最年長で、最も階位が高く、豊かな経験を持った将である。
「ガリバルド、下がって養生してくれて良いのだぞ?」
ディオールは本気で勧める。
「殿下、ここが正念場でございます。兵どもの準備は整いました、敵が何時現れても大丈夫ですぞ」
静かに頷いた皇子に、老将が尋ねた。
「解放令を、お出しになったとか?」
「そうだ。味方する諸侯もなかったしな。ならば、土地の者と商人だけでも味方に付けろと、なんとエミーリアからの提案だ」
「それは良うございました。今も農奴を使う大国は、ここルブリンくらいでございますからな」
ガリバルドの領地ロンバルドでも、ディオールの故郷エスターライヒでも、農奴制はとっくに廃止されていたが、土地はあっても人口が少ないルブリン王国では、土地に農民が付いていないと価値がない。
土地の売り買いは、農奴とセットで行われる。
これを否定するのは在地の諸侯の権利と財産を毀損する行為であったが、ほぼ全てがスモレンスク公に付いたので、ディオールは思い切った。
農民への土地の分配と所有、それは商品作物の生産をもたらし、富を手にした農民はやがて商人と資本家が作る経済に組み込まれる。
占領者として改革を行ったディオールの下へは、兵の代わりに商人が集まる。
敵地で冬越しをするのに必要な金と物資を連れて。
細かな作戦をすり合わせる主君と老将の邪魔はせず、遥か対岸を見つめていたセルシーが気付いた。
「殿下、閣下、来ましたわ。敵です」
スモレンスク公ウラジミール率いる二万と、ディスワフが派遣した遠征軍、およそ二万六千が、並ぶようにして姿を見せた。
連合軍は、川の対岸にいるディオール軍を見て歩みを止める。
盛んに伝令の騎兵が行き交うのが、ディオールにも見えた。
「強行渡河してくれれば叩き潰してやったが、まあそれほど愚かでもないか」
腰まで浸かる川は、銃兵にとって天敵。
火薬を濡らせば四万であろうが八万であろうが一瞬で戦闘能力を失う。
そしてディオールは、目の前を東から西に流れるビスワ川にかかる橋を、全て取り外していた。
「予定通り、西進する。奴らめ、驚くが良い」
ディオール軍の主力は、今も草原の女王から借りた兵士である。
彼らの故地に背を向けて、ディオールは西へと兵を動かした。
この時の為に用意した軍楽隊が『獅子の旗の下に』を演奏し、部隊が整然と規律正しく歩き始めた。
そして一騎、白馬が川岸まで走り降りた。
スモレンスクとヤギェウォ家の軍隊は、顔が下半分しか見えぬが美少年と分かるその者が、ディオール・アーバインだと信じた。
「ちっ、セルシーめ、俺より目立ちやがって……」
不満を抑えつつ、皇子は全軍の中ほどを大人しく進む。
率いる全軍はおよそ二万二千にまで膨れ上がっていた。
だが正面決戦をするには少し足りない。
敵にとって居心地が悪く、味方にとって快適な戦場まで、川を挟んでの追撃戦が始まった。




