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 戦場に臨む前、ディオールはエミーリアとサーシャを、キーエフに置いてきた。

 

 フス教授の知識を受け継いだエミーリアも、行く先を占えるサーシャも、役には立つが連れて来るわけにはいかなかった。

 長距離の移動からの厳しい戦いが予想されていたのと、それに加えて草原の女王エカテリンが人質を要求したのだった。


 この時代、人質を渡すのは常識である。

 誓紙や神への約束など誰も信用しない、協力や同盟関係になる場合でも賓客扱いだが人を預ける。

 降伏や服属関係となると親族が要求されるが、ディオールの場合は連れの少女で済んだ。


 女王エカテリンは、当初はセルシーニアの身柄を要求した。

 ディオールからすれば家臣の娘だが、オルランド家の息女であり、名分は立つ。


 だが「御冗談がお好きな女王陛下でいらっしゃいますこと」、セルシーが笑って一蹴した。


 セルシーにディオールの側を離れる気は毛頭なく、自分に人質の価値は無いと確信していた。

 何か不都合が起きれば、ディオールは迷いなく自分を切り捨てるはずだと信頼している。

 実際にディオールが見捨てるかは別の問題として。


 続いてセルシーニアが、女王の御前で大立ち回りを演じた。

「わたくしは、戦場においてこそあるじのお役に立てます。証明してみせましょう」


 数名の遊牧民の戦士が選ばれたが、騎士家の娘は男どもをあっさりと叩きのめした。

 オルランド家の息女は、兄に次いで強力な騎士だった。


 見事な武勇を示したセルシーは、そのままディオールの隣に居座るが、エカテリンの宮廷の一部では評価が急上昇する。

 幾つかの部族の長が、「是非とも息子の嫁に欲しい」と言い出したのだ。


 ディオールの乳兄妹にして、女帝テレーズに可愛がられて育ったセルシーには、辺境部族の跡継ぎの嫁など何の魅力もない。

 セルシーは次代の草原の女王となる機会を失った、もちろん本人は後悔はない。

 それどころか、ディオールを独り占めして終始ご機嫌であった。



 敵軍の中央、敵将ミハエルに向けて突き進むディオールの前に、一騎が割り込んだ。

 インスブルック伯の麾下だった者、マシニッサなどはそのままディオールの周りを固めている。

 道中で配下に加えた農民山賊は、ガリバルドの下で大砲を操っている。

 直接に言葉が通じるだけで貴重な人材なのだ。


 先陣を切ると決めたディオールの前を塞ぐなど、ロランやエーバーでなければ許されない。

 その許されぬ行動を取った娘は、細い槍を右脇に抱えて敵の名乗りを受けて応じる。


「アーバインの獅子に仕えし、オルランド家のセルシーニアだ! 見知って死ね!」


 兄のロランは豪傑、膂力は常人の数倍にもなり戦場では無類の強さを誇る。

 妹のセルシーは、兄には及ばぬが護衛対象よりは強い。

 槍を突き出すと、重装騎兵の弱点である僅かに空いた兜の隙間から目を突いていた。

 続いて反対側からディオールに迫る一騎も叩き落とした。


「おい、俺の獲物だぞ!」

 ディオールが自分前を往く女の背に向けて怒鳴った。


 長い髪をたなびかせ、額を隠す程度の兜に特注の胸甲、戦場で唯一の女は敵味方の注目を集める。

 否が応でもディオール軍の士気は上がる。


「わたしに続け! 殿下の御前なるぞ、臆する者も引く者もわたしが斬る!」


 セルシーは主君の言葉なぞ完全に無視して、騎馬突撃を先導する。

 大事な殿下に戦わせる気など、最初からなかった。


 両翼から突き込んだロランとエーバーの隊は、順調に敵陣を分断していた。

 勝利の女神に率いられた本隊も、有翼重騎兵(フサリア)の壁にすり減りながらもミハエルを目指す。


 右手に剣を持ったディオールの右前方に、敵の騎兵が入り込んできた。

 勇んで馬を寄せた皇子は、すれ違いざまに脇の下から剣を入れて仕留める。


 悲惨なことに、皇子の後ろに続く遊牧民からは「おおーっ!」と驚きの声が上がった。

 生まれ育ちだけの大将ではないかと、疑念を持たれていたのだった。


「俺でも、これくらいは、やれる……」

 密かにディオールは呟いた。


 純粋な騎士血統のロランらには敵わぬが、並の相手に討ち取られるようなことはない。

 アーバインの宗家に五十年ぶりに生まれた男子である、怪我をしない程度に厳しく鍛えられていた。


 もう一方の戦場では、ガリバルドが包囲されながらも上手く戦っていた。


 別働隊、ディオールの到着を見越し、野砲を狙いも付けずに撃ち放ち続ける。

 何列もの銃兵の斉射と混ざり、黒い煙と音で敵主力の目と耳を同時に奪う。


 千六百の騎兵を預かっていた、スモレンスク軍のクラトフスキ卿は、本陣の危機に気付くのが遅れた。

 手元にはまだ千五百以上が残り、押しつぶせると思えば柔軟に対応されていたが、勝利は時間の問題だと確信していた。


 しかし、「クラフトスキ様!!」と、悲鳴にも似た呼びかけが耳に届き、薄く残る硝煙を通して本陣を見た時に「罠にかかった」と気付く。


「若様の下へ戻るぞ! 直ちに集結せよ!!」

 クラフトスキは、ラッパを吹き始めた伝令官をその場に残し、付き従う者だけで駆ける。


 だが、もう全ては付いてこない。

 後方からの奇襲と悟った時に、ミハエルは動ける者だけ連れて逃げるべきであった。

 総司令官としては、それが絶対的に正しい。


 今もっとも優れた将である、北琅王フリードリヒでさえ部下を見捨てて遁走する。

 フリードリヒは、本陣が敵襲を受けた時、単独で別の味方のところまで逃げ去ったことがある。

 その戦場では大敗したが、二ヶ月後には倍にして復讐した。


 同じく、ミハエルの父、スモレンスク公ウラジミールなら迷わず逃げた。

 主君にとっては、生き延びることが役目である。


 だがミハエルやディオールにとっては違う。

 後継者というのは、常に試される立場である。

 今負ければ次があるか分からない、その恐怖がスモレンスク公子ミハエルの行動を縛っていた。


 勇敢なミハエルは、自ら剣を抜いて敵襲を退けようとした。

 決定的に劣勢だと悟った時には、退路はなかった。


 後方からは一騎駆け、しかも止まらぬ勢いでロランが迫り、前方からはディオールとセルシー、さらに旗を掲げたマシニッサら数十騎が一丸となって迫る。


 目端の効く者、スモレンスク公に従う豪族や小領主は、自らの安全を考え後退を始めていた。

 子飼いの騎士達だけがミハエルを守っていたが、セルシーの槍が最後の壁を突き崩す。


 開いた穴に飛び込んだのはディオール。

 皇子と公子は、まさか総大将同士が一騎打ちになるとは思っていなかった。


「スモレンスク公、ウラジミール・リューリクが一子、ミハエルである!」

「エスターライヒ、アーバイン家のディオール!」


 互いの乗馬が、勢いよくぶつかった。

 手に入った馬の中で、最も大きく丈夫な駒を選んでいたが、ディオールの方が大きく弾かれた。

 長距離を走れることを重視する遊牧民の馬と、重い騎士を乗せて突撃する軍馬との差であった。


 鞍から腰が浮く感覚にディオールは驚いたが、上半身の力を抜き、体勢を立て直すのは馬に任せる。

 その代わりに、持っていた剣が右手から離れる。

 だが剣が地上へ落ちることはない、ミハエルの喉元から背中に向けて、深く刺し込まれていた。


「ディル様!?」

 慌てたセルシーが直ぐに駆けつける。


「大事無い、これは返り血だ」

 応じたディオールの隣に、旗役を務めたマシニッサがやってきて自分の剣を渡す。

 金地に赤い獅子は、健在であった。


 ディオールが剣を受け取ったと同時に、まだ馬上にあったミハエルへ遊牧民の戦士が飛びついて引きずり下ろす。

 後続が十騎、二十騎となだれ込んでは、青字に剣の旗も遂に地面に倒れた。


 これが合図となった。

 僅かに残り抵抗するのは、スモレンスク公爵であるリューリク家の家臣のみ。

 一族を率いて参戦した者共は、追われぬ事を祈りながら逃げ出した。


 クラフトスキは去らずにミハエルの亡骸に迫ったが、エーバーが討ち取る。

 散り散りになったスモレンスクの騎兵隊を、ディオールは追撃すべきであった、可能ならば。


「ロラン、どうだ!?」

「無理ですな、私の馬は限界です。それに損害も多い」


 ロランがあっさりと否定した。

 側を離れるのを嫌がってるのかとディオールは思ったが、見渡せば納得せざるを得ない。

 死者は百名ほどだが、重装騎兵とぶつかった馬はその倍が潰れていた。


「追撃は……諦めるか……」

 ディオールの足元には、ミハエルの死体が転がっている。

 敵の騎兵は統率なく散らばり、離れたところで見ていた従者達も走って逃げだしていた。


 既に遊牧民の若者達は、勝利の歓声をあげ、一部は戦利品として死者から鎧や武器を取り上げていた。


「止めますか?」と、ロランが尋ねた。

「いや、好きにさせろ。ただし、死体は集めさせろ。せめて埋めてやりたい」


 スモレンスク軍には手つかずの歩兵四千が残っている。

 ミハエルを失ったとあっては、味方の土地へ戻るのを優先するのが定石だが、再起して押し出してくる可能性もあった。

 目的は、戦死者の体と捕虜の奪還になるが。


 ディオール達にもやることは幾らでもある。

 戦死は騎兵部隊だけで九十五、負傷は百余、ガリバルドの部隊と合わせるとさらに三倍になる。

 討ち取った数はおよそ二百で、損害としてはディオール軍の方が大きかった。


 ディオールは、マシニッサに命じた。

「ミハエルの体を旗で包んでやれ」と。


 この戦場に葬るにせよ、身分が分かるようにしてやるのが礼儀であった。

 マシニッサにも重要な役割だと分かっていて、静かに死者の体を清める。


 日が下り、影が長くなろうとしていた頃、一人の少年が勝利に沸くディオール軍へと近づいて来た。

 立派な馬を引く少年は、即座に遊牧民に捕まりディオールの前へ引きずり出された。

 武装しておらず、殺すほどの価値はないと思われたのだ。


 少年――ミハエルの従者イエール――は、ディオールの前で膝を付いた。


「ア、アーバインの殿下においては、戦勝おめでとうございます……」

 イエールは必死で絞り出す。


「何かあるか? 言いたいことがあれば言え」

 ディオールの代わりに、ロランが対応した。


「じ、自分は、曽祖父の代からリューリク家に仕え、ミハエル様の従者に引き立てられました。で、殿下にお許し願えるなら、あ、あるじのお体を……」


 従者イエールは、この戦場に残った最後のスモレンスク側の者だった。

 主君を残して去ることが出来ず、ただ一人でミハエルを殺した敵の所へとやって来た。

 両手を地面に付いて涙を落とす少年に、ディオールは抑揚を抑えた声で告げる。


「ミハエルの体は、貴君に返そう。馬も返してやる。国まで送り届けるがよい」


 イエールからの返事はなく、ただ伏して泣くのみであった。


 スモレンスク軍は、この夜の内に総退却を始める。

 味方になっていた現地の部族は全て離反した。

 道中に設置した補給拠点は、敵になった部族に次々と襲われ、足を早める為に戦利品の大半は捨てることになる。


 見捨てて去る豪族と小貴族らを責めることも出来ず、ただミハエルの遺体を守りながら二千の歩兵と五百の騎兵がスモレンスクへ辿り着く頃には、総勢1万を超えるディオール軍が国境の街を続々と攻略していた。


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