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5千人の集団を、軍隊として機能させるには時が必要だった。
銃の扱いは弓や馬に比べれば簡単で、子供でも一日あれば覚える。
だが引き金を絞るのを我慢させるのが難しい。
草原を巻き上げながら、数百騎の横隊が前進する。
待ち受ける戦列の後ろで、ディオールが声を張った。
「まだだ、まだ撃つな! この距離では効果がない。引きつけろ、合図を待て!」
だが突進してくる騎兵の圧力と振動が、指先に力を込めさせる。
火薬の弾ける音がして、一部の隊が先走った。
「あー……駄目か。撃った奴、交代しろ」
ディオールの指示で、三十人余りが後ろに下がる。
下がった兵士は、後列か補助要員に回される。
戦列に駆け寄せていた騎兵が右へ旋回し、ディオールの前を横切る。
先頭の馬にはロランが乗っていた。
今、ディオール達は、基本戦術を新兵に教え込んでいた。
「馬の扱いは上手いのだがなあ」と、ディオールが周囲の兵にも聞こえるように呟けば、兵士の一人が応じる。
「殿下様、俺らも馬に乗っけてくれればもう少し上手くやりますよ。こんな空鉄砲なんかでなくて」
周りの者も釣られて笑う。
忠誠こそないが、遊牧民の若者はディオール達に一目置くようになっていた。
一つには、スモレンスク公の侵略が酷烈を極めたこと。
十数年ぶりの外征とあって、スモレンスク軍は手当たり次第に人と物を略奪していた。
彼奴らが想像していたよりも遊牧民は豊かで、抵抗がなかった。
もう一つは、ロランが武勇を示した。
兵士を前にしたディオールは、手に乗せた黄金を見せながら兵士に告げた。
「腕に覚えのある奴は挑んでこい。見事勝利を収めれば、これをやろう」
背丈はあるが細身のディオールと、重そうな黄金を見比べた若者達は、我も我もと手を上げた。
だが、ディオールの後ろから現れたのはロランだった。
皇子よりも更に頭一つ大きい、見るからに英傑染みたロランを見て若者の大半は手を下げる。
勇気ある数百人から選抜された数十人が挑んだが、ロランは全て素手で退けた。
剣や槍、弓を相手にしてもだ。
強さをロランが示したところで、ディオールは右手の黄金を袋にしまいながら兵士に告げた。
「これを与えることは出来んな。代わりにあれを買うことにしよう」
ディオールが指差した先には、羊の群れと木樽の山、中身は強い酒。
「好きなだけ食って飲め」と言い残し、ディオールは兵の前から去る。
兵士達は、無双の部隊長と気前の良い指揮官がいると知った。
それ以後、5千の軍隊は午前中は行軍と午後は訓練を繰り返す。
兵士の仕事は単純明快、銃の扱いと従うべき命令を覚える、ただそれだけだった。
だがディオール達のやることは多い。
スモレンスク公の軍は、従う部族と攻める部族を選り分けながらキーエフへと近づいていた。
四千の歩兵と二千の重装騎兵は、山のような戦利品と共に、現地の味方も得ていた。
遊牧民は勝つ方に付く、女王エカテリンとスモレンスク公では、最初から戦力差が明白であった。
偵察に出ていたマシニッサが戻り、ディオールとガリバルドに報告を上げる。
「敵軍は動向を隠さなくなりました。駐屯地も築くことなく、総数はおよそ二倍に膨れ上がり、広く制圧しようとしています。それに指揮官も判明しました、スモレンスク公ウラジミールの嫡男ミハエルです」
侵攻直後は警戒を怠らなかったスモレンスク軍は、現地勢力を従えて戦術を変えた。
守りの厚い陣地を築くよりも、従った部族を四方に散らばせて壁にする。
これだけで毎日の移動距離が五割は増える。
「攻勢重視か」
ディオールは敵将ミハエルの傾向を決めつけた。
慎重な指揮官は味方が増えても守りを解かない、それ以前に寄り集まる現地兵を信用しない。
「まだ決めるには早すぎますな。集落の薄い地域に差し掛かっただけやも」
ガリバルドが早計な判断を戒める。
ディオールにとっては、戦術も戦略も全面的に老将に頼る他にない。
しかし皇子は自分の判断を信じ、口に出して説明した。
「ガリバルド、余には公子ミハエルの考えが分かる」
「何故に、でございますか?」
ディオールは広げた地図の西の端、バルト王国を指で叩きながら言った。
「この公子は、北琅王の影響を受けている。確か三十歳に近いはずだ。長く平和を保ったルブリンでは戦いの経験はあるまい。だが己も北琅王のように戦いたい、戦えると思うはずだ。国を継ぐ立場に生まれ育てばな」
主君の言葉にガリバルドは大きく頷いたが、頭を少し傾けもした。
「ですが、若い指揮官には老練の参謀がつくものですぞ。わしのように」
「その子守りの言葉、今までは従ったのであろう。毎夜陣地を築き、動かす兵は常に一部隊、連絡を絶やさずに相互に援護しあえる距離を保つ。だが成功は人を陥れる、自らの手で大勝利を掴みたいと願うようになる。特にフリードリヒの英気に当てられた者はな」
「ご自身もですかな?」とは、ガリバルドは口にしなかった。
その代わりに皇子に尋ねる。
「それでは、フリードリヒになりたい若者相手に、殿下は如何に戦うつもりですかな?」
地図から目を上げずにディオールは答える。
「緒戦で首を取りたい」と。
生徒の出した無理な解答に、ガリバルドは天を見上げる。
皺の入った手で痛む足をさすりながら。
スモレンスク公爵ウラジミールが男子、ミハイルは、沸き立つ心を抑えるのに苦労していた。
国境を超えてから最初の五日は、小規模な部族が単独で歯向かって来たが、どれも指揮する間もなく壊滅させた。
重装騎兵はそれほどに強い。
数世代前の全身を覆う板金鎧こそ無くなったが、今でも体の前面に堅固な鎧を纏う。
最も重要な胸甲は、叩き上げた鋼鉄で鋳鉄の板を挟み、裏張りは馬か牛の革。
一層目の鋼鉄が弾丸を砕き、変形した一部が潜り込んでも二層目で潰れ、三層目で止まる。
弾丸に使う鉄や鉛の質は悪く、鎧に当たれば致命傷になることはない。
もちろん弓なども通さない、パイク兵集団には手を出せないが、遊牧民の土地にそのような兵科は存在しない。
侵攻から十日目を過ぎたあたりで戦闘は激減し、従う者が増えた。
今では軍勢は1万五千、キーエフまでゆっくり進んでも四日の距離であった。
ミハエルは、父公爵から付けられた宿将に誇る。
「コモロフスキよ、どうだ? 貴公はキーエフ伯に興味はあるか?」
白髪に白ひげ、右の頬に大きな戦傷のあるコモロフスキが、半開きの目を次代の主に向ける。
「まだ油断なさいますな。エカテリンめは、キーエフに1万の兵を集めておるのとの情報ですぞ」
「それでも我らの有翼重騎兵には敵うまい。奴らが使う武器と言えば、剣と弓。それに旧式の火縄銃くらいだ」
ミハエルとコモロフスキの注意は、進行方向の南東にあるキーエフにあった。
降伏したり、味方すると寄ってきた遊牧民を使い、半日の距離を円形に警戒させている。
まだいずれからも敵を見たとの情報はない。
ミハエルはさらに聞く。
「キーエフを包囲したい。一隊を差し向けて東から包み込み、退路を断つのはどうだ?」
コモロフスキは同意しなかった。
「あの街は交易の拠点でございます。行き交う者、集まる者は多ければ数万に及びましょう。逃げ場をなくして固守されれば厄介です。我らには大砲がありませんからな」
露骨に不快な顔をミハエルが作る。
彼は東方の英雄になる資格を得ようとしているのだ。
英雄には、英雄に相応しい華々しい戦闘があると信じてもいる。
昼の休憩から、進軍を再開させようとしたスモレンスク軍の下に、遊牧民の軽騎兵が飛び込んで来た。
伝え聞いた騎士が、直ぐにミハエルへと伝令する。
「閣下、南西です! 南西から来ました! 三千あまりの軍勢が現れたそうです。応戦したのはウンゲルン族ですが……」
「どうした、早く言え!」
ミハエルは急かす。
この戦争で、初めてのまとまった敵襲であった。
「はっそれが、野砲を持ち、斉射する敵軍に対し、ウンゲルン族は後退を余儀なくされ、救援を求めております!」
望む時が来た、と公子は感じた。
全身の血流が沸騰し、空も赤く見える。
南東にいるはずの敵が、南西から来たのは気になったが、敵が薄い所を狙ったのだろうとしか思わなかった。
「フサリアを出すぞ! 二千全てだ、蹂躙してくれよう! 指揮は俺が執る!」
コモロフスキが「いけません!」と止めたが、逆効果であった。
ミハエルはお守りを遠ざける機会をずっと伺っていた。
「コモロフスキ、そなたは残った軍の指揮をとれ。これは命令だ」
青字に金糸の刺繍をしたマントを翻し、ミハエルは馬に飛び乗った。
鎧に兜や、槍と旗を携えた従者が五人付いていく。
スモレンスク軍は、南西に向きを変える。
その中央からは、東方最強の重騎兵が足並みを揃えて進発した。




