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鎖の引き合いに勝ったディオールが、軽く右手を突き出す。
中指に嵌めた金の指輪が、男の鼻を強く打つ。
買い主のグレゴリウスには何の恩も忠義もない奴隷は、あっさりと鎖を投げ捨て背を向けたが、ディオールは逃がす訳にはいかなかった。
騎士階級や王族諸侯に混ざれば良くて人並みのディオールも、戦技訓練すら受けていない奴隷に負けるはずがない。
鞭の要領で鎖を使い逃げ足を封じると、首を掴まえてそのまま折った。
「残りは……用心棒らしきのが八人ほどか。ま、問題なかろう」
この屋敷へ入った時から、ディオールは人数を数えていた。
部屋の外では悲鳴しても、剣や武器がぶつかる戦いの音はない。
屋敷への侵入者が一方的な戦いを進めている証拠だった。
最初の騒ぎから数分で、寝室の扉が蹴り開けられる。
精悍な顔つきの剣士が部屋を覗きこみ、ディオールの顔を見つけると一瞬で引き締まった表情が崩れた。
「ディル様、ディル様! よくぞご無事で……!」
軽い足取りで奴隷の死体を飛び越えた剣士は、元皇太子を愛称で呼びながら近づいて、そのまま飛びつこうとした。
「セルシー、やめろ離れろ」
「そんな、ひどい」
顔ごと押しのけられた剣士は、頬を膨らませたまま頭巾を取った。
背の割に小さな頭から幅の狭い肩まで薄亜麻色の髪が流れる。
「最後に連絡を取ったのは4ヶ月前だったか? セルシー、少し縮んだ?」
「直接会うのは丁度一年ぶりです! ディル様のお背が伸びたのですよ」
セルシーと呼ばれた少女は、無事を確かめるように小麦色の髪先から、はだけた胸元を通過してつま先までを確認した。
幼い頃より、宮殿の庭で遊んだ殿下がすり傷などを隠してないか見張るのは、彼女の役目であった。
「お体に痣が……ひょっとして、こいつですか?」
セルシーは気絶して転がるグレゴリウスを剣で示す。
「違う。これはやんちゃな修道士どもにやられた」
「そうですか……なら、皆殺しにしましょう」
手を離せば地面に落ちるくらい当たり前の口調でセルシーが提案する。
「やめてくれ……上の修道院には、三百人はいるぞ」
ディオールは着れる服がないか衣装棚を探しながら虐殺を止める。
「わたし一人でも、朝までにはやれます」
「それはそうだろうが……ところでセルシー、お前一人で来たのか?」
ディオールは肝心なことが気になった。
「いいえ。兄様が斬りこぼしがないか、家を見て回ってます。外には、ロンバルド公が来てます。数名が退路の確保を、斬り込むのは二人で充分かと」
何事でもなかったかのように、セルシーニア・テラ・オルラントは告げた。
セルシーは、アーバイン家に長く仕える騎士家の娘。
騎士といっても下級貴族ではない。
ファルツと呼ばれる宮中騎士に位置し、主家の軍事や政務を任される重臣で、しかもセルシーの母はディオールの乳母。
ディオールとは乳兄妹の関係でもあり、この世で最も信頼する二人の一人。
そして信頼するもう一人も顔を見せる。
「殿下、お久しゅうございます。邸内は片付きましたが、ちと厄介なものを見つけまして」
背の高い騎士は、左手に小さな女の子を抱えていた。
「久しいな、ロラン。で、その子は何処で見つけた?」
「鉄格子の部屋に閉じ込められてました」
ロランが連れてきたのは、十歳くらいの少女。
目や耳の特徴からこの辺りの民族ではなく、何処かで買われた物。
怯えた少女は両腕で自分を抱きしめていたが、ディオールを見つけるとうっすらと愛想笑いを浮かべた。
幼少期から感情を顔に出すなと躾けられたディオールは、黒い怒りを表に出さずに済んだ。
代わりに、よく仕込まれた穏やかな微笑を少女に返して安心させる。
「セルシー」
「はい」
「その子に服を探してやれ、何でも良いが暖かいのだ」
修道院への斬り込みを諦めたセルシーが、少女を連れて部屋を出た。
続いて兄の方に尋ねる。
「ロラン、俺の剣はあるか」
「わたくしの予備をお使い下さい。安物ですけどね」
乳兄弟のロランは、少し砕けた口調で剣を渡す。
「充分だ。それと死体の中から、俺の体格に近いのを連れてきてくれ。ここは一人で大丈夫だ」
一礼してロランも部屋を出る。
残ったのはディオールと、まだ気絶しているグレゴリウス。
祖先から受け継ぐ力のままにディオールが蹴れば、グレゴリウスの脂肪の鎧でも内臓を守れない。
騎士や貴族には一般人とは隔絶した身体能力があり、幼い頃から戦いの手ほどきも受ける。
今でも戦場では強力な騎士の数が趨勢を決める、だからこそ支配階級なのである。
それでもディオールは、かなり強めに司教の脇腹を蹴った。
「ぐほぅあ!」
奇妙な音を出して司教が飛び起き、苦しそうに息をする。
「目が覚めたかい?」
「な、何事だ……? お、おい誰かおらぬか!」
問いかけを無視して叫んだグレゴリウスに応える者はいない。
「貴様以外は、全員死んだよ。あと一人だ」
ディオールは結果と未来だけ教えてやった。
記憶の中ではベッドで震えていたはずの少年が持つ剣を見て、グレゴリウスはやっと悟る。
「ま、待て! いや待って下さいませ! 逃げたことは誰にも言いません、そうだ金! 金ならある! 幾らでもあるから好きなだけ持っていってくれ!」
余りの決まり文句に、ディオールでさえ呆れてしまう。
「仮にも司教だろう。せめて神に助けを求めたらどうだ?」
「か、神の許しあらば助けて……もらえますか?」
グレゴリウスの質問に、ディオールは訓練された笑顔で答えた。
「俺は神の声が聞けぬが、お前なら聞けるかもな。直接会って尋ねてきてくれ」
そう言い切ってから軽く右手を横に振った。
顎の下に蓄えた脂肪を震わせながら、血と空気が喉から漏れる。
両手で喉を押さえたグレゴリウスは、声も出せないまま足掻いて死んだ。
しばらくしてロランが戻ってきた。
「ディル様、背格好でいえばこいつが一番近いですな。ちょっと腹が出てますが」
部屋の外からセルシーが言った。
「身代わりなんて無理に決まってるじゃないの。ディルとは顔の造りが違うわ!」
主を呼び捨てにした妹をロランが睨んだが、どうでも良い放っておけとディオールは手を振って流す。
「平気さ、燃やすから」
「しかしそれでは尚更どれが誰の死体か……」
ロランの意見は当然のもの。
燃えて炭になった遺体を見分ける技術はほとんどない。
「そこで、これさ」
ディオールは、右手の中指から金の指輪を外した。
「それは……!」
ロランは知っている、その指輪が三つ歳下の皇太子にとって父親の形見だと。
「これくらいは仕方がない。俺たちにはやるべきことがある」
ディオールは金の指輪を死体の口に入れる。
賊に襲われて貴重品を慌てて隠したと、見つけた者が誤解する事を願って。
「適当に金目の物を貰っていくか。押し入った賊にやられた事になってもらわねば困るからな」
屋敷に火を放ち、四人は外へ出た。
皆殺しにするつもりだったが、思わぬ荷物が一人増えた。
ディオールは性格は悪いが育ちが良い。
非情になるべき場面であったが、自分が囚われた時よりも歳下の少女を殺すのは決断出来なかった。
「俺も甘いなあ……」
徐々に広がる屋敷の火を背にして、ディオールは聞こえる大きさで愚痴を言った。
「あら、けどわたしはそういうとこが好きよ?」
セルシーが顔を寄せる。
「お前に好きって言われもなあ……」
生まれは十日しか違わぬ同い年の乳兄妹である、実の妹より繋がりは深い。
だがセルシーは堂々と怒った。
「は? 何をおっしゃいますか、この殿下は! 出征の前だからと、わたしをベッドに引きずり込んだのはどこの皇太子でしたっけ!?」
「お前、それをここで言うか!?」
ディオールは焦る。
しかし片方の実兄でもう片方の兄貴分は、落ち着いていた。
「二人ともそこまで。これから山をぐるっと回って東へ抜けます。足の弱い子供が一人増えた、言い争いで体力を使う暇はありませんよ」
ロランの言葉は正しく、三年も待ってようやく訪れた脱出の機会なのだ。
しかもディオールは逃げるだけではない。
これから人と金と兵を集め、帝国に挑む立場になる。
ただ最後に、日付が変わる前にロランとセルシーが声を揃えて言った。
「ディル様、誕生日おめでとうございます!」と。
ディオール・アーバインの17歳は、彼の列伝で最も分厚い一章となる。
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