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ディオールは、キーエフ郊外の牧草地を買い取った。
遊牧民の地にも、土地所有の概念は広がっていた。
羊が三百頭ほど付いてきて、オスのみを選んで肉にする。
炭火で焼いて岩塩をまぶしただけの羊肉が、当分の主食。
「臭みはあるが、悪くない」
舌が肥えているディオールも文句は言わない。
雌の羊は乳も出るし仔も産むので価値が高い、売り飛ばして代わりに馬を買う。
これらの費用を、ディオールは付いてきた商人達に出させた。
流浪の皇子は金を出した商人の顔と名は覚え、情報を持ってくれば直接会った。
商人どもは、競うように若者に投資を始めている。
時流は動いていた。
北琅王の軍はルブリン国に侵入し、対抗するようにアーバイン家とカペー家は同盟を結び、ディオールは自由になった。
戦争は儲かるが商人の合言葉だが、それは当事者に近い者に限る。
交易一回分の資産なら、ディオールに投じてお近づきになりたいと思う商人も多かった。
贈り物で埋まった移動式住居の中で、ディオールの機嫌は良い。
「貧乏生活にも馴染んだものだな。金を使わないのが気分が良いとは」
庶民気取りのディオールを、三人の少女が見つめる。
セルシーとエミーリアは「これで庶民のつもりか」と冷たい目線。
サーシャだけは、にこりとディオールに笑いかける。
「おいで」とディオールがサーシャを手元に呼んだ。
異民族の少女は、素直に皇子の膝にやってくる。
無警戒のサーシャになるべく手を触れないよう注意しながら、ディオールは尋ねた。
「次は何処へ行けば良い?」
サーシャは静かに羊皮紙の地図を見つめる。
「ディル様、本当に占いに頼るつもりですか?」
思い切ったセルシーが口を挟んだ。
「古来より、戦の前には巫女の託宣を受けたものだ。占いとはいえ、自信を持って行動出来るなら頼る価値はある」
「それは望んだ結果が出た場合でしょう? さらに東に行けと言われたらどうなさいます?」
短く考えたディオールは、膝の上のサーシャを床一面に敷かれた熊の毛皮へと移す。
木彫りの獅子像――ディオールの象徴――を手にしていたサーシャは、少しだけ残念そうな顔をする。
このキーエフからは、西へ戻るしかないとディオールにも分かっていた。
移動式住居の外で見張りをしていたロランが入ってくる。
「ディオール様、キーエフを治めるゴットルプ族の族長とやらが会いたいと言ってきました」
「やっと来たか。で、本人が来たのか?」
この地の支配者とは会う必要があったが、ディオールは自分から押しかける気はなかった。
些細なことだが、外交は持ちかけた方が受け身となる。
「いいえ。使者が口頭で招待したいと」
側に立っていたセルシーが主君の代わりに怒る。
「なんて無礼な。流石は蛮族ね! いえ、サーシャのことじゃないわよ?」
セルシーは文明人らしい感想を言ったあとで、サーシャは特別よと甘やかす。
「どうなさいますか?」
ロランは微動だにせず返事を待つ。
「手紙を渡す、少し待たせてくれ。その後にロラン、お前が贈り物を持って訪問してくれ。今は、まだ早い」
「御意に」
ディオールの手持ちは少ない。
己の身以外に、価値のあるものはほとんどない。
相手が助力を乞うのを待つ必要があり、その時は遠くないと商人たちから得た情報で分かっていた。
数日の間、儀礼的なやり取りが続く。
ただ居場所の無い皇子が保護を求めて来たわけではないと、ゴットルプ族や周辺諸族が知るための期間だった。
そして――痺れを切らしたのはゴットルプ族の女王、エカテリンだった。
再びロランが主の幕舎の布を跳ね上げる。
「ディオール様、参上せよと。今度は兵が五百も迎えに来ております」
「よかろう、良い時期だ。伺うとしよう」
ディオールは、手元の紙を机に投げた。
日々、手紙を書いては報告を受けていたが、遂に待ち望んだ機会が訪れていた。
この地に住む部族には悲報であったが。
女王エカテリンの、石造りの宮殿にディオール達は呼ばれた。
宮殿の直ぐ外には数千頭の馬がひしめき、遊牧民らしさを残している。
ディオールが左右のロランとエーバーに話しかける。
「定住と遊牧の間、ってところか」
馬に目を付けたエーバーが答える。
「良い馬ですな。疾風のごとく敵陣を襲うことが出来ましょう、百年前ならば」
フリントロック銃兵を中心とした防御陣には通用しないと、騎士は断言していた。
ディオールは楽しそうに応じる。
「それも使い方次第だな。貴様らが率いれば、まだまだ役に立つはずだ」
遊牧民には機動戦力はあっても、敵主力を拘束する為の基幹戦力がない。
千の集落を襲うことは出来ても一つの砦を落とせない、数百人の部隊ならば圧殺しても数千の軍には歯が立たない。
そして今日、スモレンスク公の軍が東進しているとキーエフにも報せが届く。
急報を聞いたエカテリンは、元凶と思われる少年を呼びつけた。
「そなたがディオール……殿下か?」
「拝謁の栄誉を賜り恐悦至極にございます、女王陛下」
進み出たディオールは、完璧な外交儀礼で女王の前で騎士の礼をとった。
「おお、そうか。うむ、誰か椅子をディオール殿下に」
歳の頃は四十過ぎ、旦那の後を継いで女王になったエカテリンは若き皇子を気に入った。
女王は遊牧民の長らしく、巨大なハレムを持っている。
四方の美青年と美少年を集めたハレムにも、ディオールほどの気品を持ち整った顔の者は居なかった。
「ご挨拶が遅れ、申し訳ございません」と、立ち上がったディオールが頭を下げる。
息子ほどの年齢の殊勝な態度に、女王の頬が緩む。
「気にせずとも良い。そなたから頂いた贈り物、こうして身に付けているぞ」
エカテリンが胸元を飾る真珠のネックレスを見せつけた。
豊かな胸であったが、流石にディオールからは守備範囲外。
密かにディオールは考える。
「……余り気に入られても困るな。いざとなったらロランに押し付けよう、熟女はあいつの好みだ」
三十歩ほど後ろに控えたロランが身震いをした。
「どうした、風邪か?」と並んでいるエーバーが聞く。
「いや、何やら嫌な感じが……」
己を売られかけたロランが、僅かに姿勢を直した。
会談の最初は、ディオールのペースだった。
しばらくの歓談の後、エカテリンが本題に入る。
これまで女王が友好的だったのは皇子の美貌もあったが、その母テレーズの威光が大きかった。
エカテリンは、同じ女性君主としてテレーズを尊敬していた。
本領のエスターライヒを追われてもなお、パンノニアの女王である。
無闇に敵に回すつもりはないが、全ては息子の返答次第でもあった。
「ディオール殿下、そなたもご承知かと思うが、西から厄介が迫っております。彼奴らの目的は、殿下だと言う者もおりましてね」
若い皇子に浮かれた中年女の顔が、君主のものに変わる。
空気も変わっていた、見えぬ所には兵が伏せてあると、ディオールにもロランとエーバーにも分かった。
だが内心の気付きはおくびにも出さずに、ディオールは優雅な態度と口調で答える。
「スモレンスク公の目的は、この土地の実りと人です。彼らは私のことなど知りもしません。そして知らぬが故に負けることになるでしょう、私に兵を貸して頂ければ」
興味深いという表情を作った女王は、毛皮の椅子に座り直した。
エカテリンは好色ではあったが、欠点と言えばそれだけ、女の身でキーエフ周辺の十二部族を束ねる大族長であった。
――同じ時、残されたサーシャは机に広げられた地図に見入っていた。
東の端に獅子像を置いて、一気に西へと滑らせる。
「……翼を得た獅子は、狼の群れに飛び込む」
誰に聞かれるでもなく、サーシャは未来を見ていた。




