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ディオールがクラクフを出て四日後、時節は六月になっていた。
「麦の穂が、軽そうだな……」
道脇に拡がる畑を見ながらディオールがいう。
ディオールの髪色は実った小麦畑に例えられる。
種を蒔いたことはないが、豊穣を祈る祭りで麦踏みを披露したことはある。
その程度の知識のディオールにも、今年は実りが悪いと分かった。
「収穫が少ないくらいなら戦争にはなりませんが、実りが無ければ……。ここ五十年で最悪の年になるそうですよ。娼館で聞いたので間違いありません」
雄猪の仇名を持つ騎士レオポルト・ダーウンが、ディオールに馬を寄せた。
エーバーの乱入で、ディオール達は生きて王宮を脱出した。
クラクフにあるアーバイン家の公館には寄らず、別に待機させた馬に乗る。
足を撃たれたガリバルドは火で傷口を止血した後で言った。
「まだ離れませんぞ! お教えしてないことがございます!」
包帯をきつく巻いただけの足で馬に乗るなど自殺行為だったが、ガリバルドは木片を噛みながら一晩の強行軍に耐えた。
ロランとエーバー、若き騎士に見せつけるかのようだった。
「じいさん、無理すんな。後は俺が守るからよ」
エーバーが言ったが、老騎士は睨み返す。
「貴様らに、万余の軍勢が指揮できるか? 儂はまだ死なんわい!」
ガリバルドに言われては、二人の騎士も皇子も黙るしかない。
参加した戦争だけで十を超える、その半分以上で将軍として軍隊を率い、どのような敵陣も城門も打ち砕くと評された鉄槌のガリバルドは、ディオールが持つ最高の駒だった。
ロランはまだ強いだけの騎士に過ぎず、騎士団の先頭に立つ力はあるが指揮統率に関しては未知数。
エーバーは、イノシシの仇名の通り突撃させれば軍神の落とし子かと見紛う働きをするが周りを見ない。
使ってくれる者が居なければ戦場では話にならない。
「じい、追手の気配はない。何処かで休もう、セルシー達に合流しても良い」
ディオールは、脂汗を拭う老人を見ていられなくなった。
クラクフからは、予定通りに東へ逃げている。
今ここに居ないサーシャが「東へ行こう」と言ったのだ。
時折だが、先知の巫女のような事を言う少女の扱いに、ディオール達は頭を悩ませていた。
だが今は確実な正解がない。
「一度、従ってみるか」とディオールが言うと、サーシャは嬉しそうに歯を見せて笑った。
セルシーとエミーリアとサーシャは、一足先にクラクフを発っていた。
幾人かの信用できる者を連れ、インスブルック伯が守りきった財貨と武器と共に王都を離れた。
東方蛮族とは交易が出来る。
セルシーが運んでいる黄金と銃と大砲は、数千の兵を雇うに充分な量。
手っ取り早く兵を整える事が出来るのだが、それを指揮する唯一の将が重傷であった。
「儂の傷など気にしておる場合ではございませんぞ。チロル川の戦いの続きです。川を挟んで向き合った時、どの月齢、どの時間を選び押し渡るか。以前の弓を避ければ良い時代とは違います、川べりの銃は通常の三倍の威力と心得なされ」
ガリバルドは、己の知識と経験をディオールに伝えようとしていた。
チロル川の戦いとは、浅く穏やかな小川を五倍の攻撃側が強行渡河しようとした所へ、フリントロック銃から放たれた丸い銃弾が川面で跳弾して下から馬と兵を襲い、壊滅的な被害をもたらしたもの。
指揮を執るならば、必ず知らねばならない戦史だった。
「分かった、分かったから。じい、今は養生してくれ。俺でも一度に百年分の戦いは覚えきれん」
ディオールは亡き祖父よりも歳上な老公の扱いに難儀する。
祖父帝カール6世は、生きていても六十七歳でガリバルドより三つ若い。
だがガリバルドは止めることはない。
痛む足は腐って落ちても良いと馬に跨り続け、今度はロランも呼んだ。
「お主も近くへ来い、いずれ殿下の右腕として軍を率いる局面もあろうて。あー、エーバー……お主はよいわ。お前には無理じゃ」
「へいへい」と、三十歳を超えたばかりのエーバーは興味なく返事をして、馬を前に出す。
年寄りの話は長い、それを聞かないようにするには風上に立つのが一番だったから。
そしてエーバーが、風に乗った臭いを掴まえた。
「殿下!」と短く警告し、同時にディオールの前を塞ぐ。
右側にガリバルド左側にロランとディオールを三騎が囲んだ。
「火薬、いや火縄の臭いですな、懐かしい」
エーバーが自分の長剣を確かめながら言った。
軍で使用されるフリントロック銃ではなく、臭いと火種の明かりが伝わる火縄銃。
旧式の武器を持った一団が、右手の丘に隠れていた。
「もう賞金首になったのか?」
当たらぬ距離で止まったディオールが聞いた。
「直接聞いて確かめましょう。一人は生かします」
ロランが恐れずに馬を丘に向けた。
漏れ出る気配は雑なもので数も多くない、単独でも充分だと判断してのことだった。
だが先に待ち伏せしていた連中が姿を見せる。
薮の濃い丘から出てきて、一丁の火縄銃を向けて手に槍などを持った十人と少しの集団。
「へぇ、追い剥ぎとは珍しい。どれ、少し相手してやろう」
エーバーが馬を降りて、剣も抜かずに歩み寄る。
予想外の反応に慌てたのか、賊の一人が口を開いた。
「と、止まれ! 金目の物を置いていけば通してやる! つ、通行税だ!」
馬から降りながらロランが答えた。
「申し訳ないが、この国の税金を取る奴らとは、戦争中なんだ」
目を白黒させる追い剥ぎ連中を見たディオールが命令した。
「この辺りの者だろう、小麦が実ってないからな……殺してやるな」
ロランは「承知しました」と言い、エーバーは剣の近くから手を離す。
二人が拳だけで十三人の男を正座させるまで、五分とかからなかった……。
丁度同じ頃、六月一日の昼過ぎになる。
一つの裁判がクラクフで行われていた。
告発者はジギスムント王の息子ディスワフ、裁かれる者は欠席。
罪状は『王殺し』
四日前の深夜、王宮内で起きたルブリン合同国の選挙王ジギスムント三世を殺害した犯人を問うもの。
ディスワフが挙げた名は――ディオール・アーバイン。
王が暗殺されたとの報せを受け取ったルブリン諸侯は騎士を呼び集め、西隣のバルト国ではフリードリヒが動員をかけていた。
今より戦争の季節が始まる。




