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ルブリン国の王都クラクフは、伝統ある政治都市。
王宮と議会と列国各家の大使館が置かれ、アーバインの城館もいまだ残る。
五月の二十七日、ディオール・アーバインは、クラクフの屋敷に入った。
従う者は僅かに二人でしかも徒歩、だが顔は隠さずに。
行方知れずとなり約二ヶ月、この時がディオールの確実な生存が伝わった最初の日で、戦争の始まりの日だった。
「殿下……!」と言ったきり、アーバイン家のルブリン大使は言葉を失った。
「インスブルック伯、久しいな。迷惑をかけた、思わぬ長居になったろう」
ここはカロリング帝国の大使館ではない。
アーバイン家が個人的に所有する公館で、外交と交易の拠点。
継承戦争で負け、斜陽の一途であったアーバインの公館を守り抜いたのは一人の老貴族。
四年の任期が七年目に突入したインスブルック伯であった。
「湯はあるか。出来れば服も装飾もいるな、ついでに情報もありったけ。どうしたインスブルック伯、俺だぞ? 背が伸びて分からんか? 何しろ七年ぶりだからなあ」
「見間違えることがございましょうか……! ご立派になられて……」
アーバインに仕える貴族として外務を渡り歩いた冷静な官僚は、主家の嫡男の裾を掴み膝を付いた。
「だから、泣くな。白髪が増えたか、苦労をかけたようだな」
「殿下に比べれば、それがしなど……」
三年の間、インスブルック伯は耐えた。
六十を過ぎた老伯爵には、主家を見捨てるなど毛頭浮かばなかった。
在外公館は、本国本家の力が弱まれば自身の立場も急速に弱まる。
ルブリン国王ジギスムントは継承戦争で中立を守ったが、フリードリヒを支持する若手貴族を止める程でもなかった。
幾度となく、落ち目のアーバインの家臣であるインスブルック伯を引き込もうと人の群れがやってきた。
インスブルックはその度に、松明を片手に持ち足元には火薬の詰まった樽を置いて出迎えた。
主家の情報と財産は絶対に渡さないとの覚悟を見せつけ、周辺の地価が暴落する中で公館を守り抜いた。
インスブルックは、己の覚悟と忠誠は報われたと神に感謝する。
外交官としてクラクフへ赴任する時、見送りに現れた十歳の皇子は、十七歳の見事な青年へと変わっていた。
「お父君フランツ様のお若い頃にそっくりでございます。もちろんテレーズ様の面影も。わたくしが見誤ることがございましょうや。さあさ中へお通り下され、ガリバルド閣下もオルランド卿も」
前ロンバルド公のガリバルドとインスブルック伯は、固く握手を交わした後に互いの肩を抱いて労い合う。
二人は四十年来の盟友であった。
ロランも丁寧に辞儀をしてディオールから離れず続く。
この屋敷に入る姿は、少なくない数の者に見られたはずで、これからは危険度が急速に高まる。
ひとまず席に付くと「インスブルック伯」とディオールは爵位のみで呼び捨てにした。
主人として振る舞うと決めていた。
「はい、何でございましょう」
老貴族は、嬉しさを白い髭を蓄えた頬に隠さずに応じた。
「余は、フリードリヒと戦うと決めた」
「ご……ご立派に……」
ディオールの宣言にインスブルックの涙腺が砕けた。
「だから、泣くな」
「失礼致しました……歳は取りたくないものですな」
このやり取りを、かつての忠臣と会う度に繰り返すのかと思うと、流石のディオールも少し面倒に感じる。
「奴の喉元に噛み付くには金が要る」
「ルブリンにおける全ての財産権益と不動産は、直ぐにも動かせるようにしております。お味方下さる可能性のあるルブリン国諸侯も、リストにしてあります」
インスブルック伯は、ディオールが来るのが分かっているかのようだった。
「準備がよいな」
「はい、テレーズ様から今も指示が届きますゆえ」
ふとディオールは気になり尋ねた。
「母上は、まだ戦うおつもりか?」
インスブルック伯が驚いたという顔を作ってから告げる。
「まだお耳に届いておりませんか。我らがアーバインは、フランクル王カペー家と同盟いたしました。妹君のアントーニア様が、お輿入れなさいます」
「なんだって!?」と叫ぶのだけはディオールも抑えた。
「ま、まことか?」
「このような事、嘘偽りを申して何になりましょう」
ディオールは二つ下の妹を思い出す。
母に似て気性が激しく我儘、名門大家の令嬢として華やかに甘やかされて育ったアントーニア。
兄の目からは、この苦境で家運を託すには余りにも頼りない。
「インスブルック、実はな、俺は島国のハイランド=ロンドニウム国と組もうと思ってたのだが……」
ハイランド=ロンドニウム国は列強でも最大の海軍を持つ。
ディオールのみならず、急速な軍拡を続けるバルト国の弱点が経済であると誰もが知っていた。
それをどうやって顕在化させるかが問題であったが、バルト国の資金の出どころは北部関税同盟である。
北部関税同盟の要は、バルト国ではなく海洋交易の商都リューベック。
この帝国都市をハイランド=ロンドニウムの艦隊で海から塞ぐつもりだったのだ。
「カペーと組めばランカスターとは組めぬ」
皇子が漏らした言葉は絶対の事実。
フランクル王国のカペー家は、アーバイン家の宿敵だが島国を統治するランカスター家とは不倶戴天。
むしろハイランド=ロンドニウムは、敵に回ったと考えるべきだった。
「陸戦でフリードリヒに勝つか……」
再びディオールが漏らした言葉には、現実味がなかった。
「いや、よく報せてくれた。これでルブリンの助力は必須になった。周辺国と連合せねばならん。大地の上で奴の首を槍の穂先にかけるしかなくなった訳だ」
名将率いる精鋭軍に勝つ道は一つ、敵に数倍する大軍を集めるしか無い。
ディオールは戦略を修正しつつ、ガリバルドとインスブルック伯と相談を重ねる。
そして重大な事を最後に伝えた。
「インスブルック伯よ、母に代わってそなたのルブリン大使の任を解く。詳しくは言えぬが、王宮に向かうと不吉なことになると告げる者がいる。余も警戒するが、そなたは居残った皆を連れてルブリンを離れよ」
「承服致しかねます」とだけ老貴族は答えた。
「そうか」とディオールは笑って続けた。
予想通りの答えだったのだ。
「ならば有事となれば抵抗はするな。卿の名はアーバインの代理として知らぬ者はおらぬ。乱暴な真似はすまい。あー、俺の心配はするなよ、ジギスムント王との会談がまとまれば問題はないのだ」
インスブルック伯は静かに頭を下げて了解した。
旅の埃を落とし新しい服に着替え剣を履いたディオール達三人は、夕刻のルブリン王宮へと入った。
王都とは言えど、あくまで政治の都市。
諸侯も王も軍勢は連れて来ていない。
だが十数名程度の騎士ならば、誰もが率いてやってくる。
今のディオールにはそれでも驚異だった。
しかしルブリン国王ジギスムント三世は、王宮の城門をくぐり馬車を降りると直ぐに現れた。
それも護衛もほとんどなく。
「アーバイン殿下ですな。ご武勇の数々、伺っておりますぞ」
ディオールは膝を付いて、一国の王に対する敬意を示した。
在位三十一年、平和主義と言われる老獪な君主は、流浪の皇子の肩を抱くようにして立たせる。
「一筋縄ではいかんな」とディオールに思わせるに充分な、礼儀正しく懐の深い態度であった。
大まかな地図です
赤が修道院のあった場所
地図は著作権があるので使用フリーのものに書き足しました
稚拙ですがご容赦ください




