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ディオールを乗せた馬車は、険しい山道をつづら折りに下る。
もし車輪が道を踏み外せば、歴史が変わる。
院長のグレゴリウスは、根雪が消えるまで修道院へは顔を出さない。
山を三割ほど降りたところに別宅を持っていて、「何故にわしが一介の修道僧のような真似をせねばならん!」と言い放つ人物である。
司教でもあるグレゴリウスは、この地域一帯のマリウス大司教領の管財人も兼ねていた。
教会という組織は、非常に儲かりそして資産運用が上手い。
帝国内でありながら軍役も免除され、一種の独立国の様相である。
そして騎士兵団が存在していないと言うのが、ディオールが預けられた理由の一つ。
ディオールも当然理解している。
「俺を旗印に諸侯が蜂起、それだけは避けたいか」
三年前。
第二次継承戦争で囚われた時のディオールは、まだ十三だった。
それゆえ刑死を免れる、元々簒奪者には殺すべき大義名分すらなかったが。
囚われのままにディオールの地位と影響力を剥ぎ取り、皇統派の諸侯を粛清し、あとは死ぬまで辺境の山院に閉じ込めれば穏便に片がつく。
今のディオールを救いに来る軍勢はなく、身分を証す物も金の指輪一つしかない。
コンコンと馬車の戸が叩かれ、外向きに扉が開いた。
「到着いたしました。どうぞ、こちらへ」
丁寧に足置きを出した用人を、ディオールは会釈どころか見向きもしなかった。
生意気な小坊主め、と思われたに違いない。
今は新入りの修道士ディオールが五人の男に取り囲まれる。
神に仕える司教と言えど、この若者を野に放てば命はない。
むしろ「良くもまあ呼び出したものだ」とさえディオールは思う。
ただし、十三歳で虜囚になってからの彼は素直で大人しかった。
監視は程々に厳しいと言った所で、その気になれば逃走出来たかも知れない。
だが機を敏るべき時は来なかった。
北狼王フリードリヒと簒奪者アルブレヒトは、いっそ反抗の意志を示せばと待ち構えていたが、若き公子は耐えていた。
院長グレゴリウスの下へ届く報告は「覇気がない」で一貫していた。
そして雪が溶け、好色な司教は遂に元皇太子の少年を味わう気になったのだ。
ディオールは風呂を与えられた。
およそ三ヶ月ぶりのお湯である。
「とは言え、これではな」
気が萎えた様子を隠しもせずに呟いた。
木張りの湯殿が小さいのは良いが、一面に赤い薔薇が浮いていて、むせ返るような匂いがする。
「ひひひ、司教様はこの香りがお好みでの」
世話をする垢すり女は、干物かミイラか見分けが付かぬほどの老婆。
「おやおや、お若いのにご立派で」との世辞にも、ディオールはまったく反応しない。
だがふと尋ねる気になった。
「婆さん、この屋敷に寝泊まりしてるのか?」
「いえいえ、ここは司教様の御屋敷です。老いたとはいえ、女がおってはよろしくありません。わたしらは、しばらく下ったとこに家を頂いておりますじゃ」
「その代わりに男子を呼ぶけどな……」と言いたいところを、ディオールは飲み込んだ。
そして一言だけ添えた。
「そうか。夜道には気をつけてな」と。
夕飯も出る。
久しぶりの肉と油に、腹を壊さぬか用心しながら食べる。
今更暗殺などは恐れていない、その気ならば家に入ったところで刃を突き立てれば良い。
ディオールの立場は揺れ動いていた。
今もなおアーバイン家に対して情を持つ帝国諸侯は多いが、カロリング帝国は小康を保っている。
ディオールに期待されているのは、細々と生きてもらう事だけであった。
しかしここに、それ以上を期待する男が居た。
「ぐふふぅ、さあ飲むが良い。お酒は初めてですかな?」
薄い寝間着だけを着せられたディオールに強い酒を勧めるのは、グレゴリウス院長。
昔の身分を知る院長は、未だ態度を決めかねていたが、白い単衣を着せられた少年を見る目だけは首尾一貫していた。
「……女は美人に生まれれば、常にこんな視線に晒されるのか。堪らんな」と酷く無礼なことを考えながら、ディオールは酒坏を傾ける。
「おお、いけますな。いや、もう一杯飲むが良い」
酒を飲ませながら、院長の手が少年の太ももに伸びる。
ディオールはそれを片手で払う。
同じことを二度、三度と繰り返すと、院長の表情が変わる。
「まだご自分の立場が分かっておられんようですな。おい!」
合図と共に、ディオールは横並びに座ったソファーから引きずり降ろされた。
ディオールは革の首輪を嵌められ、繋がれた鎖の先を大柄な奴隷が握っていた。
赤銅色の肌を持つ南の蛮族、ヌミディアあたりから売られてきた男が遠慮なしにディオールを引き倒す。
「ま、まってください、院長さま……も、もう少しだけ、お酒を愉しみたいのです……」
「おい、もう良いぞ。貴様の命は、わしの手にあると思い知ったか? 以後、従順に尽くせば特別扱いしてやらん事もないぞ」
院長は態度を決めた。
支配して虐げることが好きなグレゴリウスが、太い舌で唇を舐める。
僅かに時間を稼いだが、ディオールは奴隷に担がれベッドに放り込まれた。
三年も大人しくしていたのだ、この程度の屈辱の覚悟はある。
「しかしさ、誕生日にこれはないだろ……」
見慣れぬ天井を見上げて愚痴を零した時、水袋が落ちるような音が遠くに聞こえた。
「んん? 何か言ったかね?」
単衣に手をかけようとしたグレゴリウスが尋ねる。
「いえ、何も。弱気は他人に聞かせてはならない事になってますので」
「そうか、そうか。よし、思う存分鳴かせてやるぞ。どれ……」
言い終わる前に、グレゴリウスの顔面は弾かれた。
それから驚いた奴隷が鎖を引っぱるが、今度はびくともしない。
「王族の血を舐めてもらっては困るなぁ。支配階級ってのは、戦いに優れるから成り立つんだよ」
鎖を握ったディオールが力を込めると、体重で五割は重いはずの奴隷男の足が宙に浮いた――。
大まかな地図です
赤が修道院のあった場所
地図は著作権があるので使用フリーのものに書き足しました
稚拙ですがご容赦ください
この修道院がある山の名前はカノッサです