19
ディオールの生まれ育ったカロリング帝国は、南部は山と湖、北部は森と川の国。
中世期に統一が進まなかったのは険峻な地勢のせいだったが、婚姻政策を通じて版図を広げたアーバイン家が帝位を世襲化して軍事力の一体化は進めた。
アーバイン家の所領となった二つの王国、ベーメンとパンノニアも、同君連合から吸収合併したもので征服したわけではない。
元々アーバインは戦争上手とは言われない。
そもそも宗家に伝わる力が、歴代主君の書物知識を継承するの時点で、文治に向いているのは明らか。
それゆえ、臣下の騎士や貴族を殊更に大事にする。
「いざ王朝に難事あらば双頭の鷲の旗に集いし騎士」の伝統を守る古典的な封建体制を固持していた。
「それで時勢に乗り遅れ徹底的に負けたわけだが……」
バルト国でフリードリヒ軍を見たディオールには痛いほど理由が分かる。
中央集権を押し進め、同質の訓練を受け同じ装備を揃えた五万の常備軍には、立ち上がりの遅い封建軍では後手に回る。
「けどディオールさま、この国の軍はもっと旧式ですよ?」
広い知識を受け継いだフス教授の孫娘がいった。
エミーリアは動きやすいからと、未だにズボンに帽子。
大きな鞄には道中で買った重い本が何冊も詰まっているが、長い旅にも文句一つ言わない。
節操のない皇子が手を出した後も、セルシーは彼女の面倒をよく見ていた。
元々宮中騎士の息女で、主家の養女として近隣王家へ嫁ぐ予定だったセルシーニアは、嫉妬で他の女を排除するような教育を受けていない。
奥向きの全てを取り仕切り、必要とあらば側室も自分で用意する立場で、嫁いだ先とアーバイン家の仲を取り持つ予定……であった。
そのセルシーが口を挟む。
「ルブリンの有翼重騎兵は有名よ? 騎士の数も多いわ、帝国ほどではないけど」
ルブリン合同国は、国土の三割ほどを大陸性のステップ地帯が占める。
国土は広く帝国と比べても五割以上あるが、人口は四割程度の一千万と言われる。
国民のほとんどは農奴で、上は貴族が支配する。
王家はあるが貴族議会で選ばれるもので、王権は弱い。
「国王は君臨すれども統治せず」を最初に定めた複数の民族からなる貴族の連合制で、国名にも現れている。
云わばアーバイン家の無いカロリング帝国のようなもので、侵略してくる敵には激烈な反応を示すが、まとまった軍事行動は苦手。
それでもディオールが訪れたには理由がある。
ルブリンは北琅王の次目標で、この国のフォルク人が多く住む土地――三割ほどある――を抑えられれば、フリードリヒの覇道を止める事は不可能になる。
「ルブリンは、バルトから度重なる侵攻を受けている。それに東方や南方の蛮族や異教徒からも。その時にアーバインが助けたこともある。ここ百年は大きな戦争もやってない。その前はやりあったが……今なら対フリードリヒを拒む理由はない。何と言っても、俺の名と血は大義名分になるからな」
強気の意見を述べたが、ディオールもルブリン合同国が単独で戦えるとは思ってない。
むしろ広い国土にフリードリヒの主力を引き込む囮、そのくらいの評価しかない。
「バルト軍を誘うだけ誘って、有翼重騎兵が突撃すれば万に一つもあるが、誘う土地は誰かの所領だから無理だろうな」
貴族の力が強い事は、そのまま騎兵戦力の強さに繋がる。
その代わり国土の一部を失ってもといった戦略がとれない。
「お前の土地は敵に占領されるが耐えてくれ」と言われて我慢する諸侯は滅多に居ない、それならば敵方へ走った方が被害が少ないからだ。
だが踏み込んだ敵の一歩目には、協力して最大の抵抗力を発揮する。
フリードリヒが狙う都市ダンチヒは、海と川に面して守りが堅い。
歩兵を拘束する壁としての役割は十全に果たし、一万を大きく超えるルブリン重騎兵の集結が間に合えば、バルト軍は補給線の維持が困難になる。
そして、その間にディオールにはやるべき事がある。
父祖伝来の本領、エスターライヒを取り戻すのだ。
エスターライヒ大公国の歴史と経済力は帝国諸侯でも群を抜く。
今はアルブレヒトとその妻が大公国に入ったが、統治しているとは言い難い。
正統な相続人たるディオールが帰還すれば、直ぐにも兵が集まるに疑いはないが、フリードリヒとバルト軍主力が帝国内に居ては成功の芽がない。
「ところでディオール様」
「なんだロラン」
クラクフへ向かう途上、ロランが聞いた。
「母君とは合流されないのですか?」
「……お前は時に嫌なことを提言するな」
ディオールは母テレーズにとって至宝であった。
失ってはならぬ掌中の玉として溺愛していたと言って良い。
だがそれは年頃になった皇子にとっては煩わしく、また過保護に感じた。
ディオールは初陣を望むが母は絶対に許さぬ、遂に皇子は宮廷騎士団のみを率い無断で出陣した。
母は激怒したとしかディオールは知らぬ、それ以来、一度も会ってないからだ。
次に会えば運が良くても勝手をせぬように幽閉、下手をすれば廃嫡もあるとディオールは確信していた。
従うロランの意見は違っていたが。
「母上と弟達には、パンノニアで静かに暮らしてもらおう。どうせ一国では戦いにならん。それに……」
最後の一言をディオールは飲み込む。
「母上は戦場に立てないしな」の一言。
いっそ全てを譲り渡してくれるならば、ディオールもパンノニアに赴いたかも知れぬ。
だが母の気性でそれはないと、息子は確信していた。
ディオールは、これより全て己が動くべきであると自覚し、行動するつもり。
それは常に陣頭に立ち戦い抜いた北琅王フリードリヒから学んだ物であるが、ディオールはそれとは気付いていない。
稀代の、今を生きる男子全てが憧れる英雄に挑む怖さを、ディオールはまだ知らなかった。
ディオール達が王都クラクフへ入ったのは五月の二六日のこと。
まだアーバイン家とカペー家の婚姻と同盟の報せは市中まで届いていない。
「意外と……すんなりいったな」
ディオールは、前ロンバルド公ガリバルドの名で、ルブリン国王ジギスムントに面会を申し込み、即座に許可された。
拍子抜けと言っても良い、まだディオールの存在は明かしてないのだから。
「若、どうやら若様の逃亡は、噂になりつつあるようですな」
用心しろとガリバルドは言った。
諸国やディオールの行き先で、多数の密偵を使っているのは前ロンバルド公。
歴戦の名将、鉄槌のガリバルドは、王宮に入る前からきな臭いものを感じている様子だった。




