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 ディオール達の一行に、子供が一人いる。

 修道院長の所で見つけた、東方蛮族の奴隷少女である。


 自らサーシャと名乗った、これは東方部族に多い平凡なもの。

 家族と引き離された幼き身にしては落ち着いていて、僅かに言葉も理解し喋る。


 子連れは警戒網をかい潜る効果もあるが、足手まといには違いなく、ディオールは何処かの支援者に押し付けて別れようと思っていた。


 サーシャ、十歳ほどの黒目黒髪に発達した犬歯が見え隠れする少女には、幾らディオールと言えど手を出さない。

 セルシーの隙を付いてエミーリアに世界の半分を教えた後でも、鬼畜にはなれなかった。


 そもそも皇子の口説き文句が通じるかも分からないが……。



 地図を開いた机の片側に、セルシーとディオールとエミーリアの順に並んで座っていた。

 反対側にはガリバルド、サーシャ、ロランである。


 今後の行き先の確認であったが、まずセルシーが口火を切った。


「エミーリア、あんた良い度胸してるわ? せっかく助けてあげたのに」

 ディオールの髪を透かして二つ隣を睨む。


「も、申し訳ありません……『第四夫人が空いてるぞ』と迫られて……つい」

 薄く染まった頬を両手で隠し、エミーリアが女騎士の視線から逃げた。


「ちっ……どいつもこいつも。ディル、あんたもあんたよ、私がこれほど尽くしてるって言うのに!」


 セルシーが乳兄妹だけに許された態度で皇子を睨むが、ディオールは全く開き直り悪びれる素振りもない。

 それ以前に、悪いとは微塵も思っていない。


「まあまあ、セルシーニア殿も落ち着かれよ。嫉妬は女の顔を歪めますぞ。若が意気軒昂、お盛んなのは良いことじゃ」


 先代のロンバルド公ガリバルドもこの調子。

 男子は血筋を残してなんぼの価値観で育ったディオールにとって、目の前の果実を見過ごす方が罪である。


「ただし」とガリバルドは付け加えた。

「あまり気安く婚姻のお約束をなされますな……」と。


 ディオールにとって四つの枠しかない結婚相手は、数少ない手持ち札。

 なるべく強く兵の多い家に高値で売り付ける必要があった。


 宮中騎士(ファルツ)のオルランド家は家臣筋とはいえ、帝国貴族の伯爵位と同格に扱われる名門だが、エミーリアはただの騎士家の血が伝わるだけで明らかな貴賤結婚になる。

 それでも四人目ならば押し込めない事もないが、これ以上候補が増えないとは限らない。


 だがディオールは、己の行動の正しさを確信していた。

 寝台の上で何も知らぬ少女に愛を囁いてから、目の奥に忠誠を意味する蒼い炎が揺らぎ始めた。

 しかし代わりに、委細を知ったセルシーの瞳は真っ赤に燃え上がったが。


 ここでディオールは考えていた。

「男どもの色は忠誠と裏切りを意味するが、女は違うのではないか」と。


 セルシーの忠誠を疑ったことは一度もない。

 幾ら嫉妬に支配されようとも、決して裏切らない分身とも呼べる存在。

 だが誰よりも深い蒼をたたえる翡翠の瞳は、容易に赤く変わる。


「情愛と怒り……女はこっちが優先されるのかな?」

 皇子は答えに辿り着こうとしていた。


 これから先も、婚家の戦力を頼らざるを得ない立場のディオールにとって、この力は重要な武器となる。

 それに女が本気で怒っているか知る能力は、全ての男が願って止まない物でもある。


「まあとりあえず、船の支度が出来たようだ」

 ディオールは話題を変え、地図の上で今いるバーリンから川に沿って指を運び、港町で止めた。


 船で東のルブリン合同国へ入るつもりだった。

 四人に異論はなく、話は決着するかに思われたが。


「どうした、サーシャ?」

 ほとんど口をきかぬ少女が、港町を示すディオールの指を掴んで首を横に振った。

 そして喋った。

「海、危ない、死ぬ」と片言で。


「ははは、大丈夫だ。ちゃんと船に乗るぞ? 沈むような安物ではない」

 ひっかかる物があったが、ディオールは安全だと言い切った。


 サーシャは、今度は皇子の目を真っ直ぐ見てから指を引っ張る。

 港町ではなく陸路を通って東へ、そして指はルブリン合同国を通り過ぎ遥か東の蛮族地帯、大きな川の合流点で止まった。


「ううむ、お主は故郷に帰りたいのか? しかし幼いのに地図が読めるとは立派じゃ立派」


 ガリバルドが豪快に褒めたが、ディオールの感想は違った。

 東夷部族は、遊牧的な暮らしをしている。

 決まった都市を持たずに、地図の上にも山と川以外は描かれていない。


 だがサーシャが示した場所は、蛮族が中心地を置くことが多く、外交の用あればまずは訪れるキーエフと呼ばれる重用地だった。


 そしてもう一つ、静かに暗いだけにも見えるサーシャの黒い瞳は、かつて宮殿で見た占いをする移動型民族と良く似ていた。


「サーシャ、海は駄目かい?」

 ディオールは真剣な顔で聞き返し、少女はこくりと頷いた。


「誰か近海の情報を持つものは?」

 今度は全員に聞く。


「バルト国はほとんど海軍を持ちませぬぞ。まあ金が無いので陸軍に傾注ですな」

 これはガリバルド。


「あの、今年は不漁らしいです。バルティアナ海に限らずですが、五月に入っても気温が上がらないそうで、作付けも不安視されています」


 春から夏にかけてのバルティアナ海は大人しいが、帝国の北海と呼ばれるだけあり冬の嵐は船の通行を許さない。


「陸なら大丈夫かな?」

 今一度、ディオールがサーシャに尋ねると、笑顔が帰ってきた。


 ディオールは勘で決めた。

「陸路で行こう。冷たい海は思わぬ風を呼ぶ、万が一に備えて歩こう」


 優れた指揮官は例外なく勘が良い、また運も必要条件となる。

 サーシャを拾ったことを幸運と見立てた皇子は、己の勘に従うことにした。


 そしてバーリンを出て五日後、本来の予定ならとっくにバルティアナ海の上に出ていた頃、一つの報せを新聞で知る。


 二日前から季節外れの北風が押し寄せ、多数の船が波に砕かれ海に消えたと。

 漁船のみならず大型の交易船すら巻き込まれ、フリードリヒ王は救助の為に一軍を沿岸部へ差し向けたともあった。


 バルト国の次の目標であった、ルブリンの都市ダンチヒへの出兵はこれで当分なくなった。


 奇貨――サーシャ――を拾ったやもしれないと、ディオールは思う。

 風読み天候読みの巫女は稀に生まれる、だが先を見通す稀代の力を持つ者も、歴史には僅かに現れる。


「サーシャ、お兄ちゃんとずっと一緒に居ような? もう少し大きくなったら良い事教えてあげるからね?」


 女性を虜にする端正な顔に笑顔を浮かべ、少女を引き込もうとした皇子の策略は裏目に出た。

 怯えた表情に変わったサーシャは、セルシーの後ろへと逃げ出した。


「ディオール様、余り幼子を怖がらせないでくださいね」

 ロランまでも注意した。


「……そんなつもりは毛頭ないのだが」

 納得いかぬといった表情でディオールは歩き続ける。


 今のところ、追手や追尾の気配はない。

 バルト国を出るまでは、後三日とかからぬはずだった。


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