狼の土地へ
ディオール達三人は、無事にセルシーら三名と合流した。
セルシーは、付いてきた男装の少女を見て片方の眉を釣り上げたが文句は言わなかった。
ヤン=フス教授は、ディオールを逃がす為に囮となったと解釈したのだ。
残った家族や子孫の面倒を代々までみるのは、忠誠の対価として当然のこと。
主従関係は、契約よりも強く重い。
たかが数十年の雇用関係で、忠誠が生まれることもなければ、維持できることも出来ない。
セルシーの皇子への絶対的な忠誠心も、七百年の歴史があってこそ……という訳でもない。
セルシーニア・テラ・オルランドは、個人的にディオールを慕っている。
幼い頃の乳兄妹の立場は心地よく、宮廷では誰もが一目置いた。
セルシーニアの洗礼式では、代父母をディオールの両親が務めたほど。
彼女の未来は決まっていた。
無事に育ち成人すれば、女大公テレーズと代帝フランツ1世の養女となって、帝国内外の王族に嫁ぐ、アーバインの令嬢となるのでもちろん第一夫人である。
その後は王妃として、アーバイン家の不利にならぬよう旦那を操るのみ。
だが北琅王フリードリヒの起こした二度の継承戦争がセルシーの運命を変える。
「セール、聞いてくれる? 俺、今度出征することになったんだ……」
宮殿の図書室に連れ込まれた十三歳のセルシーは、ディオールから告げられ驚いた。
彼女は強大なアーバイン家が負けるなど夢にも思っていない。
エスターライヒ大公国だけで六万、ベーメンとパンノニアと領有する二つの王国からさらに六万、その他の領国にも合わせて数万の兵がある。
従う貴族や騎士は一千家に迫り、生み出される騎兵は万を優に超える。
「冗談でしょ、ディル様?」
まだ純朴な少女だったセルシーニアは聞き返した。
「いやそれがね。他の周辺列強もこれが好機とやってきて、ここは嫡男で皇太子の俺が戦線鼓舞のために……」
目の前が真っ暗になったセルシーは見落とした、皇子が嘘を付く時の癖、右耳を触る瞬間を。
図書室には、二人しかいなかった。
侍女だけで三百五十名がいる宮殿で、普段はありえない事であった。
セルシーにも常に数人は付いて回る、これから起きたような間違いがないように。
引き寄せるディオールの腕に身を任せたセルシーは、ドレスを剥ぎ取られ時間をかけてコルセットも外された。
皇子はやけに準備がよく、図書室に何枚もの毛布を持ち込んでいたが、若いセルシーニアは緊張で何も気付かなかった。
十七になった今となれば、セルシーにも分かる。
「騙された」と。
本当に戦況が悪化し、ディオールが戦地へ赴いたのは、それから七ヶ月後のことだったのだ。
その半年の間は「第三夫人にするから、結婚しようね」という甘い言葉を信じていた。
ディオールは戦果も上げたが、和平交渉の為に自ら捕らわれた。
その時からセルシーは、ドレスを捨てて体を鍛え武芸を学び始めた。
今では腹と背中の肉を胸に押し上げるコルセットなど必要ない。
強靭な腹筋と胸筋が大きくなった胸を支える。
素手ならディオールを組み伏せるほど強くなった、宮中騎士の家に生まれた彼女には戦闘の才能があったのだ。
セルシーは、フス教授の孫娘エミーリアを近くに呼んで言った。
「自分の身は自分で守るのよ? あそこの主様は、殺したくなるほど女癖が悪いから」
「えっ!? わ、わたしはお祖父様の知識を活かすのと、自分の目で世界を見てみたいと……」
エミーリアは、迫力ある美貌の女騎士に己の思いをはっきりと伝える。
この態度はセルシーにとって好ましい。
社交界を飛び回る若雀よりもずっと信用できるもの。
「そう、なら良いわ。優雅な行幸とはいかないだろうけどね」
これよりディオール達六人は、北琅王の本拠地バルト王国に入る。
目的地は王都バリーンの郊外にあるフリードリヒ軍本営と練兵場。
フリードリヒは、封建的な軍の分散配置を好まない。
新領土ベーメン駐留軍1万1千は例外で、残りの六万は全て直接に指揮掌握している。
フス教授に聞くまで、ディオールはその事すら知らなかった。
ただし国境に軍を貼り付けず、北部関税同盟――カロリング帝国北域を緩やかにまとめる自由商圏――を主導するバルト国内には、関所や検問がない。
潜り込んでしまえば自由な人の往来を妨げるものがないのだ。
ディオール達は、旅の商人を装う。
万が一の身分証や賄賂も充分に準備してある。
女子供の旅人も珍しい時代ではなく、黒髪に黒目の東方蛮族出身の少女サーシャ――マリウス大司教領で拾った――が目立つくらいだが、髪をセルシーと同じ薄い亜麻色に染めさせた。
顔立ちは姉妹と言い張れるほどではないが、何時の間にかセルシーによく懐いていて問題はない。
何と言っても、見咎められたとしても視線は美しい姉役に集まる。
「さて、行ってみようか」
ディオール達は小さな荷馬車を引いて歩き出した。
北へ、それから海路を使って東のルブリン合同王国へ行く予定である。
子連れの集団は、反逆の皇子のイメージからは程遠く、時折行き交うバルト軍の通信騎兵が目を止めることもない。
順調に国境を超え、五日目にはバルト国内では珍しい貴族の領地に入った。
純粋な封建制を維持していたアーバイン家と違い、フリードリヒのシュタウフェン家は数代に渡り絶対君主制度を推し進めてきた。
だが旧来の大貴族を一掃するのは困難で、今も家領を維持する者はある。
そして「なんでこうなるかなぁ?」と、ディオールは頭を抱える。
ポツダム伯カーレルという者の領地で問題は起きた。
帝国貴族ではない。
バルト国が自家の臣下に与えた称号で、些末過ぎてディオールでも初めて聞く爵位だった。
「朝になれば無事に戻るやもしれません、待ちますか?」
ロランが冷静な提案をした。
「ロラン、妹が捕まったってのに冷たいな。取り戻すに決まってるだろ。粛清だ」
荷車の底から二振りの剣を取り出したディオールが、三つ上の騎士に投げて渡す。
「じい、すまんが」
「はいはい、老人は除け者ですかな」
先代のロンバルド公ガリバルドは、楽しそうな笑顔見せた。
「うん、サーシャとエミーリアを頼む。ここで一度別れよう。バリーン近くの予定地でまた会おう」
「了解ですじゃ。行ってらっしゃいませ」
ガリバルドは、皇子の出陣に心配する様子もない。
こんなド辺境の田舎貴族と騎士など、相手にもならぬと確信している。
ポツダム伯カーレル、その息子の一人が買い出しに出たセルシーに目を付けた。
サーシャを連れていたセルシーは、騒がずに妹役を逃がしてから大人しく捕まった。
「騒ぎは起こしたくないが……見捨てるわけにもいかんな、後で怒られてしまう」
片手で剣を振って具合を確かめたディオールが笑った。
味方には頼もしく、敵には幾らでも酷薄に見える王者の微笑。
「行くぞ、ロラン。とりあえず全滅させる」
二人は夕刻の宿を出た。
皇太子の乳兄妹を攫った報いを与えるために。




