12
流浪の皇子ディオールは、プラハを抜け出した。
通りを二つも挟んだところからの狙撃で指揮官は死に、兵にも負傷者がある。
これでは「追ってこれない」と予想しつつも、丁寧に道を選んで街の北へ出て最初の宿場町へ急ぐ。
若い皇子と騎士の足ならば半日もかからぬ距離。
セルシーとガリバルド達は朝も早くにプラハを出発し、さらに先で合流する予定だった。
辿り着いたメルニークの町は、昨日からのプラハの騒ぎで賑わっていた。
銃を持った集団と軍のぶつかり合いでは何が起きるか分からない、富裕層やバルト国人を中心に逃げ出す者で混雑し、ディオールとロランもその中に上手く溶け込むことが出来たのだったが。
町の入り口で、ディオールは見知った顔を見つける。
ロランが警戒を促すのも聞かずに、女好きの皇子は男装の少女に話しかけた。
「どうしたエミーリア、今はエミリオかな。プラハは荒れるから逃げ出せとお爺ちゃんに言われたか。だが心配するな、アルブレヒトもフリードリヒもそれどころではなくなった。先生が上手く立ち回れば、咎められることもないだろう」
安心させるために、ディオールは優しい笑顔を振りまいたが、フス教授の孫娘は悲しみの目で一通の手紙を差し出す。
『わたしの最も優秀な教え子へ――』の一言で始まった手紙には、短くも老人の想いが込められていた。
――生まれながらに馬にも乗れず、ただただ騎士家の一室で腐る我が身を召し道を与えて下さった貴君の祖父君の恩義を忘れること一日もなく――
前半は如何にアーバイン家から恩を受けたかを書き、生きて現れたディオールに出会えたことの神への感謝と、教壇に立つようになってからの生徒達への情愛。
つらつらと書き連ねた文章は、単純にして明快であった。
老骨はディオールと学生に代わってここで死ぬ、孫娘のエミーリアを頼みますと。
踵を返そうとしたディオールの前に、ロランが立ちはだかった。
「そこをどけ、ロラン」
皇子は珍しくも一方的に命令する。
「どきませぬ」
ロランは絶対に行かせぬとの覚悟で答えた。
しばし睨み合う兄弟に、エミーリアが言葉だけで割って入った。
「……祖父は、もう余り長くありません。この冬に、二度も血を吐きました。春が来て少し持ち直し、その……貴方が訪ねていらしてから嘘のように生き生きとしてましたが、次の冬を越せるかどうかは……」
ディオールの名前を出さぬよう、エミーリアは慎重に喋る。
「だとしても、まだ生きている」
言い切ったディオールの態度と瞳は、ロランを危うく一歩下がらせるところだった。
しかしこれ以上危険な橋を渡らせるつもりは、ロランには微塵もない。
例えディオールを気絶させてでもプラハから離れるが、目立つ行動は避けるべきで、忠臣は主君にそっと囁く。
「それが唯一の息女を託されたご主君のなさることでしょうや」
効果は劇的であった。
周囲の目を憚るように顔を隠した皇子は、静かに答えた。
「ロラン、お前の言う通りだ」
ディオールの役割は、恩義に報いる事で死地に飛び込み救う事ではない。
一歩だけ丁重にエミーリアに近づいた皇子は、貴婦人に対するように優雅に腰を折り穏やかに告げた。
「祖父君は、私にとってまさしく最良の師でありました。さらに長く教えを乞いたいとの想いもありますが、師の最後の願いを果たさねばなりません。この先に、我らの協力者が待っております。ご同道を願えますか。必ずや安地へと送り届けますゆえ」
エミーリアは驚き、視線を下に向けた。
いきなり腰に手を回し持ち上げた、あの無礼な皇子と同一人物だと思えなくなったのだ。
そしてもう一通の手紙を鞄から取り出す。
「あの、これ……」
「拝見してもよろしいですか?」
エミーリアが二度早く頷いた。
手紙はフス教授が孫娘にあてたもので、両親が亡くなり至らぬとこがあったかも知れないが愛していると、そして最後に祖父の我儘を許しておくれと書いてあった。
だがディオールが気になったのは、最後の二行。
――お前の思う道で待てば会える。もし許されれば、お前の知識を活かしお仕えしてもよい――とあった。
フス教授の孫は十四歳で、男子ならば軍略を齧る程度なら身につけている可能性もあったが、エミーリアは小柄な女子である。
疑問を持ったディオールは、威圧せぬように男装した女の子の瞳を見ようとした。
だがエミーリアは目は合わせずに話した。
「あの、信じられないかも知れませんが……わたしはお祖父様の書いた物なら一度読めば忘れません。十の頃から目を通し始めて、これまで書いた本や論文やその草稿も、祖父の字は全て読みました」
少女の告白を聞いたディオールは驚かなかった。
何故なら、アーバイン家の直系も似た能力を受け継ぐのだから。
騎士階級であるオルランド家のロランやセルシーは、父祖から人の限界に迫る戦闘能力を受け継いだ。
そして単純な戦いではオルランド家に劣るアーバインが王族である理由は、より支配に適した能力を持つからである。
歴代の当主が綴った書物は、一度でも読めば忘れない。
忘れないというよりも、好きな時に引き出せるとディオールは認識している。
つまりディオールの頭には、帝国と家領の法と判例、軍制と戦術、全ての家臣の家系図と功績が詰まっていた。
中には夜の手引書を残した皇帝もいて、これが今までのところ最もディオールの役に立ち、最初に夜戦の犠牲になったのはセルシーだった。
家祖から数えて三十代以上、七百年の歴史が紡がれた宮殿の図書室で、五百冊以上の書物をディオールは刻み込んでいた。
「あの、やっぱり信じられませんか……?」
目を伏せたままエミーリアは聞いた。
「いや、信じるよ。そういうこともある。けど、どうして俺たちが北に来ると?」
ディオールは断言して聞き返した。
「それは……お祖父様と、敵の事を知らぬと会話してたのを聞いてたので……」
ディオールは、フリードリヒとバルト国のことを詳しく知らない。
国力ではエスターライヒの半分にも満たぬ小国に負けたのには、強大なアーバイン家の弱体を狙った列強の介入以上の理由があると思っていた。
プラハから北へ、バルト国の方面に脱出したのは、敵の裏をかくと同時に偵察をしてやろうとの考えがあった。
「それだけで、ここで待っていたのか」
ディオールは白い灰と銀の中間の髪をじっと眺めた。
そしてロランは嫌な予感がしていた、今でもマリウス大司教領で拾ったサーシャとか言う小娘を連れているのだ。
これ以上の荷物は絶対に増やしたくない。
「エミーリア、お前も一緒に来るか?」
「良いんですか!?」
ディオールの予想以上に、エミーリアは即答して顔を上げた。
魔女崇拝扱いされかねぬ男装をしてきたからには、変わった娘だろうとは思っていたが、これほどとは想像していなかった。
「ま、待て。お待ち下さい」と、ロランが慌てて双方を止めた。
「あなたの忠誠を疑うわけではありませんが、これより先は何時命を失うか分かりませんよ。自分はどちらかを助けるとなった時」
ロランは一度切って横目で主君を見てからはっきり言った。
「あなたを助けることはありません」と。
「その必要はありません」
「その必要はないかもな」
ディオールとエミーリアが同時に言って、先に少女がいった。
「わたしは広い世界に興味があります。父の実家に行けば、面倒も見てもらえ、数年すればお嫁に行かされるでしょうが、それはわたしの望みの人生ではないのです」
困るロランに、ディオールが追い打ちをかけた。
「この娘には、俺への忠誠なんぞ一片もないぞ。ただ先生の知識を受け継ぐ者は側に欲しい。もし危なくなれば、スカートを履いて降伏すれば良いさ。女までは殺さんよ」
エミーリアの瞳には、外への憧れはあったが忠誠の蒼色は欠片もなかった。
それでも皇子は連れていってみようと思った。
「な、なんてこと……!」
頭を抱えたのはロランだったが、皇子と少女は少しだけ意気投合していた。
「さて、ここからは馬だ。街道を外れて少し飛ばすぞ。お前は俺の前に乗せてやろう」
値踏みするように、ディオールが少女のまだ薄く軽い体を眺めた。
「えっ……それは嫌です。まだこちらの方が」
エミーリアはロランを指名したが拒否された。
軍馬でもない馬に騎士の体は重すぎて、二人も乗せるのは無理なのだ。
妥協案として、エミーリアは後ろから掴まり目を閉じることにした。
「喋るなよ、舌を噛むぞ!」
二騎がメルニークの町から出る。
人の群れに混じってから離れ、荒野を馬で北を目指す。
カーレル大学の学生と若者が帝国軍を退けたと広まり、プラハから逃げ出す者が一層増えていた。
プラハの春動乱は、ギシャール中将が五千の軍をまとめて入城する七日後まで続いた。
その間、フス教授は若者をよく指示し略奪などは一切許さず、圧倒的なギシャール軍を見ると単身投降した。
「責任者、いや首謀者はわしじゃよ」と告白したあとで、隠し持った毒で自殺する。
帝国軍は何も出来なかった。
指揮官のローテンブルク伯が戦死した後、副官も行方不明になったからだ。
「お前ら、古都プラハの見物でもしてろ」
そう言い残したダーウン卿エーバーは、一人で消えた。
兵士は動揺したが、残った騎士達には理由が分かる。
敵に居るのはロラン・オルランド、皇太子の乳兄弟で、帝国を代表する勇士になると目された男。
そのロランに勝てる力を持つ騎士は、エーバーだけであった。
「どちらを見つけても殺される。それならローテンブルクの遺体を守って、不興を買った方がましだ」
一人の騎士が消極策を提案し、全員が乗った。
だがアルブレヒトの元へ帰るまでに、騎士の数はさらに半分に減る。
幾人かは身を潜めて機会を待ち、幾人かはディオールを探し求めて。
プラハの春動乱で、フリードリヒはまだ一兵も減らしていない。
しかしディオールの味方は、知らぬところで増えつつあった……。
ここまで序章




