誕生日の蜂起
四年前までのディオールの誕生日は、国の祝日だった。
首都ヴィアーナを潤す川の岸辺から、丘の宮殿へ続く大通りは馬車が五台も並んで走る。
広く長い通りには千を超える出店が並び、辻角ごとに帝室からの振る舞い酒が樽で置かれていた。
そして凱旋将軍のごとく飾り立てた四頭引きのチャリオットとディオールが、万雷の拍手と黄色い歓声の中を行進する。
「今思えば、信じられない出費だな。あれを毎年やっていたとは」
皇太子の誕生祭と前夜祭、この二日だけで金貨十五万枚を使っていた。
そして今のディオールの手元には、金貨で五十枚ほどしかない。
しかもディオールは、残った金貨を全て差し出していた。
「こ、これで勘弁して下さい!!」
修道院に入る若者、今どき聖職者なぞを目指すのは腹に黒いものを抱えた野心家か、他に行き場の無い者ばかり。
信心深い貴族や商家の三男坊ならまだ良し、育てられないからと山門の前に捨てられた赤子もまだ良い方。
基本は、特権階級の聖職者になり優雅で豪奢な暮らしを夢見る、欲にまみれた者どもである。
そこに降って来た没落貴族の子弟ディオール――という設定になっていた――は、格好の獲物。
五、六人の若い修道士が、ディオールを取り囲んでいた。
「まだ隠してやがったか、こいつめ!」と、一人がディオールの腹を蹴る。
続いて二発三発と、顔だけを避けた折檻が始まるが、先に疲れたのは修道士達の方だった。
一団の首領格が、見下ろしながらいう。
「くにゃくにゃと手応えない奴め! まあ良い。お前は今晩、院長様に呼ばれてたな。院長様の責めはえげつないぞ? ケツの穴が開きっぱなしになっちまう。覚悟しておくんだな!」
修道士達が、ディオールの端正な顔だけを避けたのはそれが理由。
絶対権力者である院長の不興をこうむれば、彼らなど山頂の特別房の掃除係となり下がる。
新入りから全財産を巻き上げた聖職者の卵は、収穫に満足して去っていった。
もちろんディオールがここに居る限り、カーストにのっとった虐めは続く。
後ろ盾のない没落貴族の子弟など、平民あがりの彼らには良い的だった。
「……まあ、普通の騎士階級や諸侯階級は、俺みたいに弱くはないがな」
誰も居なくなった裏庭で、ディオールがすっと立ち上がった。
背は高いといえ、ボロボロの修道衣の下は細身だが良く鍛えてある。
顔付きは、美化することなく彫像にして宮殿に飾ってよし。
耳にかからぬ程度に刈られた髪は、緩く巻きの入った淡い小麦色。
亡き父は、ロートリンゲン公にして代帝の地位にあったフランツ・シュテファン。
そして母は、この大陸で最も有名な女傑テレーズ・エリザベート。
「母上が、男子だったらか……」
ディオールは直接言われたことはないが、宮廷雀のさえずりは嫌でも耳に入る。
五百年にわたり帝位を世襲したアーバイン家は、ディオールの一つ前で男子が途絶えた。
家と領邦は法を整えて女子に受け継がせることが出来るが、皇帝位だけは不可能だった。
インペラートル――軍事任命権。
10を数える帝国クライスから生み出される諸侯軍を、束ね指揮することをが皇帝の役割である。
戦場経験もなく、うら若かったディオールの母テレーズが座れる地位ではなかった。
第一次継承戦争。
帝国諸侯を統括するアーバイン家に女子の当主が立ったことで起きた内戦。
ディオールはこの戦争の最中に生まれ、その誕生が戦争を終わらせた。
次代は正嫡の皇帝が即位するとなり、一人の男子と五百年に及ぶ歴史の重みが諸侯と騎士の頭を下げさせた。
生まれて七日で洗礼を、二十八日目には皇子として首都ヴィアーナのシェーンブルン宮殿で味方する諸侯の忠誠を受けた。
もしもディオールの父、代帝フランツ1世が長生きすれば、全てがゆるやかに転がったかも知れぬ。
「だが、父は死んだ。いや、殺された!」
ディオールは知っている、裏で糸を引いたのが誰か。
だからこそ山中の修道院に幽閉されても、生まれを隠し、下らない虐めにも耐えている。
「”北狼王”フリードリヒか……問題は、今の俺では勝てぬってことだな。剣でも戦場でも」
今のディオールの手元には一兵どころか一銭もない。
価値があるものと言えば、両親から受け継いだ血と家名、そして父の形見の金の指輪だけ。
「これだけはなあ、獲られたくないものだが……」
裏庭の井戸で、口から出した指輪と体を山の涼水でよく洗う。
「つめてっ。くっそ、これから脂ぎった男色の司教のところへ行くのに自分で身を清めるとは……これ以上の底が世にあるのかね……」
もちろんある。
世界には今日食べる物がない者もいるが、ディオールには実感がない。
若き元皇太子には、知らないことが沢山ある。
「さてと、行きますか」
二年監禁された塔から修道院に移されて三ヶ月、ディオールは初めて院長とやらに面会する。
三ヶ月の間に聞いた院長の噂には、ろくな物がなかった。
それどころか、この修道院には院長お手つきの稚児が何人もいて、彼らは新参の元貴族、痩せ型で怜悧な容貌を持つディオールを敵視した。
何故なら、でっぷり太った院長の好みのど真ん中であったから。
「本気できついなあ……けど、これも生きる為か」
院長の邸宅へと迎えに来た馬車に乗り込む時も、ディオールは愚痴を漏らしていた。
だがもちろん誰にも聞かれぬように。
上に立つべき者は決して弱音を吐かないと、母から厳しく教えられていたから。
井戸水で撫でつけた髪に山の風はまだ寒い。
だがディオールは堂々と顔を上げた。
今もまだ、青年よりは少年に近い顔立ちである。
迎えと監視の僧兵には目もくれずに、ディオールは小型の馬車に乗り込む。
その右手に輝く指輪には、父の家ロートリンゲンと母の家アーバイン、そして双頭の鷲を模したカロリング帝国の紋章が刻み込まれていた。
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