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死刑囚の母  作者: TAKIMARI
1/22

30年の苦悩の日々

序章


息子の名前を叫び続け

お母さんと一緒に家に帰ろうー

お父さんも来てるのよー

一緒に家に帰ろうー

大きな大きな声で

叫び続けました。


何千万回叫び続けたかわかりません。

何千日通い続けたかわかりません。

どうしても一緒に連れて帰る。

いつかは必ず息子は家に帰る。

それだけを願って。

それだけを信じて。


毎日毎日通い詰めましたが息子に会うこともできず、門番のような人が小さな小屋にいて

毎回必ず、息子の名前を伝え写真を見せても

そのような方は、ここにはいないですよ。

と答えられるだけでした。


その小屋から先の敷地内へは、だれであろうとも部外者は絶対に入ることは許さない

厳重な警戒でたとえ一歩でも

入らせてはもらえるような状況では

ありませんでした。


誰かが無理にでも走り込んで

入ろうとすれば長い竹槍のような棒を

二人の男性が左右両端から×印になるように

さえぎり、とても原始的な方法で止められるのです。


誰一人として敷地内へは、何がなんでも入れてはいただけることはなく、いくらお願いしても、息子に会うことも、探させてもらうことさえも叶わない、結局なにもできない日々が続きました。


それでも私たち夫婦や、他の息子さんや、他の娘さんを連れ戻したい気持ちで帰ろうと呼びかけ、泣き叫ぶ人々は日に日に増えていきました。


そのうちにワイドショーや、ニュースなどの撮影なのか、カメラやマイクテレビ局各社の撮影バスなどの方も、ヘリコプターも毎日飛ぶようになりました。その他、近所の住民の人たちがここから出ていけー、ただちにでていけーと拡声器で叫びに来るようになりました。テレビカメラに映りたいだけが目的の人なども、数えきれないほどたくさんの人が毎日来るようになりました。



もう30年も前のことです



そしてやっと息子が帰って来ました。

息子がこの世に生存していないので

親としてご迷惑をお掛けした日本中の方々に

深く深くお詫びを申し上げます。

本当に申し訳ございませんせんでした。


死んでお詫びすることすらできなかった

私の事もお許し下さい。


息子が犯した罪の重さを受け止めることすらできず精神病になってしまった主人を殺して私も死のうかと思ってはとどまり、思ってはとどまり、葛藤と苦悩の日々を過ごしながらも、時間だけが過ぎてしまい、今もまだ

生きている私たち夫婦のことを世間の皆様

どうかお許しくださいますようお願い申し上げます。



第1章 息子が生まれたとき


あの子は、私達夫婦にとって、はじめての子供で

私の両親も


そして主人の両親も初孫であったので


皆の可愛がり方はあの子にとってそれはそれは


幸せだったと思い込んでおりました。

3050gで生まれ32cm標準の大きさでした。


よくミルクを飲みよく眠る手のかからない子でした。


とても健康にすくすくと育ってくれました。


幼稚園児の時に、はしか、みずぼうそう等もかかりましたが、どの病気もとても軽い症状で終えてくれました。

何でもよく食べ好き嫌いも言わず、わがままも言った記憶など、本当にありませんでした。

ただ運動は苦手で運動会はいつもビリ。


でも本人は

僕6等賞

と笑顔で胸のリボンを

見せて来ますので、頑張ったねと答えていました。



誉めれば子供はぐんぐん伸びる

この言葉を信じて育てた私の育て方が間違っていたのでしょうか?


育て方の正解不正解については


いまでもわからないままで時が流れてしまいました。


でもやはり私の育て方が間違っていたと思います。


子供の不祥事は親の責任ですから。


本当に申し訳ございませんでした。


息子にかわってお詫び申し上げます。



第2章 小中学生の頃



とにかく優しい、親思い友達思いの子供でした。


勉強が大好きで塾も行きたいと言うので


希望通り塾に通わせました。


夜遅い日や雨が降りだした日は私が迎えに行きました。


お母さんありがとう、助かったよ。


ごめんねわざわざ僕のために。


いいのよ、お勉強頑張ってるんだから。


お迎えぐらい当たり前よ。

お母さん僕もっともっと勉強頑張って


お医者さんになるよ。

えーすごいわねえ、今から頑張ってれば


絶対なれるね、すごいなあお医者さんか。

あの子の口から出た言葉


はじめて聞いた医師希望


小学五年生の冬でした。


この時は将来の頼もしさと当時の成績の優秀さに眼を見張るものがありました。


誰に似たのか優秀な成績でした。


ただただ協力しなければと思うばかりで私はお金がこれから先絶対にいくらかかるかわからないと思いましたので、それから二、三日のうちには

内職でコサージュを作る仕事をしたり

パンストやスパッツをたたんんで袋に入れて

収入を得る道を探し、なんとか家計をやりくりしていました。


塾の月謝以外に参考書や過去問等の購入に

金銭面での心配をかけてしまうといけないと

ダメな親なりに思いましたので

精一杯働いて働いて

不自由がないように頑張りました。


あの子の見る本や参考書や問題集は

私が見たところで全く理解不明な

難しい内容のものばかりでしたが、とても喜び

何度も繰り返し繰り返し

あの子は熱心に勉強していました

いつもいつも大切に大切に

活用してくれていました



第3章 高校大学生の頃



小中学生の時よりも更に勉強ばかりするようになり

成績はいつも当たり前のように1番でした。


すごいねすごいね誉めれば誉めるほど

どんどん成績は上がり楽しんで勉強していました。


医師希望の志はびくとも変わることなく

大学も難なく医学の学校に合格してくれました。


その後もあの子の意気込みや目標を、学長からの熱い思いに答えられると見込まれ、信頼していただき


研究者の助手のような事までも、推薦していただけるほどになりました。


その現実に応えるためにも、あの子も努力を続けておりましたので、私もせっせと内職を探し増やしていきました。


普通のサラリーマンの主人の給料だけでは、実際のところ医学の道へ進ませるとなりますと、金銭的に苦しかったのが事実で、ほとんど眠らず気がつけば日の出の時間を迎えてしまう日が続きました。 


ひたすら内職を頑張り、あの子も勉強していました。

疲れを感じるというよりも微笑ましい幸せな毎日でした。


息子の夢に向かって私も一緒に頑張った、とても幸せな時間でした。


大学の友人たちと研究者になるためのサークルに入りました。


ますます医師希望の感情は衰えることなく以前にも増して勉強勉強の毎日でした。



僕は何としても頑張り抜いて


世界的に有名な研究者や博士を目指すよ。

と話すようになりました。


すごいねすごいねと誉めたたえながら、話を聞くと


意気揚々と希望に満ちた

あの子の顔は

輝いていました。


私自身もまだまだ頑張らないとお金がいくらかかるかわからないなと思い自分に気合いを入れていました。

疲れを感じないむしろ充実した日が続いていました。



第4章 不思議な言動



大学のサークルに熱心になりはじめてから、あの子を見ていて時々


ん?


と思う言動が少しずつ少しずつあの子から


聞いたり見たり感じたりするようになりました。

ヨガ教室に入ろうと思って申し込んできたよ。

そうなの、運動好きじゃないのにヨガなら


走らなくていいか、でも珍しいね。

うん、先生がすごいんだよ。


インドで修行してヨガを教えてるんだけど


ほんとにほんとにすごいんだよ。

へーそうなの、すごい人なんだ。

この時は勉強勉強の合間にヨガで汗を流すことも


いいかもしれないと簡単に考えていました。

ところがヨガ教室に行くようになり言動がどんどん


おかしくなって行きました。

ご飯の前に必ず座禅を組み、目を閉じて、大まじめに


両手でOKのような人差し指と親指でわっかを作り、残り3本の指は緩やかに力をぬいた感じで、おへそより少し上の辺りで、あやとりをするような仕草をしてそれから目を開けて


いただきますと言い平然と食べるのです。

ヨガを習うまでは誰よりも先にお箸を持ち

うんっまい

と言いながら、食べていましたが、この儀式のような事をしはじめてからは、味の感想はまったく言わなくなりました。



ある日息子が、真っ白の上下の服を着て帰宅しました。


朝出かける時の服装ではありませんでしたし、

お医者さんの白衣でもありませんでした。

どうしたの、その服?

と、きいてみると


まるまげぞん


から身を守れるんだ。

と、真剣な面持ちで私を見つめました。


まるまげぞん?


お母さん知らないの?ノストラダムスの大予言は知っってる?


それは知ってるわ


でもあれは少し、嫌かなり間違ってるんだよ。

そうよね、地球が滅びるとか無いわよね。


いや、ないとは限らないんだ人類が半分になってしまうんだよ。


人類がどうして半分になるの?聞いたことないわ。


だからバカな親を見習うなって言われるんだ。

チッと小さく舌打ちをして、

私をあからさまによけるように、体をよじってあの子は自分の部屋へ行ってしまいました。

こんな態度は生まれたときから初めてでした。


バカな親と言われたのも


舌打ちをしたのも


そしてなるべく離れて通ろうとしたのも。

それでもまだ私は鈍感なのか


はじめての反抗期かしら?

と思うようにしていました。


3歳児の頃の嫌々ですら全然なかったものですから


意見が違ってたから、そのことで気分的に

いらっときたのだろうと思って、

軽く流して済ませたのです。

ですが、


この日のこの時の会話を境に


私達夫婦にとって辛い毎日が訪れたのです。


まったく無視をされ続けました。


まるで目に見えないもののように対応され続けて過ごしました。


すれ違いは身をよじるようによけるような体勢をとられ嫌な顔つきをされました。


二階に、洗濯物を干したり取り入れたりするために、上がろうとすると、決まってあの子の部屋の内側から鍵をガチャンと閉めた時の音がするのです。


トイレや洗面も、私たちがいないことを確認してささっとすませ鉢合わせしてしまうと、あわてて階段を逃げるようにかけあがり、部屋へ入るのです。


このように無視され続ける理由も解らず

シイテ考えれば


人類が半分になるなんてきいたこともない。

と私が言った言葉が原因なのかもしれません。

とても悲しい毎日でした。



第5章 この日を境に



白い服を着て帰って来た日から家で作った食事は


一切食べなくなりました。

いつもの儀式が終わると

2りットルの透明の液体を半分飲み干し、

シロップ薬の計量キャップのようなものに

赤ワインの色をした液体をクイッと飲み、

最初に残した透明の半分を続けて飲み干し、

すぐにトイレに駆け込み毎回必ず

ゲーゲー嘔吐していましたので背中をさすりながら


大丈夫なの?

ときくと


体内の毒素がみんなでてるんだからほっといて。

まるで、憎いものをみるような目をして

私をにらみつけていたように見えました。


あの子の食事は、作っても作っても朝も夜も液体を飲み干し嘔吐しの繰り返しでしたので、あの子が手をつけなかったものを、私が次の日に温めて食べていました。


きっと昼も液体を飲み干し嘔吐していたと思います。

あの子の留守にそっとペットボトルの透明の液体を飲んでみましたが、単なるとても濃度の濃い塩水の味でした。


赤い液体は見つからず飲む事はできませんでした。

そんな食生活を続けて2週間位経った頃


ヨガ教室の宿泊合宿に行くと書き残しスポーツバックひとつにあの白い服上下を着て出掛けたこともありました。


4泊5日で帰って来たのですが驚くほど痩せて


めつきがギョロギョロしてやたらと周辺を気にするようになっていました。

自分の部屋へ入るとパンツ1枚になって上半身は真っ裸で、座禅をくみ、宙に浮くまで頑張ると言い

下のリビングまで響く音で何時間も何日間も跳びはね続けました。


まるで気が狂ってしまったかのように。


更に夜は寝ることなく座ったままで目を閉じて、うとうとする事はあったかもしれませんが、熟睡する事は出来なかったと思います。


食事はしない夜は眠らないこんなままでいったいどうなるのかと思い


ご飯を食べるように、布団で眠るように説得すると


お前らのためにやってるのが

わからないのかくそばばあ

やっぱり先生が言った通りだ。


できの悪い親のせいでかわいそうな子供たちは


地球の人口が半分になることの事実のことすら

知らされていないんだって。


本当にその通りだ地球が危ないのに。


何も解らない親たちのために

やってるのがわからないのか。


と何度も繰り返しどなりつけ

1度もみたことのない表情で

何故か涙も鼻水も出しながら

地球のため人類が滅びないため

親たちのためにやってるのがわからないのか。


と延々とどなりつけそのまま倒れ

イビキをかいて寝てしまいました。

この光景を私は

悪魔にとりつかれてしまっていると思いました。


自分たちの息子をみて

悪魔をみているような気持ちさえしました。


私と主人はただあっけにとられ


なにもできず、声も出ず、息もしていたのかわかりません。

パンツ1枚のあの子に毛布と布団をかけて


そっとドアをしめて下に降りました。

ヨガのとりこになってから


あの子の扱い方が全然解らなくなりました。


情けない親でもずっと尽くして来たのに。


悲しい毎日でした。



第6章  ある日突然



あの子は


もう帰りません


この7文字の書き置きだけを

リビングのテーブルの上に置いていなくなりました。


あわててあの子の携帯電話をならしてみました。

二階のあの子の部屋で鳴っていました。


携帯電話さえも置いたままでどこへ行ったのか


見当もつかない情けない親であることを

自分自身ではじめて自覚しました。


それから毎日いろんな友人や周囲の人にお願いしたり探したりしましたが、何となくそこかもしれないと、やっと人から聞き出せたのは、

あの子が出てから52日も経ってのことでした。

聞きつけていった場所は広い更地のガタガタ道で


おんぼろの小屋がありそこには門番のように誰かいて


これより先は関係者以外立ち入り禁止


と決して上手ではない文字の書いたベニヤ板が立て掛けられ異様な目付きをした人が

そうゆう名前の人はここにいません。

と言いきるばかりでまったく取り合ってもらえませんでした。


それでも私たち夫婦は毎日毎日通いました。


どうしても連れて帰らないと何か取り返しのつかない恐ろしいことが起きてしまうと、親の勘なのか本当にそう思っていました。


門番の人に

お願いしますよく調べて下さい


と何日も何日も聞きに行きましたが

ここにはおりません。

の一点張りで相手にしてもらえませんでした。

ところがその時

黒の大きなお金持ちが乗っていそうな外車がガタガタ道を入って来ました。

私たち夫婦の横に止まり窓ガラスがゆっくりと下に下がり助手席の人が見えました。

おぞましい化け物をみたような記憶がいまだに忘れられません。

汚ならしい長い髪の毛で


ここに何か用があるんですか!



怒り口調で問いかけられました。


あの子の名前を言い


ここにいると聞いて迎えに来ました。


するとその人は少し笑顔で車の後部座席を振り向きそちらに向かって


自分の気持ちを話しなさい。


車からあの子が降りて来ました。

久しぶりに会えた喜びで涙が出ました。


あの子はとても痩せて、

顔も丸顔が長くなっていました。


あなたたちのところへは行きません。

私はここで修行をしています。

今すぐお引き取り下さい。



無表情でこの言葉を言い残すとすぐに車に乗り

車はそのまま急発信をして敷地の奥の方へ行ってしまいました。



その後、何度も行きましたが、姿をみることは1度もありませんでした。


あなたたちのところへは行きません私はここで修行をしています今すぐお引き取り下さい。

声を聞いたのも、この冷酷な言葉を耳にしてから私があの子と次に会えたのも、次に声を聞いたのも、この日から何年も先の事になってしまいました。


親としてこれだけ悲しい事はないと帰り道は涙すら出ず放心状態のような感じでした。

ずっといい子いい子で育ってくれたからなおさら大きなショックでした。


どこの子にも反抗期はあると思うのですが、今回のこの件は単なる反抗期なんかではない泥沼にでもはいってしまうようなとんでもないことが起こると確信しました。

何としても連れて帰らないと何かわからない大きな不安と胸騒ぎばかりで、何も手につきませんでした。



第7章  そのころからは



あの子のようにヨガの先生に興味がある若者たちが、全国的に増えていき、あの時に見た長い髪の毛の先生が

どんどんバラエティー番組にゲストで出たり

ワイドショーに出たり、朝まで生放送番組に出たり

若者の心をわしづかみにしてしまうトキノヒトであるかのようにテレビ局で番組が組まれ持ち上げられる光景がよくありました。


ですがその反面私たち夫婦のように家に帰ろうと


毎日迎えにいき、他の出家している人との小競り合いになる場面もしばしばありました。

そこに住む人たちは色違いの服を着て階級というか上下関係を分別していることに私と主人は気がつきました。

白い服、ピンク、グリーン、そして先生は紫色でした


そして自分の私服の人は頭にラグビーの選手のようなものを被っていました。

それは何を被っているのですかと尋ねると

ヘッドコーチです。


先生と同じ脳に成れるんです。


と、教えてくれました


皆さんそれを着けるのですか?


いいえ、私はまだまだ修行中ですから

着けさせて頂いてます。

この修行が終わると白い服を着せてもらえて先生と写真を写していただけるんです。


そう言えばあの子の部屋に額に入れて置いたまんまの写真がありました。


先生と映ってる写真でした。


あの子の頭の上に先生は手のひらを置いて


あの子は満面の笑顔で写真に写っています。


目の底から嬉しそうな顔で笑っていました。


あの子の生涯で見たことのないままの笑顔が


悪魔とならんで映ってる写真でした。

洗脳とは本当に怖いものです。


人生そのものをめちゃくちゃにされてしまうこともあるのです。


毎日毎日通い続けてもあの子の姿は1度も見れず


小競り合い役の人はだんだん毎回必ず同じ人が交代で


大声を張り上げ暴力はやめて下さいとか、

さわらないで下さいとか、

セクハラじゃないですかとか、

この線から入ると不法侵入です、とか

役割分担を決めていることに

馬鹿者の親の私でさえも気がつきました。


あの子にあえないのも無理ありませんでした。


あの子には小競り合いも子芝居もできるような演劇部等の経験はまったくなく生きてきたから会えないんだと気がつきました。

そんな最中にヨガの先生は選挙に立候補し


とても派手なパフォーマンスを白い服を着た人たちが先生の演説前後や移動中に踊っていたのでその人たちも全部見渡しましたが、そこにもあの子は1度も参加していませんでした。

選挙の投票即日開票日にテレビをみていましたが


あの子の姿はありませんでした。

本当にあの人たちのなかに息子はいるのだろうかと


不安感がつのるぐらいあれ以来見れずに3年が過ぎた夏の日の夜に毒ガス中毒の事件が起こり、続いて


弁護士一家失踪事件が世間の話題になり、

地下鉄で毒ガス中毒事件が起こったり

新聞社に危険物が郵送されたり、

どんどんどんどん増えていく疑いの矛先が

ヨガの先生や生徒にも向けられていきました。


どの事件のなんの目的だったのかは定かではありませんが、ピンク色の服の人と緑色の服の人が記者会見をしている真っ最中に緑色の服の人が急に現れた人にお腹の辺りを包丁で刺されて死んでしまいました。


テレビで放送中の出来事でした。


この犯罪集団かもしれない中に本当にあの子は居るのだろうか?

テレビにも映らない、会いに行っても1度きりあの子の口から絶縁のような言葉を聞いてから


もう4年が過ぎた頃の出来事でした。


生きているのか死んでいるのかさえもわからない


時の止まったかのような日々でした。



第8章 主人に異変



あの子が家を出てから、

時々精神的に疲れているのか

大きなため息をつくようになり、

イライラしたり、

考え込んだり、

つまづいたり、転んだり、

物を置き忘れてきたり、

今しようとしていたことがわからなくなったり、

忘れっぽくなったり、

判断力が薄れてきたり、

夫の様子がどんどん坂を転げ落ちるかのように、

原因不明のままで

認知症かうつ病のようになってしまいました。


最初はストレスだろうなと思いさほど気にしていませんでした。

ですがみるみる衰えていきました。


食欲もなくなり、

今何日なのか、

何曜日なのか、

しようとしていた事も解らず、

それにに加え、してしまったことも忘れてしまい、

入浴後に

風呂きょうはどうしようかな?

と言ってみたり


朝も起きれず、仕事も行けず、病気休暇をいただき


家で看病していましたが、あっという間に進行して


認知症になってしまいました。


今では息子がいたことも、私のことも全然わかっていません。


私の事を看護婦さんと呼んだり

お隣の奥さんと呼んだり、

おばさん、おかあちゃん、

色んな呼び方をコロコロ変えますが妻の存在ではなくなってしまいました。

お医者さんは転々とした結果、

最終的に精神科にかかっています。


あの子の現状があまりにも衝撃過ぎて、

精神面でのキャパを越してしまった

ような事が原因だと考えられるそうです。


もとに戻れる事を信じて介抱するようにしています。

今はヨダレがでても気が付かず拭いてあげると


ありがとうございますとお礼をゆうのです。


近くて遠い人になってしまいました。

ただなんにもしないで過ごしています。


なんの変鉄もない壁に、にやにや笑って1日過ごしています。

この主人の様子のことは誰にも教えていません。


あの子のことで色々な人々が、私たち夫婦とは疎遠になり離れてしまいましたので、私がこの人を守ろう


できる限り家で住まわせて、介抱しようと決めました。

このひとはここの家の主なのだから


あの子の父親で、私の夫なのだから



第9章  連日の報道



ワイドショーにヨガの教室が

疑惑を持たれるようになり、

毎日毎日各局の放送で

たくさんの生徒さんの

顔や名前を写真と指し棒を使って

説明したりしていました。

あの子はどちらのテレビ局でも、

幹部のうちのひとりとして顔写真も名前も出され

薬品などの製作者であると言われていました。

ワイドショーの疑惑報道は大概当たっているものです。


今までも、他の事件でワイドショーが報道していました他の事件でも、

本人が堂々と否定していても最終的には

実は犯人で逮捕される光景を、私は直ぐに頭をよぎり不安感で押し潰されるような気持ちになりました。


研究者ですから研究室で夜を明かすことなど何の苦にもならないですし小競り合いでも選挙のダンスでも見かけないはずです。


きっとずっと研究ばかりこもりきりで、していたのだと思いました。


役割分担で適材適所に、それぞれの人を配置して

それぞれの得意分野を悪魔が

支配していたのだと感じ取りました。


生きていたことがわかりましたが、

薬品や毒物や覚醒剤等を作っていたと報道されていました。


息子の他には現役の医師も他にも医学部の生徒さんもいたようですが、

その方々も研究室で実験を繰り返し薬品などの製作者と報道されていました。


毎日のワイドショーを見ながら、

どうか息子は関わっていませんように。

と祈るような気持ちで見ていました。


震えが止まらず、 心臓がドンドンと力強く揺れ動くようにうち始め、

毎回必ず息がつまる思いで、ワイドショーを見ていました。

見なければこんな苦しみはないと思います。ですが、ワイドショーを見ること以外に


息子の情報は、母親なのにまったくわかりませんでした。



赤の他人と同じぐらい遠く離れられてしまいました。

洗脳とは本当に怖いものです。



第10章  逮捕されて



そのうち次々にいろいろな理由で、

たくさんの幹部と呼ばれている人が

逮捕されていきました。


逮捕されて車に乗るところまで、

はっきりとワイドショーはテレビで放送しました。

どの人も何の抵抗もなく、

おとなしく当たり前のように逮捕に応じ、

車に乗り込む様子など

ずっと映されているにも関わらず、

連れて行かれながらも

半笑いで車に乗る人さえいました。


そして、

そのすぐあとに息子が

逮捕されて連れて行かれる様子を

この目で見てしまいました。


えーーうそーーやめてーーと

声にならないのですが、

ただ叫んでいる気持ちになっていたのです。


その声に出そうな感情とは裏腹で、

思う気持ちはというと、

正直なところはほっとしたと言うか、

悪いことをしたのかしないのかも解る。

そして何よりも悪魔から離れてくれる。

そう考えるとあの子が今テレビで


逮捕されて安心したような、

不思議な気持ちで混乱していました。

これで洗脳から解けたら、

再びまともな元の本来の考えにもどれると思って

安堵感を感じたのも事実だろうと思います。


何も事情がわからない私は、直ぐに110番に電話をかけたのです。


今テレビで逮捕されてるヨガの教室の母親ですがどこへ行ったら息子を連れて帰れますか?


と質問しました。


今思うと本当にお恥ずかしいお話しです。

悪者の悪魔から救いだしてくれたかのように思い込み親が迎えに行けば帰らせてくれるかのように思い込み


あの子の事を信じ込ませた悪魔だけが悪いと思い込み

110番の電話の向こうで対応してくれた方と私とは話がかみあわず、ちぐはぐなことを言う私に


もしもし落ち着いてください


と何度となく言われました。


結局、落ち着いたところで

どこに連れて行かれるのか、

いつ帰れるのか、

もう帰れないのか、

親なら会えるのか

それとも親でも会えないのかは

今の時点では全然わからないと言うのです。


全然わからない、

全然わからない、

全然わからない、


この言葉に打ちのめされたような気持ちになり


この言葉だけが耳の底に今でも残っています。


それ以来警察から連絡もなく、

勿論あの子からの連絡もなく

ただワイドショーやニュースで見て

息子の事を知る以外方法がありませんでした。


これからまだまだ何年も何年も、

テレビや新聞や週刊誌で

息子の事を信じていながらも、

連日の報道で打ちのめされた気持ちになりました。


すると何度も夫を殺して私も死のうかと、思ってはとどまり、思ってはとどまりの連続でした。


殺す勇気も死ぬ勇気も私には

なかったのだと思います。


せめてあの子が戻って来るまでは

両親揃って待っててあげよう。


死ぬのはそれからでも死ねるからと考え直し

暮らしにくくなってしまった家を売りに出しました。


ところが犯罪者の家を好んで買う人もなく

暮らして行くにも買い物も出れず近所の人に会うことを避けて生きていくしか

待っててあげる手段がないのでいつも夜中に買い物も行きました。


私達夫婦はすべての人から絶縁され

誰も様子を聞いてくれる人ひとりもいなくなり

これからまだまだ今まで以上に

葛藤と後悔の日々が続いて行くのでした。

洗脳とは本当に怖いものです。



第11章 連日連夜



どのワイドショーも、

どのニュース番組も

あの子のヨガの集団の話題ばかりでした。


ある日は、幼児達の救済措置のような映像を長時間に渡って昼も夜も何度も何度も放送していました。


幼児達の頭にはみんな以前にも私服の人が付けていた先生と同じ脳になれるものが、付けられていました。


SATのような突入隊が入り、

子供をどんどん抱きかかえて連れ出してくる光景は、あまりにも異様な感じがしました。


50人ぐらいの子供を次々とバスに乗せ、

保護措置をとったようでしたが、

走り去るバスの後ろを母親達が走って叫びながら追いかけている光景を、

何度も何度も放送していました。

そのあとにはヨガの生徒でもある

弁護士の先生がインタビューを受けて

親から子供を無理矢理に引き離すとは、

考えられないと答えていました。


後々にはこの弁護士さんも逮捕されることになりました。

石川県の鉄工所の会社を計画的に倒産させて、

機材をすべて運びだして、色々なものを製造するためのものとして、必要だったのでしょう。


恐ろしい考えも、洗脳も、医学も、法学も、武力も色々な人材を集め支配していたのでしょうか


熊本県でも、

ロシアでも、

オーストリアでも

色々やっていたことはニュースなどでいやと言うほど見ていましたが、切に願うことは


どうかあの子は関わっていませんように


願うこと以外、そわそわ胸騒ぎばかりで、何もできない日々が続いて行くのでした。










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