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五作と手のり犬  作者: 小出 花
7/8

 初めて犬の散歩に出たときは、清二が近所の空き地に案内してくれた。案内もだが、子供だけで高価そうなカメ犬を散歩させていると、無理矢理奪われるかもしれないと心配してのことだ。まだまだカメ犬は珍しく、盗もうとする人間もいる。

 犬たちは順番を気にするので、一番最初はシロだった。プードルたちの首領のシロを一番最初に連れ出すのが当然だった。

 その日も、五作が清二と犬の散歩に出ていると、カメ犬だ、大きなカメ犬がいる、という声がして、訓練のために走っていた数人の兵隊が、空き地前の道で足を止めた。

「おう、克己のところの、あー、五作、だったか?」

 砂色の軍服を着た、見覚えのある男が五作に声をかけた。

「ええと、旦那さまのお友達の…」

「翔太だ。加藤翔太」

「はい、機械鎧に乗っていた方ですね」

「うん。覚えていたか」

 やあ、清二さん、と知り合いらしく声を交わしている。

「五作は、なんでこんなところにいるんだ?」

「ええと、旦那さまの犬の世話係で…」

「このカメ犬のか? いつからカメ犬を飼うことになったんだ? ははあ、カメ犬を小さくする気だな。しかし、五作がこんな大きな犬を散歩させるのは大変だろう。頭に包帯なんかまいて、怪我してるのに」

「いいえ、それほどは…」

「俺が引き綱を持ってやろうか? 五作じゃ引っ張られないか?」

「大丈夫です。シロとは仲良しなので」

「知らない人間が引き綱を持つのはよくないか。よし、五作が持ったままでいい、背負ってやろう」

 言うなり、五作をおんぶし、

「…わあ!」

 五作の叫びを無視して走り出す。

「やあ、いい重しだ。機械鎧乗りにはいい鍛錬だ」

 翔太はげらげら笑いながら空き地を走り回り、仲間を呆れさせた。シロは大喜びで、あとについて走る。

 最初はびっくりするだけだったが、大きな背中にしがみついて、顔の横を風が走っていくのを感じて、五作は楽しさに笑いだした。こんなことをしてもらったのは初めてだった。記憶もないほど小さなころ、母や姉が家事をするあいだに背負われていたのだと聞いたことはあるが、遊びでおんぶしてもらって、走ってもらったのなんて。五作の笑い声に、シロが見上げて笑ってる顔になっている。

「おお、カメ犬、じゃない、シロも喜んでるな」

 翔太は子供一人の重さなどまるで気にならないようで、軽々と空き地を何周もした。

 機械鎧乗りは長い距離を走って体を鍛える。高速移動のために機械鎧の後部に蒸気機関を装着したことがあるのだが、中の人間の背中が熱くなってとても乗っていられない、燃料が切れた途端に蒸気機関の重さで動きが遅くなるという本末転倒の結果になり、結局乗る人間の体力を向上させることが優先になったのだ。

「清二さん、五作はあとで俺が送るよ。このまま俺の運動につきあわせてもいいかい?」

「はい、わかりました」

「よし、五作、遠出するぞ!」

 翔太は他の兵隊たちにも声をかけ、空き地から道へ走り出した。

「ど、どこ、へ、行くんで、すか?」

 上下に揺られながら五作が訊く。

「ここらを案内してやるよ。五作は町に出てきたのは初めてか?」

「この、辺は、初めてで、す」

「よおし。犬の世話係なら、犬の散歩によさそうな場所を他にも覚えないとな。大きなカメ犬だとたくさん歩いたり走ったりしないといけないだろう」

 五作を背負って走りながら、翔太は息を切らす様子もない。あとに続くのは大柄な男ばかりで、軍靴の足元から盛大な土ぼこりが上がっている。

「加藤隊長どの、ずるいです、自分もカメ犬と走りたいです」

 あとをついて走る兵隊の一人が言い、

「じゃ、次の角で交代な。五作、このお兄さんにも背負ってもらえ」

 翔太は笑う。

 兵隊が訓練のために背負う砂袋みたいな扱いをされている、と五作は思った。でも、楽しい。シロも楽しそうだ。自分の足ではこんなに早く走れないし、シロを走らせてやれない。

「シロは賢いな。ちゃんと人間の走る速度に合わせてる」

 五作の顔が見える位置、翔太より前に出ない位置で走っているシロに、翔太が感心する。

「世話係は五作だが、シロは五作の護衛役のつもりかもしれんな。そのくらい賢そうだ」

 兵隊たちにかわるがわるおぶわれて、ずいぶんたくさん走って、兵舎近くにやってきたので、さすがにみんな息があがってきた。住宅街の道は比較的平らだが、このあたりは軍用車が通るので轍が深く、足元を見ながら走るので自然に速度が落ちた。

「よおし、じゃあ、お前たちは兵舎へ帰れ。俺は五作を送ってくる」

 はい、と返事した兵隊たちと別れると、

「こっちに克己も来てるのか?」

 五作をおぶって歩きながら、翔太が訊いた。

「はい」

「犬の世話係まで連れてくるなんて、何か事情があるのだろう?」

 今まで訊かなかったのは、他の兵隊がいたからだろう。

「…犬が盗まれたんです。トの一、旦那さまが可愛がっている、烈火が」

「あの噛みつき犬がか! いくら小さくても、あんな凶暴な犬を盗むなんて、なんて無謀なやつだ。絶対、手足に噛み跡がついてるぞ。俺だって何度か噛まれたんだ」

「トの一は子犬がお腹にいて…」

「ああ、それでか。子犬を売れば金になるからな。悪いやつがいるもんだ。警察には届けたのか?」

「はい」

「見つかるといいが。犬一匹ならどこにでも隠せるしな。子犬が売りに出されたら噂にもなろうが…」

 何匹もの犬の鳴き声が聞こえてきた。五作とシロが耳を澄ませているので、

「ああ、軍の前の研究所だ。所長が見栄はりでね、設備が古いのを嫌がって、新しいのを建てたあとは、倉庫代わりにしてる。実験がうまくいかなかった犬がそのまま置き去られて、世話係が餌をやるだけみたいだ。犬や馬を大きくするために、元々大きなのを選んで飼っているから、馬はともかく、犬はなかなか引き取り手がいないんだ。まあ、まだ実験に使う気なのかもしれんが」

 翔太が答えた。

「…でも、小さな犬がいます」

 五作がつぶやきのように言った。

「え?」

「声が…、高い声がします」

 翔太が耳を澄ませても、たくさんの犬の声が混ざって聞き取れない。

「ほんとか?」

「はい」

 シロが立ち止まって、声の方に、わんわんと吠えだした。すると応えるようにますます犬の声が大きくなる。

「ほら、高い声が」

「……確かに。きゃんきゃん聞こえるな。なんで小さな犬がいるんだろう」

「あれは、トの一の声です」

「え?」

 五作は目をつむり、集中するように眉間にしわを寄せた。

「はい。そうです。絶対です。トの一です」

「噛みつき犬が? まさか、こんなところに…。確かか?」

「絶対です」

 普段の内気さとは違う、確信を持った様子だ。だが、目を開けて翔太に背負われている自分に気づくと、途端におろおろとした。

「あ…、あの…、ええと、すみません、でも、でも…、トの一の声なんです。わかるんです。なんでかって、説明できないんですけど…」

 翔太はにやりとした。

「説明しなくていいとも。わかるんならわかるんだろう。職人が機械鎧のきしみ具合で調子を知るようなもんだ。よし、兵舎のところに戻って、入り口の歩哨に言って、加藤隊を呼び出せ。さっきお前を背負った連中の誰でもいい。克己の家まで送ってもらって、克己にこのことを知らせろ。俺は研究所の鍵を持っているやつを探してくる」

 背から降ろされ、行け! と言われて、五作はシロと駆けだした。



 田村翁から連絡があり、克己が行くと、手のり犬の販売予定先に軍の関係者はいるかと尋ねられた。

「紅月に粘着している男に、軍需品を扱っている者がいるのだが、その男が将校から手のり犬を世話してもらえると言っていたそうだ。克己君にとって軍人は天敵みたいなもんだし、何か圧力をかけられて売ることになったのかい?」

「いえ。玩具みたいな犬と揶揄されていますし、軍人から欲しいと言われたことはないです。それに、購入希望者登録の上位は政府の要人の口利きだけでも一杯なくらいで、軍からそんな話があっても簡単に応じられませんし…」

「うーん、そうだよなあ。わたしにも口添えしてくれと言ってくるのはいるが、いちいち相手にしていたらきりがないくらいだ」

「これから警視庁に行くつもりですから、ついでに事務所に寄って、妻に確認してみます。この春からたくさん子犬が生まれるので、わたしが販売予定先のすべてを把握してるわけではありませんから」

「紅月に威張ってみせるために将校と言っただけかもしれないが、軍需品業者が他につてを持っているとも思いにくい。誰がその男にそんな話を持ち込んだのか、うちの者に調べさせてみよう」

「ありがとうございます。いつもお世話いただいてすみません」

「なに、紅月にちょっかいを出す男にお灸をすえてやる機会が得られるかもしれん。紅月には良縁を結んでやりたいんだ。札びらで頬を打つような男ではなくね」

 にやりと笑った顔は皺が多いのに、妙に若々しく見えた。



 兵舎の入り口ではひと悶着あった。子供が高価そうなカメ犬を連れている上、機械鎧隊員を呼び出すことを不審に思った歩哨が、なかなか応じてくれなかった上、犬の引き綱を奪おうとしたので、怒ったシロが猛烈に吠えた。その声で加藤隊の兵隊が気づいて出てきてくれ、五作を送ってくれた。

 家では、五作が息を切らしながら要領の得にくい話をするのを、清二は黙って聞き、とにかく一大事で、翔太が克己に知らせろと言ったことを知ると、

「旦那さまは警視庁に行っておられる。近くの派出所へ電話を借りにいこう」

 すぐに走り出て行った。

 五作はトの一の声を思い出すと居ても立っても居られなくて、克己を待っていられなくて、書き付けの紙に伝言を残した。書くのは苦手だが、口づてではうまく伝わらないかもしれない。

『ヘイシャノ チカクノ グンノ マエノ ケンキュウショ

 トノ一 ノ コエガ シマシタ

 カトウサンガ カギオ モッテイルヒトオ サガシテマス

 ボクワ シロト イキマス』

 清二の妻のコトに書き付けを渡すと、急いでシロと、元の場所へ走った。



 研究所は塀に囲まれていて、入り口には自動車が通れる幅の大きな開き戸と、人が通る戸があった。

 加藤さんはもう鍵を持っている人を見つけて、中に入っただろうか。五作は門の前でうろうろした。

 舗装されていないので、大きな戸の下の地面には自動車の出入りでできた轍が二本あって、シロがそこを掘り始め、犬や子供なら通れそうな穴を作った。勝手に入ってはいけないとはわかっているが、中からは犬の吠え声が聞こえ、五作はどうにも我慢ならなくなった。腹ばいになって穴を通り抜ける。包帯がずれて、かさぶたがはがれたが、包帯を元の位置に戻し、ぎゅっと押し当て、染み出てきた血を止める。五作のあとから、シロも入ってきた。五作もシロもお腹が土まみれになったが気にしていられない。

 敷地内にはいくつもの建物があり、手前にある建物は立派で、玄関前には車を停めて雨に濡れずに乗り降りできる大きな屋根がついていた。この建物の裏の、木造畜舎らしきほうから犬の声が聞こえる。五作はそっちへ回ったが、翔太の姿はないし、人の声もしない。

 畜舎は二棟あって、手前からは犬の声がし、奥のほうは静かで、今はいないという馬が以前は飼われていたのだろうと五作は思った。畜舎の入り口は木戸が閉められ、頑丈な鍵がかかっている。がたがたゆすってみたが、五作の力ではどうにもできない。戸のわきに格子がはまった木の窓があって、換気のためか木の窓は開いていた。どこか入れる場所はないだろうかと、畜舎のまわりをぐるりとしたが、木の窓は開いていても格子がはまっているものばかりで、しかも犬たちがいるだろう場所の窓は、高い位置にあって五作もシロも届かない。結局入り口に戻った。戸のわきの格子は一寸幅の木材を三寸あきごとにはめたもので、五作の顎くらいの高さにあった。そこから中をのぞき込むと、照明がない暗い廊下の両脇に檻が並んでいる。柵の隙間から犬たちの足や鼻先がのぞいて、ひっきりなしに吠えていた。

 高い、きゃんきゃんという声は、やはりトの一だと思う。あの気の強い犬が、こんな声で鳴いているなんて。さらわれて、知らない場所に閉じ込められて、周りは大きな犬ばかりで、どんなに不安だろうと、五作は胸が締めつけられた。

「トの一! …ええと、烈火!」

 五作が声をかけると、きゃんきゃんが大きくなった。五作だとわかっているかはともかく、聞き慣れた声だと思ってくれたようだ。いや、ただ人の声を聴いて興奮しただけかもしれない。他の犬たちも一層大きな声で吠えだした。

「もうすぐ旦那さまが来てくださるからね!」

 加藤さんはまだ鍵を持つ人を見つけられないのだろうか。軍の施設だから、旦那さまが来ても、鍵を開けてくれないかもしれない。

 途方に暮れていると、シロが隣りに立ち上がり、格子をがりがりと噛み始めた。

「シ、シロ、ダメだよ」

 慌てて止めたが、シロは構わず格子の木を削っていく。鹿の骨つき肉も噛み砕いて食べてしまうくらいなので、木の格子などなんでもない。

「…もう、ここまで入っちゃったんだから、どうせ怒られるよね。よし」

 トの一の悲痛な声に後押しされるように、五作も覚悟を決めて、石を拾って格子を削り、叩いた。この格子なら二本か三本はずせば、小柄な体は中に入れる。

 シロが噛んで半分ほどの太さになった木材を持って、えいっと押すと、折れ、そのままはずれた。五作が石で叩いていた木材も続いて折れ、はずすことができた。できたすき間に頭、肩を突っ込み、体を横にして通り抜ける。

 倒れこむようにして畜舎の中に入ると、シロが続いて入ってきたが、お尻がつかえて、ちょっとじたばたした。

「シロ、大丈夫?」

 お尻を横向きにしてやって、格子の間から抜けさせる。引き綱が格子に引っかかったので外して、自分の腰に巻く。外を歩くときには人目があるから引き綱をしているが、シロは五作が呼べばすぐに来る犬なので、本当はつなぐ必要なんてない。

 シロは五作の顔をお礼みたいに舐めると、すぐに檻のほうへ走っていった。犬たちが檻のあいだから前足を出して地面をかいているのを避けながら。真ん中あたりの檻の前で止まり、わん、と吠えた。

「そこにトの一がいるの?」

 五作は急いでシロのところへ走った。

 大型の犬を入れるための檻は粗い金属格子がはめられているが、その檻だけ、木の板が下部分にあてがってあり、動かないように木箱で押しつけてあった。中にトの一がいて、高い声で鳴いていたのが、五作の顔を見るや、鳴きやんだ。丸まってる尻尾をぷるぷる振っている。

「トの一!」

 木箱は何か入っているようで重く、五作の力では動かせない。小さな犬には越えられない木の板だが、箱にのった五作が板の上の格子のあいだから腕を伸ばし、首根っこをつかんで引っ張り上げ、外に出してやった。

 初めて、トの一が五作に飛びついて、抱きしめられた。

「よかった、トの一!」

 自分たちも出してくれとばかりに、他の犬たちが吠えている。シロほどではないが、大きな犬ばかりで、野犬狩りで捕まえてきた中の大きなものだけを選別したようなのとか、猪狩りに使う猟犬のようなのとか、吠えている顔が恐ろしく、引き取り手がいないのも無理はないと思われた。犬たちはやせていて、毛がぼさぼさ、欠け茶碗の食器は空だし、水は多少あるものの、ちっとも手をかけてもらってない様子だった。檻の中に藁が少しあったが、しばらく替えてもらっていないようで、地面に直に寝ているために、前脚には座り胼胝ができている。五作に向かって吠えているのも、助けを求めて必死なだけのようだった。落ち着いて見てみると、檻の閂は五作の手でもはずせるようなもので、トの一が入っていた檻だけが木の板と木箱のせいで、開けられなくなっていたのだった。

「ごめんよ。勝手に出してあげられないんだ」

 トの一を抱いたまま立ちあがり、犬たちに謝る。鼻先を突き出してくる犬に、手の匂いをかがせてやると、ぺろっと舐められた。

 人恋しいだけなんだ。可哀想に。会社の畜舎だって犬をそれぞれの房に入れておくけど、毎日運動場へ出してやるし、そのときには他の犬と遊べるし、手が空いていれば人間が撫でて、ぼろ布で作った毬や木の枝を投げてやることもある。大きな犬を創る研究というのがどういうものなのか、五作にはわからないが、会社の畜舎に克己の研究のためにいるプードルは身ぎれいにしてもらって、散歩をさせてもらっている。こんなふうに放りっぱなしにはされない。

 せめてもの慰めに、犬の頭を撫でてやっていると、入り口の鍵ががちゃがちゃ鳴って戸が開くと、男が入ってきて、五作に気づいた。

「なんだ! お前、どこから入った?」

 犬の世話係らしく、水が入った桶を手に提げていたが、それを置くと、戸のわきに立てかけてあった棒を手慣れた様子で持ち上げる。修繕をしてくれる人がいないのか、ざんばら髪の本人が気にしないのか、古びた着物はほつれや破れをそのままにしていて、帯ではなく縄にぼろ布を巻いたものが腰に巻かれ、裸足で草鞋を履いた足は泥で汚れている。犬だけでなく、彼も、誰からも顧みられず世話してもらっていないのだ。

 犬たちの、コイツハキライ、という感情に、五作は圧倒された。重みのある空気が肌を押してくるように思えるほど強く感じられる。さっき五作に向かって何かを求めるように吠えていたのと違って、明らかに憎悪を持って激しく吠えている。

「その小さい犬を離せ!」

 五作が抱いているトの一に気づくと、男は怒鳴った。それに反応してシロが唸る。

「大事な犬だ! お前なんかが触っていい犬じゃない!」

 世話係は手に持った棒を、威嚇するように振りながら、近づいてくるので、五作は思わず後ずさった。そのときに触れた閂を、外した。深い考えがあってしたのではなく、男が怖くて、男と自分のあいだに金属の戸でいいからさえぎるものがあれば、簡単に棒で打たれずにすむと思ったのだ。

 閂が外れると、中の犬が扉に体当たりして開け、飛び出してきた。歯をむき出して、まっすぐに世話係に向かう。

「うわあああ!」

 世話係が棒を振り回す。

 犬が打たれてしまう、と五作は別の閂も開け、次も、と手の届く範囲で続けた。三頭の犬が次々飛び出してきて、先に飛びかかっていた犬に加勢したおかげで、世話係が振り回す棒は狙いがつけられなかった。男は叫びながら、木戸を開けて畜舎から逃れ、犬たちは後を追いかけていった。

 五作はほっとして、トの一を抱いた手に力を込める。シロが鼻先で五作に触れた。

「そ、そうだね、早くここから出なくちゃ」

 トの一を着物の懐へ入れて左手をあてがうと、戸に向かう。まだ檻の中にいて、吠えている犬たちに、申し訳ない気持ちになる。四匹逃がしたんだから全部逃がしたってかまわないか、と思う。でも檻から出したところで、敷地は塀に囲まれているから、またすぐ捕まえられてしまう。でもしばらくのあいだだけでも、自由に走ることができるんだから…。でも…。

 迷っていた時間がいけなかった。外から拳銃の音がした。五作はびくっと体を震わせる。慌てて外に出て、研究所のわきから門に向かおうとしたが、そこで男と出くわした。

 さっきの世話係とは違う。着物はずっと上質で、ほつれや破れなどないし、ちゃんとした角帯を締めている。五作は知らなかったが、それは高橋という男だった。

「なんだ、餓鬼。お前が鍵をよこせと言ってきたわけはないな。お前は誰だ」

 五作は気づいた。男の手に拳銃がない。では外に拳銃を持った別の人間がいるのだ。そしてもう一つ気づいた。男の手に噛み傷がある。五作はあの傷を知っている。畜舎の先輩の幸造の手にも同じような傷があるのだ。じゃあ、この男が…。トの一が唸り始める。五作は小さな体をぎゅっと抱きしめた。

 男は五作が懐に入れているトの一に目を留めると、途端ににらんだ。

「この盗人め! 犬を盗むなんて許さんぞ!」

 これは、盗まれた犬で、自分は取り戻しにきただけだと、思ったが口に出せなかった。五作は首を振るだけだった。

 シロが唸り、畜舎の中の犬が吠え立てる。

「犬を渡せ! お前は牢屋に入れてやる。でなければ、銃で撃ってやる。軍の施設に泥棒に入るなんて不逞餓鬼だ」

 高橋は高圧的に言ったが、シロに飛びかかられて悲鳴をあげた。五作は門に向かって走り、トの一と自分を守るのに必死だった。シロは男を転ばせると、すぐに五作に追いついてきた。

 門の前には拳銃を持った軍人がいた。

 一分の隙もなく軍服を着こなし、冷静な面立ち、背筋を伸ばして、錦絵の姿のように完璧な軍人だ。襟章がついていて、五作には階級の判別がつかないが将校だというのはわかる。責任ある立場の人のようだ。

 加藤さんに言われて鍵を開けに来た人? 五作は足を止め、シロも隣りで止まった。

「糞餓鬼!」

「高橋」

 着物に着いた土を払いながらよろよろとやってきた男に、軍人、本田大尉は冷たい口調で言った。

「なんだ、この子供は」

「…わかりません、大尉。入り込んで犬を……」

 将校も悪い人間だ。五作は呆然とし、シロが唸る。

 本田と高橋に前後を挟まれ、逃げ道を失った。


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