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五作と手のり犬  作者: 小出 花
6/8

ねえさん、またあの人が来てるんですけど…」

 楽屋に戻るなり、商売道具の喉を守るため手拭いを巻いていると、暖簾が上がって、少女が声をかけた。

「仕方ないねえ。お通しして」

 ため息ついたのは一瞬で、すぐに顔を作る。客商売なのだから、このくらいは当たり前だ。

「紅月や、今日もよかったよ!」

 仕立てのよい着物を着た中年の男がずかずかと入ってきて、評判の菓子店福々堂の折りを渡し、満面の笑顔で娘の手を握る。軍需品の商売でみるみる会社を大きくした成金で、義太夫が好きというより、娘義太夫の娘が好きという、助平親父だ。十五、六の娘義太夫に熱狂する書生たちとは違うと言わんばかりに、いくらか年かさの娘義太夫ばかりをひいきにしているが、それでも親子ほど歳が違うのに、やたらと茶屋に連れ込みたがる。金を落とすので、興行主には嬉しい相手なのだろうが、娘義太夫たちには面倒くさい客だ。

 娘義太夫はタレギダなどと呼ばれて色物扱いされることも多いし、実際十代の少女たちの甲高い声で派手な身振り手振りで戦記物を演じたところで、可愛さに客が喜ぶだけで、芸事とは見てもらえない。でも、紅月は幸い地声が低く、裏声も駆使して、馬を駆る武者も悲恋に嘆く娘も演じることができた。可愛さを売りにする歳はとうに過ぎ、芸で身をたてている自負がある。だからこそ、こういう客が嫌いなのだ。

「近々、手のり犬を飼うことになったんだよ。牡にするつもりだから、紅月のとこの子とつがわせて、子犬が産まれるといいねえ」

 楽屋の畳の上、籠の中で丸くなっている手のり犬を見やって笑う。

 勝手に犬の縁組みをされるなんて気持ちの悪い。

「手のり犬は子を産まないそうですよ。遺伝子を操作されて子が産めないとかで」

「おや、そうなのかい。そりゃ残念だ。紅月のとこの子は可愛いからねえ、子犬が産まれたらもっと可愛いと思ったのに。まあいい。子犬がとれなくても、うちで飼う子と仲良くさせてやりたい。ああ、楽しみだ」

「手のり犬はあらかた輸出されて、なかなか手に入らないのではありませんか?」

「つてがあるんだよ。手に入れられると話をもらってね。懇意にしている将校がたくさんいるからね、わたしのためなら都合してくれるんだ」

 おかしな話だ。外貨を得るために、もっぱら外国に売るのが優先で、国内で飼えるのは創出者に近い人物や政府の要人など、ごくごく少数だと聞いている。大概の軍人は玩具のような犬だと馬鹿にしているし、橘商会は軍需品とは無縁で、つてなどないはずだ。紅月の手元に手のり犬がいるのは、後援者が創出者の橘の恩人だからで、しかも贈られたのはこんなに人気が加熱する前、それに建て前上、紅月は手のり犬の飼い主ではなく世話係でしかない。実際、紅月のものだと勘違いして、譲ってくれと言ってくるものもいる。紅月の後援者が、あの、田村翁だと、翁から世話を任されているだけだと知ると、途端に平謝りをしてくる。

 でもこの男は、田村を紅月を争う敵対者だと思っている。男は紅月を愛人にしたがって、何度も誘いをかけてくる。迷惑で、とんでもない。

 田村は純粋な芸の後援者で、紅月の才能を認めてくれ、囲い者にする気などない、本当にありがたい存在なのだ。茶会に酒席に、孫娘を連れ歩く年寄りのような田村を、紅月は実の祖父のように慕っている。ときには田村自慢の庭で、観客一人のために三味線を弾き、演じる。豊かでいい声だとほめてもらえるのが嬉しい。

 この男が手のり犬を手に入れようというのも、田村への対抗心からなのだろう。あの小さな犬は国内では希少性のあまり、ある種の身分誇示のような存在になってしまっている。

 三味線の稽古をつけてもらいに行くので、と言ってなんとか男に引き取ってもらい、ほっと息をついていると、

「あれ、姐さん、これ、福々堂のお饅頭ですよ」

 少女が嬉しそうな声をあげる。紅月について義太夫を学んでいる十三歳で、容姿は今一つなのだが、声がよいのと覚えがよいのとで、書生にちやほやされるようなうわついたものでなく、ちゃんとした娘義太夫に育ってほしいと思っている。とはいえ、まだまだ菓子に喜ぶ子供だ。

「犬や猫の顔が焼き印してあるお饅頭だけど、味はよそと同じじゃないかい。手のり犬の便乗商売をしてるだけで」

「でも可愛いですよ、まん丸くって。手のり犬は誰でも持てるもんじゃなし、代わりですよ」

「お饅頭はまん丸なものだよ。三味線のお師匠さんとこへ持っていくから開けてはいけないよ」

 えー! っと、少女が不満げになる。

「お師匠さんがわけてくださったら食べてもいいよ」

「はあい」

 やれやれと、肩衣をはずし、稽古に行く支度をしながら、大人しく待っていた手のり犬に目をやる。

 こんなに可愛いらしいものを、愛玩以外の目的で所有しようとは。

 紅月は籠の中から見上げてくる手のり犬を抱きあげ、頬を摺り寄せた。

 念のため、田村にこのことを伝えておこう。



 出勤するなり、かかってきた電話にセツは愕然とした。銀行が、返済を早めてくれと言うのだ。しかもいつもの担当ではない、初めて聞く声で、名前を聞いても誰だかぴんとこなかった。

「どうしてですか? 昨年から一度も期日に遅れることなく返済しています」

『手のり犬をたくさん盗まれたと聞きました。今年の返済は滞るんじゃないですか。犬を売れないなら、畜舎の建物を売ってでも返済していただかないと』

 なぜ、犬を盗まれた話を銀行が知っているのか。セツは舌打ちしたい気持ちだった。手のり犬がお腹にいるとはいえ、小さな犬一匹が盗まれたというのは新聞には載らないし、知っているのはごく限られた人間だけだ。

「手のり犬を産む犬が一匹盗まれましたが、返済に影響が出ることはありません。今年から手のり犬を増産していますので、返済計画の通り進められます」

 克己に数字の話をしても駄目なので、この春に生まれる子犬、子猫の数は湯本から報告を受けていた。不測の事態も想定して計画を立てているので、十分返済に余裕がある。ある程度なら前倒しで返済もできるが、こちらが契約をきっちり守ってきたのに、銀行側が守らないなんて前例をつけたら、のちのちもっと無茶なことを言われかねない。こういうことは譲歩するわけにはいかない。

 電話をしてきたのは下っ端だ。返済を迫るという嫌な役を押しつけられたのだろう。とても話が通じる相手とは思えない。上役と直接話さなくては。

「今からお伺いします」

『えっ、あの、ええと』

 相手がもごもご言っているので構わず電話を切った。通話料は高い。無駄な話をするのに金をかけさせてはいられない。

 セツは運転手の孝行に車を出させた。まず、自宅へ向かう。


 本宅での生活は、五作にとって極楽のようだった。犬猫六匹の世話係だが、大変などとんでもない。大好きな動物の世話だけをしていられる。雑用に追われてろくに犬に接する暇もなかった畜舎での生活とは大違いだ。

 朝はまず犬たちに餌をやり、セツの出勤前に杏と白玉は乾布摩擦と櫛をかける。プードルたちにも櫛をかけてやりたくて、五作がそう言ったら、セツの古い櫛をくれた。多少歯がなくなっているが、手のり用のものより大きくて、柔らかい毛に櫛をかけるにはそれで十分だ。

 縁側でシロから順番に、体を拭いてやって頭や手足のぼんぼりみたいな毛に、丁寧に櫛をかけてやった。櫛をかけるところは多くないが、手のり犬と手のり猫にしてやることは、プードルにもしてやりたい。人間に手をかけてもらっているということで犬たちは喜ぶ。実際、話しかけられながら五作の手が触れているあいだ、どのプードルも満足そうにしている。

 ちょうど最後のチャの櫛をかけ終えようとしたところに、出勤したはずのセツが戻って来て声をかけた。

「五作、小さいプードル二匹を連れてきて。一緒に車で出かけます」

「えっ! は、はい、奥さま」

「櫛をかけていたところなら丁度よいわ。二匹を可愛くしてね」

 つむじ風のようにくるっと洋装の裾を回し、来たばかりなのに出て行こうとする。

「……ええと、あのう」

「元から可愛いけれど、もっと可愛くね」

 どうすれば? 五作が途方にくれていると、

「五作も可愛くね。あなたは可愛らしい顔をしているのよ。微笑んでごらんなさい」

 すたすたと戻ってきて、指先で五作の口元を押し上げる。

「五作が微笑めば、犬たちも表情がよくなるでしょう」

「は、はい…?」

 よくわからないまま、小さなプードルを二匹抱き上げ、あとを追った。


 城みたいな建物の軒先に、永住燕のつがいが巣を架けてとまっている。普通の燕より首元の臙脂色が明るいので見分けがつく。燕が巣を架ける商店は栄えるという言い伝えにあやかって、一年中同じ場所に留まるよう遺伝子操作されている。冬の間は越冬地に移動する代わりに室内で飼われているが、四月になって軒下に戻されたようだ。

 五作が以前奉公に出ていた店でも欲しがっていたが、高価でどこの商店でも手に入れられるものではない。買ったあとも、冬中温かくして餌を与えなくてはならないし、飼い続けるには費用がかかる。さすがお城みたいな建物に入っている銀行だなあと、車を降りた五作は見上げて感心した。永住燕を飼えるというだけで、商売がうまくいっていると宣伝しているようなものだ。

 セツは帽子の角度をきちんと正すと、犬を抱いた五作を従え、背筋をぴんと伸ばして、自信にあふれた足取りで銀行に入っていった。すぐに案内係が駆けつけるのは、洋装姿の女性が珍しく、セツが銀行でよく知られているからだ。

「いらっしゃいませ、橘の奥さま」

「こんにちは。都築つづきさまはおいでるかしら」

「どうぞこちらへ。ただいま呼んでまいります」

「ありがとう」

 応接室に通され、セツは西洋式の長椅子に腰かけ、五作も隣りに座るよう言われた。五作はこんな立派な椅子に座ったことがないので、落ち着かない。座面を汚さないよう、浅く腰掛け、背もたれにも触れないようにする。微笑み、可愛くするよう言われたのだから、と胸の内で繰り返して、おどおどしないよう努めた。両腕に抱いたプードルにはどきどきする胸が伝わっていたけれども。

 しばらくして入ってきた男に、セツはわずかに眉を上げた。

「申し訳ありません、橘の奥さま。都築はただいま手が離せませんので、わたくしがお話をお伺いいたします。融資課の木内と申します」

 男はセツの隣りに座っている犬を抱いた少年に、ちょっと驚いたふうだが、すぐに表情を締める。

 四十代半ばで背広姿の男は、セツは以前に会ったことがある。融資課の責任者の一人ではあるが、セツが銀行に来るときは副頭取の都築と話をしてきた。融資が必要になったとき、克己の恩人である田村が都築を紹介してくれたのだ。

「まあ、残念。いつも副頭取が会ってくださるのに」

 下っ端に電話させるくらいだから会いたくないのだろう、とセツは思った。

「さきほどお電話をいただいたのですけれど、返済の前倒しをするようにというのは、どういうことですか?」

「いや、手のり犬がたくさん盗まれたという話だったので…、それで…」

「手のり犬はまだ生まれておりません。手のり犬を産むためのぽち犬が一匹盗まれましたが、この春から手のり犬がたくさん生まれるので、昨春をはるかに超える数の手のり犬を売りに出せる予定です。今年の返済にはまったく影響ありません」

 セツの口調はなめらかで、相手に口を挟む隙を与えない。

「誰がそんな与太話を吹き込んだのでしょう。いいかげんな噂をする人たちには困りますね。そんな話を聞いたのでしたら、弊社に確認してくださったらよかったのに」

「う、うむ。そうですな」

 木内は困った様子だ。

 セツは隣りの五作に手の平を向けた。

仏蘭西フランス人商人から依頼を受けまして、社長が、次はこのカメ犬、プードルを小さくする予定です」

 可愛く、可愛く、と心の中でプードルに言い聞かせながら、五作は微笑んだ。作り笑いで、ただニヤニヤして見えるだけかもしれないが、微笑め、と言われたのだ。ウスとチャは五作の頬を両側から舐めたので、くすぐったさに本物の笑いになった。すると、二匹も笑っているような顔になる。自分はともかく、二匹は可愛い、すごく可愛い、と五作は思った。

「う、うむ、こんどはカメ犬を手のりになさると」

「ええ。すごく可愛いでしょう? 是非仏蘭西の犬を小さくしてほしいとお願いされましたの。わざわざ日本の、わたくしどもの会社に依頼していただけるなんて、ありがたいことですわ」

「仏蘭西からそんな依頼が…」

「仏蘭西は弊社の一番のお得意さまですから、この子たちを小さくしたら、今以上に手のり犬を購入してくださいます。もし返済のために畜舎を売りに出して、プードルを小さくすることができなくなったなんて、仏蘭西の方に言ったら、日本は約束を守らない国だと思われますわ」

 仏蘭西人のように頭を軽く振る。困惑と、恥ずかしさをのぞかせて。

 以前は、セツが取引相手の外国人にたびたびこういうふうに頭を振られたものだ。女が取引相手だなんて、こんな小さな東洋人なんかたやすく丸め込めるさ、有利な契約を結んでやる、いろんな侮りの込められた仕草だった。彼らはセツの柳のような強さを知らなかった。根を強く張り、強い風にしなって決して折れることがない、小柄な東洋女性の粘り強い商談のあとに、彼らが頭を振るときは、やられた、といういう意味だった。

「返済計画をお出しして、融資の契約をいたしました。弊社は契約の通りに滞りなく返済をしております。ですのに、そちらが一方的に契約の内容を違えると? 手のりプードルを売りだせない理由は、銀行が約束を違えて、返済の前倒しを求めてきたからですと、ありのままにお伝えすれば、仏蘭西人は驚かれるでしょう。日本では契約はそんなに軽いものなのかと思われますわ。日本は一等国なのだと欧羅巴に示したいのに、契約を守れない国だなんて言われては恥ずかしいことです」

 政府は外国からの評判をことさら気にする。鹿鳴館なんて馬鹿げたものを建てたのもそのせいだ。日本の銀行の契約違反が原因で、欧羅巴ヨーロッパとの商売に不都合が出ては、国全体の評判にもかかわる、それは政府は嫌がるし、銀行がそんなことをするなど許さないだろう。欧米と不平等条約を結ばされ、一等国扱いを受けていないことは国民の不満になっている。

 木内の顔は強張っている。

「う、うむ……。与太話に踊らされ、まことにお恥ずかしい。もちろん、一等国の銀行として、契約を守りますとも。あ、あの、都築の手が空いていないか、見てまいります。少々お待ちいただけますか?」

 セツはにっこりと笑った。


 副頭取に可愛らしい小さなプードルを披露してから銀行を出て、車に乗り込んだ。五作は助手席で膝にプードルをのせ、車が曲がる方向を周囲に知らせる係を務めた。

 セツは後部座席で背もたれに寄りかかる。洋服の腰の後ろが膨らんでいるせいで、横座りに近い姿勢になったが、寄りかかって息をつきたかったのだ。

 ああ、このコルセットというものは。着物なら好きなだけ後ろに寄りかかって、あとからつぶれた帯の形を直せばいいだけなのに。

 洋装はセツの戦闘服だ。着心地のよさで選んでいるわけではない。こんなものを着ている欧米の女性が、気絶して儚げな姿がよいと家に閉じ込められているのも無理はない。でも日本では洋装の女性は進歩的と思われている。経営者としてのセツを印象づけるには都合がよい。

 それにしても、とセツは考える。

 銀行にあんな出まかせを教えたのはどこの誰だろう。

 以前にも会社を乗っ取られそうになった。人気の出た手のり犬の増産ができないなら、できる会社にさせると政治家たちが圧力をかけてきた。あのときの政治家の一人は今は大臣になっていると聞いた。またあの男が会社を狙っているのだろうか。彼なら銀行に圧力をかけるくらいはやる。国内でなら力技が見逃されることもあるだろうが、外国との取り引きに影響が出るようなことは、政府から待ったがかかる。仏蘭西から手のりプードルの話がきているときで助かった。

 橘商会は克己の才能頼みの会社だ。克己は乗っ取られた会社に残る人間ではないし、新たな発想なしには、手のり犬と手のり猫の流行が終わればそれまで。だが、それまでに儲けられるだけ儲けられたらいいという考えでいるのだろう。あるものを貪り尽しては次へと移る、蝗の群れに似た見境のない強欲さ。

 そんな連中に夫と作った大事な会社を乗っ取られてなるものか。

 研究以外のことを気にかけない克己が夫でなければ、セツが経営の実権を握るなどできたはずがない。女が表に立つことに世間は厳しい。形だけは社長は克己にしているが、実質女が経営していることを馬鹿にし、取り引きを嫌がる男がほとんどなのだ。世界最小の手のり犬、手のり猫欲しさにセツとの商談を我慢しているにすぎない。でもセツが経営をしていなければ、会社はこんなに成功していない。

 そして、子のない夫婦にとって、会社は子のようなもの。絶対に、渡しはしない。


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