五
克己が田村の自宅を訪ねると、庭に案内された。縁側に、田村と二十二、三の女が腰かけ、女は三味線を弾いている。今は地味な縞柄の着物を着ているが、娘義太夫をしている紅月という女で、田村の支援を受け可愛がられているので、時々こうして三味線を弾いたり、義太夫を演じたりしにくる。田村は若い頃はずいぶん遊んで、妻を嘆かせたそうだが、妻に先立たれてからぱたりと遊びをやめた。だから紅月との関係を下種に勘繰られることがあっても、実際にはただ芸の後援をしているだけだ。今も目を細めて三味線の音色に耳を傾けている。
田村は自宅用のくつろいだ着物姿で、すっかり白くなった髪、温和な顔つきだが、先祖がとある藩で要職についていた関係で、政界財界に広く人脈を持ち、ときには苛烈なこともする人だ。克己は彼の柔和な面としかつきあいがないが、手のり犬と手のり猫の増産、輸出について政府から圧力があったとき、田村があいだに入ってくれたおかげでほどほどの条件を課せられるにとどまったし、銀行からの融資を受けることができたので、彼の手腕に畏れも敬意も持っていた。
芸事には朴念仁の克己だが、しばし足を止めて三味線を邪魔しないようにした。紅月はちらりと克己を見て会釈し、きりのいいところで演奏を終えた。彼女の娘義太夫としての技量は克己にはよくわからないにしても、田村の私室で聞いたときには、障子紙が震えるほどの声量に圧倒され、趣味人として名高い人物に支援されるだけはあると思った。
「やあ、克己君」
田村が目を上げた。
「ご無沙汰しています」
「まったくだ。もう半月早かったら、最後の椿が残っていたのに」
田村の庭には、克己の祖父が創った椿が幾本も植えられ、冬の彩りになっている。今はつやつやの葉のみになっている椿の木を、克己は誇らしく見やった。樹形が整えられ、花が落ちたあとが数多く残っている。祖父亡きあともたくさんの花を咲かせられるほど、手をかけられているのだ。椿だけではない、今は地面の下で眠っているが、多くの花菖蒲も祖父の作だ。この庭では祖父が生きている。
「花菖蒲の時期には参ります」
「うん。来たまえ。研究室を作ったら、そこにこもりきりになるだろうなとは思っていたけどね。まあ、あの橘さんの孫ならそうだろう」
不義理をにこにこと許し、部屋に上がりなさいと促した。紅月はさりげなく席を外した。
座布団の上に、手のり犬が二匹寄り添っている。片方はやや大きく、田村に初めて贈った犬で、座敷犬として大事に飼われているが、歳のせいで顔の毛が白くなってしまっている。もう片方は何年か前に、紅月にやりたいのだと頼まれて贈った犬で、当時は国内販売と輸出が半々ぐらいだったおかげでそういうことがたやすくできた。彼女が行くところどこへでも伴っているが、建て前上田村の犬を紅月に世話をさせていることにしているおかげで、手のり犬が国内で出回りにくくなったあと、譲ってほしいという求めを断ることができている。
女中が茶と菓子を運んできて、二人は座敷に落ち着いた。
「今日来たのは、君の甥っ子のことかい?」
「はい。お世話いただいたそうで、ありがとうございました」
「なあに、不心得者を入れる寺の一つや二つ、あてがあるからね。何ほどのことはない。実は今さっき、車に乗せて送ったと報告を受けた。君の兄嫁がずいぶん騒々しかったようだが、うちの若い者は体格がいいから、易々と仕事を終えたと言っていた。橘家の男は気丈な嫁をもらう習い性だが、あの嫁は気丈というより癇性じゃないかね?」
「身内のことでお恥ずかしい限りです」
「いやいや。うちの若い者相手に立ち回りを演じようとしたというから、恐れ入るよ。あの気の強さが商売の役に立っているならよいことだ。さて、送った山寺から自力で出てくるのは大変だからね、住職がよいと言うまで出てこれまい」
寺なだけ甥っ子はよかったのだ。田村がその気になればもっと過酷な場所へ送ることもできる。彼は努力なしに得ることばかり欲する人間に厳しい。
「克己君に子がいないからおかしなことを考える者が身内から出るのだよ。妻に子ができないなら、よそに…」
苦虫を噛み潰したような顔になった克己に、
「まあ、君が研究の時間を削ってまで、子を作るためによそに女を囲うとも思えないか。結婚しただけよしと。だったら、養子を取るなりしたらどうだね」
田村は笑う。
「君の才能頼りの会社だ、後を継げる者などそうそういるものではないが、対外的に後継ぎを置いておけば厄介ごとが減るだろう」
さて、今はどんな研究をしているんだい? と話題を変えてくれて、色つきの糸を吐く蚕には大笑いし、手のりプードルには、あの仏蘭西商人は抜け目ない、と苦笑した。
「一から新しいものを創るほうが君の性分にあってるだろうが、確かに手のりカメ犬は欧羅巴で売れるだろう。外貨が欲しい政府が君に口出ししてくるのをなだめるには、餌を投げてやるのも必要だ」
手のり犬と手のり猫を増産できないなら国営化するから克己の技術を差し出せ、と言われたときは、あやうく橘商会をのっとられるところだったのを、田村が止めてくれた。まず、犬好きの明治天皇に手のり犬を献上し、こんな才能ある研究者がおりますと知っていただいた。その上で、克己は雇われ研究者には向かないし、自由に研究させたほうがいいものを、売れるものを創るから、結局はそのほうが外貨を得られる、と政府の有力者にかけあってくれた。
「わたしも歳だからね、あと何年君を庇ってやれるかわからない」
「はい。いつも頼ってばかりで申し訳ありません」
「時々餌を投げてやるのを忘れてはいけないよ。特に、力を持ってきた軍を敵に回すのはよろしくない。軍のための研究など業腹だろうが、たまに連中の役に立つものを創ってやりなさい。速く、長く飛べる鳩とかね。それならばみすみす殺される命ではあるまい」
田村翁がため息つく。
「やれ、橘さんはせっかく才能を持っていたのに早く亡くなりすぎた、と思ったが、今生きておられたら、実がたくさんなる作物だのなんだの作れと圧力を受けただろう。頑固なお人だったから、つっぱねて軍から目の敵にされたかもしれない。克己君はうまくやりなさい」
「…はい」
うまくやれるだろうか。今、のらりくらりで見逃してもらえるのは田村の後押しがあってこそだ。橘商会が外貨を稼いでいて、軍のための研究をさせるより金になる、と政府の要人が思っているからなんとかなっている。
餌を投げる、か。手のりプードルのあとに、何か軍の餌を創る算段をしよう。
不安になっていると、書生がやってきて、克己に会社から電話がかかってきたと告げた。
トの一がいなくなったと、社員全員で探し始めた。何度もお使いに行ったことのある猫担当の杉平が、克己あての伝言を持って、町まで電話をかけてもらいに走った。
敷地内は犬猫担当の社員でさんざん捜しまわり、敷地の外は警備員が捜したが、トの一は見つからなかった。克己の着物のこともあり、盗まれたと判断するのが妥当だ。克己に連絡が取れた時点で巡査にも届けを出した。
ぽち犬が孕んでいる手のり犬は十匹以上で、生まれた子犬を売ればちょっとした家を買えるような金が手に入る。国内で購入の順番待ちをしている人数はかなりのもので、闇で手に入るならいくらでも出すという人間もいる。社員だけで捜すには限界があり、警察を頼るしかなかった。
町の巡査では扱いかねる事件として、すぐに警視庁から人が派遣されてきた。
来たのは警察だけでなかった。
農商務大臣の取り巻きの一人、香川が見せびらかすような輸入車から降り、寮の玄関前に立っていた克己をねめつけた。
「私会社の警備などこの程度だ。お国のための商品を守れないのなら、国営化してしまったらよかったのだ。そうすれば警察も軍も使って警備できたし、こんな盗難など起こらなかった」
克己に対して、周囲で捜索した報告をしていた警備員が、むっとするが、誰とは知らなくても高級そうな背広姿の相手に食ってかかってよいことがないくらい判断がつく。すぐに表情を締めた。癇性のトの一を捕まえるための道具を色々入れた背嚢(リュックサック)を背負っていて、肩にかかった紐をいじっているのが唯一彼の苛立ちを表している。
「今回のことは警備員に責任はありません。わたしの不注意が招いたことです、香川さん」
克己が反論した。可愛がっているからといって畜舎から犬を連れだした自分が悪いのだ。
「そうかね。どう責任を取るんだね、橘君。国家に損失を与えたんだよ」
「損失を受けたのはわたしで、今のところ国には損失を与えていません。あれはわたしの犬です」
会社が得る外貨や、納める税金のことしか考えていない人間にとやかく言われる筋合いはない、とは胸の中でつぶやくにとどめた。
「国をあげて発展しなくてはならない時期に、玩具のような犬を作って売っているのを許されているのは、外貨を得られるからだよ。国内で売られては国家に貢献できない。君の損失が聞いてあきれる。これは国家の損失だ。得られたはずの外貨をどうしてくれるんだ」
香川が仕える男は富国強兵を御旗のように振って、国家のためを強調しているが、自分の息のかかった会社を公の事業に重用して私財を蓄えているし、貴重な外貨を使って洋酒を買い、高級な背広を幾棹もの箪笥に溜めこんでいるともっぱらの噂だ。橘商会を国有化したら彼の娘婿を社長にするという計画を持っていたと、田村から聞いたことがあった。
「外貨は昨年より今年は多く得ますし、納税もいたします。それで、香川さんは何をなさりにおいでたんですか? 今は警察の手をお借りしているところで、香川さんの手をお借りするようなことは起こっていませんが」
警視庁に内通者がいるのだろう。農商務大臣は将来は総理大臣になるのではとも言われていて、媚びを売る者はどこにでもいる。
「君の失態を報告しなくてはね。できると言い張って、生産計画や販売計画をたてたのに、達成できなければ公の手を入れなくてはならないのだから」
「それは今年度末まで待って判断していただきましょう。そういうお約束ですから」
遠くから車が近づいてくる音がして、二人が目をやると、田村の車が着き、体格のよい男たちが四人降りてきた。田村の家の、表向きは書生の、用心棒たちだった。
「田村翁から捜索の手伝いをするよう言われてきました。それ以外でもなんでもお手伝いするようにと」
「それは助かる。警備員には警備の仕事に戻ってほしいんだ。こう人が出入りしていると、それに乗じて何かしようという人間も出てくるかもしれない。捜索を交代してもらえないだろうか」
香川は顔をしかめていた。自分への嫌味ととったらしい。克己はただ思ったことを言っただけだったのだが。
報告に戻ってきていた警備員に、彼らを捜索中の警備員のところにつれていくよう克己は言った。田村が支援してくれていると香川に示せただけでも助かった。実際、田村の手の者が来たことで、香川は悔しそうに帰っていった。
しばらくしてばらばらと警備員たちが戻ってきたが、
「あれ、曽根は?」
「え? どこへ捜しに行ったんだ?」
「いや、そういえば、姿を見ていない。いつからだ? そもそも捜索に出たのか?」
互いに言葉を交わす。
不穏な空気になったところへ、ウメが言いにくそうに、
「曽根さんの柳行李がからなんですよ。荷物が全然ないんです。犬の捜索で寮の中を捜して、念のため社員それぞれの行李の中も見させてもらったんです。もともと持ち物の少ない人でしたけど、全然ないっていうのはさすがに…」
克己に告げた。
「まさか、曽根が…」
警備員が気色ばんだ。
警備員たちだけで寝ている部屋の隅に、それぞれの持ち物を入れておくために名札つきの柳行李がある。蓋つきの籠、柳行李には、着替えを入れている者がほとんどで、あとは本やちょっとした小物、家族からの手紙などがしまわれている。取った、取られたと問題になることがあるので、貴重品はウメが預かり、克己の部屋の大きな金庫に入れて、必要な時には出してやっていた。ただ、曽根はウメに預けていたものは何もなかった。もともと持ち物の少ない曽根の、柳行李の中がからっぽだった。
わずかな着替えごと姿を消した曽根を、当然警察は疑った。雇ったときに書かせた経歴にあった親の住所に巡査が送られた。
田村のところから派遣されてきた男が、雑木林の中で煙草の灰を埋めた跡を見つけたと報告した。
「畜舎と寮の出入り口を見はらせて、木のかげに隠れられそうな場所があったんで、重点的に探してみたんです。積もった落ち葉の下まで掘った跡があって、見てみたら、煙草の灰が結構ありました。何日分かたまってました。おそらくここを見張っていたんだと思います」
普段田村の用心棒をしているだけあって、目のつけどころが違う。
「見張られていたのか」
金目的で手のり犬を狙っていたのか、たまたま犬が盗めそうだったから盗んだだけで目的は他にあったのか、畜舎を見張る理由を考えると、疑うべき相手はいくらでもいそうで、克己はぞっとした。
「燃え残りの煙草の葉は見たところ安物です。ただのこそ泥じゃなければ、下働きとか臨時雇いを使って見張らせた可能性もあります」
ただのこそ泥が、手のり犬などという警備の厳しいものを盗むためにわざわざこんな田舎で何日も見張るとも思えない。
それに曽根のこともある。
曽根は不愛想だが、元士族で曲がったことはしない人物に、克己には思えた。しかしそれも思い違いだったのだろうか。畜舎を見張っていた人物と共闘を組んでいたのか。克己は研究以外の能力がないのを自覚しているので、警備員を雇用するのはセツに頼んだのだが、あのしっかり者の妻が騙されたのならもう警備員の誰も信用できないのではと思った。
電話線も通っていない畜舎では連絡が取りにくいので、市街地にいてほしいと警視庁の人間に言われて、克己は仕方なく本郷の自宅にしばらく滞在することにした。
トの一が見つかった場合の世話係として、五作を連れていくと言う。
「こんな子供じゃ役に立ちません」
幸造が反対したが、
「だって五作だけだよ、烈火に吠えられないのは」
克己の言葉に黙った。ウメが慌てて着替えの風呂敷包みを作って、五作に持たせた。
これ以上犬を盗まれてはかなわないと、プードルも車に乗せたので、なんだかきゅうくつだった。助手席に乗って曲がり角のたびに合図を出すよう、運転手の孝行に言われた五作は、生真面目な顔で従っていたが、大きなプードルが足元に身を寄せて、すきあらば伸びあがって顔を舐めてくるのでしまらない感じだった。小さなプードルは後部座席で克己の隣りに伏せていた。
編み垣に囲まれた橘夫婦の本宅は、庭は広めながら、建物はこじんまりとした造りで、夫婦のための部屋や客間、住み込みで手伝いをしている宮前夫婦の部屋などがある家のほかに、セツの弟、孝行夫婦が子供たちと暮す離れがあった。克己が留守がちで不用心なのと、弟嫁が本宅の家事の手伝いもするためだ。
犬を四匹も連れて帰ってきた夫にセツは呆れた様子だったが、すぐに物置きに犬の場所を作らせた。家では着物で、以前に見た洋装姿ほどの近寄りがたさはなかった。
五作は当然のようにプードルたちと一緒に寝るつもりで物置きに行ったが、セツに止められた。
「わたしは犬の世話係ですから」
初めての場所に連れてこられて犬たちは不安だと思う。せめて一緒にいてやりたい。
「子供が納屋で寝るなんていけません」
「五作がそうしたいなら、いいじゃないか」
克己は気にしてない様子で笑っていたが、
「いけません。風邪をひいたらどうします。大体、その子は頭を怪我してるじゃあるませんか。それをここまで連れ出して…」
「ふむ、そうだ、その頭はどうしたんだ?」
今頃訊いている克己と、「転びました」と返事をしている五作に、セツはため息ついた。
「わかりました、犬はよく足を拭いて縁側の板間で寝かせましょう。五作は、…五作というのでしたね? 五作は、どうしても犬のそばがいいなら、縁側に布団を運びなさいな」
「ありがとうごさいます」
縁側で寝て、何がありがとうなんでしょう、とセツは首を振りながら、布団の手配に行った。
仏蘭西商人の娘がつけた仏蘭西語の名前はまるで従業員に浸透せず、スタンダードプードルは毛色から、牡がシロ、牝がネズ、トイプードルの牡はウス、牝はチャと呼ばれていた。仏蘭西語の、ねーじゅとか、おんぶ、なんとかだとかいう名前は、日本人には誰も覚えられなかったのだ。元々の飼い主がつけた名前もあったのだろうが、犬たちも気にしていなかった。特に五作からはなんと呼ばれようが犬たちは反応した。
一番体の大きなシロがプードルの中で首領らしく、五作に最もくっついていた。手伝いの宮前清二と一緒に古いりんご箱に藁を敷いている五作の周りをずっとうろつき、邪魔をしながら、時々五作の顔を舐めていた。
「坊は大きな犬に好かれているなあ」
五十過ぎの清二は細縞の着物姿で、最初大きなカメ犬にびくびくしていたのだが、五作にじゃれつく様子を見て怖がる必要はないとわかったらしい。ふわふわの毛を触って、綿だ綿犬だと笑った。
「残りの藁は物置きに入れておくから、入り用なときに出すといい。さて、この大きさだとたくさん食べるだろう?」
「朝晩、どんぶり二杯くらい、玄米や雑穀を炊いたものと、だしを取ったあとの煮干しをあげてます。冬の間に干してあった鹿肉や猪肉もあげてました」
「そうかい、かみさんに言って、肉か魚を手配させよう。あらでもいいのかね。寮ならだしを取ったあとの煮干しがたくさんあるんだろうが、ここはそんなに大勢人が住んでいないから」
魚屋なら近くにあるが、肉はどこでも買えるわけじゃないしなあ、カメ犬はやっぱり魚より肉なんだろうなあ、と頭をかいている。
「それにしても、そのおでこの傷はどうしたね? 犬のせいかい?」
「ち、違います! 転んで、あの、犬とは関係なしに、転んで…。大きな藁束を運んでたときに前がよく見えなくて、転んで…」
「そうかい。手当ては?」
「あの、軟膏を塗っていただきました」
「そうかい。じゃあ、あとでうちのに包帯を換えさせて、そのときに軟膏を塗り直せばよいのかな」
「あ、あの、大丈夫です」
「離れに小さな子たちがいるからな、傷につける軟膏ならあるよ。遠慮せんでいい。奥さまは、子供が怪我したまんまにしておいたら気になさるだろう」
本宅には手のり犬と手のり猫がいる。毎日セツと一緒に銀座の事務所に出勤し、尋ねてくる客たちへの広告塔となっていた。小さい頃から一緒に飼われているので、種を超えた仲の良さで、同じ座布団の上で寄り添っていた。五作を見ると、ころころと走り寄り、匂いを嗅ぎ、体を擦りつけて、歓迎した。
「まあ、杏と白玉がこんなに懐くなんて」
セツが驚くと、
「五作はすごく動物に好かれるんだ」
克己は自分の手柄みたいに言った。
五作は初めて見る手のり猫に、初めて触れる手のり犬にうっとりとし、膝によじ登ってくる二匹に笑みを浮かべた。普通の犬や猫をそのまま小さくしたというより、少し頭が大きめで、幼い姿をしている。抱き上げると、小指の先ほどもない小さな舌で舐められてくすぐったい。手のり猫の舌は普通の猫ほどさりさりとしなかった。
可愛い。なんて可愛いんだろう。こんな可愛い犬をトの一も産むんだ。そして、可愛い子犬を手に入れるために盗むような人間がいるんだ。
五作はトの一を思ってしゅんとなった。小さな二匹がますます舐める。
「ふむ。五作がいるあいだは世話を任せるといいよ」
「克己さんが連れてきた犬たちも入れたら、全部で六匹ですよ。大変じゃありませんか」
「なに、畜舎ではもっとたくさん世話しているんだ。大丈夫だよな、五作」
「は、はい」
セツはちょっと考えるふうだったが、細々としたものが入った籠を五作に渡した。
「犬は杏、猫は白玉という名前です。毎日乾布摩擦をして、櫛をかけてやるの。白玉は目やにがつきやすいいから拭いてやってね。杏は手拭いを引き合うのが好きで、白玉は鈴の入った手毬を投げてもらうのが好きよ。家にいるあいだは遊んでやってね」
「は、はい」
五作にとっては夢のような仕事だ。いや、仕事というよりご褒美だ。櫛をかけたり遊んでやったりなんて。
「おや、その煙管いいねえ。高そうじゃないか」
車夫が客待ちをする溜まり場で、上等な煙管で煙草を吸っている男に別の車夫が声をかける。熊八が目をやると、確かにいい煙管だ。煙管の中央の管部分、羅宇にさざ波が彫金されて、派手さはないが腕のいい職人が手掛けたのがわかる、趣味人のお旦那さんが持っててもおかしくない品だ。
「粋だろう。前からいい煙管が欲しかったんだ。こないだ、上客をつかまえてね、払いをはずんでくれたんで、いい機会だと買っちまった」
「へえ。いいねえ。俺も上客に乗ってもらいたいもんだ。前に熊八が教えてくれた、お足を踏み倒しそうなトンビ姿の若いもんを乗せそうになったくらい、俺はついてないよ。熊八の言葉を思い出して慌てて、前金で、って言ったら、悪態ついてどっか行っちまった」
熊八が無賃乗車されそうになった話はとっくに車夫のあいだに広まり、インバネス、通称トンビと言われる洋外套の若い男を乗せるときは気をつけることになっている。
「あんなんじゃなくて、ちゃんと払ってくれる、まともな客がいいやねえ。そんな煙管が買えるほどの払いをしてくれるなんて、どんだけ遠くまで行ったんだい」
「距離は大したことないんだよ。一日貸し切りってことでね。まあ、行った先で客を待っている時間のほうが長かった。待ってるあいだの尻っぺたが冷えてかなわなかったね。なーんもねえ村だったから、大方愛人でも囲ってるんだろうって思ったよ。じゃあ事情を聞いちゃいけないしねえ」
金持ちが愛人を囲ってるところへこっそり人力車で乗りつけるというのは結構あり、こっそり帰れるように近くで待っているよう言われることも結構ある。そういうときは、大抵客の払いもいい。
「いい女だったかい?」
「いや、見てないんだ。村に入る手前のお地蔵さんのそばでおろして待ってたからね。えらいこそこそしてたから、亭主持ちの女とつきあってるのかもしれんね。きれいな手をして、ろくに力仕事をしたこともないだろうって男だったけど、わざわざ貧乏くさい格好をして、あれで身をやつしてるつもりだったんだろう」
毎日人を乗せているので、車夫は自然と人間観察をするようになる。
「そんだけ金がありゃあ、田舎の面倒な相手なんかより、町にいくらでもいい女がいるだろうに」
「そうさなあ。そこまですんなら、よっぽどの美人なのかと思ったんで、待っているあいだに通りかかった子供に、村に美人はいるかと聞いたら、いないと言っていたねえ。なーんも誇るもんがない村だが、大きな畜舎があって、外国に売る動物を育ててるんだと、えらく自慢げだった。事務所は銀座にあるんだってよ。そんなもんより美人がいたほうが…」
「おい! その畜舎、なんてぇ会社だ?」
熊八は聞くでもなく耳を傾けていたが、畜舎のあたりから、俄然興味がわいてきた。このあいだ行った会社のことじゃないかと思った。舶来の車がやってくるような会社、気になって橘商会のことを周囲に訊いてみたら、あの、評判の、手のり犬を売っている会社だった。
外国に動物を売っている畜舎なんてそうあるものじゃない。
「ええ? あー、なんて言ってたかなあ」
「思い出せ、思い出せ」
「……そうだ、タ、タチバナって言ってたか」
「橘商会か?」
「それよ!」
「どんな男を乗せたって?」
「え? ええと…」
歳は、背格好は、顔立ちは、などと、熊八はさんざんに訊き出すと、
「あんがとよ!」
勢いこんで、走り出した。
曽根の行方は分からなかった。親の家に巡査が行ったところ、曽根が行方不明なことに心底びっくりしていた。行く先のあては思いつかないし、連絡はないという。曽根の親は元士族が落ちぶれたにしろ、粗末すぎる長屋暮らしで収入はわずか、息子の仕送りを頼りに生活していることから、ひどく不安そうだった。正直に話しているように思えたが、一応巡査は見張りにつけておくことになった。曽根から連絡がないとも限らない。
本宅に来てから研究はできないし、捜査は進まないしで、克己はいらだっていた。
電話線があるところにいろと求めたわりに、警察はいちいち克己に進捗状況を知らせてくれないので、克己のほうから警視庁へ出向いて何かわかったか訊く。
手がかりらしいものは何もなかったところへ、銀座の事務所に車夫が訪ねてきた。畜舎がある村に人力車を借りたよそ者が来て、一日過ごしていたが、目的がはっきりしないという。
克己は警察にこの話を伝えたが、曽根を捕まえるのが優先だと言われた。
早くトの一を取り戻さないと、子犬が生まれてしまう。克己には可愛い犬でも、犯人たちにとってトの一は手のり犬の子犬を孕んでる以外に価値がない、ただの小さな犬だ。どんな扱いをされているかわからない。そして一度に十匹以上生まれるので、トの一だけでは授乳も世話も行き届かない。盗まれた異常な状況で出産するトの一も、子犬たちの命も失われてしまう可能性がある。
早く取り戻さないとまずいのだと克己は訴えたが、警察の動きは鈍い。小さな犬一匹を広い東京で見つけ出すのが難しいのは仕方ないのだが。
克己の失態を喜ぶ者がいて、警察内から政治家の腰巾着の香田にその話が伝わったことから、警察だけに任せておけるのか心配になった。それとなく巡査と話しても、警察内部に政治家の干渉があるだとか、管轄同士でもめてるだとか、たとえあったとしても外部の人間に言うわけはなく、克己は自分で動くことにした。
わざわざ不審者の話をしにきてくれた、車夫の熊八と連絡を取った。
他の車夫の話を聞いたときは、あの、手のり犬を売っている会社の遺伝子操作技術を盗もうとしている連中がいるのだろうと熊八は思い、銀座の事務所に話に行ったのだ。それが、今回呼び出されてみると、実は犬を盗まれたのだと打ち明けられた。それも、熊八も目にした犬だと知って、いきりたった。
「懐に入れてたあの小っこい犬ですかい? 小っこいのに活きのいい。そんな可愛がってる犬を盗まれるなんざ、さぞお辛いこってしょう」
その言葉に克己は思いがけず、じんときた。みな、トの一の産む手のり犬がどれだけ金になるとか、外貨がどうとかしか考えていない。ただ、可愛がっている犬、と言われたのは、この件が始まってから初めてだ。
「しかもお腹に子犬がいるんだ」
「そいつぁ大変だ。大事にしなきゃならんときに、そんな騒動になっちまうなんて。あ、腹の子犬が手のり犬なんですかい?」
「そうなんだ。手のり犬を産ませるために小さくしたぽち犬で、もうすぐお産なんだよ」
「それで盗まれたんだ。ひでぇ話だ。絶対ぇ取り戻さなきゃ」
あの手のり犬を売っている会社の社長と思いがけず知己を結べて嬉しいのはもちろんだが、子犬目当てに人さまが可愛がっている犬を盗むなんて、まったく許せないと、熊八は義憤に燃えた。
「うん、ありがとう。警察だけに任せず、自分でも行方を捜したいので、訊いて回るのに乗せていってもらいたいんだ」
「任せておくんねえ! どこでも乗せていきますよ!」
熊八は二つ返事だった。
克己はまず、車夫の溜まり場に載せていってもらった。畜舎の裏山で見張っていた人物は、数日分の煙草の灰を残していたので、日毎に違う車夫を雇ったんじゃないかと思ったのだ。熊八が一緒なのは助かった。同業者が相手だと、車夫たちがすんなり口を開いてくれる。何か所か回ると、一日貸し切りで乗せた、という車夫が数人見つかった。乗せた人物は外見などから同じで、乗せた日を訊いてみると、トの一が盗まれる何日か前からほとんど毎日のように村に来ていたのがわかった。そして盗まれた当日に乗せた車夫に会うことができた。
「夕方までの貸し切りのはずだったんですが、思いがけず早く用事が終わったとかで、帰りは昼過ぎに大急ぎでした。日本橋まで乗せていったんでさ。ちゃんと一日分のお足は払ってくれたんで、こっちとしちゃあ、半日分ほどもうけたってことで。荷物? なんか油紙でくるんだもんを持ってましたねえ。さあ? 朝と変わんなかったような。いや、帰りはちょっと増えてたかなあ。動いてなかったかって? 気がつかなかったなあ。声? だってこっちは俥を引いてんですよ。がらがらうるせえのに、客の声だって満足に聞こえないくらいで。あの包み、なんかまずいもんだったんですか?」
日本橋なんて人の行き来の多い場所では、そこから先の足取りをたどるのは難しい。人力車を乗り換えたのではと思い、周辺の車夫の溜まり場で訊いてみたが、くだんの人物をそこから乗せたという話は聞けなかった。日本橋じゃ毎日たくさんの人間を乗せているのだ、いちいち覚えていられない。
それから畜舎近くの町、村で、不審者の目撃がなかったか訊いて回った。ここでも熊八の聞き上手で、内気な農家の子供にも話を聞くことができた。人力車で通ってくる愛人持ちの不倫妻などはやはりおらず、何をしにきたのか不明な男が、あちこちで目撃され、薪拾いに雑木林に入った子供が話した目撃情報はことに興味深かった。
休憩のために茶店に寄り、団子を食べながら、聞き集めた話を書き付けにまとめた。
「おんなじ男が通ってきてたみたいですね」
「うん。三十から四十のなまっちろい顔、着古した着物、脚絆姿、桐油紙の合羽を着てた日がある…、桐油紙の合羽って、車夫がよく着てるやつかい?」
「そうっすよ。安いんで、車夫の御用達です。でもその男は、いかにも、な変装のつもりだったんでしょう。肉体労働をしたことがなさそうな男が、そんなもんを着てるのがおかしいですからね」
「そうだね。その程度の浅い考えだ。わたしだって労働者の姿って言ったら、そういうのを想像するからね。手を見られたら、力仕事をしてないことくらいすぐにばれるのに」
胼胝も肉刺もない、しもやけもあかぎれもない、自分の手を見やった。対して熊八の手は胼胝と肉刺ででこぼこして、擦り傷のあとやら何やらで、仕事が手に表れていた。
「旦那くらい世間知らずなんでしょ。あ、こりゃ失礼」
一緒にいる時間が長くなったので、歯に衣着せる物言いになってしまい、熊八は慌てた。
「いや、確かにわたしは世間知らずだ。普段研究室にこもりっきりだからね」
たまには外に出ないといけないのかもなあ、とつぶやく。たださえ研究室に引きこもっているのに、会社で自動車を所有するようになってからは、たまに研究室を出ても自動車で移動して、限られた人たちとしか接していない。
情報を与えてくれた恩義を感じたのもあって、人力車で回ることにしたのだが、人に話を聞くには自動車で回るよりずっといいのだと気づいた。どこでも思いついたところで人力車を停めることができるし、自動車から降りてきた人間ほど警戒されないし、なにより熊八は人から話を聞くのがうまい。自動車の窓越しに人を眺めるのではなく、同じ空気を吸って話をするのは大事なことなのだと克己は思った。