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五作と手のり犬  作者: 小出 花
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 自分はこんなところで止まっていい人間ではない。

 日本を変えるのだ、と高い志を胸に故郷を出て、同郷の者たちがひとかどの人物になっていくのを忸怩たる思いで見てきた。やっとつかんだ好機のようなものは、外ではお偉い大臣さまだが、酒癖の悪さのほうがはるかに一級品ときている。十年ほど前、公の施設を手飼いの者に安く売り渡したのが醜聞となり失脚したのを支え、ようやくここまで持ち直したのだ。この男から利を得ずに離れるなどできるものか。しかしかつての醜聞があだとなって、大臣の職を利用するのが難しくなっている。

 だが、あの、吹けば飛ぶような私会社くらいなら。

 あれなら、ちょっと押してやれば、ぱたりと倒れる。

 そうして首根っこを押さえつけて、技術を出させてやればよいのだ。

 自分ならもっと効率よく技術を生かせる。

 それがひいてはお国のためになるのだ。



 運転手の孝行が伝言を持ってやってきた。

 勝手に克己の後を継ぐつもりでいる甥の洋介を、田村たむらの紹介で寺にやることにしたそうだ。それで、田村に克己からも礼を言いにいってほしい、と父から言ってきた。

 田村は亡き祖父の支援者だった人で、祖父が創りだした植物をこよなく愛して、今でも庭で大切に育てている。政界財界に大きな力を持つ趣味人で、祖父と同じように新しいものを創りだす克己を可愛がってくれ、手のり犬を創ったときは真っ先に田村に一匹贈った。田村は喜んで、自分の行くところどこへでも連れ歩いたおかげで、手のり犬は有名になり、一気に人気が出た。

 祖父のあと、今も親しくつきあっているのは克己なので、父から頼んだにしろ、克己も礼を言いに行くのが筋だ。さすがにこれを面倒くさがるほど、義理を欠くつもりはなかった。

 孝行を待たせたまま、急いで洋服に着替える。畜舎から懐に入れたままつれてきてしまったトの一は、ウトウトしていたのを目を覚ましたが、丸めた着物の中に置いたらまた寝てしまった。

「あとで、五作を呼んで、烈火を畜舎に戻してくれ。あの子なら烈火を扱えるから」

 着替えを手伝っているウメに、ひそめた声で言う。

「頼まれたって誰も触りませんよ。小さいけれど、噛みつき魔ですもの。五作が可哀想じゃありませんか」

 危険な犬を子供に任せようという克己に、ウメはたしなめるように言う。

「それが、五作は大丈夫なんだよ。なんでかね。あの子は本当に動物に好かれるみたいだ。大きなカメ犬だって五作には尻尾を振ってたよ」

「まあ、不思議ですねえ。性分なんですかねえ」

「あれも才能の一つだと思うよ」

 トの一を起こさないように、そっと部屋を後にする。

 克己が靴を履いて寮を出たところで、大きなプードルを散歩させている幸造に目を留めた。畜舎の中にある犬用の運動場では、大きなプードルには不足と思ってのことだろう。手首に引き綱をぐるぐる巻きつけて、逃げられないようにしているものの、大きな犬は好きなように人間を引き回している。綱を離してしまったら捕まえるのに苦労しそうだ。

「五作に散歩をさせたらどうだい」

「あ」

 しゃ、ちょ、う、と息を切らせながら、なんとか犬を止めようとする。

「とん、で、もない、です。あんな、小さい、やつ、に。たいせ、つな、犬を、逃がし、ちま、ったら、大変、です」

「試してごらん。五作はその犬に好かれているから。ああ、会ったついでだ。あとで五作をわたしの部屋に寄越して、烈火を畜舎に戻すように言ってくれ。今は部屋で寝てる」

 後ろについてきていたウメにうなずいて、五作への伝言はもう終わったことを告げる。

「は、はい」

 と返事をしながら、幸造は犬に引きずられていく。伝言が届くまで少々かかりそうだ。

「あれだけ重いものを引いたら、犬にもさぞ運動になるだろう」

 どんどんと離れていく幸造を見ながら、克己は笑い、車に乗り込む。

「孝行君、いつもすまないね」

 滑らかな動きで、孝行が車を出す。

「電話線を引く話はどうなったんですか? そうしたらすぐに連絡が取れるし、もっと義兄さんも便利でしょうに」

「冗談じゃない。電話なんかあったら、しょっちゅう呼び出されるじゃないか。わたしはここで引きこもって研究していたいんだよ。連絡が取りにくくて結構」

「義兄さん…」


 畜舎内の物置きから大きな藁の束を抱え、前がよく見えないまま、五作は犬房へとよたよた歩いていた。と、後ろから突然ぶつかられ、吹っ飛ぶ。藁束が廊下を転がり、五作は壁に額をぶつけて倒れこんだ。

「おっと、悪い」

 ちっとも悪いと思っていない口調で幸造が言い、廊下に倒れた五作をにやにや見下ろす。

「社長の部屋にトの一がいるから、畜舎に戻しておけ」

「……はい」

 額が切れて、血が伝いだした五作に構わず、藁束を遠くに蹴とばして、さっさと犬房に向かう。

「けっ! 小さいからって甘やかされると思うなよ。役に立っているわけでもないくせに」

 忌々し気に吐きすてて。

 五作はその姿を見送って、のろのろと身を起こし、額の濡れた感触に手を当てた。今までの仕事場でも、殴られたり蹴られたりはあったし、五作は使用人の最底辺で、年上の者にあたられることはしょっちゅうだった。これくらいなんでもない。

 いただいた着物を汚さないよう、早く血を洗わなくては。……それから、ええと、トの一を畜舎に戻すって、ええと、だんなさまの部屋? また懐に入れたまま寮まで連れていったのだろうか。

 額をぶつけたせいでちょっとぼんやりするが、立ち上がって、まず血を洗い流しにいった。犬猫に与えるためや、畜舎の掃除に必要なので、近くの沢から管をつないで畜舎内に水を引いてある。冷たい水で洗うと、しゃっきりした気がする。それから寮の建物に向かった。

 五作が玄関で下駄を脱いでいると、食堂から出てきた彩乃が叫んだ。

「どうしたの!」

「……え?」

 持っていた縫い物を放り出して、彩乃が駆け寄った。

「額から血が!」

「あ……。まだ出てますか」

 冷たい水で血が止まったと思ったのだが。ずきずきといううずきはずっと感じているが、ぶつけたのだから痛いのは当たり前だ。痛いのを我慢するのなんて慣れっこだ。

「手当てをしなくちゃ! ウメさん! ウメさん!」

 呼ばれて、家事室から顔を出したウメも仰天する。

「まあ、大変! 彩乃、桶に水を入れておいで。ソデ、きれいな手拭いを出して」

「はい!」

 台所に走っていった彩乃のあと、家事室の中でソデがぱたぱた動き出す音がした。五作は玄関の板間に腰かけるよう言われ、ウメに傷を見てもらった。

「一体、どうしてこんな怪我を…」

「あのう、転んで、壁にぶつけて……」

 言っているあいだに、ソデが手拭いを持ってきて、続けて彩乃が桶の水をこぼさないよう慎重に歩いてきた。桶を置くと、今度は薬箱を取りに走る。ソデがぐらぐらする坊主頭を押さえ、ウメが濡らした手拭いで傷を拭いた。こんなに寄ってたかって世話を焼かれたことがないので、五作は恥ずかしさに赤くなった。

 水気をふき取ると、軟膏をつけ、裂いた手拭いで包帯をする。ウメのしわくちゃな手は乾いた紙みたいな感触だが、優しかった。

「完全に血が止まるまでしばらくじっとしてなさい。頭の怪我は血がたくさん出て怖いから。頭を上げたままでね。寄りかかるかい?」

 そろそろと五作を動かして、壁に寄りかからせる。

「ありがとうございます」

「仕事を言いつけられても、転ぶほどあせることはないんですよ」

「はい」

 彩乃が桶を片づけてから、濡れてしまった床を拭きだす。

「すみません、彩乃さん」

「彩乃、この子が動かないようしばらく見張ってなさい」

「はい」

 ウメとソデは家事室に戻っていき、彩乃は五作をじいっと見つめ、睨むような顔をしてから、

「動いちゃだめよ。ウメさんの言いつけだからね」

 拭き掃除を再開した。

「はい……。あのう、どのくらい…」

 軟膏のひんやりした感触が気持ちよくて、ちょっと痛みが和らいだ気がする。

「ウメさんがいいと言うまで」

「あのう、旦那さまの部屋から、トの一を畜舎に連れていくよういわれたんですが…」

「そうなの? 静かだから、寝てるんじゃないかしら。戸を閉めてあるし、勝手に出たりはしないでしょう。少し遅くなるくらい、いいんじゃない?」

「はい…」

 しばらくして、もう一度五作が「あのう」と声をかけると、彩乃はウメに訊きにいってくれた。ウメが様子を見て、もう動いてもよし、と許可をくれ、五作は立ち上がった。

「克己さんが部屋にあの荒くれ犬を置いていったけど、本当に五作は扱えるのかい? 噛まれやしないかい?」

 ウメは心配そうだ。

「はい、大丈夫です」

 五作の前に立ってウメが克己の部屋の戸をわずかに開け、

「おや」

 と、声を上げた。

「犬がいない」

「えっ?」

 卓と火鉢、ちょっとした棚があるだけの部屋に、犬が隠れそうな場所はない。慌ててウメが部屋に入り、奥の寝室に続く襖を開けたが、そこにもいない。

「逃げ出したんでしょうか?」

 五作が卓の下をのぞき込み、座布団をひっくり返してみたが、やはりいない。

「着物が…」

 ウメが青くなる。

「え?」

「着物を丸めた上に犬を寝かせてあったんですよ。その着物がなくなってる。どうしましょう、きっと着物ごと犬が盗まれたんだわ!」


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