三
フユワ サムイ ボクワ ビンボウ
ヨルワ クライ ボクワ ビンボウ
目覚めたときに腰が冷たかった。その理由がわかったときに、五作は呆然とした。
「うわっ! こいつ、おねしょしてやがる!」
杉平が叫び、同じ部屋で寝ている社員たち全員にすぐに知れてしまった。
十二歳にもなっておねしょなんて恥ずかしい。と思うと同時に、十二歳だと信じてもらえないかもしれないと思い、怖くなった。
十二歳じゃなかったら、ここでは働けない。村に戻される。そして、またひどい仕事場に奉公に出される。
五作は濡れた布団を外に干すと、着物を洗ってあげるから洗濯場に出しておきなさい、と言ってくれたソデに丁寧に断って、風呂で自分の体と着物を、冷たい水で洗った。
皆から遅れて朝食をかきこむと、いつもの掃除にかかった。黙々と。すっかり皆におねしょのことは知れていて、からかう者もいるので、恥ずかしくてたまらなくて、黙っているしかできなかった。
どうしよう、どうしよう…。
頭の中はずっとぐるぐるとしていた。
昨夜、翔太が教えてくれていたので、本田大尉と蒲生教授が来たときには、克己は顔をしかめつつも作業を中断して、畜舎を出た。社員寮の玄関前に、場所をとる自動車が停まっている。国産の軍用車で、大きく、不格好。音がうるさいのも不評で、改良が進められているのだが、まだうまくいっていない。
さすがに彼らに会うのにいつもの絣に半纏ではまずいので、洋服に着替えた。ああ、面倒くさい面倒くさい、とぶつぶつ言っている克己に、服を用意するウメが苦笑している。着物の懐に入っていたトの一も克己に劣らず不満そうで、脱ぎ捨てられた絣の中で小さく唸っている。
「すぐ戻るから、ここで寝てろ」
克己は絣を鳥の巣のように丸くして、真ん中にトの一を座らせた。ウメは呆れていた。
「やあ、久しぶりだ。最近、研究はどうだね?」
克己が客間に入ると、椅子に座ったままの、蒲生はにこやかに訊いた。先祖は代々典医だったそうで、四十手前、きちんとした背広姿で、言葉は穏やかだし、口元は笑みになっているが、丸い眼鏡越しの目は少しも笑っていない。外面は本当にいいのだ。だが、教授の後ろに立って、山高帽と杖を持たされている腰巾着の高橋を見向きもしない様子から、彼の冷淡な本性が知れる。椅子は六脚あるから、高橋だって座っていいのだ。
蒲生は愛想のよさで政府や軍の要職にある人間に取り入り、帝国大学教授の地位を得、軍の研究所の所長を兼任している。そもそもが、学生時代に教授に取り入り、独逸留学をしたのも愛想のよさのおかげだと言われている。他の優秀な学生を押しのけ留学し、他の優秀な教授を押しのけ所長に収まったのだと。口八丁でここまで来たと言う者もいるが、克己はそれだけではないだろうと思っていた。蒲生はよく勉強して知識が豊富だし、優秀だ。ただ、研究者として新しいものを創りだす能力はないのだ。
教育者として大学で教えていればいいものを。勘違いして、研究所長なんかになるから本田に締め上げられるんだ。
胸の内でつぶやく。
逆に克己は教授になどなれない。人に教えるなどできない。門前の小僧よろしく祖父のやっていることを見て覚え、書物で知識を増やしたので、感覚で覚えた自分の技術を、秩序立てて人に説明することができないのだ。
だから教育者の能力は尊敬する。教育者としてその道に邁進すれば、蒲生は優秀なのだ。
一方、本田は研究者として優秀な人間が欲しいのに、上役から蒲生をあてがわれて、成果を求められて、足掻いている。帝国大学の中からいい人材を見つけてくればよいものを、蒲生がずっと成果を出せずに居座るせいで、手っ取り早く成果を出そうと、手のり犬で成功した克己を引っ張り込もうとする。
高橋が蒲生の腰巾着になった当初は、本田は期待したようだ。克己より二つ三つ年上の高橋は、かつて美しい尾羽を持つ雄鶏を創り出して大人気になったことがある。学歴があるわけでないが、天性の才能があった。もっとも雄鶏の声のうるささに、すぐに飼うのを放棄した人が続出して、人気は一時のもので終わった。それでも、新しいものを創りだした実績があったのだ。研究費が十分あればまた新しいものを創りだせると、蒲生を頼ってきたのだが、雄鶏を創りだしたのは偶然だったのかと思えるほど、以後はこれといったものを何も創れずにいる。いや、犬や馬を大きくすることができないだけで、他のものなら創りだせるのかもしれない。だがそんな研究は蒲生の下にいる限りは無理だ。
一人だけ着物姿で、今では蒲生の下男のように扱われている高橋にも、克己は会釈した。
「こんにちは。蒲生教授、本田大尉、高橋さん。相変わらず犬や猫を小さくしています」
克己は表面上へりくだっている。軍の研究所などまったく興味がないし、関わりたくない。放っておいてほしいのだが、何度も何度も蒲生と本田は来る。軍を相手にして下手な対応はできない。橘商会は外貨を稼ぐことで政府の要人に好意的に扱われているが、それでも軍の力を無視することはできない。
「小さくできるなら、大きくもできるだろう」
本田は仏頂面で言う。
やせぎすで無駄な肉など一片もない。隙なく着こなした軍服は生まれたときから着ているようにぴったりと体に合っているが、実は本田は農民の出だ。
士族出身が多い軍の中で、平民から大尉になるには相当な努力と苦労があったはずだ。その上、研究所の担当にされ、成果を求められるのは士族たちのいじめに相違ない。これでなんの結果も出せなければつぶされるし、出したとしても手柄は蒲生のものになって、これ以上の出世は難しいだろう。
彼にとっては綱渡りの日々だということは克己にも理解できる。
だからといって、自分が犠牲にされるなんてとんでもない。真っ平ごめんだ。そして、自分だけでなく、大きくされた犬や馬も犠牲にされるのだ。まったくもって、真っ平ごめんだ。
「小さくするのと大きくするのとでは、全然違うんですよ」
あくまでへりくだった態度で克己は言う。
こんなやりとりは以前から続けている。相手の要求は同じだし、克己の返事も同じだ。それでも来るのは、克己が新たな研究を何かやっているのではと蒲生が探りたくてたまらないからだ。自分が、独逸留学までした自分が、できない遺伝子操作を、商人の子倅、尋常小学校に通っただけの克己がやっていないか、探らずにはいられない。もし克己が犬を大きくしたら、蒲生は発狂せんばかりになるだろう。
克己は犬を大きくすることに興味はない。でもやろうと思えばできるはずだ。あそこをああ、あれをああ、と漠然とわかってる。ただ、やれば軍に利用されるし、蒲生に今以上に目の敵にされる。だからやらない。そしてできないというふうを装う。できないなんて無能だ、と煽られても、ええ、お恥ずかしい限りで、と答えてみせる。商人の子なので、いらぬ矜持に振り回されない。利を優先する。祖父の研究室に入り浸っていた克己の耳を引っ張って連れ出し、店番をさせ、愛想を叩きこんだ祖母のおかげで、多少の世渡りはできる。
面倒くさい、面倒くさい相手だが、向こうが飽きるまでのらりくらりとかわすしかない。
ああ、さっさと研究に戻りたい、と思いながら克己は、商人の子らしい笑みを顔に貼りつけ、蒲生と本田のぐだぐだした言葉を聞き流していた。言い回しは違っても、ようはお前は犬や馬を大きくできるだろう、できないなどと言うな、黙って軍に協力しろ、ということだ。
外から自動車の近づいてくる音が聞こえた。社員寮の前に停まり、綾乃が応対に出ている声もした。まあ、奥さま、と言っているので、妻が来たのだと克己にも知れた。
妻ならこの面倒くさい相手を上手にあしらってくれる。克己は思ったが、なんでも妻に頼ってはいけないとも思った。研究馬鹿の自分を、今でもずいぶんと助けてくれているのだ。
そして、克己の部屋のほうから、トの一のぎゃんぎゃん吠える声がし始めた。体が小さいので、きゃんきゃんに近く聞こえるが、あれは威嚇している。セツが克己の部屋に行ったようだ。
セツさんに吠えるのは、本当にやめてほしい…。
蒲生と本田の前で表情を変えないようにしながら、心の中では冷や汗をかく。
可愛がっている犬だが、トの一がセツにも懐かないのは、克己も困っている。牝なので、悋気なのかもしれない。
すぐにセツが客間に飛び込んできた。
「部屋に犬を入れないでくださいとお願いしたじゃありませんか! …まあ、すみません、蒲生教授、本田大尉、高橋さん」
表の自動車を見て、綾乃に聞き、誰が来ているのかセツは当然知っているはずだ。夫に助け舟を出しに来てくれたのだ。
「こんにちは、奥さま。相変わらずお美しいですな」
蒲生は愛想を言い、本田は目礼で応えた。
「本当に申し訳ありません。犬に吠えられて、慌ててしまいました」
セツは子供を産んだことがないために、三十を過ぎても少女のような体を洋装で包み、いつもの魅力的な微笑みを浮かべた。髪はゆるく結って後頭部にまとめただけ。襟の高い上着と、腰の部分がふくらみ、くるぶしまで覆う長い洋装は紺色で、同色の刺繍がところどころにあるのみで、地味だが、着物姿が当たり前の女性たちの中で、洋装というだけでも、彼女は新しい時代の女性だということを表わしている。
美人というには杏仁型の目が強すぎる。克己にちらりと向けた目は、またこの人たちが困らせに来たんですね、と言っている。
「あの犬はあなたの言うことしか聞きません。畜舎に戻してください」
この人たちはわたくしに任せて、克己さんは研究にお戻りなさい。
「五作のいうことは聞く。五作を呼んでくれ」
いつもいつもセツさんに頼ってばかりなので、今回は自分でなんとかしようと思うんだ。
夫婦は視線だけで会話する。
「まあ、珍しいこと」
「そうなんだ」
「今度のお産のあと、あの犬をうちで飼うおつもりなら、その五作を専属の世話係にしてくださいな。わたくしには吠えるのですもの」
あら、わたくしの助けはいらなくて?
克己は降参した。
「…わかった。犬を畜舎にやってくるよ。蒲生教授、本田大尉、高橋さん、申し訳ないですが、ちょっと失礼いたします」
セツはにっこりした。
「蒲生教授、先日宮崎さまにお会いしましたのよ。教授をとても褒めていらっしゃいました。え? 宮崎さまをご存じない? 手広くお商売をなさっていて、あちこちの銀行に顔がきく方ですのよ。ええ、それで…」
克己が自室に下がるあいだも、セツはおべっか好きの蒲生を手玉に取り、本田は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
トの一を畜舎に戻し、克己が社員寮に取って返すと、蒲生たちは玄関で靴を履いていた。セツが相手ではどんどん話がそらされて、目的を達するのは無理、今日は撤退することにしたようだ。
嬉しそうな顔をしないように気をつけて、克己は二人にあいさつする。畜舎と行き来するだけだから、と靴下の足で下駄を履いているのを、本田に軽蔑するような目で見られたが、彼らが帰ってくれるなら、そんな視線はへっちゃらだった。
「ご、ご、ごめんください! な、菜っ葉を届けにきました!」
玄関に顔を出した少年が、大きな声で叫び、克己だけでなくその場にいた全員がびっくりした。
「…ええと、誰かな? 向こうに回ると勝手口があるから、そこで声をかけてくれる? 誰か応対に出るから」
克己は勝手口のあるほうを指さす。
「す、すみません。田中一平の次男です。父ちゃん、足をくじいて、持ってこれなくて、それで、代わりで…」
軍服姿の男にじろりと見られて、少年はおどおどした。八歳かそこらで、会社へのお使いは初めて、緊張してやってきたのに、怖い大人がいて怯えてしまったようだ。古びた絣の着物は丈が短く、足元は草履だ。大きな竹かごを背負っているが、自分が背負われているように見える。
「それは大変だね。一平さんに大事にするように言って」
「は、はい…」
少年の声が聞こえた綾乃が、台所から顔を出し、客たちの邪魔をしないよう、こっちに回って、としぐさで示す。ぺこりと頭を下げると、少年は大慌てで出ていった。
「なんとも粗野なことだ」
蒲生が気取ったふうで言う。本田が農民出身だと知らないはずがないから、遠回しに嫌味を言っているのだと克己は思った。だから自分は口をつぐんでいた。二人の仲が悪くても、自分には関係ない。二人で好きにやってくれていい。ただただ放っておいてほしいだけだ。
しかしそううまくはいかず、蒲生が、
「研究室を見せてもらえるかね?」
と言い出し、さっさと畜舎に向かった。
「すみませんがそれは…」
克己が慌てて追いかける。これにはさすがにセツも手を出しかねた。
「いいじゃないか、研究室が新しくなってから、一度も入れてもらってないんだから」
前の研究室のときは、あんたが断りもなく勝手に入ってきたんだろうが。
克己は心の内で毒づく。以前の研究室はその気になれば誰でも入れたからだ。
蒲生はなんでもないことのように言うが、それが失礼なことは承知のはずだ。蒲生が所長を務める研究所は、研究員と許可を取ったものしか入れないし、軍の研究所でなくても、入室できる人間が制限されるのはどこも同じだ。だが、蒲生は軍の研究所は特別に入室制限をしていて、自分も特別で、民間の研究所などどこでも入っていいのだというふりをする。そして、蒲生のこの態度のためもあって、橘商会は、畜舎を建て替えたときに玄関に警備員を置き、研究室を一番奥に作って、常時施錠するようにしたのだ。手のり犬や手のり猫を盗まれないためだけでなく、克己の研究内容も盗まれないようにする必要があった。今のところ小型の犬と猫では橘商会が最小で、独占状態だが、それがいつまでも続くとは限らない。他の会社も小さな動物を創り出して売るのに、技術を盗もうとするかもしれない。
普段は畜舎の玄関の間で椅子に座っている警備員だが、扉の横の格子がはまった硝子窓越し、外の様子を知って立ち上がった。曽根だ。
犬と猫の世話係が出入りするので、日中玄関は施錠していない。ずかずかと玄関に入り込んだ蒲生だが曽根が立ちふさがる。克己が蒲生の腕をつかんだ。
「蒲生教授、本当に困ります」
「いや橘君、新しい設備を入れたんだろう? それを見たいだけなんだ。一昨日欧羅巴から飛行船が着いたし、こちらにも何か来たんじゃないかい? 遺伝子操作の新しい技術なら見たいものだ」
欧羅巴から飛行船が着くたびに橘商会に荷物が来るとでも思っているのだろうか。克己は驚く。克己が新たな研究をして、成功して軍に取り入るとでも思っているのだろうか。軍の研究所所長の地位を奪われるとでも。
「カメ犬なら来ました。仏蘭西から来たプードルですよ。小さくできないか依頼されているんです」
「冗談を。わざわざ欧羅巴から犬を運んだっていうのかい? そんな話は誰も信じないよ」
「犬を持ち込んだのは仏蘭西人商人のドルブリューズ氏ですから、彼に確かめてください。なんなら犬を連れてきましょうか? すっごく、可愛いですよ。小さくできたら欧羅巴で爆発的に売れると思います。今より外貨獲得に貢献できます。政府は大喜びでしょうね」
やけ気味に克己は言った。
「蒲生教授、あまりみっともない真似をされるのはどうかと思う」
本田が低い声で割り込んだ。
「軍の研究所所長が民間の研究所に無理矢理押し入ったなどと、醜聞になるのは困る。まるで、軍の研究所が民間に劣っているので研究を盗もうとしたのかと思われる」
蒲生と本田は視線をぶつけた。やがて蒲生が目をそらして、曽根を見た。すっくと立ったまま、言葉を発することもなく、身じろぎもせず、しかし何かあれば対応に困ることはないという様子が見て取れる。
「…やあ、君は士族だね。立ち居振る舞いでわかるよ。身のこなしが美しいからね。本田君、軍にはこういう人間がいいと思わないかい? やっぱり士族が軍人になるのがいいと思うよ。君、君ならもっといい仕事があると思うよ。民間企業はいつ何があるかわからないからね。よし、名刺を渡しておこう。士族は高潔だから、信用できる」
不法侵入を非難されると、本田への嫌味にすりかえてしまう蒲生に、克己は呆れてしまった。
曽根は曽根で、高橋から教授の名刺を渡され、珍しく視線が泳いだ。こんなことをしてくる侵入者は初めてなので無理もない。ぐいぐいと押しつけられるように渡された名刺をやむなく受け取り、口元をへの字にしている。
「じゃあ、帰ろうか、本田君。うちの研究所では、小さなカメ犬なんか作るよりも大事な研究があるからね」
蒲生が妙に明るい口調で言い、くるっと身を翻した。
蒲生と本田が乗った自動車が走り去ると、克己はほっと息をついた。社員寮そばに停まっていた自社の自動車の運転手、セツの弟の孝行にお疲れさまと声をかける。孝行はセツが社員寮の建物に入るのを横目で見ると、克己の袖を引いた。
「義兄さん、今朝会社が開くなり、洋介さんとその母親が来たんですよ」
「えっ? 昨日洋介がここに来て、叱ったからかな? なんてことだ。セツさんに迷惑をかけたんだろう?」
「姉さんは義兄さんに言わないと思ったので…」
姉と同じ杏仁型の目をしているが、ずっと柔らかな印象だ。セツと同じで小柄なので、年齢よりも若く見えるが、結婚して二人の子持ちだ。
「うん、教えてくれてよかったよ。セツさんはわたしに心配をかけまいとするから」
「実は二人が居座って姉の仕事の邪魔をするので、僕が無理矢理姉を連れ出してここまで来たんです。でないと一日中でもねばりそうだったから。洋介さんを雇えって」
克己はため息ついた。
「どうしたら理解してくれるのかねえ? 洋介を会社に入れるつもりも、後を継がせるつもりもないって、何度も何度も言っているのに」
「僕が雇ってもらっているので、自分もって思うんでしょうか?」
「孝行君は自動車の運転ができるじゃないか。だから雇っているんだ。孝行君なら運転手が欲しいどこの会社だって雇うよ。洋介は遺伝子操作はできない、外国語もできない、自分の小遣いの管理すらできない、雇う理由がないよ」
「事務員の塚本さんを辞めさせて、洋介さんを雇えばいいと言っていましたよ」
孝行は困った顔で笑う。
「よくもそんな馬鹿なことを! 塚本さんは英語も経理もできるじゃないか。彼を辞めさせたら大変だ」
克己は頭をかきむしりながら考え込む。
「兄さんに義姉さんをなんとかしろと言っても、尻に敷かれているからなあ。どうしたものか」
世間では自分も妻の尻に敷かれていると言われているのを、わかっているのか、いないのか。
「父に相談してみよう。洋介を雇ってくれるようなところはないだろうが、働かせて性根を叩き直してくれるところはあるだろう。祖父は顔の広い人だったから、そのころの人脈を頼ろう。洋介は、家から、義姉さんから離したほうがいい」
克己はがっくりと肩を落としてしまった。
社員寮の自分の部屋に行くと、セツは文机に書類を広げていた。
「克己さん、場所を借りますね」
「うん。あのう、セツさん、義姉と洋介が会社に押しかけたんだって? 僕の身内が本当に申し訳ない」
セツは眉を上げる。
「孝行が話したんですね」
「うん。言ってくれてよかった。洋介がなんとかならないか父と相談するから。迷惑をかけて申し訳ない」
「はい。お願いします。あ、頼まれていた下駄と足袋を持ってきました」
セツは自分の傍らの風呂敷包みを開く。
「寸法が合っているか見てくださいね」
「五作のだね。ありがとう。僕にはわからないから、一緒に見てやってくれる? ちょっと待ってて」
克己はすぐに出ていってしまったので、セツはため息つく。せっかくここまで来たので、もう少し夫といたかったのだが。
しばらくすると戸の向こうから、失礼しますという声がして、五作が顔を出した。
「五作です。旦那さまにお部屋に伺うように言われました」
初めて会う克己の妻におどおどと、正座し、頭を下げる。彼女が副社長だということは綾乃に聞いて知っていた。綾乃は彼女を崇拝している。洋装姿で会社を経営する、新しい時代の、新しい女性なのだ。
「まあ、本当に小さいのね。十二歳の子のにしては小さいんじゃないかとお店の人が言っていたので、合うのか心配になってしまって。はい、下駄と足袋。今まで大人のお古なら、歩きにくかったでしょう」
「え…?」
自分のほうへ差し出された新品の、どう見ても新品の下駄と足袋に、目が釘づけになり、固まってしまった。
「履いてみて。寸法が合うかしら。駄目なら替えてもらうから」
「これを、僕…、いえ、わたしに?」
「ええ、克己さんに頼まれていたのだけれど、忙しくてなかなか持ってこられなかったの」
五作は下駄と足袋を見つめた。今までいろんなところに奉公に出されて、着物や草履のお古をもらうことはあっても大抵は使い古されていて、新品をもらったことなどなかった。寸法が合わなくても、もらえるだけで感謝するのが当たり前だった。
これをいただける価値が、権利が自分にあるだろうか。だって自分は十二歳じゃないかもしれない。それに…。
「あのう、わたしは今朝、おねしょをしてしまいました」
「…あらまあ」
セツはきょとんとした。
「申し訳ありません」
「お布団は干したの?」
「え? は、はい」
叱られると思っていたのに、意外なことを言われて、五作は戸惑った。
「着替えはあったのかしら。ウメさんに言った? すぐに洗ってもらったのかしら」
「え、ええと…。着替えは十分いただいています。それと、自分で洗いました」
「お家から離れてすぐだからかしらね。ウメさんに頼んで、腹掛けか腹巻きをもらいなさいな。甥はそれでおねしょが治ったから」
「は、はい。ありがとうございます」
「じゃ、足袋を履いてみて」
「は、はい…」
「セツさん、プードルだよ! 可愛いよ!」
克己が薄茶の小さなプードルを抱いて入ってきた。
「まあ、ほんとに可愛い!」
「昨日来たんだよ」
「ええ、ドルブリューズさんは事務所に寄って行かれたのだけれど、犬は木箱の中だったので、よく見えなかったんです。こんなに可愛いなんて」
犬を手渡され、にこにこしながら抱いている。
「この子を四、五寸にしたら、もっと可愛いよね。きっと仏蘭西で人気が出るよね」
「仏蘭西の方が欲しがるに決まってます。珈琲碗に入るくらいの小さい子になるんでしょう?」
「うん。そのくらいにするつもりだ。できると思う」
夫婦の会話の邪魔をするのははばかられて、五作は急いで足袋を履き、
「あの、丁度です。足袋と下駄をありがとうございました。仕事に戻ります」
早々に退出した。二人は五作が出て行ったことすら気づいていないように、仲睦まじく話をしていた。
セツは克己の部屋に泊まっていって、朝早くに事務所に出勤した。
五作が朝食のために食堂に行くと、彩乃がすごく嬉しそうに、
「奥様の着替えを手伝わせていただいたの。洋装って素敵ね。綺麗な貝の釦がたくさんついているの。洋装ってどうやって縫うのかしら。どこで縫い方を習えるのかしら」
と、味噌汁をよそいながら言った。
「これからは洋装の時代だもの。洋装の縫い方を覚えたら、きっと縫い物の仕事がたくさんもらえるわ。ああ、習いたい」
「お前みたいな小娘に洋装が似合うわけないだろ」
幸造が馬鹿にする。
「わたしが着るんじゃありません。縫い方を覚えたいんです」
綾乃はむっとしたが、幸造のからかいはいつものことだ。あとは黙って給仕をしていた。
五作は昨日見たセツの洋装姿を思い出して考えた。あんなのをどうやって縫うのか、体にぴったりしている部分と、膨らんでいる部分があって複雑だから、きっとすごく大変に違いない、でも綾乃は着物ならあっという間に縫ってしまうから、洋装の縫い方もすぐに覚えられるだろう。
新しいものを覚えようとする綾乃さんはすごい。
たった一歳年上なだけなのに、大人びていると思う。
そして、たった一歳ではなく、二学年上なのかも、と思って、五作は気持ちが暗くなった。うつむいて目に入った新品の足袋に、これをもらっていいのだろうかと自問した。