二
「どういうことだ! これで正しいはずだ! どうしてうまくいかないんだ!」
所長は対外的にはいたって温和だが、身内、下の者には容赦なく癇癪をぶつける。研究員たちは身を縮めて耐えるしかなかった。
「ちゃんと指示通りに操作したのか? 粗雑な作業をしたんじゃないのか! なんて役立たずなんだ!」
指示通りに正確に作業をした、だから指示が間違っていたのだ、という思いを腹の中に抱いたまま、研究員たちは叱責を聞いていた。今まで一度も指示が正しかったことがなかった。だからなんの成果も出せないんだ。なのにまた責任を負わされて、研究員がすげ替えられるのだろうか。替えられるべきは……。
「お前たちは全員役立たずだ! 役立たずだ!」
叱責は続いていた
洋介が帰ってすぐ、また呼び出された克己は不満たらたらだった。さすがにトの一は犬房に置いてきた。
「ここにいれば研究だけしてられると思ったのに」
畜舎に入れてもらえない綾乃は入り口で待っていて、研究室の鐘を鳴らしにきたのは曽根だった。克己がぶつくさ言っていても曽根は気にしない。さっさと自分の場所に戻る。
出てきた克己に、
「ドルブリューズさまとお嬢さまがお見えです」
と、綾乃が言う。曽根は誰が来ようと「客です」としか伝えてくれないのだ。
「フランソワが? じゃあ仕事の話だな」
社員寮の玄関先に仏蘭西製パナール・ルヴァッソール社の車が停まり、運転手が木箱をおろしていた。
「それはなんだい?」
訊きながら克己が覗き込むと、中にいたふわふわの犬が見返す。
「プードルだ。ふむ、フランソワの意図が読めたぞ」
「ぷーどるってなんですか? わあ、可愛い!」
綾乃が歓声を上げたので、
「ふむ、女子には、プードルは何とわからなくても好意を持たれるのだな」
克己はふむふむ頷いている。
「カメ犬だよ」
日本では西洋の犬はカメ犬と呼ばれている。
「可愛いですねえ。仏蘭西人と同じで、毛がくるくる巻いてます」
綾乃は撫でたそうにしてたが、客のものなので我慢していた。
「多分、フランソワはうちに置いていくつもりだよ。そうしたら綾乃も、抱っこだろうが、頬ずりだろうがしていいよ」
「はい!」
嬉しそうな綾乃に、そうか、女子はそんなにプードルが好きなのか、とつぶやきながら、克己は客間に入っていった。
「ボンジュール、カツミ! 相変わらず研究室にいるネ! 事務所に行ったらセツが困っていたヨ。たまにワ事務所にいなくちゃ」
フランソワ・ドルブリューズは緑茶を飲みながら、すっかりくつろいだ様子だ。日本生活が長いので、日本茶にも慣れている。ただ、苦い日本茶に砂糖を入れるので、綾乃が克己を呼びにいっているあいだに、ソデがちゃんと砂糖の容器を添えて出していた。濃い金髪に青い目、赤ら顔で、大きな体は日本では目立つことこの上ない。村の子供がフランソワを見て、「赤鬼だ!」と泣いたことがある。
娘のソフィーは長い金の巻き毛を肩にかけ、青と白の洋装姿、傍らに手のり犬を入れた籠を置いている。
「ぼんじゅーる、フランソワ、ソフィー。外の木箱に入った犬はなんだい?」
「カニッシュだよ。君たちワ、プードルって呼んでるけどネ。仏蘭西人にワ、カニッシュなんだヨ。昨日、飛行船で届いたんだ。スタンダードとトイ。あの子たちから手のりカニッシュを作ってネ」
日本語はかなり上手いが、仏蘭西人独特の発音のせいで、変わった方言のように聞こえる。
「フランソワ、わたしは今、蚕の研究をしていてね、色つきの糸を出させようとしてるんだ。染める必要がない絹っていいだろう? 虹みたいにたくさんの色を一度に出すようなやつ」
「ノンノンノン」
フランソワが指を振る。
「手のりカニッシュが売り出されたら、仏蘭西人ワ喜ぶよ。柴犬ワとてもカワイイけど、欧羅巴の犬も欲しいヨ。手のり犬を一番買っているのワ仏蘭西人だからネ。是非是非創っておしい」
フランソワは克己との付き合いが長く、その気にさせる方法を知っている。
「手のりカニッシュワきっとカワイイヨ。十五センチのふわふわ。うっとりするネ」
手に丸いものをのせる仕草のあと、片目をつむってみせる。
うーん、と克己は目をつむる。大きなプードルでも綾乃は可愛いと言ったのだ。十五糎になったら、どれだけ可愛いか。いや、できればもう少し小さくしたい。今の手のり犬は四寸あまり、響きが悪いので、五寸と称している。
「仏蘭西人ワ、トイの大きさまでしかできなかった。カツミワもっと小さくできるよネ」
……。
「わかった、やってみるよ」
「オーララ! カツミならできるに決まってるヨ!」
フランソワは笑う。してやられたようなものなのに、克己が嫌な気持ちにならないのは、プードルが可愛かったからだ。手のり犬になった姿を見たいと思った。
大人が会話しているあいだ、小さな淑女らしく黙っていたソフィーだが、
「小父さま、たくさんの色が一度に出てきた糸でドレスを作ったら、色が混ざってしまうのではなくて?」
父よりよほど正しい日本語の発音で訊いた。
「うん、ソフィー。服にすることなんて考えてないんだ。ただ、色がたくさん一度に出てきたら、面白そうだろ」
克己は悪戯っぽい顔で笑う。
「小父さまって」
ソフィーは十一歳の少女とは思えぬため息をついてみせた。
新しい雑巾を持って来いと、幸造に言われ、五作は畜舎を出た。曽根は畜舎の周囲を巡回に出ていて、玄関の警備は村上という男がしていた。村上は強面だが、芝居好きの愛想のいい男だ。食事のときに誰彼構わず芝居の話をするのだが、田舎暮らしの悲しさ、最後に見た芝居は正月で、かれこれ三か月同じ話なため、断り切れない五作以外には早々に逃げられている。それでも五作にとっては曽根よりもずっと気安い。
曽根が番をしているときでなければ、畜舎の出入りは何ということはない。睨まれて出て、また睨まれて入るのがたまらない。村上だったのでほっとして出てきたところで、
「あなた!」
突然呼び止められて、肩に力が入った。
目の前に、西洋人の少女がいる。五作は西洋人を見たのは初めてだった。髪が金色だ。目が青い。青と白の洋装は、襞の寄った飾り布がいっぱいついていて、着物と違い裾が広がり揺れている。そして手のり犬が入った籠を下げていた。
手のり犬が有名な橘商会だが、五作は実物を初めて見たのだ。小さい。ぽち犬よりさらに小さい。ほんの四、五寸ほど。張り子の玩具みたいなのに、三角の耳はちゃんと動いているし、鼻もぴくぴくして、黒い目が五作を見つめている。
なんて可愛いんだろう。
五作は何もかも忘れて、うっとりと見入った。外国のお金持ちが熱狂するものわかる。こんな可愛いものを欲しがらないわけがない。
「ちょっと! 聞いてるの!」
少女はどん! と地面を踏みつけた。
「は…、はい」
「アンノンを連れてきて」
「は?」
「聞こえたでしょ! ア、ン、ノ、ン! アンノンはわたしが好きなの。わたしが来たのに、会わずに帰ると、きっとがっかりするわ。永遠とも仲良しなのよ」
アンノン…。安穏、ヌの七のことだと気づくのにしばらくかかった。ヌの七は誰のことでも好きだから、この少女だけ特別ということはないだろう。
「あの、旦那さまのお許しなしに、犬を外に出せない規則なんです」
「日本人って!」
少女は大げさな身振りで悲嘆を表してみせた。
「あなたたち、規則以外の言葉を知らないの? 愛は? わたしの友人に会うのを禁止する理由なんてある?」
…編む、網ってなんだろう、どんな網目だろうと五作は考えた。そのあいだ無言で、少女をさらにいらだたせたようだ。
「なんてこと!」
……文殊はすごく賢いんだよな。
自分は賢くないので、この少女の言っていることがわからない。
「…すみませんが、お嬢さま、旦那さまにお話ししてください」
「もおおおおお!」
外国人だから、牛の鳴き声ではないんだろうな。五作が考えていると、少女は、ソフィーはくるっと踵を返した。
「小父さま! 小父さま!」
叫びながら、社員寮の前で木箱を開けていた克己やフランソワたちに走り寄る。
「小父さま! あの子ったら、わたしのアンノンに会わせてくれないのよ!」
「ソフィーのアンノンじゃないヨ。あの子ワ仕事をしているだけだ」
彼女の父親がたしなめる。
五作は玄関に近づいて、木箱の中から出てきたプードルに気づいた。
初めて見た自動車に仰天していたのに、大きな外国人にびくびくしていたのに、ふわふわの犬が目に入った途端、他のものは気にならなくなる。
日本犬とは明らかに違う、柴犬の内側の毛だけが全身にあるような、柔らかそうな毛並み。体の毛は短く、地肌が透けるくらいだが、頭と足の先、しっぽの先はぼんぼりのように丸くなっている。どうやったらこんなふうに部分的に毛が伸びるんだろう。西洋人は不思議なことをいっぱいするから、西洋の犬も不思議なのかもしれない。大きな二頭は白と灰色で、綾乃が抱きしめて顔をくっつけている小さいのは赤茶色、もう一頭の小さいのは淡い茶色をしている。
五作がじっと見つめていると、大きな白いのが近寄ろうとして引き綱を引いた。
「おや、大きいのが君に興味を持っているヨ、小さい人。尻尾を振ってる。わたしやソフィーにワ振らなかったのに。まあ、わたしたちも昨日初めて会ったんだけどネ。この子たちワ仏蘭西から届いたばかりなんだヨ」
フランソワは面白そうに微笑んでいる。
「君には初めて会ったネ」
「新しく入った五作だ。烈火がこの子には吠えないんだよ」
「あの、マダム火の玉が? それは珍しい!」
「ア、ン、ノ、ン!」
だん! と地面を踏む音が響き、犬たちがいっせいに少女を振り返った。
「わかったよ、ソフィー。五作、安穏を連れてきてくれ」
克己は警備係にも声をかけた。でないと五作だけで犬を外に出すことはできない。
「はい」
五作の動きにつられて、白い大きなプードルがついていこうとするが、引き綱のせいで立ち止まる。それを見て、克己が「ふむ」と頷いた。
「あの子ワ働いているのかい? 小さすぎやしないかい?」
「十二歳だよ。確かに日本人でも小柄だね」
「まあ、わたしより年上なの? 六歳くらいかと思ったわ」
「六歳は言い過ぎだよ」
「カツミ、仏蘭西ならあれくらいの六歳ワいるヨ。小さいから犬たちが警戒しないのかな?」
「烈火は子供にも吠えるよ」
「そうだネ。あのマダムワ、カツミ以外にワ吠えまくる。子犬が生まれたら、同じようになるのかネ?」
「安穏が授乳を手伝うし、大丈夫だよ。前の出産のときも別の穏やかな犬と一緒にしてたから、子犬たちは烈火ほど気が強くはならなかった。第一、烈火の遺伝子は使ってないからね」
遺伝子操作をした受精卵をぽち犬の子宮に着床させるので、産みのぽち犬と手のりの子犬は必ずしも遺伝的に親子ではない。そして二匹一組にして、半年毎順番に出産させることで、一度に十匹以上生まれる子犬の授乳をしている。一匹の母犬では乳首が足りないし、世話が行き届かないのだ。
五作がヌの七を抱き、小走りで戻ってきた。
「アンノン!」
ソフィーが奪い取るようにヌの七を抱きしめ、
「久しぶりね。元気だった? 永遠もつれてきたのよ」
大喜びで頬ずりする。
五作は自分以外に犬に当たり前に話しかける人間を見て、ほっとした。笑われるような変なことじゃないんだ。
近くに来た五作に、大きな白いプードルはふんふんと匂いを嗅ぎ、灰色のも同じようにする。
ふわふわの毛が手に触れ、舐められ、五作は嬉しさに顔がほころんだ。こんな大きな犬は初めてだが、ちっとも怖くない。可愛い。
「あなた、ゴサクっていうの?」
「は、はい」
「ゴサク、ゴサクね」
この少女に呼ばれると、自分の名前も違って聞こえると五作は思った。
「この白い子はね、タンペトドゥネージュ。灰色の子はオンブルドゥコトン。小さいのは…」
「は? は?」
「名前よ、名前! ここだとaの1とか記号で呼ばれるだけじゃないの。ちゃんと名前を考えてあげたんですからね」
「え…、あの…」
「ソフィー、その名前じゃうちのものは呼べないよ。日本語じゃなきゃ」
克己が苦笑する。
「まあ、小父さま。この子たちは仏蘭西生まれなのよ。仏蘭西語の名前じゃなきゃわからなくてよ」
「じゃ、たんぺとおんぶにしよう」
「小父さま! せめてネージュとオンブルにして!」
「わかったわかった、ねーじゅとおんぶるだね」
なんと呼ばれることになろうと犬たちは気にする様子はなく、白と灰色は五作の胸に頭をぐいぐい押しつけ、撫でろと催促していた。五作は夢見心地で二頭をかわるがわる撫でていたが、はっと気づく。
「綾乃さん、新しい雑巾はどこにありますか?」
早く持っていかなくては、幸造に怒られる。ヌの七を連れ出すのも、見咎められ、克己の言いつけなのだと説明して出てきたのだ。
「家事室にあります。ウメさんとお母さんがいるから、言えば出してくれます。わたしが取ってきます」
「いいえ。自分で…」
「いつまでもさぼっていられませんもの」
綾乃は名残惜しそうに小さなプードルをおろすと、社員寮に戻っていく。五作も続いた。
「わたしたちは犬を撫でて遊んでいられる身分じゃないんですものね」
珍しく綾乃が恨めしげな声で言う。
「あんなひらひらした服を着ていられるのも、しゃがんで床を拭かなくていいからですもの」
五作は何も言わなかった。もう自分はお金持ちをうらやむ気持ちを失ってしまったのだ。あきらめがついて。多分、気持ちの大半を失ってしまったのだ。そうしないと生きてこれなかったから。貧乏に生まれたら、そうするしかなかった。
風呂を焚くのは社員寮の下男として雇われている初老の男、幾郎だが、社員全員が入るあいだ、一人でずっと火を見ていることはできないので、五作と、猫担当の中で一番若い杉平が交代で手伝うことになっている。でも杉平はあれこれ理由をつけて、五作に押しつける。今日も五作が手伝いをしていて、薪を補充したり、釜に空気を送ったりしていた。
幾郎は年齢のせいで、力仕事は辛そうだ。布団干しは五作が手伝ったこともあって、「気の利く子やなあ」とほめてくれた。
風呂は一応克己が一番に入ることになっているのだが、研究に夢中でなかなか入りにこないことも多く、社員が仕事の終わったものから順番に入っているのが現状だった。今も克己は研究室にいて、社員が風呂を使っている。風呂焚きをしている幾郎や五作はみんなが入ったあとだが、それでも夕食の片づけをしてから、終い湯を使う綾乃たちに比べたらましだ。
足元にかすかな振動を感じたが、最初は気のせいだと思っていた。しかし、やがてどしんどしんという音も遠くからしてきた。
五作が周囲を見回す様子を見せて、ようやく幾郎も気づいたらしい。
「ああ、また機械鎧乗りのお人が来なすった」
「え? 機械鎧?」
話には聞いたことがあるが、見たことはないので、五作は余計にきょろきょろし始めた。
「旦那さまのお友達だよ。時々来なさる。音がうるさいから、まだ遠くにいなさるときからわかるよ」
「お友達なら、旦那さまを呼びにいったほうがいいでしょうか?」
「いやいや、こんだけうるさきゃ、旦那さまもお気づきになるさ。呼びにいくこたあない」
確かに、今やどしんどしんという音と同時に、足の下からの震えが伝わり、畜舎から犬と猫の叫び声があがっている。どこかで烏の群れが飛び立ち、ぎゃあぎゃあ騒ぎ始めた。これで気づかないはずがない。
「男の子は機械鎧を見ると喜ぶからなあ。五作もそうか。表に回って見ておいで。しばらく火はわしだけで見てられるから」
「えっ! え、あの…」
「いいから、いいから。見ておいで」
「は、はい。ありがとうごさいます」
五作は有り難く風呂の焚き口を離れ、社員寮の玄関側へ回った。
機械鎧は軍で使われている兵器で、金属製の人型に入り、人の力を増幅することで戦う。元々は独逸から入ってきた兵器だが、小柄な日本人でも操縦できるよう国産化が進められ、今ではほとんどが日本で作られているのだという。
機械鎧乗りは少年たちの憧れで、以前の奉公先の子供たちが錦絵を持っていた。五作はそれをちらりと目にしただけだが、一度でいいから実物を見たいと思っていた。
どんどん大きくなる音に期待が高まっていると、田舎道の向こうから、巨大な機械鎧が走ってきた。重々しい音から想像するより、びっくりするほど速い。それがあっという間に敷地内にやってきて、土ぼこりをあげながら止まった。
身の丈は十尺(約3メートル)ほど、幅はその半分くらいで、ずんぐりとした体は金属で作られ、関節が人間と同じように動く。実際、これは鎧で、防具でもあるし、金属の手足が武器にもなる。中の人間の動きが増幅されて伝わるため、乗る人間の技量が大事だ。背中に刀と銃を装着できる金具があるが、今はどちらも空っぽだ。
五作はあんぐりと口を開けて、機械鎧を見上げていた。今日一日だけで、一生分の珍しいものを見た気がする。その締めが、これだ。
機械鎧の前面がゆっくりと上がって、中の人が姿を現わし、
「ぼうや、口に虫が飛び込むぞ」
にやりとした。機械鎧を見て仰天する子供は見慣れているため、からかっているだけだ。やや角ばった武骨な顔をしている。
「…あ」
五作は慌てて口を押えた。
機械鎧から降りた男は大柄で日焼けして、克己よりいくつか年上だ。砂色の厚い綾織り布で作られた上下の軍服には、機械との摩擦や衝撃から守るために綿が入っているので、実際の体より膨らんで見える。しかしその分を差し引いても、機械鎧乗りが貧弱な体をしているはずがない。
「機械鎧を見るのは初めてか? 格好いいだろう。触るなよ。俺しか乗れないようになっているがな」
機械鎧の前面を閉じて首から下げた鍵をかけながら、愛想よく話しかけてくるのに、五作はこくこく頷くのが精一杯だった。
「初めて見る顔だな。おや、それは克己の昔の着物だな。少なくともあと十年くらいは育ってから着たほうがよさげな柄だが。うん? ここで働いているのか?」
五作は頷いた。
「ぼうやはいくつだ?」
「……十二歳です」
小さな声でやっと答える。
「十二歳? ほんとに?」
それにも頷くしかできない。
克己が畜舎から出てきた。苦笑いしながら、友人の機械鎧を指さす。
「やあ、翔太。どうして機械鎧でしか来ないんだ。騒音で村の鶏が卵を産まなくなるから、機械鎧を村に寄せないでくれって、村長に言われたぞ」
「教練場の隣りの鶏はよく卵を産むぞ。難癖をつけるなと村長に言え。ところで、なあ克己、こんな小さな子を働かせて大丈夫なのか?」
「? 五作は十二歳だよ」
「だが十歳にも見えないぞ。お前の揚げ足をとりたくて仕方ない人間もいるんだぞ。児童労働させているって訴えられたらどうするんだ? ただお前が困る様子を見たくて嫌がらせをするようなやつもいるんだ。危ない橋は渡らないほうがいい」
「参ったな。ほんとに十二歳なんだ。フランソワには六歳に見えるって言われたけど。仏蘭西人の感覚だし日本人とは違うんだが。でも、五作の村の世話役に十二歳だって言われたし。十二歳なんだよな、五作?」
五作は頷くしかない。もしかしたらまだ十二歳になっていないかもしれないなんて言えない。
「そうか…。ならいいんだが」
翔太は唸りながらもそれ以上は言わなかった。
「入っていくだろう? この時間だと夕飯は残っていないか。茶くらいは誰かにいれてもらおう」
仲がいいらしく、克己は翔太の肩に腕を回して、社員寮に促す。
残された五作はしばらくその場を動けなかった。
「機械鎧は格好よかっただろう? …どうした? うるさがられたか? あのお人は子供には優しいはずなんだが」
戻ってきた五作が喜んでいない様子に気づいた幾郎は心配そうになる。
五作はただ首を振った。機械鎧は格好よかったし、見られてよかった。
でも、自分はここにいてはいけないのかもしれない。旦那さまに迷惑がかかる。でも、ここは今までで一番いい仕事なのだ。
どうしよう。ここにいたい。でも、いてはいけないのかも。どうしよう。
克己が軽快に下駄を脱いで自室に上がり、加藤翔太は玄関で洋靴を脱いでいた。足首の上まである洋靴は、長い靴紐できっちり足に馴染むよう締めてあるので、脱ぐのにも履くのにも時間がかかる。
「まあ、翔太さん。もう少し早く来れば、夕飯に間に合ったのに。夕飯はまだでしょう?」
翔太の背中からウメが声をかけた。もちろんあの騒音では、会社中の人間は誰が来たのかわかっている。
「こんばんは、ウメさん。帰りに屋台で蕎麦でも食うよ」
ウメはため息つく。
「早く身を固めればいいのに。夕飯を作って待っている人がいれば、こんな時間にふらふらしなくなります」
いつものお説教だ。克己が部屋から顔だけを出してにやにやしている。翔太はそちらに目を向け、笑わないようにする。
「いやいや、俺みたいな機械鎧乗りは何があるかわからないから、嫁をもらわないほうがいいよ」
「まあ、翔太さん。そんなことを言うものではありませんよ。何かなんてありません」
だがウメはお説教をやめる。翔太はいつもこの調子なのだ。それに機械鎧乗りの妻になる女性が毎日夫を心配しながら暮らすというのを想像したら、結婚しろとウメも強く言えない。錦絵で勇敢さが誇張され、危険な仕事と思われ、娘を機械鎧乗りに嫁にやりたくない親がいるのも事実だ。
「残りごはんで握り飯を作ったのがありますから、それでよかったら食べてください」
「うん、ありがとう」
ウメは台所に向かった。握り飯だけでなく、何か見繕ってくれるに違いない。
克己はにやにやした顔のまま、
「同情をひいて、ウメさんから飯をせしめるのはよせ」
と、友人をからかった。
「いやいや、ウメさんは腹が減っている者には誰にでも飯を与える菩薩なのさ」
ウメは苦労人なので、空腹やその先のひもじさ、とはどういうことかよく理解しているのだ。
「それはそうだ」
克己も同意する。そもそも母の乳の出が悪かったために、近所に住んでいたウメの乳で育てられたのだ。病がちで稼ぎが安定しなかった夫のために、ウメが乳母をして家計を補った面はあるが、腹を空かせた赤ん坊を放っておけなかった性分も大きい。
だからウメが差配する社員寮の食事はたっぷり出る。給料は他の会社と大差ないが、食事だけは充実している。利益を上げるために社員寮の食費を抑える会社は多いが、克己はウメのためにも、それはしたくないし、経営を担当している妻のセツも克己の意を汲んでいる。幸いここは農村にあるので、近所の農家から安く食材を入れることができるため、さほどの負担にはならない。
ウメは握り飯と漬物、味噌玉を入れた椀と急須、湯飲みを克己の部屋に運んできて、火鉢に載っていた鉄瓶の湯を椀と急須に注いだ。味噌玉は、夜勤をする警備の人間が湯を注げば味噌汁を飲めるように作ったもので、鰹節と乾燥若芽が加えてある。
「ありがとう、ウメさん」
翔太は心をこめて言った。
ウメは急須から茶を注ぐと、
「あまり遅くならないようになさいませ」
と言って、下がった。二人が幼馴染みなので、遅くまで話し込むことも珍しくないのを知っているのだ。
「ウメさんに心配をかけないようにせねばな、翔太」
「うむ、俺が嫁をもらうより、お前が子を作るのがいいかもしれん」
「……」
どちらも無理な相談だと、双方理解している。
「ま、冷めないうちに食え」
「そうだな」
しばらく無言で握り飯をくらい、茶をすすった。
「軍がまたお前に依頼してくるぞ、克己」
「…またかよ」
「ああ。帝国大教授の蒲生に任せていた研究がまったく進んでいないんだ。例の、大型犬とか大型で長く走る馬とかを創るやつだよ。軍の研究所の成果が何もないんだ。担当の本田大尉が焦ってる」
独逸では大型化した犬を軍事用として使っているが、輸出はしていない。日本があっという間に機械鎧を国産化したのが一因だといわれている。機械技術だけでなく、遺伝子操作技術も日本に流出するのを恐れているのだ。遺伝子操作された動物を手に入れたからと言って、簡単に複製できるわけではないが、元々あった金属加工やからくり技術を生かして、機械鎧の複製、改良、増産を驚くほどの速さで成し遂げた日本を警戒しているのは確かだ。
日本軍は独自に動物大型化の研究を始めたが、今のところこれといった結果に結びついていない。
「蒲生教授は独逸留学で新しいことを学んで教授にはなったが、自分で何かを創り出す人間ではないんだ。教育者としてはいいが、研究者としては不適格だよ。自分を売り込むのは得手だから、研究所所長になったのだろうが」
「本田もそれは気づいている。教授を見限っているんだが、教授は軍の上部と懇意だからくびにできないんだ。教授の名前だけ残して、実質的な研究者としてお前を欲しがっている」
ふん、と克己。
「大きな馬とか、犬とか、役に立つものを創って何が面白いものか」
「そりゃ、創れる人間はそうだろうさ。創れない奴はそう思わない」
「役に立たないものを創るから粋なんだ」
克己の言葉に、翔太は笑みを浮かべる。
「お前のお祖父さんの受け売りだな。まあ、お祖父さんは実際、粋だったよな」
「うん。じいちゃんは今みたいに西洋の技術が入ってきてる時代にはすごいものを創ったろうと思うよ。同じ木に梅と桜と桃を咲かせたりとか、一枚ずつ花びらの色が違う菊とかさ」
「…結局、役には立たないものなんだな」
翔太は苦笑している。
「そもそも、大きくて一日中走る馬なんて創ったら大変だぞ。飼い葉がどれだけ必要か。干し草なんかじゃ足りない。麦や干しとうもろこしを大量に運ぶために、大きな荷役馬も必要になる。一日中馬に乗っていられるよう人間の尻を改良する羽目になるぞ」
「…やりたくないことをやらないための理屈はいくらでも思いつく奴だな」
「そういうことを考えつかない連中だから困るんだ。手のり犬なら可愛いですむが、大きな犬や馬を軍で使おうとしたら、兵站を一から考え直さなきゃいかん。大きな動物を創るのは、創ってからの用意がなくては」
渋い顔で克己が茶を飲む。
「なんとか断れよ、また本田大尉が来るぞ」
「断るとも。できない、の一点張りでな。創っても飢えるに決まっている、大型犬や馬が可哀想だからな」
「あいつらだけでなく、お前に嫉妬して、嫌がらせをしてくる奴もいるから気をつけろ」
「わかってる。前に湯本君を高給でつって引き抜こうとした会社があったよ」
「帝国大卒の秀才だものな。だが、彼はここでは遺伝子操作技師だし、お前の遺伝子操作技術が欲しかっただけで、技術を盗んだら、彼のことは、ぽいと捨てる心づもりだったんじゃないのか」
「うん、それは湯本君も想像がついていたから、鼻にもかけずに断ったと報告してくれた。彼は賢いからそのくらいお見通しだ」
「その上、彼はお前に心酔してるからなあ。克己といれば、新しいものを創りだすところを間近で見られて、知的探求心を満たされるのもあるんだろう」
「新しいものといえば、蚕からいっぺんにたくさんの色の糸を出そうと思ってるんだけど…」
「また役に立たないものを。赤なら赤、青なら青、で決まった色を出すならともかく」
翔太はげらげら笑いだした。
それから二人は幼馴染みならではの、たわいのない話のあれこれをして、急須の茶の色が出なくなるまで飲んでから、泊まっていけという克己に断って、翔太は機械鎧で走って兵舎に帰った。