第10話
<虹の背中10>
鳴海は、コートを手に持っていた美奈子の両方の二の腕を直接掴むように支えた。
「大丈夫?」
と言いながら、美奈子の柔らかい肌の感触と、鼻先を撫でていった髪の毛の甘い香りの余韻を楽しんでいた。
久しぶりの感覚だった。
「あ、はい」
美奈子はその出来事を特に意に介していない様子で、直ぐに元の位置に戻った。
エレベーターが1階ロビーに到着するなりコートを羽織り
「ごちそうさまでした」
と言って引き出物袋を鳴海から受け取ろうとする美奈子に、
「これから予定がなかったら食事でも行けへん?」
鳴海は勇気を振り絞って誘ってみた。
「服を早く友達に返さんといけないんですよ。実は、この衣装もアクセサリーも全部友達からの借り物なんです」
鳴海はあっさり断られて、仕方なくホテルのタクシー乗り場まで送っていく事にした。
「失礼します」
そう言って身を翻すと、美奈子は乗客待ちをしていたタクシーに乗り込んだ。
「あの・・・」
と言いかけた鳴海の声は発車音にかき消され、タクシーが御堂筋を南下して行くのを見送るしかなかった。
偶然の出会いに感謝しながらも、電話番号さえ訊けずラインの交換さえしなかった自分のふがいなさに失望し、今度いつ会えるか解らない美奈子への思いだけが膨らんでいった。
暫くそこにたたずんでいた鳴海は、思い直したように理髪店に電話した。
美奈子とお茶を飲んでいたため以前の予約がキャンセルになっていたにもかかわらず、15分後の予約が取れたので直ぐに向かう。
理髪店『カットギャラリーPlus1』は、日曜日だけあって混雑していた。
スタッフの若い女性達に、
「鳴海さん、最近おしゃれですね」
「三つボタンスーツがお似合いですよ」
などと言われても、普段はこの店で愛想の良い鳴海が生返事を繰り返していた。
また、顔剃りやマッサージでもいつもの癒しを感じきれず、虚しい時間だけが過ぎていった。
次の日鳴海が会社に出社すると、社内はリコールの話で持ち切りだった。
先週末会社のトップが記者会見を開いて、レコーダの不具合とリコールを発表したからだ。
不具合は電源部付近の温度が異常に高くなり、場合によっては火災の危険さえあるというもので、電源部冷却ファンの能力不足に起因していた。
不具合が発見されてから発表までにタイムラグがあったのがWEBサイトで告発された事で、TVのワイドショーなどでも大きく取り上げられ、
『メーカーとしての製造責任をどう考えているのか!』
と大いに批判を浴びる結果となっていた。
「課長、どないなるんでしょ?」
始業前に話しかけて来たのは、川北多美子だった。
鳴海より5~6歳年上の多美子は、若い頃は綺麗で仕事も出来たため鳴海が一時憧れた存在であった。
しかし、結婚して子供を生んだ頃から太りだし、今ではかなりの貫禄を備えて典型的な大阪のおばちゃんになっていた。
長い経験を生かして、課内の庶務全般を担っている女性だ。
「あたしとこのレコーダ、リコールの対象なんですよ。火事になったりしませんよねぇ?もう、心配で心配で・・・」
多美子は早口でこう言った。
「川北さん、電源さえ切っとけば火事になったりはせぇへんよ。でも、はよ直してもろたほうがええわ」
鳴海が言ってやると多美子は安心したのか、今度は給料の心配をし始めた。
「そんでも課長、会社の損害て凄い金額でしょう?もうすぐ冬のボーナスやのに減らされたらどないしょう。家のローン一杯残ってるし子供は進学やし、もうかなわんわぁ」
「そやねぇ」
鳴海はそれだけ答えるのが精一杯だった。