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失恋

作者: 白波静玖

読むと気分が落ち込むかもしれませんよ、大丈夫ですか?



あ、と声がこぼれる。手元から落ちる赤いガラス玉がころころと長い坂を落ちていく。どこまでも遠い青空を背景に、アスファルトを転がり落ちたガラス玉は、灰色の石塀にぶつかって音もなく砕けた。

少し離れたところにある残骸を私はじっと見つめる。太陽の光を浴びたそれは、とても綺麗で、鮮血よりも深く輝く色が怖いくらいだった。

冷たい風が私の長い髪をさらって揺らす。纏めてない黒い髪がノイズのように視界を遮る。

秋晴の空が眩しいころ、私はようやっと初恋の結末を見届けた。




私はその人がとても好きだった。その人も私をとても好いてくれた。私とその人は長い時間を共に過ごした。

その人は素直な人ではなく、あまり言葉や態度で好意を示すことはなかったけれど、隣にいるときに感じる空気やわずかな表情の変化は、心臓が痛くなるほどの好意を伝えてくれていた。

私もその人も決してお喋りな方ではなかったから、二人だけでいると互いが何かしている音しか聞こえないくらいだった。けれど、私はその時間がとても好きだった。うるさいのは嫌いだし、少ないからこそ、交わす言葉はとても尊いもののように感じられたからだ。

その人の澄んだ瞳の色が好きだった。ころころと感情を映す大きな黒さと、それを際立たせる青いくらいの白が鳥肌が立つほどに愛おしかった。ゲーム画面を映しているだけのそれをすぐ隣で見ているだけでもどうしようもなく、幸せだった。それに私が映されて、小さく細められると息が苦しくなるほど、私はその人の瞳に心を奪われていた。

その人の少しだけ低い声が好きだった。悪ぶっているときの声も、私の名前を呼ぶ声も、好きなものの話をしているときの声も、全部が少しずつ違っていて、その全部が宝物のように感じられた。

私はその人の全てが好きだった。傲慢なところも、わがままなところも、悪いところも素敵なところも含めて、その人の全てに恋をしていた。私の重い恋慕をその人は受け止めて、私をずっとずっとそばに置き続けた。

けれど、それは過去形だ。

その人はあるとき急に、私に無理だと告げた。いつものように、隣で目を覚ました私へもう無理だと、そばに置けないとそんなような言葉をその人は吐いた。心臓が潰れてしまうほどの衝撃だった。いっそ潰れられたらいいのにと真っ白な頭で思った。それは私の誕生日の翌朝で、なにより二人で婚姻届を書いた翌朝だった。

どうしてと泣いて縋っても、その人は無理だとしか言わなかった。それ以外の理由はもしかしたらなかったのかもしれないし、あったのかもしれないけれど、少なくても私には教えてくれなかった。いくつかの憶測はたてられても、それは私の言葉で、その人の言葉じゃない。

真っ白な私を時間は追い立てた。泣いてる暇はないと言うように、その朝を最後に私はその人を見ることを許されなかった。荷物のほとんどを残して、私は諸々の手続きの後に実家に引き戻された。梅雨が明けて晴れ晴れとした空が広がる初夏のことだ。

呆然としたままの私に残してきた荷物の一部が届けられるたび、心臓はあの朝と同じく痛んで悲鳴をあげた。それでも時間は流れていくばかりで、戻ることも止まることも許してはくれない。荷物は着々と実家にしまわれ、夏の暑さが苛烈になるころには溶け込んでしまっていた。

美味しいものを食べても、味なんてわからなかった。美味しいのだという事実だけは理解できて、その人に食べさせてあげたいなどと馬鹿げたことを考えた。燃えるように鮮やかな夕焼けを見ても、あの人と帰った道を思い出させるだけで、空いたままの右手の空虚さに息が止まった。どこへ行っても何を見ても何をしても、その人がそばにいないことを突きつけられるだけで、泣くこともできなかった。泣けるほど、現実を受け入れられなかった。

その人にとっては急ではなかったのだろうが、私にとってはあまりに急な別離だったから、ひたすら帰りたいと願うだけだった。願った場所に戻れることはもうないとわかっていても、実家こそが今の帰るところだと理解していても、そういった思考とは違うところで感情はくるくるから回った。

夏の盛り、最後の荷物が届いた。届けられた荷物は、それまでのものを含めても置いてきたもの全てではなかった。

けれど、割れ物だったり大きいものだったり散り散りになっているだろうゲームソフトだったりしたし、気にしないことにした。私が届けてほしいものなんて一つもなかったのもある。

これで終わりだとわかっていた。縁が切れるのを、私は死にたくなるような気持ちで見ていることしかできなかった。最後の荷物をしまったあと、初めて少し泣いた。頰を一筋涙が伝った程度で、汗よりも微量であったけれど。

忘れなくちゃいけないだろう、とじくじくと膿んでいる心に言い聞かせた。私はその人を大切に思っていた。とても好きだった。だから、その人の足を引っ張ることはしたくない。私はその人の影をずるずる引きずるのは火を見るより明らかだったけれど、その人はそうじゃないかもしれない。だったら足枷になんかなりたくない。その人には幸せになってほしいのだ。嘘偽りも強がりでもなんでもなく、その人には心穏やかに過ごしてほしいと願っている。

その人の隣に立てないことは悲しくても、不思議とその人の隣に誰かが立つことはそこまで苦ではなかった。むしろ早く立ってくれればいいのにとさえ思った。今まで、その人が幸せであることが、私にとって幸せだったからかもしれない。

私は一心不乱に忘れようと予定帳を埋めることにした。それでも空いた時間は眠って時計を進めた。恋を忘れるには時間を要するとどこかで聞いたことがあったのだ。どうせ進むことしかしないのだから、早く時間がこの心をどこかへ連れていってくれないかとぼんやりと思った。

その人のことが浮かんで、包丁を握れなかったり買い出しのたびに苦い顔をしたり、働き始めたりしているうちに、夏は終わって三寒四温の続く秋がやってきた。雪虫のいない秋は味気ない上に三寒四温どころか三寒四暑ではないかという温度差で、辟易した。


「あ」


乾いた音が聞こえて、私は声を出して振り返る。

音を立てた赤いガラス玉は彼が私に送った携帯電話のアクセサリーについていたものだ。ストラップの紐が引きちぎられるように切れていて、そこからコロコロと赤いガラス玉がこぼれ落ちていた。

坂を下り、加速するガラス玉。拾い上げたくて指先を伸ばしても、届かない。そのまま転がり、その終わりで砕け散る。

近付こうとは思わなかった。砕けたものは元には戻らない。たとえ、それを直したとしても、おなじかたちにはならない。そんなものはいらないのだ。

残骸を残して前に進む。その先にあの人はいないけれど、私は前に進むしかないのだ。




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