第二章 “紅き落胤(らくいん)” (1)
都のど真ん中である。
風雲落雷の渦中で、身に踊りかかってくる“異界”の猛者どもを、かきわけ踏みこしながら、目指す先の“台風の目”が、文字通り晴天の無風地帯であれば良いのだが、と、赤髪紅眼の美少年は片頬を歪ませた。
血気にはやる気鋭の陰陽師らにまぎれて、その使徒に成り下がった魑魅魍魎や、どこの馬の骨かも分からない妖怪たちが暴れている。
概して総勢百名あまりの陰陽使いがひとところに終結し、なりふり構わず力を解放すれば、天気も荒れるし、野次馬も沢山いらっしゃるのである。
渦巻く叫騒が猛りなのか呻きなのか、もはや周囲の敵、味方すら判別不能だが、かえりみれば自分には味方などなかったのだ、と、17歳の陰陽師は思う。
豪奢な桜吹雪は、漆黒の闇夜に命を散らして――
時は平安末期、晩春。
◆ 1 ◆
青年は、初めから大きな野望を抱いていたわけではなかった。
まだ自我も芽生えない頃から、陰陽道の過酷で非情な訓練をほどこされ、気付いた時には陰陽血族“日向”一門の宗家次代後継者の地位を約束されていた。
青年の名は、日向無双という。
「この世は、グズだ」
両手の指で歳を数えられる頃からそのような悟りがすでに根付いていたのは、幼稚な被害妄想からではなく、稀にみる鋭利な頭脳と、陰陽道という特殊な土壌にはぐくまれた心眼と、この世に生を受ける以前から彼の魂に刻まれていた心髄とでもいうべきものが、一同に会した結果だった。
「初代様の再来」と讃えられた嫡男は、当時、陰陽界の双璧だった安倍・賀茂の影に入り衰退しつつあった老大家にとって、輝かしい導師であり、近い将来宿敵を沈めて、日向一族の再興はもはや秒読みと思われた。
だが、一族の期待に“新星”は一切なびかず、常に色眼鏡で世界を見ていた。
無双の父親は、そんな嫡男を「大成する器の持ち主」と絶賛し、盲目なまでに溺愛したが、幼い息子は、肉親の愛情すら彼らの屈折したエゴでしかないと洞察していた。
かくして1158年、宗家の嫡男は平家一門の専属陰陽師として都へ迎えられたのであった。
13歳になって日も浅い出来事である。
それまで政界にのさばっていた王朝貴族というのは皆保守的で、固定観念を愛してやまない慎重派だった。
894年に貿易国との友好切符であった遣唐使が廃止されて以来、国はほぼ鎖国状態になってしまい、貴族たちの関心の矛先は、もっぱらくだらない権力闘争へと向いていた。
この頃、伊賀・伊勢を基盤に、かつての天皇家の血筋をくむ桓武平氏の一族が、度重なる武力的功労により、きわだつ興隆をみせていた。極めつけは、武士として史上初めて太政大臣の地位に 清盛は、決して武力だけで覇者の玉座を手に入れたのではない。まず、政治家に必須の処世術に長けていた。対立する天皇親政と院政の波間を巧みにに泳いでわたり、非常識な段跳び出世を成し遂げた。そして時代の先見性があった。朝廷が意固地になって門戸を閉ざすなか、勝手に宋国との対等貿易をおしすすめ、文化、金銭、両面において停滞していた国内に新風を吹きこんで活性化させた。
日向一族は宗家分家をあげて無双の昇進を祝福したが、当の出世頭は、自分より27回り年輪の厚い天下の枢軸を見上げて、「さしあたっての暇つぶしが見つかった」との感想が右から左へ通過したにすぎなかった。
陰陽師という職は、吉凶の判定や除災をおこなう術師のことである。
例えば無双は、公卿らが隠密に計画している清盛の闇討ちなどを占いあて、事の起こる前に陰陽術によって始末してやる。また、敵方に雇われた同業者から一門を守るのも仕事の一つだった。
だが、無双の食指を動かすような陰陽術をもって攻撃を仕掛けてくる相手は無に等しい。
今に始まったことでもなかったが、未来永劫と続くだろう空虚な日々は、日毎に、確実に、若い青年陰陽師を蝕んでいくのだった。
職業がら飽きるほど相手取ってきた、人間の欲あまたの粘着質な悪臭は、そういう要素を持ちあわせていないこの陰陽師にとって興味深く、また、嘲弄の対象でもあったが、それすら彼の好奇心を刺激できなくなると、20歳の無双に残ったものは、一生がかりでも使いきれないほどの莫大な褒賞金と、慢性的な倦怠感の支配のみであった。
そんな折、運命を大きく変える出来事はやってきた。
ある女との出逢い――
神々しいまでの完璧な美を備えた女だった。豊満な肉体と、氷のような容貌と、月光を浮かすような白い肌を輝かせ、挑発する妖艶な微笑みを放つ、そんな女だった。
一瞥のうちに無双は女がこの世のものではないことを悟ったが、魔物の類が身におびる禍々しい妖気は感じとれなかった。明らかに別格の、洗練された――
女の妖気は闇より深い黒色をしていた。
無双はその夜のうちに女と契りを交わした。そしてそれきり女は姿を現さなかった。
翌年、史上最年少にして日向宗家当主の座を世襲し、宗家の正妻には三人目の赤子を身篭らせていた。
二度目の逢瀬が訪れた時、闇をまとった天女は、かつての面影が見る影もないほどに枯れていた。匂うような玉肌は土色にやつれ、官能的な花唇は潤沢をうばわれ青紫にしなびて、両眼に浮かべた惑わす紅色の光彩までもが黒ずんでいた。
「“こっち”は、そなたにくれてやる」
枯声に怒りと嘲りをふくませて、わなわなと震える女の腕には生まれて間もない赤子が抱かれていた。
沈黙に立ちつくす父親の胸にわが子を強引に押しつけると、無条件に生命のほとんどを吸いやられた母親は、宙に身を投じ、その“真実の”姿を悠然と天空に示した後、卑屈な微笑みひとつ、半瞬にして直角に夜空を駆け昇って消えた。
肉親に放棄されたゆえの哀哭か、待ち受ける受難への恐怖であるのか――
ひたすら泣き叫ぶ男児の手をとり、物心ついて以来、初めて経験する感情の高揚に、新鮮な喜びと驚きを覚えた冷眼無口の敏腕陰陽師は、全生命を依存するただ無垢なかたまりに名前を付けてやることにした。
太陽が地に没する寸前に放つあの断末魔の色――
焔。