(6)
◆ 6 ◆
どのくらい経っただろうか。
目蓋を開けた先に、細い白月が浮かんでいた。辺りはどっぷりと暮れた宵闇に静まりかえり、断続的に虫の声が響いている。
「・・・?」
身体を起こすと、こめかみを鋭い痛みが通過した。今しがたの地獄絵図が思い起こされたが、それならここは、天の蓮池だろうか。
ぼんやりとしながら、夢遊病患者は足取りも危うげに水鏡をのぞきこんだ。映ったのは月と、げっそりとしたセーラー服の少女だった。
「確か、学校にいたはず・・・」
万希は記憶を反芻していたが、ふと、水面に映った自分の胸元が碧く光っているのに気付いた。思わず実物に目を向けると、幼なじみからのプレゼントがホタル石のように発光している。
そして再び顔を上げた先に、同じ光がちらついているのを見た。
水神池の対岸へ歩みを進める。光に近づくにつれ、夜目も利くようになってきた。
万希は突然立ち止まった――その光が人間の五指の中にあることを見定めたからである。薄闇に浮かびあがったその身体が、生きた者のものなのか否か、判然としない。
さらに近寄り、死人のような青い顔を見た後、視線を動かして、万希の瞳の奥は氷結した。
着衣のはだけた上半身はケロイド状に焼けただれ、その身体は色の分からない水に浸っている。
「血・・・?」
万希はしゃがみ込み、震える指先で液体に触れた。ぬめっとした生々しい感触があり、一気に背中を悪寒が走る。脳裏を生と死の二文字が、走馬灯のように駆け巡った。くじけそうになりながら、気持ちに喝を入れ、少年の胸に耳を当てた。
そこでは――かすかではあるが生命の律動が、しかし死へのカウントを刻むように、弱々しい音を立てていた。
少年の行く末を決定づけるのは、自分の次の行動だろう――
万希の心臓は早鐘を打った。選択の余地などない。一刻も早く、救命病棟へかつぎこむべき相手だ・・・
その時である。
少年の瞳がわずかに開いたのだ。
万希と彼は至近距離で相対している。しかし、重傷人の視線は万希を通りこして、虚空のあらぬかたを泳いでいる。
「はは・・・」
繊細な口元が非対称に歪んだ。
「こんな所まで・・・追ってきたのか?」
目前の少女を認識している様子ではない。自身の幻覚のなかで朦朧としているようである。
命を絞るような挙作で上半身をゆっくりと起こし、自らの血溜まりの中に震える片腕をついた。
「殺すなら早・・・く・・・ゴホッ」
「う、動かないで!」
たまらず、万希は両腕で少年を支えた。
そのまま、沈黙が流れた。少年の焦点は虚空の一点に静止したままだ。そうして不意に、虚ろな瞳の片方から一滴の輝くものが滑ったのを、万希は息をのんで見ていた。
やがて彼の瞳は閉じ、万希の両腕にはどっと重力がのしかかった。
「しっかりして!!」
激しく揺すったが、今度は完全に少年は人形と化していた。目を見開いたまま呼吸を忘れた少女の前で、少年の頬の透明な痕跡は乾いていく。
地面に転がった血まみれの腕を万希は手に取った。汚れた掌から、光も薄れはてた碧の水晶が滑り落ちた。
脈はなかった。
17歳の少女は、初めて人を看取った。
悲しい、という気持ちはなかった。素性も知れぬ謎の負傷者が、さだめのままに命を今、終えたところ。
それだけであるはずなのに、気が付けば、万希はとめどなく涙を流して、役目を終えたぬけがらを抱きしめていた。
無意識下で、目の前の少年がもう二度と帰らないことと、灰髪の幼なじみが連絡を絶ったこととが、なぜかリンクしていた。
「戻ってきて・・・」
万希は少年をきつく抱いた。
――――
ドクン
かすかな心音が、万希の鼓膜を震わせた。
もう一度・・・
ドクン
身体を離し、骸をかえりみると、神とも妖精ともつかぬ光の粉雪が少年を包み、ちらちらと輝きながらヴェールを成している。
理由などなしに、二人を包む光は絶対的な幸福であり、その無条件な愛は遠い母の記憶に近かった。そして不思議な光は、万希の心をも温めていく。
少年の鼓動は次第に規則正しいリズムを刻みはじめ、凍りついた口元には温かな吐息が戻ってきた。
季節はずれの夜桜が、風に吹かれてはらはらと舞っている。
少年を背負うと、万希は、幻想の宵の中を半ば夢見心地で去るのだった。