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    (5)

    ◆ 5 ◆



 目覚めると、見慣れた自室の風景があった。


 今しがたの出来事は何だったのかと、遠のいていく記憶の手綱(たずな)を夢中でたぐり寄せたが、間に合わなかった。それが現実か悪夢かどうかすら、もはや分からなかった。


「気がついたのね」


 穏やかな声とともに、深い薄茶色の瞳にのぞきこまれて、万希は数秒の間ぼんやりと停止していた。


「お母さん・・・どうして」


「昨晩から、ずっと気を失ってたのよ」


「きのう・・・」


 脳裏に霧がかかっている。


「万希さん、水神池が大変なのよ」


 母の静かな声に動揺があった。


 ようやく顕在意識が定着しはじめ、昨夜着た衣装のまま外へ出る。

 記憶の隙間を縫い合わせようと、細かく“その後”の一部始終を聞くうちに、水神池に到着した。

 ・・・やいなや、それ、は指摘される間もなく視界を鮮烈に染めあげた。


 息の止まるような、ピンク。



「うそ・・・」


 万希は絶句した。


「今朝来てみたらこれよ」


 母は魂の抜けたように言った。


「こんなことは神社始まって以来・・・」


 照りつける真夏の日差しと、蝉の合唱と、一面のピンクの眺望は、はなはだしく不調和だった。春を迎えてさえ、花付きも寂しい桜林が、池をぐるりと囲んで盛観なまでの咲きようである。否、もはや咲いたというより、爆発したという表現が近い。


 末恐ろしく思う――


 同じく棒立ちの社人達から、虚ろな呟きがこぼれた。



 中断された水神祭は急遽延期された。

 そして、にわかに周囲が騒がしくなったのは翌日からである。


 セーラー服に通学バッグを引っかけた万希が、課外授業のため玄関を出た途端、炸裂するシャッターの嵐が一斉に襲いかかった。

 境内は報道陣でごった返していた。話しかけてくる記者をするりとやり過ごし、逃げ際にかえりみた全体像のその奥で、なお悠然と風に揺れる優美な淡紅色に、万希は閉口した。


「ありえない」


 参道を駆けおりて鳥居をくぐると、万希は脱力した。路地に出で、相変わらず動かされた形跡のない幼なじみのおんぼろ自転車を横目に、さらなる脱力感がのしかかる。無言でそれを引きずり出すと、乗り慣れない運転席に腰かけて、もう一人の主は海へ向かって下り坂を発進した。


 万希の通う共学の公立高校は、県道をはさんで漁港の反対側に建っている。


「叉倉はまたサボりか」


 担任“メガネ”は教壇から明らかに万希を見ていたが、少女がペン回しをしながら「さあ」と言うよりも早く、出席簿に斜線を引いたのは、ためらいがなかった。


「なんでもいいから、電話一本は入れろと言っといてくれ」


 ――このじいさんは、自分を叉倉高巳の恋人とでも思っているのだろうか、と、万希はうんざりした。恋人であれば、電話は繋がらない、メールは返ってこない時点で、授業になど出られた精神状態ではないと言いたかった。


 その時間中、黒板から最も遠い女子生徒は、輝く海を眺めながら、机に頬をあずけてほとんど死んでいた。



 ――いつの間にか眠っていた。

 そして、またあの夢を見た。


 降りそそぐ黒い炎に、焼きつくされる純白の花園。薄紅色の天空を踊り狂う、真紅の瞳の守護神。


「核宝珠は必ず私が――」





――――



 突然身体が受動的に揺れはじめたのは、授業開始から半刻が経過した頃だった。体感震度でおよそ2、3と見当がついたが、クラスの動揺はほとんどない。皆ひそひそと囁き合っただけで、地震大国とは半世紀の付き合いである白髪五割の史学教員は、淡々と板書を続行する。


「やけに長いな」


 秒針が一周したあたりで、不意に誰かが呟いた。


 その時である。


 せきを切ったように、凄まじい不協和音が万希の鼓膜を襲った。


「・・・ッ!」


 激しい耳鳴りだ。

 たまらず悲鳴を上げた最後列の女子生徒に、クラスの視線が一気に集中する。


「月城?どうした」


 担任の声が遠のいて聞こえる。


「す・・・いません」


 頭を抱えこんで、万希はふらりと立ち上がった。反動で椅子が倒れ、派手な音が鳴った。


「ちょっと・・・保健室に」


 皆の視線を振り切り、万希はよろよろと教室を出た。

 全身に鳥肌が立っている。自分の手足の温度が分からない。強い吐き気で足速にトイレへ駆けこむと、万希はただちに二足の自由を失った。


 正面から、黒い煙のようなものが這いずってきたのである。


「きゃあ!」


 再び廊下へ出ると、段飛ばしに階段を駆け降り、保健室へ続く一階の渡り廊下へ折れた。そうして、またしても異形のそれに対面した。壁に、天井に、黒い煙はじわじわと手を伸ばし、向かう先に闇が生成されていく。


「な、何よこれ!」


 よく観察すると、それはさらに無数の黒いふし穴を含有しており、直感的にそれは眼球であると分かった。二つが対を成しており、集団化して蜂の巣状に見えるのだ。

 もはや、真偽うんぬんの話ではない。


 正気の沙汰じゃない――


 霞んでいく意識のなか、万希は思った。

 理性のわずかな生き残りが、早く逃げろと金切り声をあげていた。



 解凍した足が独立した意志をえて、転がるように走りだした。本人のコントロールはすでに機能していない。その間も、得体の知れない黒い侵入者は、窓という窓からでたらめに流れこみ、少女を上へ上へと追いやっていく。


 屋上の扉を開けるしかなかったのは、結果だった。


 しかし、万希はすぐに逃走の無意味を理解した。

 “おおもと”は外の世界にいたのだから・・・

 四階建ての校舎はすでに、うごめく闇の中に飲みこまれていたのである。


 侵入者は――否、侵入者の群れは、落下防止のフェンスを乗り越えて、四方から彼らの“仕上げ”にかかっていた。

 扉に張りついたまま、万希はようやく自分が狙われていると自覚した。


「ソレヲワタセ」


 地を這うような声がした。


「ソレ、欲シイ・・・」


 物理的に発された声ではない、と分かった。少なくとも、鼓膜を経由した声ではないと。

 万希はドアノブを片手に握りしめ、わずかに身を乗りだし、黒いふし穴の群れを改めて注視した。心霊現象とはまるで縁がなかった半生だが、確信めいた答えが芽生えた。もちろん、原始的な感覚の助けによって。


 “彼ら”は、死人だ。



 ならば、なぜ自分が狙われるのか――?


 冷静さを失った万希は、思考を巡らすことができずにいた。迫り来る闇の手は、自分の持つ何かを欲している。しかし、皆目(かいもく)見当がつかない。


「ヒカリ、欲シイ・・・」


「光?」


 体感できるのはその冷たさだけの、感触のない黒い腕が無数に伸びてきて、万希の下半身をとりまいた。


「いやあああああ!」


 誰一人助けは現れない。これまでの命かもしれない、と、誕生日が明けて間もないセブンティーンはあえいだ。今や彼女の身体はどっぷりと闇の渦中(かちゅう)にあり、極度の悪寒が五臓六腑(ごぞうろっぷ)を這いまわるのを許すしかなかった。


「助けて・・・」


 不謹慎(ふきんしん)にも、こんな時に浮かんだのは幼なじみの笑顔だった。

 万希の手は、無意識に胸元の碧い水晶を握っている。


「高巳・・・」


 遠ざかる意識のなかで、気のせいだろうか――あたりが青く輝く幻覚を見ていた。


 そうして、ついに回避不可能の、黒い執念の餌食(えじき)になるはずだった。


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