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今年還暦を迎えた万希の養母、月城咲子は、かつて日本の花柳界きっての花形芸妓としてその名をはせ、月城家に嫁いで引退してからも、度々出張して若手の育成に熱をそそぐパワフルな女性である。
この母の愛の貯蔵量といったら、中東の石油資源も匹敵できない枯渇知らずで、おかげで一応は健全な人格と、血色の良い頬、生気さんさんと輝く瞳を持ちえた一人娘なのだった。
「今晩は快晴ですって」
キッチンに立つ母の声が踊っている。
「時の経つのは早いこと。万希さんが鎮魂の舞を踊る日が来るなんて」
なぜか娘に“さん”付けするのは、この里親の癖だ。
「はいはい」
もごもごと万希は遮った。
出陣を控えた巫女の御前にはバナナが一房置かれている。大事な舞台の前の“本番前バナナ法”で、運動に必要なエネルギーと、頭脳に必要な糖質とを即座に補充する。
「私が踊ったのが、まるで昨日のことのようだわあ、って、ここ一週間で何回言ってるか分かってる?23回」
「あら、嫌な趣味。そんなのを勘定してたの」
「今言ったから、24回」
「あと少し・・・あの人が頑張ってくれればね」
妻より上に一回り年齢差があった養父は、寿命を全うして早五年になる。
「三途の川、逆走してでも見にくると思うよ、あの父は」
「娘の一世一代の晴れ舞台ですからね」
「一世一代の大惨事になったりして」
万希はバナナの皮を部屋の片隅のごみ箱にシュートし、元No.1芸妓のお叱りを受けた後、舞台装束を一式抱えて境内へ出た。
ほの暗い夕闇が漂う中、星の輝きはじめた紺碧の空へ向け、神聖な御焚火の炎は光の花弁を豪然と吹きあげる。
境内を囲って数百のロウソクに火がともり、山の霊気と祭典の緊張感とで神妙な夜気である。
拝殿の後方に、水神池を背にして設置された檜舞台は、白地に金の刺繍を配した幕がめぐらされ、清めの儀式が行われている。
まもなく太鼓とホラ貝が鳴り、拝殿から紙覆面をした社人がすり足で出てきた。
人込みに視線を迷わせて、万希は探していた。いるはずのない、灰髪の幼なじみをである。
社務所で踊り子として作りこまれていく間も、鏡を眺めながら心は落ち着かない。
白の小袖に緋の袴、加えて頭には金の花天冠が添えられる。髪の長さを足すために義髪が付けられ、肩のあたりで一つに結び、残った腰下までの部分は等間隔に水引で束ねられていく。顔に白粉が落とされ、目元には薄紅、口唇には真紅がのせられた。
「万希さん、鈴を」
差し出されて、ようやく意識に焦点が戻る。
神楽笛が一切の雑音を取り去り、舞台を囲んで水を張ったような静けさが薄闇を支配した。
滑るような足つきで舞台へ向かいながら、万希はようやく自分の本心に気付いていた。
――私は、不安なんだ。
この舞台の下に、高巳がいないこと。
初めて行き先を告げてくれなかったこと。
馬鹿みたいに、なぜかとても恐い・・・。
――シャラーン・・・
高く、低く、しなやかに、しなやかに――
炎のゆらめく幻想の中で、踊り子は神に操られる蝶である。
流れる笛の旋律は、聴覚より深いところに染み渡って、万希を呼び醒ますのだった。
あらかじめ自分の魂と共鳴するように、作られた曲――
・・・なぜかそう思えた。
――その宵、天は確かに宇宙を透かしていた。
碧く暗い美しさで、地上の者たちを無限の深淵へ吸いこもうと、沈々たる色香で誘っていた。
しかし、厳かな神宴には異変が起きていた。
水神池の真上で煌々と輝いていた満月が、にわかに沸きたった雲海に飲みこまれたのである。雲は全天からさざ波の立つように集結し、まもなく完全に星々のきらめきを覆い隠して、やがて緩やかに渦を巻きはじめた。
会場がざわめく。
しかし踊り子だけが音楽の止んだのにも気付くことなく、ひたすら舞い続けている。
「なんだこれは!」
「・・・まるで竜神が覚醒したようだ」
周囲の叫喚も、舞台上の少女には定かでなかった。
誰もが茫然自失として天空を仰ぐなか、風も無いのに鎮守の森がざわざわと揺れ、地面がごうごうと音を立てはじめた。
――その時突然、水神池からまばゆい光が上がった。
ようやく現実に戻された万希は、前方の光景を目にするやいなや、蒼白な顔でふらふらと崩れ落ちた。
水底から池全体を焼失させるほどの強い光である。
「見ろ!何か上がってくる!」
背後から飛んだ金切り声が、辛うじて万希の意識にふれた。
球状の発光体が、水面に陣風を巻き上げながら浮上してくる。掌ほどの大きさで実体がない。
一層強い光が四方の景色を消し去り、あまりの眩しさに誰もが目蓋を覆うなか、若い踊り子だけが凝然と動かず、漆黒の瞳に恐怖をみなぎらせていた。
――彼女の内で眠り続けてきた膨大な無意識が、その光を知っていた。
刹那に万希の視界は真っ白になり、三半器官が悲鳴をあげた。心臓が動転し、一気に何もかもが消失した。