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    ◆ 3 ◆



 今年還暦を迎えた万希の養母、月城咲子は、かつて日本の花柳界きっての花形芸妓としてその名をはせ、月城家に嫁いで引退してからも、度々出張して若手の育成に熱をそそぐパワフルな女性である。


 この母の愛の貯蔵量といったら、中東の石油資源も匹敵できない枯渇知らずで、おかげで一応は健全な人格と、血色の良い頬、生気さんさんと輝く瞳を持ちえた一人娘なのだった。



「今晩は快晴ですって」


 キッチンに立つ母の声が踊っている。


「時の経つのは早いこと。万希さんが鎮魂の舞を踊る日が来るなんて」


 なぜか娘に“さん”付けするのは、この里親の癖だ。


「はいはい」


 もごもごと万希は遮った。

 出陣を控えた巫女の御前にはバナナが一房置かれている。大事な舞台の前の“本番前バナナ法”で、運動に必要なエネルギーと、頭脳に必要な糖質とを即座に補充する。


「私が踊ったのが、まるで昨日のことのようだわあ、って、ここ一週間で何回言ってるか分かってる?23回」


「あら、嫌な趣味。そんなのを勘定してたの」


「今言ったから、24回」


「あと少し・・・あの人が頑張ってくれればね」


 妻より上に一回り年齢差があった養父は、寿命を全うして早五年になる。


「三途の川、逆走してでも見にくると思うよ、あの父は」


「娘の一世一代の晴れ舞台ですからね」


「一世一代の大惨事になったりして」


 万希はバナナの皮を部屋の片隅のごみ箱にシュートし、元No.1芸妓のお叱りを受けた後、舞台装束を一式抱えて境内へ出た。



 ほの暗い夕闇が漂う中、星の輝きはじめた紺碧の空へ向け、神聖な御焚火の炎は光の花弁を豪然と吹きあげる。

 境内を囲って数百のロウソクに火がともり、山の霊気と祭典の緊張感とで神妙な夜気である。


 拝殿の後方に、水神池を背にして設置された(ひのき)舞台は、白地に金の刺繍を配した幕がめぐらされ、清めの儀式が行われている。

 まもなく太鼓とホラ貝が鳴り、拝殿から紙覆面をした社人がすり足で出てきた。


 人込みに視線を迷わせて、万希は探していた。いるはずのない、灰髪の幼なじみをである。

 社務所で踊り子として作りこまれていく間も、鏡を眺めながら心は落ち着かない。


 白の小袖に緋の(はかま)、加えて頭には金の花天冠(はなてんかん)が添えられる。髪の長さを足すために義髪(ぎはつ)が付けられ、肩のあたりで一つに結び、残った腰下までの部分は等間隔に水引(みずひき)で束ねられていく。顔に白粉が落とされ、目元には薄紅、口唇には真紅がのせられた。


「万希さん、鈴を」


 差し出されて、ようやく意識に焦点が戻る。



 神楽笛が一切の雑音を取り去り、舞台を囲んで水を張ったような静けさが薄闇を支配した。


 滑るような足つきで舞台へ向かいながら、万希はようやく自分の本心に気付いていた。


 ――私は、不安なんだ。


 この舞台の下に、高巳がいないこと。


 初めて行き先を告げてくれなかったこと。


 馬鹿みたいに、なぜかとても恐い・・・。




 ――シャラーン・・・


 高く、低く、しなやかに、しなやかに――


 炎のゆらめく幻想の中で、踊り子は神に操られる蝶である。

 流れる笛の旋律は、聴覚より深いところに染み渡って、万希を呼び醒ますのだった。


 あらかじめ自分の魂と共鳴するように、作られた曲――


 ・・・なぜかそう思えた。


 ――その宵、天は確かに宇宙を透かしていた。

 (あお)く暗い美しさで、地上の者たちを無限の深淵(しんえん)へ吸いこもうと、沈々たる色香で誘っていた。


 しかし、厳かな神宴には異変が起きていた。



 水神池の真上で煌々と輝いていた満月が、にわかに沸きたった雲海に飲みこまれたのである。雲は全天からさざ波の立つように集結し、まもなく完全に星々のきらめきを覆い隠して、やがて緩やかに渦を巻きはじめた。


 会場がざわめく。


 しかし踊り子だけが音楽の止んだのにも気付くことなく、ひたすら舞い続けている。


「なんだこれは!」


「・・・まるで竜神が覚醒したようだ」


 周囲の叫喚(きょうかん)も、舞台上の少女には定かでなかった。


 誰もが茫然自失(ぼうぜんじしつ)として天空を仰ぐなか、風も無いのに鎮守(ちんじゅ)の森がざわざわと揺れ、地面がごうごうと音を立てはじめた。



 ――その時突然、水神池からまばゆい光が上がった。


 ようやく現実に戻された万希は、前方の光景を目にするやいなや、蒼白な顔でふらふらと崩れ落ちた。


 水底から池全体を焼失させるほどの強い光である。


「見ろ!何か上がってくる!」


 背後から飛んだ金切り声が、辛うじて万希の意識にふれた。


 球状の発光体が、水面に陣風を巻き上げながら浮上してくる。掌ほどの大きさで実体がない。

 一層強い光が四方の景色を消し去り、あまりの眩しさに誰もが目蓋(まぶた)を覆うなか、若い踊り子だけが凝然(ぎょうぜん)と動かず、漆黒の瞳に恐怖をみなぎらせていた。


 ――彼女の内で眠り続けてきた膨大な無意識が、その光を知っていた。



 刹那(せつな)に万希の視界は真っ白になり、三半器官が悲鳴をあげた。心臓が動転し、一気に何もかもが消失した。


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