第一章 “潮風” (1)
また、同じ夢を見ている。
薄紅色の空には幾千億の星がまたたき、絶えず流星が降っている。
眼下に広がる一面の純白は、枯れることのない永遠の花園。
遠く、天高くそびえる岩山のはるか上方から、突き抜けるようなあの音は――
永久の憂鬱のなかでただひとつ、時があるのを教えるもの。
◆ 1 ◆
潮風。
四階の窓辺の最後尾で、月城万希は、隣人のいびきにより眠りの淵から呼び戻された。
「こら叉倉!四度目の罰則はプール掃除」
弾けた音がして、教室にどっと笑いがあふれた。
「いっ…てー…」
振り向くと、幼なじみが逆立った灰髪の頭を抱えている。居眠り常習犯を目覚めさせた中年教師は、よれた日本史の教科書を主の上にかぶせた。表紙にでんと描かれた落書きがまさか自分の似顔絵とは気付かない。それより数倍まともな容姿をもつ眼鏡の担任は、意気揚々と教壇へ戻っていった。
「今すぐプールへ赴任したいね」
こちらも盛大なお絵かき帳と化した下敷きで風を起こしながら、第二ボタンまでを開け放った少年はすでに眠る体勢である。
呆れて笑いつつ、少女の瞳もまた閉ざされた。
21世紀も半ばの、初夏の午後である。
港を裾野に抱いたなだらかな山峰は深い緑をたたえて、古い港町には盆の季節が訪れようとしていた。
課外授業の帰路である。
海風が強く、おんぼろ自転車はなかなか進まない。その発するキシャー、キシャー、という断末魔に、道行く人はみな一瞥投げるが、耳になじみすぎた二人のオーナーは気にもとめない。
「1839年、江戸幕府が企てた言論弾圧事件について述べなさい」
先程の教科書片手に、後部座席の少女は、光の透ける薄茶のショートカットを淡く輝かせている。
「幕府の攘夷策を責めた慎機論の著者・渡辺華山と、彼の属す尚歯会の会員・高野長英らが圧せられたもの。蛮社の獄。蛮社とは「蛮学社中」の略」
暑さにだらけきった顔で、運転手はぐだぐだと解答した。
「もうやめてくれ。疲れた」
三時間の集中講義のうち、実に八割を夢の国で費やした睡眠すこやかなる優等生を、なんとか出し抜きたい万希である。眉間にしわを寄せ、難問を練っていると、カンペは没収された。
「あっ!返しなさいよ」
「これ俺のなんだけど」
少年はしらと言った。
「てか、なんか汗くさい」
「客が重いんだよ」
たわいないやり取りは延々と続いて、自転車は一路、海岸線をなぞる。
月城万希は美形だが、心持ちきつい。意志の強そうな大きい瞳、すっと通る鼻梁、口角の上がった唇。とにかくメディアばえしそうな美少女だ。
それに比べ、彼女の幼なじみは美の質が一風変わっている。
サクラタカミ
叉倉高巳。
どこをあさっても純日本人しか出てこない家系で、唯一アッシュ・グレーの瞳を生まれ持った彼は、髪も同色に染め、自然と人為との調和をはかっている。一重目蓋だが幅があり、切れ長の美しい流線が色気すら感じさせる。
近所に生まれ育った二人は、幼稚園二年、小学校六年、中学校三年、高校一年、プラス現在進行形で驚異の腐れ縁を更新しており、万希に言わせれば「不吉な何かがはたらいている」ということになる。
山裾の鳥居の前に乗客を下ろすと、自転車は命果てたようにぐしゃんと倒れ、後輪をからからと宙に回した。
「そろそろ替え時かあ」
購入に際して総額の五割を負担した後部座席の占有者が、膝を折って車体を観察していると、幼なじみはすり切れた通学バッグに手をつっこんだ。
何やら、ごそごそ探っている。
「ハッピー・バースデー」
真意のわからない笑顔で祝福され、万希は表情も定まらずに“それ”を受け取った。
「あ、ありがとう」
17年目にして、どういう風の吹きまわし?とは言わなかった。
「開けてもいい?」
「どうぞ」
白い包みを開けると、碧海の色をした水晶のペンダントが、するりと顔をのぞかせた。革紐を通しただけのシンプルなルックスで、太陽にかざすと、水晶はまるで流動物を閉じこめてあるかのように色彩を変えていく。
海の青から夕闇の藍、やがて夜の紺碧へ・・・
刻々と移ろうその様相は、不思議なものを見ている、としか言いようがない。
「綺麗・・・」
恍惚と見入る少女を見つめて、送り主がアッシュ・グレーの瞳にわずかな哀愁をよぎらせ、何か言わんとしたのを、万希は見逃した。