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日向焔の黒竜鵬の力を完全に覚醒させないためには、一刻も早く本人を理性の主導下にもどす必要がある。“完全”とはつまり、神の遺伝子が人間のそれを食いつぶして宿主を竜体に変化させることだが、あくまで想定にすぎない。3000歳の老師でさえも、混血の行きつく先にどんな悪夢が待つのかは想像に難いのだ。
いずれにせよ、焔が黒い力を扱う条件は、均衡という名の命綱を本人がしっかりと握ることなのだ。師弟間ではそのような約束が厳重にかわされていた。にもかかわらず、彼は狂気の手中に堕ちた。
平生の日向焔は感情麻痺の永久凍土をすみかにしている。おそらく、抑圧の力が長きにはたらいた分、ぶり返しの反動は烈々(れつれつ)と本人に襲いかかったのだ。
頑強なる心の能面に亀裂が生じたということ、それはつまり、封じこめていた痛切なトラウマがいま再現されている証であり、彼の師は無言のうちに弟子の敵手を断定していた。
爆風にあおられた紅眼の少年は遥か後方の石林に墜落し、血を吐いた。全身から放射される黒い妖気がゆらりと弱まる。
すかさず放たれる第二波は、風速毎秒百メートルを超える竜巻である。紫色の螺線が円柱の表面を軸方向に奔走し、自然界の法則はひどく歪められている。
竜巻は身体を起こしたばかりの少年を直撃した。たちどころに渦に飲まれ、上空へ巻きあげられる。すさまじい轟音の中で捕虜はなすすべもない人間の肉体である。恐怖に絶叫する他に許されるのは、いっさいの意識を遮断すること――
天空へ送還された焔は、待ち構えていた白銀の胴体を前に力尽きていた。
――後見人たる者のつとめだ。悪く思うな・・・
想念の音声は、伝達手段を異にする人間には届かない。もし受ける側に聴覚があれば、背景に不似合いな底無しのやさしさに満たされただろう。
――ここまでは師の思惑通りだった。
回収した弟子を次の朝日が照らした時、彼は都から遠く離れた森林のふところに枕を高くしているのである。細かな後始末は藤の眼の女性に任せればよい。そしてこの“ツケ”は次の朔の晩にたっぷり払ってもらうことにして、老人のささやかな娯楽――酒興――を妨害した不孝者を懲らしめてやるのだ・・・
そうぼやいた天竜の角を迅風の刃が切りつけたのは、瞬間の出来事だった。
気流の渦から身を踊りだした少年の姿が予期していたそれと違うことに驚き、白夜に致命的な隙が生じてしまった。
極太の闇の奔流が一直線に天へ昇る。信じがたい速度であった。白竜の頭上にうねる“黒竜”日向焔が、神の作りあげたガーネットの水晶眼を鮮烈に輝かせていた・・・
下界に立ちつくす父親の心理は幻覚の花園にある。それは女神の愛撫も匹敵できぬほどの絶頂だった。彼は時空をこえて17年前の感激と再び対面したのである。
もはや天空の劇場はほとんど余白を残さず二体の怪物に占拠されている。
悠悠と流れる黒竜鵬は、堂々たる漆黒の体躯に金色の光と熱が行き来し、やや赤みをおびた鱗は艶やかな光沢がみずみずしい。
立ちのぼる蒸気が黒竜の全身から虚空へと発散されていた。数時間にわたる激戦で身体からしぼりとられた血液は相当な量に達しているはずである。精神崩壊のマリオネットは、もはや力の源泉を己の生命に求めている。