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    (4)

    ◆ 4 ◆



 淡く透明な夜空を背に、晩春の香りただよう今宵の水神池は浅い眠りに朦朧と浮かぶ水鏡である。

 “魂の墓場”――そう呼ぶにふさわしい静寂が横たわり、生ある世界にあってまったく異質な空間をつくりだしている。


 ――ああ、目覚めることのなんと心地良いことか。


 その男、は月を欠いた夜空をぼんやりと眺めながら、つかの間の解放感に酔いしれていた。

 長い眠りに沈んでいる間、いくつもの短く切れ切れな夢が戯れては消え、また戯れては消えていった。しかし今宵は現実世界に戻り、生ある実感と大好きな酒の味を噛みしめることができる。その、なんと幸福なことか。


 男が池の上を“歩く”と、水面は流動物であることを思い出したように波打った。雪のような肌に白の衣をまとった、男はまるで水面に浮かぶ一輪の蓮の花である。たっぷりとした銀髪が歩調にあわせて揺らぎ、真珠の微粒子が飛び散るように見える。


 男は向こう岸に用があった。

 今やくたびれた石柱と化した友の魂の記念碑。そこに両手一杯の水とつまらない言葉をかけてやるのが、ここ数百年ですっかり定着した寝起き一番の行事になっていた。


「・・・玄翠(げんすい)、俺のやってるこれは慈善活動か?」

 「日向玄翠」の刻印を前に、男は皮肉をこめて笑んだ。切れ長の両目にアイス・ブルーの色調が冷ややかだが、かすかな憂愁(ゆうしゅう)の陰りは哀惜の意か、それとも歳のせいだろうか。


「ああ、らしくないだろうな。お前の声が聞こえてきそうだよ。俺はただのしなびたジジイに成り果てた。かつての名が哀しいな・・・」


 言葉を切ると、穏やかな眼差しは溜め息とともに天へと送られた。池を囲んで黒々と茂る梢はぽっかりと開け、はるか天宮の星達は静かに子守唄を歌っている。


「300年か。時は遠ざかることばかり続ける・・・」


 池のほとりに腰を下ろすと、銀髪の男は巨大なひょうたん筒を片腕に抱え、鏡の水面を眺めた。釈迦が蓮池から下界の罪人を傍観するようである。映った氷細工さながらの美青年を、“彼”は眺めていた。

 行くところが無ければ、すべきこともない。こんな月の出ない夜を何度くり返したことか。そろそろ死ぬことさえも忘却しつつある。


「神はなぜ、いまだに俺を生かしておく?生あるものに意味があるなら、あるいはこれは死であるのか――?」


 高尚な老詩人を気取ったつもりかそう吟じると、暗闇に浮かび上がる白い両脚をしなやかに組みかえた。


 死ぬ気になればいつでも死ねた。死の動機には事欠くが、彼を恋い慕う死神なら腐るほどいるのだ。

 だが、まだ彼の親友はこの世を離れることができない。肉体こそ消滅したが魂が水神池を離れられない。日向玄翠に転生は未来永劫ありえない――そう思うと、気が付けば神経質に死神を全滅させ、ボーイスカウトまがいの墓守りを今日も演じてしまうのである。


 男は小さく身震いをした。晩春の夜風が彼の背筋を撫でたのではない。“風神”の異称を持つ男を常にとりまいている妖気の風が、何らかの違和感を察知して主にそれを伝えたのだ。

 いやに懐かしい匂いがする、と、風使いはぼやいた。



 その時、彼のテリトリーに侵入者は無防備にも飛び込んできたのである。


白夜(びゃくや)様!」


 頭上、から声が降ってきて、男は目を細めてそちらを見仰いだ。

 異形の生物が滑空してくる。その背に乗った女を見るなり、彼は頭痛をもよおした。


「別れた恋人をもてなす趣味はないんだが・・・」


「300年も経てばもう時効です」


 夜露に濡れた草地に白い飛竜はふわりと舞い降り、主人が離れると、みるみるうちに無色透明に変わって溶けるように消えた。


 銀髪の男に劣らず輝くような美女である。つやめく長い黒髪がたおやかに流れるが、両眼の紫色は彼女の性質を雄弁に語ってくれる。重量感のある十二単(じゅうにひとえ)が女の美に拍車をかけるが、男にはその動きにくさがいつもうざったくてたまらない。


 辺りをただよう薄い霧に酒の匂いを感じて、藤の花の眼をした美女は顔をしかめた。


「禁酒していたはずでは?」


「酒の匂いを嗅いだだけで貧血を起こす姫君が夜逃げしたもんでね」


 それには触れず、美女は早口にまくしたてた。


「今夜が新月で良かったわ。白夜様、一刻も早く都へ向かってください」


蛆虫(うじむし)どもの棲みかへ、俺に行けと?」


 白夜、は腹を抱えて笑い出した。


「何の因果があってあんな所へ出向かねばならんのだ。それに、長旅できるほど俺の気は長くないんでね。見ての通り、老体だし・・・」


 己のみずみずしい肢体を彼は一瞥した。


「あなたの弟子が大変なのよ!!」


 美女が金切り声を上げると、ようやく白夜の顔から笑みが消えた。


「・・・どういうことだ」


 それには答えず、袖元から組み紐を通した(あお)の水晶を抜き取ると、女はそれを老齢の元恋人にしっかりと握らせた。


「行けば分かる」


「待て。俺はあそこは好かんと――」


「あの子の力を解放したのはあなたでしょう!」


 アイス・ブルーの瞳に電気が走った。


「バカ弟子が!“天”の力を使ったのか!」


「あなたにしか止められないわ」


「気短なクソガキめ。あれほど口酸っぱく言ったのに」


 ひょうたんの酒筒を足元に叩きつけ、銀髪の師は手早く長髪を結い上げた。


「場所はどこだ」


「平清盛の御殿屋敷の近くよ」


 師は一瞬唖然として手を止めた。


「派手にやってくれる」


「花子!」


 美女は宙に和紙の札を放ち、先程の飛竜を再び召喚した。途端に彼女の横で一人ずっこけた。


「式神に変な名前を付けるのをやめんか!」


 花子というには仰々しすぎる般若面(はんにゃづら)の高等妖怪は、従順にも「グエ」と応答した。


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