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王都からエストア裏街道へ

 王宮からジークが姿を消して五日。

 国王ハルバートは、ジークの失踪を知る者たち全てに箝口令を敷き、第一王子ジークベルトは病気静養のために、辺境にある別荘へ療養に向かったと発表した。その発表のおかげで表向き宮中は落ち着きを取り戻したように見えた――が、第一王女ユイリア・ラ・ラニの心の中に一抹の影を落としていた。


 部屋の壁際から対面の壁まで一本の見えない線を結ぶ。背筋をピンと伸ばし、視線は決して下へと落とさず線の上を一歩一歩、歩いて行く。決して早くもなく、遅くもなく、一定の速度で歩くことを意識しつつ、対面の壁、正面からやや下辺りに視線を集中させて――。


「笑顔をお忘れになられていますよ? 姫様」


 パンッ、と一つ手を叩きユイリアの一挙手一投足を眺めていた女性、オールネス伯爵夫人が嘆くようなため息を吐いた。


「それに歩く際にも歩調が僅かに乱れているようです。いったいどうなされたのですか? どこかお身体の具合でも悪いのでしょうか?」

「いえ……そのようなことは」


 笑顔はともかく歩調には気を配っていたはず。だが、ユイリアの所作を指導している伯爵夫人には、ユイリア本人ですら気づかないほんの僅かな歩調の乱れも見逃すことは無かったらしい。


「いえ……そうですね。すみません。少し、疲れを覚えているようです」

「そうでございましたか……いえ、そうですね。姫様は殿方に混じって、毎日大変お忙しくご公務をこなされていらっしゃるのですもの。お疲れになられていても、当然のことでございますわ」

「お気遣いありがとうございます、伯爵夫人。ですが、王女である(わたくし)が弱音を吐くわけにもまいりません。もう一度ご指導頂いてもよろしいでしょうか」

「しかし姫様は、だいぶお疲れのご様子。今日の所は授業を中止になさって、少しお身体をお休めになられた方がよろしいのでは?」

「いえ。わざわざ伯爵夫人の大切なお時間を頂いてご指導を頂いているのですもの。少し疲れている事を理由にして、皆様へ無様な振る舞いをお見せするわけにもまいりません。」

「……かしこまりました。ではもう一度」


 次は失敗しない。

 ユイリアは再び部屋の壁際から対面の壁に向かって歩み始める。

 今度は顔に僅かな微笑みを保ったまま、背筋を伸ばして一歩一歩、ゆっくりとそれでいて遅すぎない程度の早さの歩調を保つ。そして部屋の中央まで進むと、今度は上体が揺れないように腹部と腰へしっかりと力を入れて腰を折ってみせる。重力に引かれて倒すのではなく、優雅に見えるようゆっくりと丁寧にと心の中で唱える。

 そして上体を引き起こす際には、腰を折った時以上にゆっくりと身体を起こし、最後に目元と唇に笑みを増して正面を向いた。

 少し間を置いてパンッ、と再びオールネス伯爵夫人が手を叩いた。


「素晴らしゅうございますわ、姫様。先程の失敗を綺麗に直しておいでになられています。今の大変美しい所作でしたら、錚々たるお方が出席なされる国王陛下主催のパーティーに出席されても、決して恥ずかしくないでしょう」

「ありがとうございます。伯爵夫人のご指導のおかげですわ」


 ユイリアは、今度は伯爵夫人に向けて、ドレスの裾を摘んで深く一礼をしてみせると、その完璧な所作に、伯爵夫人は満足そうに笑みを浮かべた。

 その時、扉が叩かれる音がする。


「入って」


 ユイリアが返事を返すと重厚そうな扉が開いて、侍女が部屋へと入ってきた。


「失礼致します、姫様。次の御予定のお時間にございます」

「あら、もうそんなお時間なのかしら。本当に姫様はご多忙にございますのね」


 侍女の言葉に、伯爵夫人が少し目を見張ってユイリアを見る。


「次の予定はどのように?」

「第三会議室にて、エストア市壁拡張計画にまつわる会議の御予定となっております。すでに第三会議室では、エストアの領主閣下と市長閣下を始め、関係者の方々がお集まりになられております。皆様、姫様と内務大臣閣下のご到着をお待ちになられております」

「わかりました。支度をしてまいります。皆様には、(わたくし)を待つ必要はございません。先に会議を始めておいてもらえるよう伝えておいて下さる?」

「かしこまりました」


 侍女が再び一礼をして部屋の外へと出ていくのを見届けると、ユイリアは待っていた伯爵夫人へと向き直った。


「申し訳ありません、伯爵夫人。せっかくお時間を割いていただいていらしてますのに、どうやら次の予定の時間が迫っているようです」

「いいえ、姫様。今日の(わたくし)の授業はもうよろしいかと存じます。ほんの僅かなご教授のお時間となりましたが、拝見させていただいたところ姫様の所作に何も問題はございませんでしたわ」

「次に伯爵夫人にご指導をいただくときは、もう少し時間に余裕ができるよう務めますわ」


 ユイリアの言葉を受けて、伯爵夫人は王女へお手本に相応しい優雅な一礼を見せて部屋から出ていった。

 部屋の扉が閉まって一人になると、緊張の糸が切れたユイリアは一つ大きく息を吐いた。


(また、失敗しちゃったなぁ……)


 五日前より、ユイリアは細かいところで失敗を犯すようになっていた。

 学問の時間では簡単な計算問題を間違え、魔術の授業では術式の構築に失敗する。武術では師範の剣を受け損ねた上に、一度など簡単に弾き飛ばされてしまった。そしてオールネス伯爵夫人を迎えての、宮中作法の授業では、伯爵夫人から指摘された通り上手く笑顔を作ることができなかった。

 些細な失敗が目立つようになったのは五日前から――明らかに義兄ジークベルトが王宮を出ていったことが原因と思われる、ユイリアの不調だった。


(にいさんは、私が王様に相応しいって信じて王宮を出て行ったのよね。私が王様に相応しいかどうかなんてわからないけれど、でもにいさんは私を信じてくれていたんだ。だから頑張らないと……)


 本音を言うと、今すぐにでも靴も脱いで、ドレスもコルセットも脱ぎ払って、ベッドへと倒れ込んでしまいたかった。だが、その思いをグッと堪えるとユイリアは部屋の隅にあるテーブルへと歩み寄る。

 宮中作法の授業の前に、エストアの町に関する情報が詳細に記された書類をテーブルに置いておいたのだ。


 柔らかいクッションを敷いた木製の椅子に座ると、そのまま背もたれに身体を預けてしまいたい欲求に駆られる。白大理石で造られたテーブルは、指で触るとなめらかな感触にひんやりとした石の温度が伝わってきて、少し火照った身体に気持ちがいい。

 今度は思わず石に頬ずりをしたくなってしまう。


(このままテーブルに突っ伏して、お昼寝をしたらどんなに気持ちいいのでしょう……)

 

 そんな思いが頭の中に浮かび上がって、ユイリアは小さく苦笑を浮かべると、頭を軽く左右に振ってその考えを打ち消した。


(いけないいけない。会議室で皆様が私が来るのを待っているのだから、急いで書類に目を通しておかなくちゃ……) 

 

 ユイリアは束になった資料を両手に持って読み始めた。これと同じ書類が第三会議室にも用意されているだろうが、いつも会議の前にユイリアは一部資料を先に回してもらい、予め一度は目を通すようにしていた。

 結構な分厚さのある紙の束。その一枚一枚の紙面には、隙間なく文字と数字がびっしりと書き込まれている。それを一枚一枚めくって、時折ペンで気になった点に走り書きをしつつ目を通していく。


 港町エストアは、ラトベニア王国の海洋貿易の重要拠点だ。

 書類を見ると、諸外国との交易は順調に行っていて、年々エストアの港に入る船も数が右肩上がりで増えている。船は外国にある商会に所属するものも多く、できれば拠点基地の一つとしてエストアに商館を出したいという希望が殺到しているとあった。

 ただ、市壁の内側はもう一杯で新たな商館を築くだけの余剰土地は無い。このままでは近いうちに町の経済発展も頭打ちを迎えかねず、その状況を解決するために今ある外壁の外側に新たな外壁を建築。そして現在の外壁と新しい外壁の間にできた土地を新市街として整備して、そこに外国の商会が新規に商館を建てる場所として開放したいらしい。

 

(町を拡張すれば更なる経済発展は見込める……でも、おかしいわね。新市街の整備にかかる予算が、少し多すぎる気がする。後で担当者に確認しておいたほうが良いかも知れないんだけど……)


 数字におかしな点を抜き出して走り書きをするのだが、今日はやけに数字が頭に入って来ず、書類を精読するのにいつもの倍以上の時間がかかる。

 ただ、傍から見れば、それでも尋常ではない早さで書類をめくっては、何か書き付けているように見えるのだが、ユイリア自身は作業効率の悪さにイライラを募らせていた。


(私も急がないと。会議はもう始まっているんだから、皆様をお待たせしてしまって――っ!)

 

 焦りのせいか紙をめくっているうちに、紙の端で左手の人差し指を軽く傷つけてしまった。

 白魚のようなユイリアの指から、プクッと赤い鮮血が盛り上がる。

 ただ、チクッとした痛みのおかげで、ユイリアは若干冷静さを取り戻すことができた。


「『癒やし(ヒール)』」


 右手に灯った魔術の光を左手の傷にかざすと、小さな傷は跡形もなく完治してしまう。


(ダメだなぁ……集中できてない)


 集中できない原因はわかっている。

 立ち上がって窓辺に行くと、空には雲一つない青空が広がっていた。その青空を見上げたユイリアは小さく切なげに息を漏らした。

 

「にいさん、どこにいるんだろう……」



 ◇◆◇◆◇



 王宮の窓からユイリアが空を見上げていた頃。

 ジークは港町エストアまで、あと二日といったところにいた。

 場所は急峻な山間を縫うようにして作られた裏街道。

 ラトベニア王国有数の港町エストアと王都を結ぶ大きな正規街道もあるが、何しろ王宮から抜け出した第一王子とギルドを裏切った暗殺者という二人連れ。

 ジークは王国から手配されているかもしれないし、ゼロはギルドから追っ手を放たれていたとしても不思議ではない。そのため正規の街道を通るわけにはいかなかったのである。

 そこで旅の途中に立ち寄った村で裏街道の話を聞き、少し遠回りとなるが正規の街道を外れたのである。


 その道は裏街道と言われるだけあって、ろくに整備もされていない。道は細い上に崩れた場所もある。落石、倒木の痕跡だってあった。

 しかし、そんな道にも需要はあるのか、道が崩れた場所は板切れの橋が掛けられ、落石も倒木も、荒っぽい処置のされ方だったがきちんと脇へ退けられていた。

 少々、エストアへは遠回りになってしまうが、特に急ぐ理由もないジークとゼロにとって、人気の少ない道は都合が良いものだった。

 ただ、人気の少ない裏街道を利用する者など、道沿いにある村人とそこを回る行商人を除けば、ジークやゼロと同様に訳ありの者たちがほとんどなる。

 道中すれ違った者たちの中には、明らかに堅気じゃないなと思われる顔をした者もいた。

 ただ、今のところは大したトラブルもなく二人は旅をしてこれたのだが、それもどうやら過去の話となりそうだ。

 

「マスター、血の臭いだ。それから人が複数争っている」


 先に気づいたのはゼロ。

 横を歩いていたジークを制すると、足を止めて彼の顔を見る。

 ジークの耳にはまだ物音は聞こえてこないし、血の臭いもしない。


「どうする? どうやら私たちの行く手の方からのようだが、このままやり過ごすか?」

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