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暖められていた計画

(……こ、ここは何処だ?)


 暗殺者が意識を取り戻した時、目に飛び込んできたのは木造りの天井だった。

 

「お、殿下。気がついたようですぞ」


 声がして横を見てみれば、えらく年老いた老人が顔を覗き込んでいた。

 暗殺者はどうやらベッドに寝かされているらしい、と気づいた。

 目だけで部屋の中を見回してみると、質素な家具と山のように積まれた書物がとにかく目に飛び込んでくる。 

 ちなみに身体は何かに押さえつけられているようで、まったく身動きが取れなかった。

 見たところ枷が嵌められている様子も、ロープで縛られている様子もない。枷やロープであれば、関節を外すなどの技術を駆使してこの場から逃げ出すことを考えたのだが、何か得体の知れないものに押さえつけられているとなれば、逃げ出そうにもどうすることもできない。


「やあ、気分はどう?」


 話しかけてきたのは暗殺者の標的である王子だった。


「……身動きできないよう拘束されて、気分が最高と言えると思うのか?」


 王子の問いかけに答えつつ、暗殺者は状況の把握に努める。


(部屋の中に兵士の姿はなく、どうやら王子と老人の二人だけのようだ。夜も明けていないな。あれから時間はそう経っていなさそうだ。それから木造の建物ということは高い建物ではない。ここは王宮の離れで、恐らくはそこの爺さんが住んでいる部屋というところか)


「色々と教えてもらいたいところだけど……」

「話すと思うか?」

「だよね」


 暗殺者の答えに王子は小さく笑ってみせた。


「まあ、そうだろうとは思ってたよ。口の軽い暗殺者なんて、聞いたことが無いし。だから違う質問をしたいと思うんだけど、いいかな?」

「………………」

「仕事に失敗した暗殺者って、どうなるの?」

「……刺客が差し向けられて、口封じのため速やかに殺されるだろうな」


 少しだけ間を空けたが、この質問には暗殺者は素直に答えた。

 依頼主、属する組織についてはどんな拷問を受けようとも答えるつもりはない。しかし、暗殺に失敗した暗殺者の行く末がどうなるか、隠し立てする必要はまるでなかった。


「刺客?」

「殿下、その者は恐らくどこかの暗殺者ギルドに属する暗殺者でしょう。ギルドは失敗した者を野放しにする事はありえません。その暗殺者が言うとおり、たとえ監獄の中だろうと王宮の中であろうと、任務を失敗したと知れば確実にその者の口を封じにやって来ます」


 老人の言うように、暗殺者はギルドと呼ばれる組織に所属している。そして暗殺者ギルドにおいて、信用は何よりも大事なもの。その信用を汚しかねない者は、速やかに排除されることになる。


「あなたが僕の暗殺に失敗したことを、組織の人はどうやって知るの? 誰か仲間がいて、仕事の成否を見届けてたりする?」

「そんなことをしなくても、王子が生きている時点で任務を失敗したことはわかる」

「あ、それもそうか」

「王子が生きていると判明すれば、次は私の生死が確認されるだろうな。そして死んでいないと知られたなら、例え監獄の中に居ようとも確実に口を封じに来る」

「そっか……弱ったなぁ」

 

 口元に手を当てて、困った困ったと呟き部屋の中をウロウロするジーク。


「その様子だと、どうやら王子は私へ何か頼みごとがあったようだな」


 しばらくは黙って部屋の中をグルグル周っているジークを眺めていた暗殺者だったが、つい好奇心に負けて口を開いてしまっていた。案外、暗殺者でも気づかないうちにこの自分を完膚なきまでに叩きのめしてしまった王子のことを気に入り始めているのかも知れない。


「そうなんだよ。実はあなたを雇いたいと思っていたんだ」

「雇いたい、だと?」


 怪訝そうに問い返した暗殺者へジークは頷くと、彼が横になっているベッドの端に腰掛ける。

 動けないように何かで押さえつけられているとはいえ、先程まで己の命を狙っていた暗殺者のすぐ傍に座って見せるジークの度胸に、暗殺者は内心で感心していたが、視線だけは険しくしてジークを睨みつけた。


「金を払うから自分を殺せと依頼した人間を、殺して来いとでも言うのか? 断る。たとえ拷問されても依頼主を売ったりするものか!」

「別にいいよ、そんなの。雇いたいというのは殺しを依頼したいというわけじゃない。あなたの技術を僕に教えてもらいたい。要するに弟子にして欲しいんだ」

(何を言っているのだ、この王子は?)


 戸惑った暗殺者は思わず老人へ目を向けたが、老人は肩をすくめてみせるばかり。


「もちろんあなたを雇ったからといって、僕を殺せと依頼してきた者の名を聞いたりしないよ。僕はあなたから技術を学び、対価としてあなたに自由と報酬を支払うだけの契約だ。どうかな?」


 暫くの間、ジークの真意を窺うよう黙り込んでいた暗殺者だったが、やがて小さく息を吐いてみせた。


「………………王子がどうして暗殺の技術が必要か知らないが、話としては悪くないようだ。だが、契約を結んだところで、私も王子も生きていると知ったなら、私の依頼主は私が裏切ったのではないかと疑うだろう。組織も私を放っては置くまい。必ず刺客が差し向けられてくるぞ?」

「だったらその刺客を返り討ちにしてしまえばいい」

「返り討ちにするって……?」


 暗殺者は思わず鼻で嗤ってしまった。


「愚かな話だ。ギルドはそんなに容易く抗える相手ではない。手練れの殺し屋は、相手がどこにいようとも如何なる手段を用いてでも近づき、確実にターゲットを仕留める。そちらの御老人の言われたように、例え監獄の中だろうと、警備の厳重な王宮の中であろうと、だ」

「うーん、そうだなぁ……例えば、こちらが逆に暗殺者を雇ってギルドの者たちを襲うっていうのはどうだろう?」

「…………何だと?」

「誰か知り合いの暗殺者とかいない?」

「それはもちろんいるが……」

「その人たちを雇って、先にギルドを潰すのはどうだろう? 暗殺者が暗殺者を雇ってはならないって話は無いよね?」

「無茶だ。私の知り合いとて、ギルドに睨まれてまでそんな危ない話を渡ろうとはしないだろう。相手は暗殺者ギルド。組織なのだぞ?」

「組織とは言っても、そんなに多人数が所属しているわけじゃないんでしょ? 暗殺者のような闇に潜む職業の組織が大きくなれば、王国の目に留まらないはずがないもの。せいぜい多くても数十人ってところじゃない? いや、実際に戦える者は十数人程度だと思う」

「………………」

「その人数を上回る程の数を雇ってしまえば良いんだよ」

「バカな……暗殺者を雇う相場をわかっているのか?」

「あなたこそわかってる? これでも僕はこの国の王子なんだよ? 今は僕も本当にそうなのかよくわかんないけど、これでも一応一番次の王に近いって言われているんだ。多分、人数を揃えるには十分なだけの金額は用意できると思うよ」


 そしてジークは暗殺者の想像以上に莫大な金額を口にしてみせた。


「どう? 暗殺者の相場がどの程度かなんて知らないけど、でもこれだけあれば人数を揃えるには十分じゃない?」

「確かにそれだけあれば……かなりの手練れを雇うことができる。十分だと思う」


 実際ジークが口にした金額は、下手をすれば小さな国家の年間予算並みにもなっていた。これだけの金額を用意できるなら、ちょっとした軍隊も組織することだってできそうだ。これだけの金額があれば、人を揃えて暗殺者の所属するギルドを潰すことだって可能だと言えるかもしれない。


「どうだろう? 僕と契約してくれないかな?」

「ダメだ」


 しかし、暗殺者の返答は変わらない。


「確かに魅力的な話だったよ。だが、人を揃えるにも時間が必要だ。王子が生きていると知られれば、組織はすぐにでも私の消息を調べ、刺客を放つ。戦力を集めるには金以外にも時間が必要だ」

「時間か。それなら大丈夫だと思う。この契約が結ばれたなら、僕は今夜、あなたと一緒に王宮を出ていくつもりだから」

「「は?」」


 ジークの発言に暗殺者だけでなく、ハンネマンも目を剥いた。


「王宮を出るとは、殿下! わしはそんな話、伺っておりませんぞ!?」

「そりゃ今初めて話しましたから。でも前からずっと決めていたことですよ」

「いったい……殿下は何をお考えで?」

「王位継承権の放棄」

「本気でございますか?」

「あれ? 師匠には話してませんでしたっけ? 王位に相応しいのはユイのほうだって。実際、そうだったでしょう? まだ十歳だっていうのに、諸外国や国内有力貴族からの選り取りみどりな求婚の数。国民からの絶大な人気。しかもそれは容姿が優れているからってだけじゃなく、教養、武術、魔術、どれも優秀と来てる」

「ユイリア姫様が優秀な方だとはわしも認めますが、殿下だって十分聡明な方のように思われますが……」

「はは、ありがとうございます。お世辞だとしても師匠にそう言われると嬉しいです。でも、それでも僕なんてユイの前じゃ霞んでしまいますよ。ユイはもう、国政にも関わり始めているのですよ?」


 十歳にしてユイリアはたまに国王ハルバートから、政務の判断について相談を持ち掛けられる。しかも、父ハルバートだけが政務の相談を持ちかけるのならば、親の欲目という話もあるだろうが、宰相や大臣、官僚たちもユイリアへ意見を求めることもあった。

 十五歳の第一王子は、いまだに教師の監督のもとで、知識を頭に詰め込むのにヒィヒィ言っているというのに、だ。


「僕が王子という立場を棄てて姿を消せば、父上は王族としての自覚無しとして僕から王位継承権を奪うと思う。でも対外的には王子が王宮を出たなんて外聞が悪いから、その事を隠そうとするはずだ。そうだな……王子は病気療養中だとでも言って、辺境の別荘で静養しているとでも発表するかな」

「なるほど、そういうことか。王子が時間なら取ることができると言ったのは……」


 ジークと老魔術師の話を黙って聞いていた暗殺者が、合点がいったというように頷いた。


「今日私が王子を殺していたとしても、王家は対外的には、王子が暗殺されたなどとすぐに発表したりはしない。病気療養中とでも当面は発表し、時期を見て病死したと公表するに決まっている。つまり、今日ここで王子が失踪してしまえば、王家の発表はどのみち病気療養中と発表せざるを得ないので、ギルドは王子が本当に死んだものと信じ込むというわけだな?」

「そういうこと。どう? 僕と契約する気になってきた?」

「……勝算があるのであれば、話に乗るのも悪くはない。私だってできるものなら死にたくはないからな」

「そう、じゃあ契約成立だね」


 途端に暗殺者の身体を押さえつけていた何かが、ふっと消えた。

 自由を取り戻した暗殺者がベッドの上で上半身を起こす。

 

「私の拘束を解いて良かったのか?」

「契約成立したなら問題ないでしょ? 拷問されても依頼人の素性だけは語らないっていうあなたは、契約を遵守する人のようだから」 

「ふっ」


 暗殺者は小さく笑うと、顔を覆っていた布を解く。頬が殴られたことで赤く腫れ、唇が切れていたものの、端正と言っていい若い女の顔が現れた。


「ああ、声が男の人にしては高いかなって思ってたけど、女の人だったんだね」

「ほっほう。なかなかに美人ですな。その容姿を利用して目標に近づくといった手口にも慣れていそうだ」

「もちろん、そういう手段も使ったこともある」


 ジークとハンネマンの感想を言っている間に、女暗殺者は黒頭巾も脱いだ。肩口くらいまでの長さの栗色の髪がファサッとこぼれ落ちた。


「名乗っていなかったな、ゼロという。これでも同業者からは『音無し』という二つ名で呼ばれる程度には名が通っていた」

「ジークベルト・ラ・ラニ。ジークでいいよ。女の人だったなら、顔を殴っちゃってごめんね」

「命を賭けた戦いでの事だ。そんなものを気にするほうがおかしい」

「それにしても殿下、本当に今夜にでも王宮を出ていかれるおつもりか?」

「はい。僕が生きているって知られないようにするには、さっさと出ていったほうがいいと思いますから。それに外の案内人もできました。以前からちょくちょく町に出ていた時に、王宮の僕の部屋から金目のものは持ち出して隠してあります。それを回収したら、僕はしばらく外で生きていこうと思っています」


 ハンネマンはしばらく王子の顔をじっと見つめていたが、小さくため息を吐いて首を横に振ってみせた。


「どうやらお止めしても無駄なようですな」

「そうだ。これを」


 ジークはハンネマンへ一通の手紙を渡す。


「相談役の師匠なら、父上に直接会うことができるでしょう? 僕からだと言って渡してもらえませんか?」


 その手紙にはどうしてジークが王宮を出ていくことを決意したか、などの理由が記されている。そしてその中には、ユイリアを次期王位に推薦することまで書き記してあった。


「……仕方ありませんな。陛下には確かに渡しておきましょう」

「うん、お願いします。じゃ、ゼロ。行こうか?」



 ◇◆◇◆◇



 ジークベルトの部屋付きで下働きをしている侍女は全員で五名いた。

 五名とも下級貴族の家の出身で、主な仕事は王子の部屋の掃除や衣服の用意、食事の給仕、ベッドメイクといった雑務だ。

 宮中の者からは才無し、ミソッカスと呼ばれる王子とはいえ、一応有力な次期国王候補。万が一にもお手つきにでもなれば、家の栄達に繋がるやも知れないという打算があって彼女たちは王宮へ送り込まれていた。

 しかし、そんな家の思惑があったとしても、若く多感な十代の娘にとって、恋は打算でできるものではない。

 侍女の一人、士爵家の娘であるアンネの想い人は、彼女の仕える王子の部屋を警護する兵士の一人ヘルマンだった。


「まあ、ヘルマン。今日のお部屋の番はあなただったのね」

「やあ、アンネ。夜中ずっとここに座っているだけの退屈な任務だよ。でも、朝一番に君の顔を見ることができるなら、この退屈な任務も悪くないな」

「ふふ、嬉しいわ。でも、朝一番に見た顔が私だなんて、相変わらず才無し王子様はお寝坊さんなのかしら」

「退屈なことさえ我慢できれば、おとなしく寝ててくれる分にはいい警護対象さ。ユイリア様の部屋担当なんて朝から夜遅くまで、姫様へ直接贈り物を手渡したい、せめて姫様をひと目見たい、あわよくばお声がけしてもらえないかとウロウロしている奴らがひっきりなしだそうだからな。なまじ相手が地位のある方々ばかりだから、対応にも苦労するらしくてストレスで髪が薄くなりそうだって言ってたよ」

「うふ、あなたが楽をしている分、私は寝ぼすけな王子様をお起こしして、シーツの取り替えに掃除にと大忙しなのよ。その点、ユイリア様はさすがだわ。部屋付きの方が部屋を訪れる前に、もう身支度を整えていらっしゃるの」

「ユイリア様は十歳におなりになられたんだったか? どちらが歳上なのか、わからないよな」


 顔を見合わせて二人はひとりきり笑う。


「それにしてもユイリア様は確かに可憐な方だと思うけど、まだ十歳でしょう? そんな姫様の気をお惹きになりたいなんて、雲の上の方々は幼女趣味の方ばかりなのかしら……」

「オールドマン伯爵もいたっていうぜ? あの伯爵様、もう五十半ばだろ? 上の人たちは俺たちとは感性が違うんだよ。それよりもさ、俺交替が来たら午後から身体が空くんだ。城下におしゃれなレストランを見つけたんだけど、良かったら食事でも一緒にどう?」

「ええ? どうしようかなぁ? でも、私まだ仕事があるしぃ……」


 なお、ヘルマンもアンネも休憩時間でもなんでもなく、就業時間中である。しかも二人共、仮にもラトベニアの第一王子に仕える身。決してこんな場所で無駄な時間を費やしていい立場ではない。アンネはさっさとジークを起こして仕事に取り掛からなければならないはずなのだ。にも関わらず、アンネはヘルマンとの恋人同士の会話をたっぷり半刻以上は楽しんでいた。

 ちなみに二人のこうした事はこれが初めてのことではなく、ほぼいつも同じようなことが行われている。

 ジークは朝の授業に頻繁に遅刻することが多く、それも教師たちから顰蹙を買う原因となっていたのだが、侍女たちがきちんと自分の仕事を全うしてさえいたなら、ジークが寝過ごすこともなく教師の顰蹙を買うようなことも無かったかもしれない。ジークの評判低下の一員に、彼女たち部屋付き侍女たちも一役買っていたのである。

 もっとも、ジーク自身も彼女たちの仕事に対する怠慢を指摘することはなかった。ジークとしては、家の身勝手な事情で王宮に侍女として預けられたという彼女たちの身の上に同情し、見て見ぬふりをしていたのだが、そのことがかえって彼女たちの怠慢な態度を増長させてしまう原因となっていたので、自業自得かも知れない。


「いいわ。じゃあ正午過ぎに、いつもの広場の噴水の前で待ち合わせしましょ?」

「仕事、それまでに終わりそう?」

「大丈夫。寝台のベッドメイクくらいはある程度きちんとやっておくけど、掃除なら少々手を抜いても気づくような方じゃ無いもの。すぐに終わらせるわ」

「了解。じゃあ、また後で」


 たっぷりと逢瀬を楽しんだ二人は、最後に唇を合わせた。

 とっくの昔に宮中の者たちからミソッカス扱いされているジークベルトの部屋の辺りには、用が無いものはほとんど訪れる者がいない。なので二人は人目を気にすること無く、ゆっくりと身体を離した。


「楽しみにしてるわ」

 

 そう言うとアンネはヘルマンに小さく手を振って微笑み、それから居住まいを一応正してから部屋の扉をノックする。


「おはようございます、殿下。入ります」


 どうせ惰眠を貪っているだけだろうと、――侍女はあずかり知らぬことだったが、ジークは毎晩夜中に抜け出しては明け方近くまで魔術の修練に励み、疲れ果ててしまっているため、本当に朝は眠り込んでいることが多い――返事を聞くこと無く扉を開けて中に入る。


「いつまでお眠りになられているのですか、殿下。もう日は高く昇っていますよ? 朝食を用意してくださった料理長も、いつまでも起きて来られない殿下へお怒りに――」


 そんな事を言いながら一礼した後、顔を上げた侍女の言葉は止まった。

 ミソッカスの王子が寝ているはずのベッドの上には、王子の姿は見られず、眠りについた形跡の無い毛布とシーツがそのままになっていた。

 いや、そんなものよりももっととんでもない光景が、侍女の目に飛び込んでくる。


「どうしたんだよ、アンネ?」


 いつもならさっさと部屋の中に入って、眠りこけている王子の身体からさっさと毛布を引っぺがす(!)恋人が、いつまでも部屋の中に入らずに太刀すぐんでいるのを見て、ヘルマンは声を掛けた。


「ミソッカスの王子が寝小便でもしていたのか?」


 もう不敬罪を適用されても文句を言えないのでは、という危険な冗談を口にして笑うヘルマンだったが、


「ヘルマン……大変……大変よ、ヘルマン!」

「いったいどうしたってんだよ?」


 アンネが細い肩を震わせているのを見て、ヘルマンの心中に急速に不安が沸き起こる。

 恋人の前では一晩中王子の部屋の見張り番をしていて退屈な夜を過ごしていたと語っていたヘルマンだったが、実はいつものように王子が就寝したのを確認すると、さっさと警備兵の詰め所へ行って仲間たちとゲームに興じていたのだ。

 慌てて椅子から立ち上がると恋人の肩越しに部屋の中を覗き込んだ。

 

(まさか……そんな……)


 そして絶句した。

 部屋の中央。お茶を飲むための決して華美過ぎないが、丁寧な装飾が施された白いテーブルと椅子が置かれているのだが、そのテーブルと椅子が乱暴にひっくり返っていた。テーブルの上に活けてあった花も床に落ちている。

 誰の目にも明らかな程、何者かが争った痕跡があった。

 何者かが――。

 一人は部屋の主であるジークベルト第一王子、その人以外に考えられない。

 ヘルマンの顔面から一気に血の気が引いた。

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