第7代 第三次伊藤博文内閣
第7代 第三次伊藤博文内閣
在任期間 1898年1月12日~1898年6月30日(170日)
国務大臣
内閣総理大臣 ⑦ 伊藤博文(長州藩・元内閣総理大臣)伯爵
外務大臣 ⑫ 西徳二郎(薩摩藩)男爵
内務大臣 ⑯ 芳川顕正(徳島藩・元司法大臣)子爵
大蔵大臣 ⑨ 井上馨(長州藩・元外務大臣)伯爵
陸軍大臣 ⑨ 桂太郎(長州藩)子爵 (陸軍中将→)陸軍大将
海軍大臣 ⑨ 西郷従道(薩摩藩・元内務大臣)国民協会会頭 伯爵 海軍大将陸軍中将
司法大臣 ⑪ 曾禰荒助(長州藩)
文部大臣 ⑭ 西園寺公望(公家・元外務大臣)侯爵
⑮ 外山正一(幕臣)
農商務大臣 ⑮ 伊東巳代治(肥前国・元内閣書記官長)男爵
⑯ 金子堅太郎(福岡藩)男爵
逓信大臣 ⑪ 末松謙澄(豊前国) 男爵
班列 黒田清隆 (薩摩藩・元内閣総理大臣)伯爵 陸軍中将
内閣書記官長 ⑧ 鮫島武之助(薩摩藩)
◇参考
ウィキペディア『第3次伊藤内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC3%E6%AC%A1%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%86%85%E9%96%A3
首相官邸『第3次伊藤内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/07.html
歴代政府・内閣に関するデータベース『第3次伊藤内閣』http://www.geocities.co.jp/since7903/Meizi-naikaku/07-Itou-vol3.htm
『第7代内閣 第3次伊藤博文内閣閣僚一覧』http://www.cyoueirou.com/_house/ichiran/naikaku/07.htm
歴代内閣閣僚事典『第3次伊藤内閣』http://homepage1.nifty.com/kitabatake/naikaku7.html
『明治時代の内閣閣僚データベース』http://meiji.sakanouenokumo.jp/naikaku/profile.cgi?key=%91%E63%8E%9F%88%C9%93%A1%93%E0%8At&label=1
主な出来事
1898年 1月 第3次伊藤内閣成立
元帥府条例公布
2月 奈良県市制実施
大師電気鉄道(後の京浜急行電鉄)創立
日本鉄道の機関手四百名が同盟罷工(日本初の鉄道スト)
児玉源太郎が台湾総督に就任
「日本」に正岡子規「歌よみに与ふる書」連載開始
3月 第5回衆議院議員総選挙
時事新報が社説「支那人親しむ可し」を掲載
4月 西・ローゼン協定
伊東巳代治農商務相、西園寺公望文相辞任
5月 第12特別議会召集
6月 警視庁、自転車取締規則制定
保安条例廃止
自由・進歩両党合同し、憲政党結党式(板垣退助総理)
第3次伊藤内閣総辞職
◇参考
//meiji.sakanouenokumo.jp/1897.html
「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表『1898年(明治31年)/明治時代年表』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1898.html
ウィキペディア『1898年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1898%E5%B9%B4
概要
今回は第3次伊藤内閣となります。在職日数は170日。1年にも満たないどころか半年にも満たない短命内閣です。伊藤博文が第2次内閣では長期政権を維持できたのにどうしてこんなに短くなってしまったのでしょうか。それについて今回は見ていきたいと思います。
が、その前に恒例の閣僚について見ていきます。この中で初入閣の顔ぶれは、曾禰荒助司法大臣、外山正一文部大臣、金子堅太郎農商務大臣、末松謙澄逓信大臣、鮫島武之助内閣書記官長となっております。なお、西徳二郎外務大臣は前内閣の第2次松方内閣から入閣しているため今回は扱いません。前回西徳については省略してしまったため初見のように見えますが実際は違います。すみません。
では、今回は誰について見ていくとしましょうか。金子農商務大臣。彼については日本史選択者であれば知っていると思います。伊藤博文、伊藤巳代治、金子堅太郎、井上毅の憲法起草者4人の中の1人であり日露戦争の際にアメリカに日本とロシアの講和の仲介を頼んだ人物です。アメリカ第26代大統領セオドア・ルーズベルトとは留学した際に顔見知りであったというものすごい交友の持ち主です。それから英語力が堪能であるという話も有名です。
曾禰司法大臣。出身は長州閥であり衆議院議員も経験しています。会派は国民協会。国民協会についてはこの内閣考察において国務大臣の項目において西郷従道の横に国民協会会頭という言葉が出てきます。国民協会というのは、いわゆる吏党です。つまりは政府寄りの政党です。しかし、当選から1年で駐フランス全権公使に任じらたため議員を辞職しています。司法大臣をこの内閣で務めた後もほかの内閣で閣僚を歴任することになり韓国併合に尽力を尽くすことになります。
外山文部大臣。外山の出身は幕臣です。榎本武揚、平山成信に次いで3人目です。外山は大政奉還の時に留学しているほどの優秀な人材であり明治の世になっても留学するなど優秀な人材でした。東京帝国大学日本人初の教授ということからそれがわかります。ラフカディオ・ハーンのちの小泉八雲を日本に招待するなど教育において英語を充実させようとしています。
末松逓信大臣。実は初入閣ではないようなものです。第2次伊藤内閣で法制局長官として入閣しています。法制局長官というのは法制局の長官です。法制局は内閣の下で法案や法制についての審査・調査等を行う機関のことです。実は戦前はこの法制局長官は閣僚扱いでした。なので、本当ならば国務大偉人の項目で紹介しないといけませんでした。しかし、戦後現在は国務大臣という扱いではなくなっているためあえて載せませんでした。
さて、末松の話に入りたいと思います。末松も外山と同じく留学をしており源氏物語の英語訳を著すなど功績を残しています。政治家というよりもこの後歴史書を編纂することから研究者としての方が有能であると私の個人的な感想を持ちます。
鮫島内閣書記官長。あまり資料が残っていませんでしたので、のちのち紹介することとします。3内閣において内閣書記官長を務めあげます(第3次伊藤内閣、第1次大隈内閣、第4次伊藤内閣)。
この内閣が短命な理由と行きます。まず、第5回衆議院議員総選挙において自由党と進歩党が圧勝します。そのため地租増税しようとする政府との対立から協力を得ることができませんでした。それから、もう一度衆議院を解散しますが自由党と進歩党が合同して憲政党を作ります。これに加えて貴族院からの反対もあり伊藤は政権運営を見出すことができなくなりました。そして、新党を作ることを決め内閣を総辞職をし、次期総理大臣に大隈と板垣のどちらかを待命するように言います。
こうして成立するのが次の第1次大隈内閣となります。
今回はこの辺で。
◇参考
ウィキペディア『金子堅太郎』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%A0%85%E5%A4%AA%E9%83%8E
ウィキペディア『曾禰荒助』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E7%A6%B0%E8%8D%92%E5%8A%A9
ウィキペディア『外山正一』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%B1%B1%E6%AD%A3%E4%B8%80